君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 天に掲げられた筆の先を見つめる碧南の横顔を、凌はじっと見つめていた。
 全てを諦めたような、それでいて何処か吹っ切れたような、歪な微笑を浮かべる彼女。
 その反面、凌の表情は、これから告げられるであろう不吉な予感に耐えるように、暗く、重く沈み込んでいた。

「私には、時間がないんだ」

 碧南は掲げていた手をゆっくりとおろし、何でもないことのように淡々と言った。

「近い未来、私は絵が描けなくなる」
「え……何、どういうこと、っすか……?」

 凌の喉が、ヒュッと鳴った。
 碧南は何も答えず、足元に置いていたトートバッグの奥底へ手を差し入れた。
 そして、昨日凌がその片端に触れ、彼女が狂ったように奪い返した、あの曰く付きの白い紙を取り出した。

「これを見て」

 差し出された紙を、凌は恐怖に指先を震わせながら、碧南の手から受け取った。
 ゆっくりと紙を広げ、そこに並ぶ冷徹な活字の羅列に目を通していく。
 やがて、特定の文字列が凌の網膜を強く射抜いた瞬間、彼の顔から全ての血の気が引き、底なしの絶望がその瞳を覆い尽くした。

「これって、病院の……診断書……?」
「そう。それは一番直近の診断書になるかな。つい昨日、病院でもらってきたものだよ」

 碧南は真っ青に染まったスケッチブックを冷ややかに見つめながら、言葉を続ける。

「そこに書かれているのは私の身体のこと。私ね、若年性パーキンソン病ってやつを患ってんの。脳の神経細胞が少しずつ死滅していって、運動機能に障害をきたす病気」
「病気……?  病気なのか……っ?  絵が描けなくなるって……。で、でも、治るんだよな?  今の医学なら、ちゃんと治療すれば、治るんだろ!? そうだよな、先輩!?」

 現実を拒絶するように、凌は縋りつくような大声を上げた。
 そうだと言って欲しかった。一時の重い病気で、いつかはまた元通りに筆を握れるようになるのだと、笑い飛ばして欲しかった。
 けれど、碧南の返答は、残酷なまでに冷ややかだった。

「進行をゆっくりにする治療は受けているけど、直接この病気を治す方法はないに等しいらしい。……私はどう足掻いても、この病気から逃れられないんだって」
「だから、あの時……『時間がない』って。俺が昨日拾いかけた紙って、これだったんだ……」

 凌の手の中で、診断書がクシャリと音を立てる。
 全ての点と線が繋がってしまった。あの、何重にもノイズがかかったようにブレまくっていた右腕のデッサンは、彼女が自分の思い通りに動かなくなっていく右手を、必死に、狂ったようにキャンバスに叩きつけた絶望の跡だったのだ。

「このことを周りで知っているのは、紫だけ」

 碧南は、まるで他人事のように小さく息を吐いた。

「君がこれまで何も知らずにいるってことは、なんとか私との約束を守って隠してくれてたんだね」
「どうして……どうしてあの時に、言ってくれなかったんだよ……っ!」

 凌は、溢れ出しそうになる涙を堪えるように、顔を激しく歪めて叫んだ。 
 激しい後悔の念が、濁流となって胸の奥を狂わせる。

「俺、何も知らねぇで、先輩に酷いことをたくさん言ったのに……!  悔しいのも、怖いのも、一番辛いのも先輩の方なのに!  俺は、何も知らないくせに偉そうに首を突っ込んで、先輩の傷口に何度も何度も、塩を塗るような真似を……っ!」

 自分自身の浅はかさと、彼女の背負う絶望の重さに耐えかねて、凌は頭を抱えそうにして身を震わせた。
 その時だった。
 碧南は、ゆっくりと空から凌へと視線を移した。
 激しい自己嫌悪に身を(やつ)す後輩の姿を捉えたその瞬間、彼女の表情は、まるでひどく汚らわしい生塵でも目にしたかのように、冷酷で、気味悪そうな色を帯びて歪んでいった。
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