君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 何かに魂を奪われてしまったかのように。夢中で。我武者羅で。みっともないほどに必死な、息子の背中。
 母親は呆気に取られたように、その場に立ち尽くしたまま、凌の背中を見つめていた。
 足元の床には、描き損じてぐしゃぐしゃに丸められた紙が何枚も散乱している。
 机の上には、激しく削られた色鉛筆の山と、まるで雪のように白く積もった大量の消しカス。
 高校に入ってから、何に対しても無気力で、何処か冷めた目をしていたはずの息子が、制服姿のままで夕飯の存在すら完全に忘れてキャンバスに噛みついている。

「良かったね」

 ぽつりと、母親の唇から、驚きと諦めの混ざった小さな呟きが漏れた。
 それでも、凌の手は一瞬たりとも止まらない。シャーペンの芯が紙を削る音だけが室内に響いている。
 必死にキャンバスを睨みつける凌の横顔は、ひどく真剣で、何処か苦しそうで――けれど、この世界で何よりも救われているような、楽しそうな色を帯びていた。
 母親はしばらくの間、声も掛けずに黙って息子の背中を見つめ続けていたが、やがて怒る気力すら失ったように、小さく優しく息を吐き出した。

「……頑張れ」

 凌には届かないほどの小さな声でそれだけを書き残し、母親は静かに、そっと扉を閉めた。
 主を失った部屋には再び、紙を擦る乾いた音だけが残される。
 カリ、カリ、カリ、カリ――。
 夜の静寂の中で、凌の衝動は何処までも加速していった。
 指先が痛むのも、夜が更けていくのも、凌にはもう関係なかった。
 机の電気スタンドが照らす白い光のなかで、ただ一心不乱にシャーペンを動かし続ける。引いては消し、また重ねる。その果てしない反復の中で、線は次第に迷いを失い、研ぎ澄まされていった。
 バラバラだったパーツが、凌の脳内にある「あの青空」というパズルにピタリとはまっていく。
 ふと気づけば、窓の外は白み始めていた。
 カラン、と力尽きたようにシャーペンが手から転がり落ちる。
 凌は、数時間を共にしたスケッチブックを少し遠ざけ、全体を俯瞰した。
 そこには、これまで彼が描いたどのデッサンよりも、生々しく、息を呑むような緊迫感を纏った『屋上の風景』のデザインが完成していた。
 技術はまだ拙いかもしれない。けれど、ここには間違いなく、彼が切り取りたかった世界の全てが詰まっていた。

「……できた」

 乾燥した唇から、掠れた声が漏れる。
 張り詰めていた身体から一気に力が抜け、凌は泥のようにベッドへと倒れ込んだ。
 重い銀色の朝の光が、完成したデザイン画を静かに照らし出していた。
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