赫い滴と湿った吐息

​第一話:外界の死、深淵の揺り籠 2

「……もっと近くに来い。お前の肌が私の体温を忘れぬよう、その記憶さえも物理的な刺激で塗り潰してやる」

男の低く濁った声が、地下室の冷え切った空気を切り裂き、逃げ場を失った彼女の意識を執拗に追い詰める。

​鼻腔を支配するのは、外界の清浄な空気とは無縁の、澱んだカビの匂いと、男の肌から立ち上る強烈な雄の香りが混ざり合った、逃れようのない監禁の薫り。

耳朶を打つのは、男が彼女の細い首筋を愛撫するように指でなぞる、カサカサとした不吉な予感を孕む摩擦音と、彼女の胸の奥で激しく打ち鳴らされる、野生を失った小動物の鼓動。

​「あ、っ……おじ、さん……。私、もう……自分の名前、半分くらい……消えちゃった……。もっと、強く……私を、消して……っ」

彼女の喉から漏れた、狂信的なまでの放棄を孕んだ掠れ声が、湿った熱を帯びて、男の指先にねちっこく、呪縛のように絡みつく。

舌先に残る自身の自我という名の鉄錆の味が、男の口腔を、一人の少女を完璧な「無」へと作り変えていくという、創造主のごとき傲慢な悦楽で満たしていた。

​視界に映る彼女の瞳は、ランタンの灯火を吸い込みながらも焦点が合わず、ただ男という絶対的な支配者の影を、存在の唯一の証明として追いかけ続ける。

触れ合う二人の肌の間で、立ち上る共犯の汗が、彼女の精神の最後の薄皮をドロドロに溶かし、男の支配という名の底なし沼へと、彼女の全身をゆっくりと引きずり込んでいく。

​「名前など不要だ。お前は今日から、私の呼吸に反応して動くだけの、美しい肉の欠片になればいい」

男の手が、彼女の華奢な肩を掴んで床へと押し伏せると、指先に伝わるのは、外界の道徳も、過去の思い出も、すべてを投げ打って主人の手に委ねられた肉体の、あまりにも無防備な重み。
視覚を奪うほどの眩い炎の揺らぎが、彼女の虚ろな瞳の奥に、永遠に閉ざされた楽園の完成を映し出した。

​遠くで、屋敷を包む夜の静寂が、この地下室で行われる「人格の解体」を静かに、そして無慈悲に祝福している。

日常が完全に死に絶えたその暗闇で、彼女の細い吐息は、男の支配という名の永劫の沈黙へと、ただ静かに、そして無残に溶けていった。
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