君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
「それでは失礼します! 本日は本当に貴重なお話をありがとうございました! 藤代さんの次回作、心から楽しみにしております!」
「あ、はい……どうも」
最後まで台風のような勢いのまま、何度も深く頭を下げながら廊下の向こうへと去っていく野一色の背中を見送る。
それから、凌は肺の底に残っていた熱をすべて吐き出すように、大きく息を吐いた。
「……なんなんだよ、一体、あの人」
ぽつりと零した声が白々しい空間に消え、再び通路に静寂が戻ってくる。先程までの嵐のような騒がしさが嘘だったように、今や長い廊下には、開け放たれた窓から吹き込む五月の風の音だけが、寂しげに残されていた。
展示会場の方からは、壁を一枚隔てて、来場者たちの抑えられた話し声が微かに、地鳴りのように聞こえてくる。
凌は力なく壁に背中を預けた。
どっと押し寄せてきた精神的な疲労に、身体が重い。
最優秀賞だの、満場一致の大絶賛だのと言われても、未だに現実感は薄く、どこか他人事のようだった。むしろ、自分の身の丈に合わない、全く知らない見知らぬ場所へと無理やり連れて来られてしまったような、強烈な違和感と拒絶感のほうが強かった。
しばらくの間、何の模様もない白い天井をぼんやりと見上げていた凌は、ふと思い出したように制服のポケットへ手を差し入れた。指先が、クシャリと折れ曲がった一冊の冊子に触れる。
会場の受付で、来場者全員に配られていた公式のパンフレットだった。
今年度の受賞作品の紹介や、著名な審査員たちの総評コメントが詳細に掲載されているものだ。
凌はポケットからそれを取り出す。静まり返った廊下に、上質紙が擦れ合うカサリという小さな音が、妙に大きく響いた。
ぱらり、と何となくページを捲っていく。
興味があるような、ないような、何処か心ここにあらずの冷めた気持ちのまま、印刷された他人の絵を滑らせるように眺めていく。
今年度の他の受賞作品、過去の優秀作品、そして――歴代の最優秀賞受賞者立ちの軌跡。
何ページ目だっただろうか。あるページを開いた瞬間、凌の指が、まるで目に見えない強力な磁石に吸い寄せられるようにして、自然とピタリと止まった。
「……っ」
そこに印刷されていたのは、小さなサイズながらも圧倒的な存在感を放つ、一枚の風景画だった。
そして、その絵のすぐ下に、端正な明朝体で記されたその名前。
『春原 澄朱華』
心臓がどくりと跳ねた。
碧南がいつも、祈るような、あるいは呪うような複雑な眼差しで口にしていた、あの人の名前だ。
碧南に絵を描く本当の自由ときっかけを与えたという、あの先輩。
凌は無意識の内に、その小さな印刷物へと完全に吸い込まれるように見入っていった。
最初、それが何を描いているのか、視覚的には理解できなかった。
そこには、ただ空があった。
何処までも、何処までも広がる、純粋で、透明な青空。
それだけだ。太陽も、雲も、地上の景色も、何一つ描かれてはいない。本当に、ただの青い空。
なのに、どうしてもページを閉じることができない。
網膜がその青を拒めず、目が離せないのだ。