赫い滴と湿った吐息

第三話:共犯者の逃避行、終わらない夜の始まり 1

​「……静かにしろ。ここを出れば、もうお前を知る者は一人もいない。お前はただの、私の所有物として死ぬんだ」

男の低い声が、真夜中のホテルの非常階段に冷たく反響し、少女の耳腔に、社会的な死を告げる鐘の音のように重く響く。

鼻腔を支配するのは、夜の街が吐き出す湿ったアスファルトの匂いと、男のコートから漂う、逃亡者の焦燥を孕んだ濃密なタールの香り。

視界に映る彼女の瞳は、数日ぶりに触れる外界の空気に怯え、男の背中だけを唯一の道標として、虚ろに、かつ必死に追いかけていた。

​「あ……おじさん、足が、重いの……っ。鎖が、まだ、付いてるみたいで……っ」

少女の喉から漏れた掠れ声が、冷たい夜風に吹かれ、誰にも届かぬまま霧散していく。

耳朶を打つのは、男の硬い革靴がコンクリートを叩く無機質な音と、彼女の震える足首が、見えない呪縛を引きずるように擦れる衣擦れの音。

舌先に残る自身の絶望という名の鉄錆の味が、男の口腔を、愛おしい獲物を誰の手も届かない深淵へ隠し通すという、暗い高揚で満たした。

​「……鎖などない。お前を縛っているのは、お前自身の罪だ。……私を見捨てる勇気もなかった、お前のな」

男の手が、彼女の細い手首を折れんばかりに掴み、漆黒のセダンへと押し込めると、指先に伝わるのは、外界の光に晒されることを拒む小動物の拍動。

触れ合う二人の肌の間で、夜の冷気が互いの境界を鮮明に浮き彫りにし、逃げ場のない車内という名の「移動する密室」を完成させた。

視覚を奪うほどの眩い街灯の光が、猛スピードで流れる窓の外を走り、彼女の過去の断片を、二度と戻れぬ後方へと冷酷に切り捨てていく。

​「おじ、さん……。私たち、どこに……? 誰もいない、暗いところ……? 私、そこで……壊れてもいいの……っ」

彼女の指先が、男の膝を、自身の存在を繋ぎ止めるボルトのように、ねちっこく、執拗に、かつ激しく掴んで離さない。

掌に伝わる彼女の震えは、未知の場所への恐怖ではなく、男との繋がりが途絶えることへの狂気的なまでの強迫観念。

遠くで、遠ざかるパトカーのサイレンが、彼女を救うためのものではなく、二人の逃避行を祝福する不吉なファンファーレのように鳴り響いた。

​「そうだ。誰もいない、時間さえも止まった場所だ。……そこで、お前は一生、私の夢だけを見ていればいい」

男の指先が、彼女の瞳を覆い、流れる景色を遮断すると、支配という名の冷徹な安らぎを、脳髄の奥底まで深く注ぎ込んだ。

溢れ出した「逃避」の愉悦が、疾走する車内を、外界を拒絶する二人だけの甘美で無慈悲な棺桶へと変える。

日常の瓦礫を背後に、彼女の細い吐息は、男が導く終わらない夜の深淵へと、ただ静かに、そして無残に吸い込まれていった。
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