君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 紫の力強い頷きに背中を押され、凌はまだ激しく戸惑いつつも、ガタリと丸椅子を鳴らして立ち上がった。
 机の上のスケッチブックと鉛筆を慌てて掴み、部室を飛び出す。
 一歩廊下に出ると、少し離れた場所に碧南が立っていた。彼女は凌が追いついてきた気配を察すると、何も言わずにすぐさま反転し、早足で歩き出す。
 廊下に響く彼女の小気味いい靴音を、凌は必死に追いかけた。
 新校舎の喧騒から遠ざかり、古びた木造の廊下を進むにつれて、次第に周囲の景色が変わっていく。
 見覚えのある、薄暗い特別棟の階段。一段一段、彼女の後ろ姿を見上げながら階段を上る凌の胸に、昨日とは違う緊張感が走った。
 やがて辿り着いた、最上階の踊り場。
 屋上へと続く鉄製の重い扉に碧南が手を掛け、ゆっくりとそれを押し開けていく。
 だが、その手前で、凌の足はピタリと止まってしまった。
 開かれた扉の向こうから差し込む光を見つめながら、凌の脳裏に、昨日の夕暮れ、ここで彼女からナイフのように突き刺された剥き出しの拒絶が、鮮烈に蘇ってきたのだ。

『君は何も見ていないし何も知らない。もう二度とここには来ないで』

 本当に、自分はここへ踏み込んでいいのだろうか。
 あの歪んだデッサンのことも、彼女の秘密も、見て見ぬ振りをして隣に立っていいのだろうか。
 躊躇し、敷居を跨げずにいる凌に、扉の向こうから澄んだ声が降ってきた。

「私のアトリエは屋上だから。君は特別に、入っていいことにする」

 碧南は扉を開け放ったまま振り返り、凌の迷いを見透かしたように真っ直ぐに見つめていた。
 その瞳には、もう昨日までの狂気的な怯えはない。ただ、静かな覚悟だけが宿っていた。

「その代わり……あの時のことは、全部忘れてほしい」

 それは、彼女なりの妥協であり、同時に凌への最大の歩み寄りだった。
 自分の弱さを忘れてくれるなら、君を私の世界へ入れてあげる、という静かな契約。
 凌の胸の奥に、じわりと熱いものが広がっていく。

「……はい!  もちろんっす!」

 凌は弾かれたように声を上げ、力強く頷いた。もう迷いはなかった。
 二人は揃って、一歩をコンクリートの床へと踏み出す。
 外に出た瞬間、凌は思わず目を細めた。昨日のどんよりとした曇り空が嘘のように、頭上には何処までも突き抜けるような、息を呑むほどの快晴が広がっていた。太陽の眩い光が、世界を色鮮やかに照らし出している。
 碧南は迷いのない足取りで、昨日と同じように画材が広げられたいつものスペースへと真っ直ぐに向かっていく。
 きらめく青空の下、彼女の長い髪が眩しく光を反射していた。
 凌はその背中を、今度は一歩も遅れることなく、しっかりと追いかけていった。
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