いいえ。欲しいのは家族からの愛情だけなので、あなたのそれはいりません。

(第5話)誰かを鞭で二万回打つのなら自分も鞭で二万回打たれる覚悟が必要だ~元家庭教師ジェシカ~

「ジェシカ! 君がスタンリー伯爵家で家庭教師をしていた時に、生徒であるソフィラ様を鞭で打っていただなんて、そんなことは嘘だろう?」

 息を切らしたままの夫が、帰宅してすぐに私の部屋に飛び込んできた。
 その夫の問いかけに対して『そんなことは嘘よ』と答えることが、私には出来なかった。
 でも、だって、そのことは、スタンリー伯爵家の外部には絶対に知られないはずではなかったの?

「ジェシカ! どうして答えてくれないんだい? 優しい君が、まさかそんなことをするなんて……」

「……そんな話、一体どこで聞いたの?」

 溢れた私の疑問に、夫は律儀に答えてくれた。

「公爵夫人となったソフィラ様がお茶会で発言したらしい。物凄い勢いで噂になっていると、友人が教えてくれたんだ」

 ソフィラが? そんなの嘘よ。だって、そうよ、ソフィラは、反抗なんてするはずのない、何の感情もない、傷つけても問題のない、そういう、存在だったはずでしょう? 
 だって、ほら、伯爵家では皆がそうやってソフィラを扱っていたじゃない? だって、だから、私だって……。
 だって、だから、そんなソフィラだから、私は……安心して……。

「ジェシカ! まさか君は本当にソフィラ様を鞭で打ったのか?」

「……しっ、仕方が無かったの! スタンリー伯爵夫人に命じられてどうしようもなくて! 子爵家の私が逆らうことなんて出来なくて!」

 必死で訴える私の言葉を夫は信じた。

「だが君は、決してしてはいけないことをしたんだ」

「ごめんなさい。ごめんなさい貴方。私のせいで子爵家の名に泥が……」

「違う! そんなことはどうだっていいんだ! そういうことではなくて! そうではなくて、無抵抗の人間を傷つけるだなんて、誰の命令であったとしても! そんなことは決してしてはいけなかったんだ!」

 いつもは穏やかな夫が、『伯爵夫人に逆らえなかった』という私の言葉を信じても、それでもなお私を叱った。
 夫に叱られたことなんて、今までただの一度だってありはしなかったのに。
 でも、だって、相手はあのソフィラだったからなのに。伯爵家で誰からも侮られていた、あのソフィラだったからなのに。

「ソフィラ様に謝罪しよう。許されることではないかもしれないけれど、少しでもソフィラ様の心が軽くなるように。誠心誠意謝罪をするべきだ。ソフィラ様と対面出来るように僕からブラウン公爵に連絡をするよ」

 私が愛した誠実な夫は、やはりどこまでも誠実だった。
 誠実な夫、名誉ある仕事、私の人生は満たされていてとても幸せなの。だから、そうよ、こんなことでこの幸せが崩れるだなんて、そんなことあるはずがないのよ。
 だって、ほら、相手は所詮あのソフィラなんだもの。それにソフィラを鞭で叩いた分だけ伯爵夫人から特別手当が出たのよ? 
 だから、だって、仕方がなかったんだもの。
 だから、そうね、きっとあのソフィラなら、謝罪さえすればすぐに許してくれるわ。

★☆★

「ソフィラ様。妻が大変申し訳ございませんでした」

 夫はすぐにブラウン公爵に連絡をして、私達は二週間後にブラウン公爵邸を訪れた。
 そして一通りの挨拶が終わった後で、私よりも先に夫がソフィラに謝罪した。
 ブラウン公爵夫人になってもソフィラは何も変わっていないように見えた。だから、そうね、やっぱり大丈夫だわ。安心して私もソフィラに頭を下げた。

「スタンリー伯爵夫人には逆らえなかったとはいえ、申し訳ございませんでした」

 でも、だけど、ソフィラは無表情で私に問いかけた。

「それは何に対する謝罪ですか?」

 あっさりと許してもらえるとばかり思っていたのに、質問で返されるだなんて……。溢れそうになる不満と不安を飲み込んで、私は出来うる限りの悲しそうな顔で答えた。

「それは、もちろん、鞭で打ってしまったことに対する謝罪ですわ」

「ソフィラ様。妻は家庭教師などしておりますが、とても気が弱いのです! スタンリー伯爵夫人の命令には逆らえなかったのです!」

 夫が私を庇うように必死で言ってくれた。
 そんな夫の言葉に答えたのは、ソフィラではなく酷く冷たい表情をしたブラウン公爵だった。

「二万回だ」

「えっ?」

「ソフィラが貴方の妻に鞭で打たれた回数だ」

「なっ!?」

「貴方の妻は、ソフィラの家庭教師をしていた五年間の間、週に四回ある授業の度に二十回は鞭でソフィラを嬲っていた」

「……二万……回……?」

 あまりの数字に夫は驚愕して私を見た。
 でも、だって、それは仕方がなかったんだもの。

「仕方がなかったのです!! 伯爵夫人の命令に逆らうことなど出来なかったのです! だからどうかお許しください! だって、仕方がなかったのですから!」

 さすがにこの状況はまずいと思った私は必死で訴えた。だけどどんなに必死で訴えても、ブラウン公爵の瞳は冷たいままだった。
 なんで、どうして? だって、私は。だって、仕方がなかったのに。

「公爵家として、過去に妻がされた仕打ちを捨て置くことはできない。だが夫人を二万回鞭打ちすることで手打ちとしよう」

「なっ!? 何をおっしゃっているのですか? 二万回も鞭で打たれるだなんて! そんなことされたら私は、死んでしまいます!」

 あまりの提案に、私は必死で叫んだ。

「夫人は、仕方がなければ他人を鞭で打っても許される、と思っているのだろう? その理論ならブラウン公爵家の体面を保つためであれば、夫人を鞭で打つことも許されるはずだ」

 それを告げるブラウン公爵の声は、冷たい、凍えるように冷たいものだった。
 何も言えなくなってしまった私の耳に響いたのは、愛しい夫の切実な声だった。

「ブラウン公爵。ソフィラ公爵夫人。妻が大変申し訳ございませんでした。二万回もソフィラ様を鞭で打ったなどと、とても許されることではありません。ですが妻のしたことの責任は、我が子爵家にございます。子爵家は取り潰しになっても構いません。どんな制裁でも受け入れます。ですがどうか妻個人への制裁は、どうかご容赦いただけないでしょうか」

 この人は、どんな時でも私を信じて味方になってくれる人。貴方と結婚出来て本当に良かった。
 ……私のために子爵家が取り潰しになっても良いとさえ言ってくれるだなんて……。
 私は、心から夫に感謝した。
 私にとって夫は何よりも大切な、かけがえのない存在なのだと改めて気付いた。

「家庭教師であったはずのジェシカ先生は、けれど私に何も教えてはくださいませんでしたよね」

 感動する私の心に水を差したのは、平坦なソフィラの声だった。

「何も教えなかった……? ジェシカ。君は教えたことが出来なかった罰として、ソフィラ様を鞭で打ったのではなかったのかい? まさか理由もなく鞭で打っていただなんて。そんなのは行き過ぎた躾ですらない、ただの虐待じゃないか……」

 夫は信じられないというように私を見つめた。思わず目を逸らした私の耳に、ソフィラの声が響いた。

「先日招かれたお茶会で、皆様に所作を褒めていただきました。その際に家庭教師の先生を聞かれましたが、私の所作はすべてブラウン公爵家から学んだものです。誤解があってはいけないので、皆様には『ジェシカ先生からは鞭で打たれていただけで何も教えていただけなかった』と事実をお伝えしました」

「そんなことを知られたら私は終わりじゃない! どうしてそんな勝手なことをしたのっ! だからお前はダメなのよっ!」

 生意気なソフィラの態度と行動に、思わず家庭教師をしていた頃と同じようにソフィラにあたってしまった。
 その場の空気が凍ったのが分かった。
 でも、だって、仕方がなかったのに!

「ジェシカ先生? 先生は、私のスキルが『ミラー』であることはご存知ですよね?」

 もちろん知っているわ。伯爵夫人が『何の役にも立たないスキルだ』と散々こき下ろしていたもの。私がそれを答える前に、ソフィラは言葉を続けた。

「ミラーは鏡。私は、過去に自分が見た光景を鏡に映すことが出来るんです」

 何を言っているの? 考える間もないまま、応接室に飾られていた大きな鏡が輝き出した。


『ジェシカ先生。どうして先生は、私に何も教えてくださらないのですか?』

 いつか聞いたことのある声が響いた。これは、私が家庭教師をしていた頃のソフィラの声だわ。
 そして鏡には、ソフィラの家庭教師をしていた時の私の姿が映し出されていた。
 どういうこと? これは一体何なの? その鏡に映る光景は、まさか本当に過去のソフィラが見ていた光景だというの?

『お前にマナーなんて教えるだけ無駄よ!  その生意気な目は何? 伯爵夫人がおっしゃる通り、お前にはこっちの教育が必要ね!』

 過去の私は、とても慣れた手つきで鞭を振り下ろした。
 ソフィラの嗚咽と、鞭が皮膚にあたる音が響き続けて。鞭で打たれている間、ソフィラは必死で俯いていたのだろう。鏡の映像はずっと床を映していた。
 音が途切れて、映像がゆっくりと床から移動した。きっとソフィラが顔をあげて、部屋の隅にあった鏡を見たのだろう。
 そこに映っていたのは、ひどく痩せている幼い少女が、大人から鞭を振るわれている光景だった。
 それは、耐えるように鏡を見つめるソフィラと、そんなソフィラに何の躊躇もなく鞭を振り続ける私の姿だった。


「……ジェシカ……。君は……」

 顔色を無くしたまま呟いた夫は、だけど、次に映った光景に絶句した。
 ソフィラの視線が鏡から私に移動した。
 そこに映し出された光景は、当時のソフィラの瞳に映ったのは……。

 —―—鞭を振り下ろしながら楽しそうに笑う醜い女の顔だった—―—

 そんな、嘘でしょう? ソフィラを鞭打っていた時の私は、こんなに歪んだ顔をしていたの?
 でも、でも、私がソフィラを虐げていたのは、それは、だって。仕方がなかったから、だったはずなのに。だから、まさか、私がこんな表情をしていたなんて、そんなこと……。
 でも、だけど、ソフィラを鞭打つ私がもし笑っていたとても、それは、スタンリー伯爵家以外の誰かに知られることはないはずだったのに。

「だって、そう、伯爵夫人は、ソフィラが嫁ぐのは格下の子爵家だから。だから、これからも一生ソフィラが私に逆らうことは出来ないって。だって、だから、私は……」

 だって、だから、私は、安心してソフィラを鞭で打ったのに。

「ジェシカ! ……君は……」

 夫は、ついさっきまで私を必死で庇ってくれていたはずの夫は、心底軽蔑した目を私に向けた。

「貴方。違うの。私は、だって、でも、仕方がなかったから……」

「先程のブラウン公爵からの言葉の意味を、君は全く理解していないんだね」

「えっ?」

「ジェシカは『仕方がないから』という理由でソフィラ様を鞭で打った。それはつまり自分が同じことをされても仕方がないということだろう?」

「えっ? いえ……でも、だって、私は……伯爵夫人の命令で仕方なく……」

「誰かを鞭で二万回打つのなら、自分も鞭で二万回打たれる覚悟が必要だ」

 二万回? 鞭で? 嫌よ。そんなの耐えられるはずがないじゃない。

「貴方。信じて。私は、本当に仕方がなくて……」

「だから! そうではない! そうではないんだ! 仕方がないなんて無いんだよ! 無抵抗の人間を鞭で打つだなんて、そんなことは理由に関係なくあってはならないんだ!」

「でも、だって、だって、伯爵夫人が……」

「ブラウン公爵。先ほどの言葉を訂正させていただきます」

 とても真剣な顔をして言葉を紡ぐ夫の様子に、とても嫌な予感がした。

「貴方? 訂正って一体何を……」

「子爵家としてどんな制裁でも受け入れることは変わりありません。そしてジェシカ個人に対する制裁についても、ブラウン公爵のご判断に委ねます」

 先程のブラウン公爵と同じくらいに冷たい声を出しているのが、本当にあの優しい夫だとは信じられなかった。

「どうして? だって、貴方は私を愛してくれているのでしょう?」

 必死で紡いだ私の言葉を、だけど、夫は、否定した。

「愛していたよ。無抵抗の少女を笑いながら鞭打つ、その姿を見るまでね。僕は君をとても誠実な人だと思っていた。不器用だけどすべてに一生懸命で実直に努力する誠実な人間だと。でも違った。僕が愛した君は幻だった」

 夫はまっすぐに私を見つめていた。だけど、その瞳からは先ほどまで確かにあったはずのぬくもりは、一かけらも見いだせなかった。

「何の過失もない力なき幼い少女を笑いながら鞭打てる、そんな人間を愛することはできない」

 なんで、だって、私は。私は、伯爵夫人に言われたから。だから、仕方がなかったのに。
 誰にも知られることはないって言われたから。だから安心して、していただけなのに。
 貴方を失うことになるのなら、私は決してそんなことはしなかったのに。

 でも、だけど、どんなに後悔しても、夫が私を愛してくれることはもう二度となかった。
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