君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
日の傾き始めた放課後の屋上。
コンクリートの床に直に座り込み、いつものように自分のアトリエスペースを確保した碧南は、使い込まれたパレットを丁寧に拭き取っていた。
油絵の具の匂いが初夏の生ぬるい風に混じって鼻腔を擽る。
彼女は手元を動かしたまま、何処か何気ない風を装って、隣にいる凌へと声を掛けてきた。
「君、コンテストに参加するんだってね」
その言葉に、凌は少しだけ肩を揺らした。
紫との部室でのやり取りが、早くも彼女の耳に届いていたらしい。
「はい。綾瀬先輩が、まだ入部したばかりでもいい経験になるから、絶対に参加した方がいいって言ってくれたんで」
凌がそう答えると、碧南は手元を拭う手を一瞬だけ止め、小さく鼻で笑った。
その笑みには、呆れと、ほんの少しの懐かしさが混ざり合っているようだった。
「相変わらず強引だねー、紫は。他人の領域に土足で踏み込んでかき回すのが本当に得意なんだから。……それで、何の絵を描くのかはもう決めたの? 初心者がいきなりコンテストなんて、普通は題材を選ぶだけで何日も迷うものだけど」
「ぼんやりとは、ですけど。頭の中でなんとなく、こういう方向性で行きたいなっていうのはあります」
「へえ、どんなイメージ?」
碧南はパレットに新しい絵の具のチューブを向けながら、視線は手元に落としたまま問い掛けてくる。
凌は一呼吸置き、空を見上げたまま、自らの決意を言葉にした。
「俺も……風景画を描こうかなって。先輩みたいに、空の絵を」
その言葉が屋上の静寂に響いた瞬間、碧南の動きがピタリと止まった。
まるで世界そのものの時間が一瞬だけ凍りついたかのように、彼女が持っていた筆の先がキャンバスの手前で完全に静止する。
彼女はゆっくりと、本当に重い動作で凌の方へと視線を向けた。その瞳の奥には、驚きと、それ以上に複雑な感情が渦巻いているのが見て取れた。
「私と同じか……。よりによって、一年生でいきなり風景画部門を選ぶとはね。随分と無謀というか、冒険するなぁ」
碧南の声はいつになく低く、試すような響きを含んでいた。
風景画、特に空という題材が、彼女にとってどれほど特別で、どれほど呪わしいものかを知っている凌に対して、あえてその言葉を投げ掛けている。
「風景画どころか、人物画も、何一つまともに描けねぇ状態っすけど……。デッサンの基礎すら怪しい俺が、コンテストなんて大層な場所に作品を出すなんて、笑われるかもしれないですけどね」
凌は照れ隠しに、空いた手でガシガシと後頭部を掻いた。
自分の無謀さは自分が一番よく分かっている。それでも、引くつもりはなかった。
彼は真っ直ぐなトーンで、胸の奥にある熱をそのまま言葉に乗せて続けた。
「でも、せっかく参加するって決めたなら、自分が心から『好きだ』って思った絵を描きたいんです。評価されるためとか、誰かに勝つためじゃなくて、俺が最初にこの場所で圧倒されたような絵。それが、先輩の描いたような、あの青空の風景画だったから。……俺が風景画を選ぶのは、それだけの理由です」
その言葉に、碧南は何も言わなくなった。ただ、握られた筆に僅かに力が籠もったように見えた。
凌はそれ以上言葉を重ねるのをやめ、屋上の床の上に体育座りになり、両手で膝を抱えて上を見上げた。
頭上には、白い薄雲がちらほらと頼りなく浮かぶ、何処までも穏やかで、吸い込まれそうなほどに広い青空が広がっていた。