君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
華やかな展示会場の喧騒から少し外れた通路に、数秒の、ひどく気まずい沈黙が流れた。
「……本当に、それだけですか?」
「本当にそれだけです」
「もっとこう……絵画的な演出意図とか、空間の再構築とか」
「無いです」
「では、現代社会への痛烈な問題提起とか」
「無いです」
「傷ついた現代人の孤独へ向けたメッセージとか……」
「無いです、一切」
食い気味の、完全なる即答だった。
野一色はがっくりと肩を落とし、大袈裟に額を押さえた。まるで、世界の心理が隠されていると信じた超難解な数式を前にして、解法を完全に見失ってしまった研究者のような顔をしている。
やがて、野一色は丸眼鏡の位置を少しだけ直すと、今度は声を潜め、探るように恐る恐る尋ねてきた。
「……では、藤代さん。何故君は、あの絵を描こうと思ったのですか?」
その質問だけは、先ほどまでの高尚な芸術論とは違って、不思議なくらい真っ直ぐに凌の胸の奥深くへと落ちてきた。
凌は小さく息を吸い、少しだけ視線を近くの窓の外へと向けた。
大きなガラス窓の向こうには、何処までも広大で、遮るもののない五月の青空が広がっている。
その青を見つめていると、ふと、脳裏に一人の少女の顔が鮮明に浮かび上がった。
いつも何処か冷めた目をしながら、青空の絵ばかりを描いている先輩。
自分の未来に残されたタイムリミットに怯え、その圧倒的な才能を自分自身で信じきれないでいる先輩。
それでも、誰よりも、世界中の誰よりも絵を描くことを愛している、あの不器用な先輩。
「……会いたい人が、いたから」
ぽつりと、自分の心臓の音を確かめるようにして呟く。
「その人のことばっかり考えてたら……気付いたら、あの絵になってただけです」
野一色はハッとしたように大きく目を見開いた。
そして数秒の間、凌のその横顔を凝視したあと、今度は深く、深く、心の底から納得したように大きく頷いた。
「なるほど、なるほど……」
その表情から先ほどの困惑は消え去り、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「だから、あの絵には人間が一人も描かれていないにもかかわらず、あれほどまでに息苦しいほどの『人の気配』が満ち満ちていたのですね。その理由が、今ようやく分かりました」
凌はそれには答えなかった。あまりに内面を言い当てられたような気がして、ただ少しだけ気まずそうに、ふいっと視線を逸らすことしかできない。
野一色はそんな少年の瑞々しくも不器用な反応を見て、ふっと優しく目を細めて笑った。
「ありがとうございます、藤代さん。お時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした」
「……あ、いや、はぁ」
「お話を聞けて本当に良かった。私は、ますます君の、あの作品が好きになりましたよ」
丁寧に着物のように美しい所作で頭を下げる責任者を前に、凌はどう反応していいのか分からず、ただ曖昧に再び頭を掻きながら、小さく「どうも」と呟くのが精一杯だった。
「……本当に、それだけですか?」
「本当にそれだけです」
「もっとこう……絵画的な演出意図とか、空間の再構築とか」
「無いです」
「では、現代社会への痛烈な問題提起とか」
「無いです」
「傷ついた現代人の孤独へ向けたメッセージとか……」
「無いです、一切」
食い気味の、完全なる即答だった。
野一色はがっくりと肩を落とし、大袈裟に額を押さえた。まるで、世界の心理が隠されていると信じた超難解な数式を前にして、解法を完全に見失ってしまった研究者のような顔をしている。
やがて、野一色は丸眼鏡の位置を少しだけ直すと、今度は声を潜め、探るように恐る恐る尋ねてきた。
「……では、藤代さん。何故君は、あの絵を描こうと思ったのですか?」
その質問だけは、先ほどまでの高尚な芸術論とは違って、不思議なくらい真っ直ぐに凌の胸の奥深くへと落ちてきた。
凌は小さく息を吸い、少しだけ視線を近くの窓の外へと向けた。
大きなガラス窓の向こうには、何処までも広大で、遮るもののない五月の青空が広がっている。
その青を見つめていると、ふと、脳裏に一人の少女の顔が鮮明に浮かび上がった。
いつも何処か冷めた目をしながら、青空の絵ばかりを描いている先輩。
自分の未来に残されたタイムリミットに怯え、その圧倒的な才能を自分自身で信じきれないでいる先輩。
それでも、誰よりも、世界中の誰よりも絵を描くことを愛している、あの不器用な先輩。
「……会いたい人が、いたから」
ぽつりと、自分の心臓の音を確かめるようにして呟く。
「その人のことばっかり考えてたら……気付いたら、あの絵になってただけです」
野一色はハッとしたように大きく目を見開いた。
そして数秒の間、凌のその横顔を凝視したあと、今度は深く、深く、心の底から納得したように大きく頷いた。
「なるほど、なるほど……」
その表情から先ほどの困惑は消え去り、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「だから、あの絵には人間が一人も描かれていないにもかかわらず、あれほどまでに息苦しいほどの『人の気配』が満ち満ちていたのですね。その理由が、今ようやく分かりました」
凌はそれには答えなかった。あまりに内面を言い当てられたような気がして、ただ少しだけ気まずそうに、ふいっと視線を逸らすことしかできない。
野一色はそんな少年の瑞々しくも不器用な反応を見て、ふっと優しく目を細めて笑った。
「ありがとうございます、藤代さん。お時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした」
「……あ、いや、はぁ」
「お話を聞けて本当に良かった。私は、ますます君の、あの作品が好きになりましたよ」
丁寧に着物のように美しい所作で頭を下げる責任者を前に、凌はどう反応していいのか分からず、ただ曖昧に再び頭を掻きながら、小さく「どうも」と呟くのが精一杯だった。