赫い滴と湿った吐息

第二話:忘却の聖域、肉体の沈黙

​「……まだ、人間らしい熱が残っているな。そんなものは、この暗闇にはふさわしくない」

男の低い声が、静寂そのものとなった地下室の空気を震わせ、彼女の意識の奥底に眠る「生存本能」を冷徹に削ぎ落としていく。

​鼻腔を支配するのは、外界の季節を一切拒絶した冷たい石の匂いと、彼女の肌から徐々に失われゆく、生身の人間特有の生々しい脂の香りの消失。

耳朶を打つのは、男が彼女の細い指先を一本ずつ、まるで骨格標本を確認するように愛撫する、乾いた皮膚の擦れる音。

視界に映る彼女は、もはや瞬きさえも忘れ、主人の指先が動く軌道を、魂の抜けた瞳でただ追従するだけの「現象」と化していた。

​「おじ、さん……。私、もう……呼吸の仕方も、忘れちゃいそう……。おじさんが、空気を……私の口に、流し込んで……っ」

少女の喉から漏れた、言語の形を保てないほどに薄まった掠れ声が、湿った熱を帯びて、男の指先にねちっこく、寄生するように絡みつく。

舌先に残る、自己という概念が完全に腐り落ちた後の鉄錆の味が、男の口腔を、一人の人間を「完璧な空虚」へと磨き上げた後の、神聖なまでの悦楽で満たしていた。

​触れ合う二人の肌の間で、立ち上る最後の絶望の汗が、彼女の皮膚を無機質な陶器のような手触りへと変え、男という彫刻家の意のままに固定されていく。

掌に伝わる彼女の胸の鼓動は、一分間に数回、ただ主人の存在を確認するためだけに打たれる、極限まで間引かれた命の残響。

​「……いい。その調子だ。思考を止め、記憶を捨て、ただ私の指先の温度だけを唯一の法として、そこにいろ」

男の手が、彼女の意識の最後の拠り所である「痛み」さえも愛撫によって快楽へと塗り潰すと、指先に伝わるのは、外界の時間の流れから完全に切り離された、不変の標本の冷感。

視覚を奪うほどの眩いランタンの光さえ、今の彼女にとっては、主人の輪郭を縁取るだけの無意味な光彩に過ぎない。

​「あ……あぁ……っ。私、いない……。ここには、おじさんの……好きにできる、形しか……ないの……っ」

彼女の指先が、男の腕に力なく触れ、自らの境界線が消失したことを報告するように、ねちっこく、執拗に、かつ恍惚として震え続ける。

遠くで、屋敷の土台を浸食する地下水の音が、この世から一人の少女が完全に「抹消」され、永劫に変わることのない「美しい不在」が完成に近づいたことを、静かに、そして無残に告げていた。
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