君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 紫の問いかけに、碧南は答えなかった。ただ、逃げるように視線を落とすと、静かに歩き出した。
 コンクリートを踏み締める靴音が寂しく響く。
 彼女は屋上の端、錆びついた鉄製の柵まで歩いていくと、その冷たい金属の感触を確かめるように、両手でぎゅっと力強く握り締めた。白くなる指先が、彼女の心の痛みを雄弁に物語っている。

「……気づかれそうになったんだ」

 ぽつりと、風に消されそうなほど小さな声が碧南の唇から漏れた。

「あのことに?」

 紫のトーンが、一瞬で真剣なものへと変わる。

「私は、風に好かれているみたいでね。何度も、私が生み出したあの醜い失敗作を、彼の足元へ飛ばすんだ。……けど、今日は違った」
「……続けて」

 促す紫の声を受けながら、碧南はさらに柵を握る手に力を込めた。

「今日も、午前中に病院に行ってから学校に来たんだけど……始めから授業なんて受ける気なかったから、この鞄しか持ってきてなかった。だから、当然……あの診断書も、この中に入れてたの」

 碧南の言葉に、紫は小さく息を呑んだ。

「風が飛ばしたわけだ。凌君の元まで、その診断書を」

 紫はゆっくりと歩み寄り、碧南のすぐ隣に立った。
 二人は並んで、屋上から夕暮れのグラウンドを見下ろす。
 遠くでは、まだ運動部の生徒達が声を掛け合いながら、影を長く引いて走り回っている。その活気溢れる光景は、今の彼女たちの間に流れる重苦しい空気とは、あまりにもかけ離れていた。
 碧南の右手が、今も衣服の上から自身の右腕を庇うように、微かに震えている。

「あの子は……あの紙を見た。私の右手がもう、長くは持たないっていう、あの最悪の現実を」

 夕闇が、静かに二人を包み込んでいく。
 碧南は柵の外へと自身の右手をすっと突き出し、夕闇の冷たい空気の中で、何度かその手を握っては離す、という動作を繰り返した。
 強張る指先、思うように伝わらない神経の鈍さ。彼女はその頼りない右手の感覚を確かめるたびに、ひどく痛々しい表情を浮かべる。

「でも、まだ完全に気づかれてはいないんでしょ」

 紫がグラウンドから目を離さずに問いかけた。

「ギリギリのところで回収したから。……多分、内容までは見てないと思う」
「あー……。凌君があんな顔して部室に来たのって、それが原因かぁ」

 紫は合点がいったように小さく息を吐くと、呆れたように肩を竦めた。

「回収って言ったって、どうせ無理やり奪い取ったんでしょ。あの子、『俺があの人の絵を汚した、侮辱した』って、ものすごい自己嫌悪に陥ってたよ」
「……違うもん」

 碧南は子供のように小さく唇を尖らせ、不満げに顔を背けた。

「貴方がどう言い訳しようとね、後輩をそこまで深く傷付けたのは紛れもない事実だから。……先輩として、するべきことがあると思うけれど?」
「私は、先輩になったつもりはない」
「そんなこと、いつまで言っていられると思っているの?」

 紫の声から、全ての温度が消えた。
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