赫い滴と湿った吐息

第三話:飼育の日常、感覚の鈍化 1

​「……待っていたか。私のいない間、お前はただの肉の塊だったはずだ」

男の低い声が、重厚な玄関の鍵を開ける音と共に、窓のない静寂に支配されたリビングへと冷徹に響く。

鼻腔を支配するのは、外の世界の喧騒を僅かに纏った男のスーツの匂いと、一晩中閉じ込められていた彼女から漂う、微かな乳液と体温の混ざり合った、淀んだ「室内」の匂い。

視界に映る彼女は、男が指定したソファの隅で、置物のように膝を抱え、時間の概念を失った魚のような瞳で、ただ扉を見つめていた。

​「……おかえりなさい、おじさん。私、ずっと、おじさんの靴音、数えてたよ……っ」

少女の喉から漏れた、掠れきった歓迎の言葉が、湿った熱を帯びて、男の革靴の先に弱々しく、ねちっこく這い寄る。

耳朶を打つのは、男が脱ぎ捨てたネクタイが床に落ちる、微かな、しかし絶対的な「所有」の合図としての摩擦音。

舌先に残る自身の存在証明という名の鉄錆の味が、男の口腔を、待たせきった獲物を慈しむ前の、静かな渇きで満たした。

​「……数える必要はない。お前はただ、私の帰宅という衝撃にのみ、その神経を震わせればいいのだ」

男の手が、彼女の乱れた髪を無造美に掴み、上向かせると、指先に伝わるのは、外界との接触を絶たれた者の、異常なほど敏感な皮膚の脈動。

触れ合う二人の肌の間で、冷え切った彼女の指先が男の手に触れ、自らの体温を分け与えられることを渇望するように、じりじりと、執拗に絡みつく。

視覚を奪うほどの眩いスマートフォンの通知ランプが、テーブルの隅で虚しく点滅するが、彼女はもはや、それが自分を呼ぶ音であることさえ忘れていた。

​「あ、っ……おじ、さん……。私、今日、何曜日か、わからなくなっちゃった……っ」

彼女の指先が、男の腕に刻まれた時間の感覚を盗み取ろうとするように、ねちっこく、縋るように、何度もなぞり続ける。

掌に伝わる彼女の喉の震えは、社会という大きな時計から振り落とされ、男の心音という狭い刻にのみ、その命を繋いでいる。

遠くで、扉の向こうの廊下を歩く誰かの足音が、異世界の雑音として遠ざかり、この密室の時間が、二人だけの「飼育の箱庭」として、より深く、より暗く固まっていく。

​「曜日などという、不確かなものは捨てろ。……私の手が触れる時が朝で、私が目を閉じる時がお前の夜だ」

男の指先が、彼女の瞼をなぞり、外界の光を遮断するように、支配という名の冷徹な安らぎを、脳髄まで深く注ぎ込んだ。

溢れ出した「忘却」の愉悦が、ホテルの部屋を、名もなき鳥が自ら檻を望むための、甘美で無慈悲な苗床へと変える。

日常が完全に死に絶えたその暗闇で、彼女の細い吐息は、男の支配という名の永劫の沈黙へと、ただ静かに、そして無残に溶けていった。
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