赫い滴と湿った吐息

第一話:夕暮れのカフェと安物の琥珀 3

​「……行こうか。ここは、長居する場所じゃない」

男の低い声が、琥珀色の空間に冷たい亀裂を入れ、甘いコーヒーの香りを霧散させる。

鼻腔を支配するのは、使い古された革張りのソファから立ち上る、埃と古びた脂の匂い。

視界に映る彼女は、僅かに俯き、カップの底に沈んだ溶け残りの砂糖をじっと見つめていた。

​「……うん、そうだね。おじさんの『場所』へ行こう」

少女が立ち上がると、耳朶を打つのは、パイプ椅子の脚が床を削る、キィという短い悲鳴。

舌先に残る安物の豆の苦みが、現実の酸っぱさを伴って、男の喉をジリジリと焼き上げる。

触れ合う彼女の肩の薄さは、街灯の逆光を浴びて、今にも折れてしまいそうなほどに脆い。

​「……五万円。今夜の分だ。先に出しておこう」

男がテーブルの下で封筒を滑らせると、指先に伝わるのは、紙の乾いた摩擦と彼女の熱。

掌に伝わる彼女の手のひらの湿り気は、欲望への期待か、それとも隠しきれない怯えか。

視覚を奪うほどの眩いヘッドライトが、窓を横切り、二人の不釣り合いな影を壁に写し出す。

​「……ねえ、おじさん。私、いつか本当に壊れちゃうかな」

彼女の吐息が、夕闇の冷気に混じり、男の耳元を震えるような繊細さで撫で回した。

遠くで、駅のホームのアナウンスが、規則正しい生活へ帰る人々を急かすように響く。

溢れ出す背徳の重みが、二人の歩幅を揃えさせ、再びあの窓のない部屋へと誘っていった。

​「壊れるのが先か、飽きるのが先か……確かめてみるがいい」

男の手が彼女の腰を強く引き寄せると、薄いコート越しに逃げ場のない支配が伝わる。

街の雑踏が背後で遠ざかり、二人の足音は、深い沼の底へと沈み込むように重なった。

日常の浸食が終わり、夜の支配が、再びその黒い触手を静かに、確実に伸ばしていく。
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