赫い滴と湿った吐息
第七章:崩壊の予兆、招かれざる訪問者

​第一話:密室の亀裂、外からの震動 1

「……っ、おじさん、いま……何か、聞こえなかった……?」

少女の掠れた声が、厚い遮光カーテンで防音されたはずの寝室に、細い亀裂のように走る。

鼻腔を支配するのは、数日間換気されていない部屋に澱む甘い香水の死骸と、彼女の肌から絶えず染み出す、怯えた小動物のような酸っぱい汗。

視界に映る彼女の瞳は、男の指先にのみ焦点を合わせるよう調教されていたはずが、今は扉の向こう側、未知の気配へと、不吉な揺らぎを見せていた。

​「……気のせいだ。お前の耳が拾っていいのは、私の鼓動と、お前を縛る鎖の音だけだ」

男の低い声が、静寂を無理やり塗り潰すように、彼女の耳腔へ冷徹な重圧となって注ぎ込まれる。

耳朶を打つのは、遠くの廊下で誰かが立ち止まったような、微かな、しかし確かな靴音の残響。

舌先に残る自身の支配という名の鉄錆の味が、男の口腔を、完璧に閉じたはずの箱庭を侵食される不快な苛立ちで満たした。

​「でも、っ……誰か、いるよ……私、を……呼んでる、みたいな……っ」

少女の指先が、男のワイシャツの袖を、救いを求めるのか、あるいは逃走を夢見るのか、ねちっこく、執拗に引き絞る。

触れ合う二人の肌の間で、一瞬にして冷え切った彼女の体温が、男の掌に、裏切りにも似た不穏な拍動を伝えてくる。

視覚を奪うほどの眩いドアスコープの光が、脳裏を掠めるたび、彼女の華奢な肩は、社会という名の亡霊を恐れるように小刻みに震える。

​「……呼んでいるのは、お前の過去だ。それを今、私がこの手で完全に絞め殺してやる」

男の手が、彼女の喉元を、外の音を一切遮断するほどの強さで、ゆっくりと、執拗に、かつ深く圧迫する。

掌に伝わる彼女の喉の痙攣は、外界への未練が断ち切られる際の、残酷で、あまりに無様な末路。

遠くで、インターホンが無機質に一回だけ鳴り響き、この密室の聖域に、取り返しのつかない決定的な「汚染」を宣告した。

​「あ、っ……おじ、さん……。私、を、隠して……っ。誰にも、見せないで……っ!」

彼女の喉から漏れた、狂気と依存が混濁した悲鳴が、男の胸元に熱く、ねっとりとした湿り気を伴って絡みつく。

溢れ出した「予兆」の静寂が、ホテルの部屋を、完成された楽園から、逃げ場のない戦場へと一変させる。

日常の瓦礫の下で、男の瞳は、侵入者を屠るための冷酷な光を宿し、彼女をより深く、より暗い闇の奥へと、力任せに引き摺り込んでいった。
< 54 / 75 >

この作品をシェア

pagetop