君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
あの日、彼女が絶望と共に叩きつけていた歪んだ激しい青とは違う、全てを優しく包み込むような、静かな初夏の空だ。
この広く美しい世界を、自分の手でどうにかして切り取ってみたい。そんな無謀な創作意欲が、凌の胸の中で確かに脈打っていた。
すると突然、凌のすぐ隣から「ゴソゴソ」と、静寂を破る大きな音が響き始めた。
驚いて視線を向けると、碧南が自分の大きなトートバッグの中に両手を突っ込み、何かを必死になって漁り始めているところだった。
いつも冷静沈着で、張り詰めたガラス細工のようなオーラを纏っている彼女にしては、それは珍しいほどに焦ったような、乱暴で余裕のない手つきだった。
バッグの中の筆入れや絵の具のケースがぶつかり合い、カチャカチャと慌ただしい音を立てる。
「?……先輩、一体何してんすか?」
凌は不思議に思いながら、膝を抱えた姿勢のまま、その少し奇妙とも言える彼女の様子をじっと見守った。
覗き込むような凌の視線に気づいたのか、碧南の端整な横顔が、心なしか夕暮れの光とは違う理由で、少しだけ朱に染まっているように見えた。
「色ってのはね、大まかな定義の上で成り立っているんだよ」
バッグを漁る手を止めた碧南は、一本のチューブを取り出し、パレットの上にニュッとその絵の具を絞り出した。
「定義、っすか?」
「赤、青、黄、とかの原色に、緑とか紫とか複数の色を混ぜた混色。一般的に広く知られている『色』ってのは、人間が生活する上で必要最低限の区別でしかないの。でもね、本当はこの世には、人の数だけ色がある」
「人の数だけって……そんなに色があるんすか? せいぜい数十種類とか、色鉛筆のセットにある程度のものだと思ってましたけど」
「人によって、同じ色でも脳内での見え方が全然違うんだよ。例えば……」
碧南はパレットを凌の目の前に差し出して見せた。
そこには、艶やかな光沢を放つ深い、濃い青色の絵の具が乗っている。
「この色、君には何色に見える?」
「えっと……普通に、青色ですよね」
「そう、これは青色。君にはこの色が青に見えた。でもね、私には『紺碧色(こんぺきいろ)』に見える」
「こんぺき、色?」
「これは、ただの青色じゃない。紺碧色っていう、黒色を混ぜた深みのある青なの」
(……結局は、どっちも青じゃん)
なんて、今ここで言えるはずもない。
目の前の先輩は、いたって大真面目に自分の色彩の世界を語っているのだから。
「でね、面白いのはここから。この絵の具を作った会社は、この色を『群青色』として販売した。……これがどういうことか、分かる?」
碧南の問い掛けに、凌は膝を抱えたまま少し考え込んだ。
「えっと……皆、見える色が違うってことですか?」
「色盲だから別の色に見えている、なんて単純な話じゃないの。全員がこれが『青の系統』であることを理解したうえで、青という概念から派生した数多くの色の中から、自分の感性にふさわしい名前を選別している。知識の差もあるけど、簡単に言えば……世界をどう捉えるかっていう、価値観の違いだよ」
碧南は、パレットに出した群青色の絵の具を、たっぷりと水を含ませた筆の先へと取った。
「単なる青空なのにさ、たくさんの青色が混ざっているって思うと、素敵だと思わない?」
彼女は筆先を愛おしそうに見つめ、初夏の風に髪を靡かせながら、そっと呟いた。
「青空の中に、たくさんの、何百種類もの『青色』が混ざり合ってできている。人によって、同じ青空でも使う青色は違うんだ」
この広く美しい世界を、自分の手でどうにかして切り取ってみたい。そんな無謀な創作意欲が、凌の胸の中で確かに脈打っていた。
すると突然、凌のすぐ隣から「ゴソゴソ」と、静寂を破る大きな音が響き始めた。
驚いて視線を向けると、碧南が自分の大きなトートバッグの中に両手を突っ込み、何かを必死になって漁り始めているところだった。
いつも冷静沈着で、張り詰めたガラス細工のようなオーラを纏っている彼女にしては、それは珍しいほどに焦ったような、乱暴で余裕のない手つきだった。
バッグの中の筆入れや絵の具のケースがぶつかり合い、カチャカチャと慌ただしい音を立てる。
「?……先輩、一体何してんすか?」
凌は不思議に思いながら、膝を抱えた姿勢のまま、その少し奇妙とも言える彼女の様子をじっと見守った。
覗き込むような凌の視線に気づいたのか、碧南の端整な横顔が、心なしか夕暮れの光とは違う理由で、少しだけ朱に染まっているように見えた。
「色ってのはね、大まかな定義の上で成り立っているんだよ」
バッグを漁る手を止めた碧南は、一本のチューブを取り出し、パレットの上にニュッとその絵の具を絞り出した。
「定義、っすか?」
「赤、青、黄、とかの原色に、緑とか紫とか複数の色を混ぜた混色。一般的に広く知られている『色』ってのは、人間が生活する上で必要最低限の区別でしかないの。でもね、本当はこの世には、人の数だけ色がある」
「人の数だけって……そんなに色があるんすか? せいぜい数十種類とか、色鉛筆のセットにある程度のものだと思ってましたけど」
「人によって、同じ色でも脳内での見え方が全然違うんだよ。例えば……」
碧南はパレットを凌の目の前に差し出して見せた。
そこには、艶やかな光沢を放つ深い、濃い青色の絵の具が乗っている。
「この色、君には何色に見える?」
「えっと……普通に、青色ですよね」
「そう、これは青色。君にはこの色が青に見えた。でもね、私には『紺碧色(こんぺきいろ)』に見える」
「こんぺき、色?」
「これは、ただの青色じゃない。紺碧色っていう、黒色を混ぜた深みのある青なの」
(……結局は、どっちも青じゃん)
なんて、今ここで言えるはずもない。
目の前の先輩は、いたって大真面目に自分の色彩の世界を語っているのだから。
「でね、面白いのはここから。この絵の具を作った会社は、この色を『群青色』として販売した。……これがどういうことか、分かる?」
碧南の問い掛けに、凌は膝を抱えたまま少し考え込んだ。
「えっと……皆、見える色が違うってことですか?」
「色盲だから別の色に見えている、なんて単純な話じゃないの。全員がこれが『青の系統』であることを理解したうえで、青という概念から派生した数多くの色の中から、自分の感性にふさわしい名前を選別している。知識の差もあるけど、簡単に言えば……世界をどう捉えるかっていう、価値観の違いだよ」
碧南は、パレットに出した群青色の絵の具を、たっぷりと水を含ませた筆の先へと取った。
「単なる青空なのにさ、たくさんの青色が混ざっているって思うと、素敵だと思わない?」
彼女は筆先を愛おしそうに見つめ、初夏の風に髪を靡かせながら、そっと呟いた。
「青空の中に、たくさんの、何百種類もの『青色』が混ざり合ってできている。人によって、同じ青空でも使う青色は違うんだ」