君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
「授業なんて言ったけどね、私は誰かに絵を教えた経験なんて無いし、そもそも手取り足取り教えられるわけじゃない」
碧南は広げられた画材の前に腰を下ろすと、淡々とした口調でそう言った。
眩しい太陽の光を浴びながら、彼女の横顔は冷徹なほどに落ち着いている。
「だから、私の授業は“見て覚えろ”を大前提にする。私がどう筆を動かして、どう色を選んでいるのか、君が勝手に盗んで。――これが、君にここにいることを許す条件だよ」
「分かりました。見て、覚えます」
凌は一文字一句を噛み締めるように、真っ直ぐな声で即答した。
気負いも衒いもないその純粋な返答に、碧南は一瞬だけ呆気にとられたようにパチパチと瞬きをする。
「……君って、本当に真面目なのか、それともただ空気が読めないだけなのか……」
碧南は少しだけ困ったように眉を顰め、すぐに小さく吐息した。
「まあ、いいや。とりあえず、今日は特別に君のあのしつこい疑問に回答してあげる」
彼女は手元にあった真新しいスケッチブックのページを、バサリと小気味いい音を立てて捲った。それから、昨日までは狂気的に叩きつけられていたはずの、絵の具のついた筆をそっと手に取る。
パレットの上の『青』に浸された筆先が、白い紙の上に滑るように置かれた。
碧南は何も描くでもなく、ただ適当に、けれど淀みのない手つきで青色の絵の具を紙の上に乗せていく。
ウルトラマリンが、コバルトブルーが、真っ白なキャンバスをじわじわと侵食していく。
凌はその筆先から片時も目を離さず、息を呑んでその鮮烈な色彩の軌跡を真剣に見つめ続けた。
「前に、どうして青空の絵ばかりを描くのかって、私に聞いてきたでしょ」
筆を滑らせながら、碧南の口からぽつりと、掠れた声が零れ落ちる。
「あれ、別に深い意味なんて無いの。単に、この色が好きだからこればかり描いているだけ。……もし、そんな風に簡単に答えられたら、私もどれだけ楽だったか」
その瞬間、滑らかに動いていた彼女の手が、ぴたりと止まった。
筆先から滴り落ちそうなほどの青が、紙の上でじわりと滲んでいく。
快晴の空の下、美しくも何処か寒々しく真っ青に染まった紙を碧南はただじっと見つめ、そのまま深く黙り込んでしまった。
静まり返った屋上に、また、あの重苦しい沈黙の気配がゆっくりと満ち始めていく。
「君が一番最初に見た私の絵、あれは私が人生で初めてコンテストで入賞した絵だったの。ずっと夢に見ていたコンテストに入賞できて初めは嬉しかった。でも結果は銀賞だった。自信作だったんだよ、部員からは『金賞も夢じゃない』って言われるくらいには」
「あんなに素敵な絵なのに、銀賞」
「展示会場に行くまでは私も紫も皆そう思ってた。審査員の見る目がないんじゃないかって思うくらい納得できなかったよ。でも実際に会場に行って、この目で上位賞を取った絵を見ると案外すぐに受け入れられたんだ。私の絵は上位賞を取った作品の足元にも及ばない。誰の目にも留まることのないつまらない絵なんだって」
碧南の唇から、乾いた微かな笑みが零れ落ちた。
それは、自分自身を心の底から嘲笑うような、ひどく冷めた自虐の響きを孕んでいた。