アダムを噛んで、熱を吸う

人形と観測者

図書室には、期待通りの静寂が広がっていた。
ただ、いつもとひとつだけ違うのは、火曜日でもないのに速水がそこにいたことだ。
聞けば、体調を崩した生徒の代わりに当番を引き受けたのだという。

今日は、あえて向かいに座った。

「先週はうるさくしてごめんね」

めくられる紙の音が、止まる。

「常識とかあったんだ、藤本さん」

低い声。湿り気を帯びた言葉が、図書室の静寂に沈殿する。
刺はある。
けれど、初めて名前を呼ばれた。

「えぇ、なにそれ。ごめんってば」

私は黙って身を乗り出し、彼の広げているページを指先で押さえた。

速水の顔がゆっくりと上がる。
光を撥ねつけるような黒。
時計の秒針が刻む音だけが、耳元でやけに大きく響く。

「……てか、名前知っててくれたんだ」

「まあ、有名だしね。藤本さん」

わずかに、語尾が柔らかい。

突き放すような響きの中に、わずかな、熱の混じった揺らぎ。
見透かされているような居心地の悪さに、私は押さえていた指を離した。

「へえ、有名なんだ、私。速水くんも有名なんでしょ?」

彼は視線を手元に戻すと、わざとらしく、深く、吐息をこぼした。

「なんで速水くんってさ、いつも一人なの? 人間が嫌いとか?イケメンなのに」
「別に」

特に謙遜もせず、即答。

「大物女優みたいな返しでかっこいいね」
「……何その京言葉」

速水の手元で、ページをめくろうとしていた指先が止まる。
視線は活字に落ちたまま、彼の目がわずかに細められた。

笑ったわけではない。
けれど、二人の間の空気が、確かに音を立てて動いた。

「速水くんってさ、来るもの拒まないらしいけど」

結衣が前にそんなことを言っていた気がする。
ページをめくる指先は、一定のリズムを刻み続ける。

「……そう」
「じゃあさ」

私は机に肘をつき、手に顎を乗せて、横から覗き込むように視線を投げた。

「私が今ここで『好き』って言ったら、どうする?」
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