手を、つないで 〜ふたりの時間〜
水曜日。彼女が帰って来る日。
しかし、何時になるのかはわからないそうだ。会社に来ることにはなっているそうで、できたら一緒に帰ろうと言っている。
午前中ではなかった。昼を過ぎて、物音がする度に気になってしまう。
頭を冷やそうと、飲み物を買いに休憩スペースの自販機に行く。偶然、三上さんがいた。
「松永さん、お疲れ様でーす」
明るい人だ。
「お疲れ様です」
「16時くらいらしいですよ。帰ってくるの」
誰が、とは言わないで教えてくれるらしい。
「そうですか……ありがとうございます」
時計を見ると、14時15分だった。あと1時間45分。
頭を下げると、三上さんはにまっと笑って去っていく。
「なーんかいいことあるかなー」
自作の歌だろうか。やっぱり明るい人だ。
浮ついていられない。今日の仕事は定時に終わらせなければ。
ブラックコーヒーを買って、席に戻った。
16時。過ぎた。まだ来ない。
それよりも、俺の作業の方がやばい。定時に間に合わないかもしれない。とにかく爆速で進める。
集中して、いつしか時間を気にしなくなっていた。
「お疲れ様です……」
小さな声が聞こえて、振り向いた。
彼女が部屋に入ってきた。箱を持っている。
目が合った。微笑んでくれる。
「あれっ中森さん、帰ってきたんですね」
佐伯が近寄っていく。イラッとして、思う。俺はこんな時どうしてたっけ?
「お土産です。みなさんでどうぞ」
「わーありがとうございます」
笑顔の彼女。無邪気に受け取る佐伯。先に行くんだった……。
ブブブ、と佐伯の席でスマホが鳴った。
「佐伯、電話」
「えっ、あっああ」
土産を持って慌てている。近寄って手を出す。
「あっお願いします」
土産の箱を受け取った。佐伯は席に戻っていく。
目の前には彼女。
「ありがとうございます」
「あっ、いえ、松永さんも召し上がってください」
にこっと笑う。
ああマズい、その笑顔を見たら。
土産をデスクに置く。周りを見る。佐伯は電話中。高井戸は外出中。他の人達も作業に集中していて、誰もこっちを注意してない。
「すみません、ちょっと」
彼女にしか聞こえない小声で言う。
部屋の外を手で示す。あくまでも、事務的に。いかにも用事があります、という風に。
彼女は『?』という顔で、俺の先導に従って部屋を出た。
部屋を出る。廊下には幸い誰もいない。そのまま、外の非常階段へ。ドアを開ける。
一瞬。一瞬だけ。
抱きしめる。体中のどこもかしこもうるさく騒ぐ。
この感触。この匂い。このあったかさ。
一瞬だけだなんて、無理だ。このまま攫ってしまいたい。
思いが爆発しそうになった時、彼女が身動きした。
「あの……」
我に返る。体を離した。
「……すみません……」
「……いえ……」
消えそうな声。見ると、彼女が耳まで真っ赤になっていた。
可愛くて、また抱きしめそうになるのをぐっと堪える。
「ほんと、すみません……」
そう言ったら、彼女が息を飲んだ。その後、ぎゅっと目をつむる。
「嬉しかったです、けど……か、会社……」
段々力がなくなっていって、声は尻すぼみになった。泣きそうにも見えて、俺は慌てた。
「あの、ほんとすみません。顔見たらいろいろ吹っ飛びました……」
そんなつもりじゃなかった。困らせてしまった。怒らせて……も、仕方ない。俺は謝るしかない。
彼女は一つ息をついて、小さい声で言った。
「帰り、待ってます」
顔を上げると、彼女がすっとドアに向かった。
「え……」
俺が言葉を失ってると、彼女はドアノブに手をかけた。
「いつもの、ホームで」
そう言って、彼女は中に入っていった。
表情は見えなかった。
見えたのは、少しだけ袖口から覗いた猫。
パタン、とドアが閉まる。
脱力して、しゃがみ込んだ。やってしまった。言い訳もできない。
「あー……」
うめいて、空を見上げる。もう暗くなっている。
早く仕事を終わらせなければ。彼女を待たせる訳にはいかない。
俺はのろのろと立ち上がって、ドアを開け、自席に向かった。