君の手が動く限り、俺は隣にいたいから
 それに対して、凌の描いた絵は全く違っていた。
 あの子はきっと、空そのものを描こうとしたわけではない。
 画面の何処をどう探したって、一人の人間、一つの影すら存在しない風景だというのに。そこに描かれていたのは、紛れもない『人間』そのものだった。
 一人ぼっちの寂しさも。
 いつか訪れるはずの足音への期待も。
 どうかここへ来てほしいという、祈りにも似た切ない願いも。
 藤代凌という不器用な人間の全てが、その青の中に息づいていた。
 彼の絵は、「誰かを想うことは、こんなにも苦しいのに温かいんだ」と語りかけてくる。
 だからこそ、碧南は不思議で仕方がなかった。
 自分はあの日からずっと、澄朱華という絶対的な光の背中だけを追いかけて、その色彩をなぞるようにして生きてきたはずなのに。
 気づけば今、自分の心の中には、あの人の絵の隣に、もう一枚の、全く別の絵が並んでいる。
 決して同じではない。
 都合のいい真似でも、誰かの劣化コピーでもない。
 けれど確かに、澄朱華の絵と同じように自分の心を掴んで二度と離さない、強烈な引力を持った絵がそこにある。

「先輩……」

 誰もいない、遮るもののない五月の空へ向かって、碧南は静かに呼びかけた。
 渡り鳥の鳴き声と、ゴーという風の音だけが、寂しげに返事をする。
 碧南はスマートフォンを画面が暗転するまで抱き締めると、それを自らの愛おしそうに胸元へと言い寄せるように引き寄せた。

「見つけましたよ、先輩」

 それは、いつもよりずっと穏やかで、あの無機質な病室で眠り続ける大切な人へ向けるものと、全く同じトーンの声だった。

「貴方みたいな人。周りが見えなくなって、狂ったようにキャンバスに噛みついて、誰かの心を一瞬でめちゃくちゃにしてしまうような……そんな人」

 そこまで言って、碧南は少しだけ寂しそうに首を横に振った。

「ううん。違うね。それは違う」

 碧南はふっと、自嘲を交えながらも、何処か誇らしげに静かに笑った。

「貴方とは、全然違う人です」

 澄朱華は世界の美しさを信じて空を描いた。けれど凌は、誰かの温もりを求めて人を描く。
 澄朱華は自分に、絶望に満ちた世界で絵を描く理由をくれた。
 そして、藤代凌という男の子は――。
 碧南はゆっくりと顔を上げ、もう一度真っ直ぐに空を見上げた。
 網膜がチカチカとするほどに眩しい、初夏の突き抜けるような青。
 自分がこれまでの人生中で、何百回、何千回、何万回と、血を吐くような思いでキャンバスの上に再現しようと足掻き続けてきた、憎らしくも愛おしい景色。
 その青のさらに向こう側、まだ見ぬ未来の果てに向かって、彼女は小さく、けれど確かな決意を込めて呟いた。

「でもね、先輩。この子ならきっと……私が見ることのできなかった景色の、その先まで……全部自分の色で、描いてくれる気がするんです」

 それは、冷徹な仮面の裏に隠されていた、彼女の純粋な期待だった。
 いつか消えてしまう自分の代わりに、あの日々を繋いでほしいという、切実な願いだった。
 そして何より。
 若年性パーキンソン病という冷酷な現実によって、一歩一歩、自らの輝かしい未来と両手の自由をじわじわと削り取られていく少女が、生まれて初めて、自分以外の他者へと託した、命がけの『希望』そのものだった。
 碧南はもう一度だけ、手の中のスマートフォンの画面を点灯させ、並んだ二枚の絵を見つめた。
 過去と、未来。
 美しさの始まりと、その先にある人間への愛おしさ。
 自分を導いてくれた青と、自分がこれから見届けていく青。
 それらの色彩を慈しむように見つめながら、彼女は何処か深く満足したように、優しく目を細めて微笑んでいた。
 屋上を駆ける強烈な突風が、彼女のスカートを揺らし、淡い私服の裾を翻していっても、その静かな笑みが崩れることは決してなかった。








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