君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 あの子を見ていると、かつて自分を引き摺り回し、絵を描くことの本当の自由を教えてくれた、目の前の『先輩』の姿が嫌でも重なってしまう。
 けれど、次の瞬間だった。
 碧南の視線が、シーツの上に投げ出された、ピクリとも動かない女性の手へと落ちた。
 かつては誰よりも力強く、鮮烈な色彩をキャンバスに躍らせていたその手は、今や痛々しいほどに細くなり、生気を失っている。
 脳の病によって自由を奪われ、もう二度と、筆を握ることすら叶わなくなってしまった手。
 碧南の唇に浮かんでいた笑みが、ほんの少しだけ悲痛に揺らぎ、消えた。
 そして、自分自身の右腕へと視線を落とす。
 今はまだ辛うじて動くこの手も、近い未来、目の前の先輩と同じように動かなくなる。
 若年性パーキンソン病。その冷酷な現実が、じわじわと自分の身体を蝕んでいることを、彼女は嫌というほど自覚していた。

「だから……少し、怖いです」

 ぽつりと零れた震える声は、機械音に掻き消され、誰の耳にも届くことはなかった。
 あの子の純粋な情熱が眩しければ眩しいほど、自分の未来にある絶対的な絶望が色濃く浮き彫りになっていく。
 碧南はバッグの中から、一冊の小さなスケッチブックを取り出した。
 それは学校で使っているものとは違う、個人用の古いものだ。
 ページをめくると、そこには凌が昨夜、自宅で取り憑かれたように描き殴っていたのと同じ『青空』の景色が、より洗練された圧倒的な筆致で描かれていた。
 かつて、この病室の先輩が描き、碧南に遺してくれた大切なデザイン。

「あの子ね、先輩と同じ風景を描こうとしてるんです」

 碧南は、動かない先輩の手の上に、自分の冷たくなった手をそっと重ねた。

「私がもう描けなくなる空を。あの子が代わりに、自分の色で塗り潰そうとしてる。……皮肉ですよね。私があんなに憎んで、捨てようとした場所から、先輩の地続きみたいなあの子が現れるなんて」

 窓の外では、いつの間にか太陽が雲に隠れ、病室に落ちる光が(かげ)り始めていた。
碧南は重い沈黙の後、ゆっくりと立ち上がると、スケッチブックをバッグへと仕舞い込んだ。
 彼女の瞳からは、先ほどの弱さは綺麗に消え去り、いつもの冷徹で、けれど覚悟を決めたような鋭い光が戻っている。

「また来ます、先輩。……あの子が何処まで足掻けるか、もう少しだけ、特等席で見届けてあげますから」

 それだけ言い残し、碧南は病室の扉へ向かった。
 静かに扉が閉まる音が響き、再び部屋には、変わらない機械音だけが虚しく残される。
 主を失ったベッドの傍らで、ただカーテンだけが、初夏の微風に小さく揺れていた。








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