赫い滴と湿った吐息

第三話:共犯者の逃避行、終わらない夜の始まり 2

​「……いいか、あの街にお前の居場所はもうない。この車の振動が、お前の過去を引き千切る音だと思え」

男の低い声が、時速100キロで疾走する車内の狭い空間に、逃げ場のない鉄の重圧となって充満する。

鼻腔を支配するのは、密閉された車内に籠もる本革シートの乾いた匂いと、男が隣で吸う煙草の、肺を灼くような焦げ付いた香り。

視界に映る窓の外では、慣れ親しんだ街の灯りが光の帯となって後方へ消え去り、彼女が「栞」として生きた証を、無慈悲に塗り潰していく。

​「あ、っ……おじ、さん、窓……開けないで……っ。外の空気が、怖い、の……っ」

少女の喉から漏れた引き攣った呼吸が、フロントガラスを白く曇らせ、外界との境界をより一層、不透明に、そして醜く歪ませる。

耳朶を打つのは、タイヤがアスファルトを削る不快な高周波と、彼女の震える指先が男のコートの袖を、必死に、ねちっこく手繰り寄せる摩擦音。

舌先に残る自身の罪という名の鉄錆の味が、男の口腔を、一人の少女を社会から完全に拉致し、闇の中へと連れ去る背徳の熱で満たした。

​「……外など見るな。お前の世界は、この車内の暗闇と、私の隣だけだ」

男の手が、彼女の項を強引に引き寄せると、指先に伝わるのは、急激な加速に翻弄される小動物のような、細く、頼りない拍動。

触れ合う二人の肌の間で、立ち上る絶望の汗が、逃走という名の「共犯の儀式」を完成させ、彼女の精神を男の影へと、ドロドロに溶かし込んでいく。

視覚を奪うほどの眩いトンネルの照明が、数秒おきに彼女の虚ろな瞳を晒し、そのたびに彼女は、男の腕の中へより深く、より惨めに潜り込んだ。

​「おじ、さん……。私、もう……名前、いらない……。おじさんの、荷物、に……なりたいの……っ」

彼女の指先が、男の腿の筋肉を、自身の居場所を刻み込むように、ねちっこく、執拗に、かつ激しく掴んで離さない。

掌に伝わる彼女の骨の細さは、猛スピードで移動する重力に耐えかねて、今にも砕け散りそうなほどに、あまりに脆く、無防備だ。

遠くで、背後から追いかけてくる幻のサイレンが、彼女にとっては救済ではなく、この「二人だけの夜」を切り裂く、最も恐ろしい破滅の音として響いていた。

​「……荷物か。いいだろう。目的地に着く頃には、お前という人間の中身は、一滴も残っていないはずだ」

男の指先が、彼女の唇を乱暴に割り、支配という名の冷徹な沈黙を、脳髄の奥底まで、ねっとりと、執拗に注ぎ込んだ。

溢れ出した「逃走」の快楽が、疾走する車内を、外界を拒絶する二人だけの甘美で無慈悲な移動式霊廟へと変える。

日常の瓦礫を完全に振り切り、彼女の細い吐息は、男がハンドルを握る終わらない夜の深淵へと、ただ静かに、そして無残に沈んでいった。
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