ただ優しくされただけなのに、この恋は間違いですか?
side 橘


白石が静かに礼をして下がっていくのを見送り、橘は目の前の初老の男に向き合った。


今しがた、自分が注いだスパークリングワインをゆるゆると回し、目を瞑って香りを愉しんでいる。

こく、と口に含み、しばらくして小さく頷いた。



「甲州の、スパークリングかな?」

「……正解です」

「今日の山菜の天麩羅や刺身の御膳に合う。まぁ、合格だな」

「恐縮です」


夕食の時間にも関わらず、濃紺に白いピンストライプが映えるスーツをピシッと着こなしているこの常連客は、佐伯という。


「だが、ここのメニューには無いだろう。自分で見繕ったな?」

「佐伯さんが来ると情報が入りましたから」

「ふ、今回は特別だ。次はちゃんと、メニューの中から合うものを出すように」

「はい、すみません」



佐伯は、ただの常連というにはやや語弊がある。
「常連客」になったのは、まだここ数年のことであり、橘とは8年以上の付き合いがある。


「……よく慕われているようじゃないか。ほんとに、あのポンコツ橘か?」

「貴方に扱かれたからこうなったんですけどね」

「はっはっは、よく言う」

「むしろ、辞めなかった自分を褒めたいですよ。何人同期がいなくなったと思ってるんですか」

「お前の代は特に鬼の指導に耐えられなかったからな。まぁ、私も、まさか橘が最後まで残るとは思ってなかったぞ?」

「それは俺もですよ……」


はぁ、とため息をついてしまう。
本当ならがっくりと項垂れてしまいたい所だが、それは我慢する。目の前のこの男が絶対に許さない。


「背筋が曲がっているぞ」

「失礼しました」

「まだ仕事があるのだろう?橘リーダー」

「……えぇ、まぁ」

「私はもう少し、こいつを堪能するとする。お前は皆の元へ行きなさい」

「……わかりました」


失礼します、と深々と頭を下げ、顔を上げた瞬間。
かつての鬼上司が、目を細めて橘を見ていた。


「白石さんと、いったか」

「え?」

「昔のお前にそっくりな目をしていた。大事に育てなさい。私のような教え方じゃなくな」

「……はい」


もう一度頭を下げて、今度こそ踵を返す。
賑わう宴会場に戻れば、待ってましたとばかりにあちこちから声をかけられる。

「橘リーダー、あちらのお客様から」

「リーダー、明日の件でちょっと」

「橘さん、営業部からお電話です」

それらを捌き、ぐるりと全体を見渡す。


白石が、いない。

(サボるようなやつではないが……)


バックヤードに入り、ワインクーラーがある倉庫まで足を進めると、丸くなっている小さな背。


(まさか、泣いて……?)

慌てて声をかければ、素っ頓狂な叫びが上がる。
手元にはメモ帳があり、ずらずらと文字が書かれていた。


(ワインの、銘柄か)


よほど悔しかったのか、白石は橘に教えを請うてきた。
未成年だから酒を飲むな飲ませるな、とは確かに歓迎会の時に言ったが、今日みたいなことは今後も起こるだろう。

客は、誰が成人して誰が未成年かなど分かるわけがない。
その場にいれば、全員がプロである。
その昔、鬼上司から言われた教えの1つだ。

毎月の売りたいアルコール類をリスト化してスタッフに共有するようにしたのも、橘なりの部下を守る盾のつもりだった。


そのとき。
突然、白石が恋愛小説を好きだと暴露してきた。
好きなものは、誰かにおすすめしたい。それを酒に転換したい――。


「面白いな」


自分にはない考えだった。
そういえば、スタッフの中には酒が好きな者が何人かいたはずだ。彼らも、もしも白石のような考えに至ったらどうなるか。


(やってみる価値はあるかもしれない)



酒を飲んでみたいとぶーたれる白石を宥めた後。
業務を早々に切り上げ、向かったのは宴会部長のデスク。

ぽよんとした腹に、人好きする柔和な表情。
髪はだいぶ薄いが、彼も佐伯の後にここで部長を務めている鬼の一角だ。

事の経緯を話すと、部長はニコ!と目を細めた。


「えっ、いいと思う!やろうやろう!」
「そうですか。じゃあ、さっそく通達出します」


熟考とかしないのか、この人は。
思っていたよりもあっさりと快諾されてしまい、橘の方が困惑してしまう。


「というかね、橘くんがそういうの考えてくれたことが僕は嬉しいな」
「……はあ、そうですか」
「決まったらまた報告よろしくね」


-----


その結果が、あのドンチャン騒ぎである。

バーのスタッフまで呼んだ覚えはない。
よりによって白石にちょっかいをかけた女性バーテンダーの肩を掴む。この際セクハラとか知らない。

「なんすか橘さん」
「一宮、白石に酒飲ませてないだろうな!?」
「やだやだ嫉妬?男の嫉妬は醜いっすよ」
「茶化してないで答えろ」

女性バーテンダーこと一宮瞳は、顎の長さに切り揃えられたショートカットを揺らして、ため息を吐く。

「これでも一端のバーテンダーです。そこんとこ弁えてます」
「じゃあ、さっきのは」
「ドリンクバーにあるものでつくれるノンアルカクテルっすよ。うちの宴会場、無駄にいろんなジュースあるから、ファジーネーブルとレゲパン作って見せてたんす」

そうしたら、あの子なんて言ったと思います?
と返される。確かに、一宮がバースプーンでかき混ぜている様を、白石はきらきらした目で見つめていた。


「……すごい、とか?」
「ノンノン。……魔法みたい、だって」
「まほう」
「そ、魔法。表現がかわいいっすねー、成人してたらうちの方にスカウトしてたのに」


一宮ならやりかねないなと感じつつ、白石の純粋な部分が18才まで残っていることに驚いた。
もう少し、擦れてたり大人ぶったりしてるもんじゃないのか。隠れて飲酒したり、煙草を吸ったり……。


「ご家族は酒も煙草もしてなかったって言ってましたよ、だから触れる機会が無かったんでしょーね」
「……そうか」
「この際、めちゃくちゃ仕込んでソムリエやバーテンダーに仕立て上げたいっすわ。やっぱ陽菜ちゃんうちにもらおうかな。最初グリーターにして」
「無茶言うな」


ソムリエ、ねぇ。
橘は苦虫を噛み潰したような顔をする。頭を過ぎったのは、鬼の佐伯の顔である。


「佐伯さんが退職する前にしこたま叩き込まれてたから、嫌なこと思い出した?」
「……おう」
「まぁ、陽菜ちゃんまだまだ若いから選択肢はいくらでも与えられるし見つけられるっしょ。幸い、橘さんに懐いてるんだし、教えるなりなんなりできるんじゃないっすか?」

そう言って、一宮はスーツの胸ポケットからハンカチに包まれた細長いものを取り出した。


「私、そろそろ戻るんで。あとで陽菜ちゃんに渡してください。ステアなら一宮がいつでも教えるよって伝えるの忘れないでくださいよ」
「さっきのバースプーンか」
「そ。ああいう子は仕込みがいがある」
「佐伯さんみたいなこと言うな。んなことしてたら白石の胃に穴開くだろ」


「胃に穴開いたの自分じゃないすか。白石白石って言ってるけど、最終的に選ぶのは陽菜ちゃんっすよ」



チクリと、一宮の言葉が橘に刺さる。
何の反応も返せないままでいると、コツコツと足音が遠ざかっていく。
それじゃまた、と言う声が遠くに聞こえた。



(未成年だから、と縛っているのはだめなのかもしれない)


自分はどうするべきなのか、橘の終わりなき自問自答が始まったのだった。
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