赫い滴と湿った吐息

​第一話:密室の亀裂、外からの震動 2

​「……栞、そこにいるんだろ? 警察に届ける前に、一度だけ顔を見せてくれよ」

扉の向こうから漏れ聞こえる、聞き覚えのある青年の声が、密室の淀んだ空気を鋭利な刃物のように切り裂く。

鼻腔を支配するのは、外界の冷たい風を連想させる冬の匂いと、男の指先から立ち上る、殺意にも似た熱い鉄の香り。

視界に映る彼女の瞳は、かつての自分の名を呼ばれた衝撃に、飼いならされた獣が野生の記憶を取り戻したかのように、激しく、そして無様に揺れていた。

​「あ……健太、君……? なんで、ここに……っ、おじさん、私、どうすれば……っ」

少女の喉から漏れた、消え入りそうな震え声が、男の耳腔に、裏切りという名の毒液となってねっとりと注ぎ込まれる。

耳朶を打つのは、扉を叩く規則正しい、しかし焦燥に満ちた乾いた拳の音と、彼女の足首で鳴る鎖の卑屈な金属音。

舌先に残る自身の支配という名の鉄錆の味が、男の口腔を、完璧に作り上げた「作品」を汚された激しい憤怒で満たした。

​「……黙れ。お前の名はもう、この部屋の闇に溶けて消えたはずだ」

男の手が、彼女の口を乱暴に塞ぎ、そのまま壁へと押し付けると、指先に伝わるのは、外の世界を希求してしまった小動物の、絶望的な拍動。

触れ合う二人の肌の間で、一瞬にして冷え切った彼女の体温が、男の掌に、一度火がついた「未練」という名の残り火を伝えてくる。

視覚を奪うほどの眩いドアの隙間から差し込む廊下の光が、彼女の涙に濡れた頬を、処刑台の上の生贄のように、美しく、残酷に暴き出した。

​「ん、んん……っ! おじ、さん……っ、くるしい、……たすけ、て……っ」

彼女の指先が、男の腕を必死に掻きむしり、その痛みを男の脳髄に、ねちっこく、呪いのように刻み込んでいく。

掌に伝わる彼女の喉の鳴りは、外界への扉が開こうとする際の、もがき苦しむ魂の最後の悪あがき。

遠くで、扉の向こうの足音が激しさを増し、この聖域が「犯罪の現場」へと堕ちていくカウントダウンを、無慈悲に刻み続けていた。

​「……いいだろう。お前のその『助けて』という言葉、どちらに向けたものか、今すぐ分からせてやる」

男の指先が、彼女の耳たぶを噛みちぎらんばかりに強く引き、支配という名の冷徹な重圧を、脳髄の奥底まで深く注ぎ込んだ。

溢れ出した「排除」の愉悦が、男の理性を漆黒に塗り潰し、侵入者を屠り、彼女を永遠に封印するための、最悪の決断を下す。

日常が崩壊する轟音の中で、男の低い笑い声が、絶望に凍りついた彼女の耳元で、死の宣告のように甘く、重く響いた。
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