君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
重い玄関の扉を開けた瞬間、廊下の奥のリビングから、尖った母親の声が容赦なく飛んできた。
「凌! 遅い! 今何時だと思ってるの!」
時計の針はとうに八時を回っている。けれど、凌の心はまだ夜の部室に置き去りにされたままで、母親の怒声すら遠くの出来事のようにしか感じられなかった。
「……ただいま」
感情を削ぎ落とした声で適当に返事だけを戻し、凌は母親と顔を合わせることなく、そのまま吸い込まれるように階段へ向かう。
「ちょっと、聞いてるの!? ご飯用意してあるから、先にリビングに――」
背中に浴びせられる言葉を最後まで聞くこともせず、凌は二階にある自室の扉を開け、滑り込むようにして中から鍵を閉めた。
ドサリ、と通学鞄を床へ放り投げる。
制服のブレザーを着たまま、ろくにネクタイも緩めずに学習机の椅子へ腰掛けた。
そして、学校からずっと手に持っていたスケッチブックを、焦燥感に突き動かされるようにして乱暴に開く。
現れたのは、描きかけの『青空』の風景画だった。
学校にいる間も、電車に揺られている間も、ずっと脳裏の片隅に引っかかっていた配置の違和感。
あの部室を出て、夜道を歩いているうちに、どう描けばいいのかの正解が突如として脳内に閃いていた。
今なら描ける。今、この瞬間の熱量なら、あの光景を正しく形にできる。
「……ここだ」
低く呟き、芯を長めに出したシャーペンを固く握りしめる。
尖った先端が白い紙の上へ滑り、最初の線を走らせた瞬間――鼓膜を震わせていたあらゆる雑音が、潮が引くように頭の中から綺麗に消え去った。
カリ、カリ、カリ――。
ただ無心だった。
今のと真逆の活気溢れる時間帯。
疎らな雲がその先にある鮮やかな青へと溶け込む様。
屋上の床に座って空を見上げた時に、辛うじて視界に入る校舎と柵の影。
その全てを紙の中へ引き摺り込み、落とし込むように、凌は夢中で手を動かし続けた。
しばらくして、階段の下から再び母親の呼ぶ声が微かに聞こえてきた。
「凌ー! ご飯冷めるんだけどー!」
返事はしない。否、返すための思考のリソースが残っていない。
「凌! 聞こえてるの!?」
聞こえてはいる。しかし、凌の意識の大半はもう、スケッチブックの中に広がるモノクロームの世界へと深く沈み込んでいた。
今、この一瞬でも筆を止めたら、指先に宿っているこの奇跡的な感覚が指の隙間から逃げていってしまう。
そんな強迫観念に似た焦りだけが、頭の奥を支配している。
カリ、カリ、カリ、カリ。
狂ったように線を重ねる。
もっと。もっとあの青に、あの瞬間の空気に見る者を近づける。
「凌っ!」
バン、と勢いよく扉が開け放たれた。激しい衝撃音が部屋の空気を揺らす。
「さっきから何度も呼んでるでしょ、いい加減にしなさい――」
怒鳴り込んできた母親の口から、ヒステリックな言葉が発せられる。けれど、その声は途中で不自然にぷつりと途切れた。
凌は、母親が部屋に入ってきたことにすら気づかなかった。否、正確には彼女の存在が一切視界に入っていない。
机に食い入るようにして身体を限界まで前へ倒し、前髪を狂おしそうに掻き乱しながら、取り憑かれたような目つきで必死にペンを走らせていた。