手を、つないで 〜ふたりの時間〜
土曜日。16時。
彼女のマンションに着いた。
マンションの入り口。いつもはここから踵を返すけど、今日は進む。
インターホンに手をかける。手が動かなくなる。
とりあえず深呼吸。
落ち着こう。初めてなのは俺じゃない、彼女だ。彼女の方が緊張したり、怖かったりしてるんだ。だから俺が落ち着かないと、余計な気を遣わせる。
もう一度深呼吸。よし。
押した。
少し間があって、ガチャンとロックが外れた。
彼女の声が聞こえる。
『どうぞ』
もう、この声だけで今日は充分だ。って帰る訳にはいかない。
バクバク鳴る心臓を抑えつつ、ドアを開けた。
エレベーターを降りる。3階の1番奥の部屋。
緊張しながら進む。ドアの前で深呼吸。
インターホンのボタンを押す手が震えてる。自分に言い聞かせる。初めてなのは俺じゃない、彼女だ。
いや。俺も初めてかもしれない。今まで、会うだけでこんなに緊張する相手は、彼女が初めてだ。そうか、だからこんなに動揺してるのか。
理由がわかると、少しだけ気が楽になった。その勢いで、ボタンを押した。
ドアの向こうから、パタパタ足音が聞こえた。
カチャンと鍵が開けられて、ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
笑顔が迎えてくれた。眩しい。
「どうぞ」
この笑顔が、このままでいられるように。
「お邪魔します」
背筋を伸ばして。一歩、踏み出した。
ワンルーム。入ってすぐに小さなキッチンスペース。反対側にドアが2つ。多分、トイレと風呂だろう。家と同じ感じだ。
引き戸を開けると、明るい木目のテーブル。本棚やテレビ台も同じ感じの木目。若草色のカーペット。
落ち着いた雰囲気。初めて来る部屋なのに、ホッとする。
カラフルなエリアが目の端に入る。ベッドの隅。ぬいぐるみがたくさん。熊、うさぎ、犬、猫、狐、狸、サメ、なんだかわからない毛むくじゃらの……なんだこれ、鳥?
「ここにどうぞ」
テレビの真正面、ベッドを背にした部屋の真ん中に座布団があった。
「あ、はい」
彼女は、キッチンの方に行った。
とりあえず座ったけど、目はベッドの上。毛むくじゃらがなんなのか知りたい。
「それ気になりますか?」
ワインの瓶を持った彼女が、テーブルの角を挟んで座る。
「キウイですよ」
「キウイ?」
「果物じゃなくて、鳥の方の。この鳥に似てるから、あの果物はキウイフルーツっていう名前になったそうで」
「へえ……」
確かに、似てるかもしれない。果物より毛は長め。ぬいぐるみだからかもしれないけど。
ベッドの隅のエリアを見ていたら、ショッピングモールで、彼女が『キリがないので』と言って猫のぬいぐるみを買わなかったことを思い出した。キリがないってこういうことか。欲しくて買っていたら無限に増えていくんだろう。
「あれ……」
彼女がワインの栓を抜こうとしている。うまく抜けないみたいだ。
「貸して」
受け取って、栓を抜く。ぽん、と音がすると、彼女が小さく拍手した。
「さすがですね。ありがとうございます」
置いてあったガラスのコップに注ぐ。
「このコップは、母が沖縄旅行に行った時のお土産なんです。ワイングラスがないので、これで」
えへへと笑いながら、取り皿と箸を俺の前に置く。
「この生ハムとチーズは、出張のお土産です。あとこっちのソーセージも」
テーブルには、他にも料理が並んでいる。
「あとは買ってきたり、作ったりしました。お口に合うといいんですけど……」
作った。彼女が。
「わざわざ作ってくれたんですか?」
「あっでも大したことはしてないですよ。切って和えただけとか、このスパゲッティは市販のソースに具を足しただけだし。あっ、スパゲッティに入ってるベーコンはお土産です」
焦って言い訳のように言う。ということは、このスパゲッティと、トマトとアボカドのサラダっぽいものは彼女の手作りだな。
俺も、買ってきたバゲットを出した。これは彼女に頼まれていたものだ。
「わあ、ありがとうございます。ここのパン屋さん前から行ってみたかったんです」
家の最寄駅の近くにある、と教わった。
「他にもおいしそうなパンありました。イートインもありましたよ」
「あっじゃあ今度一緒に行きましょう」
にこっと笑う。その笑顔とならどこでも行く。
彼女がコップを持った。俺も持つ。
「乾杯。お疲れ様です」
「お疲れ様です」
コツッとコップを合わせる。
ああ、なんかいいな。誰かとこんな風に過ごすのは初めてかもしれない。満ち足りた気分。
ワインを飲む。赤のフルボディ。
「おいしいですね。味がしっかりしてる」
そう言うと、彼女はホッと息をついた。
「良かった。私は重めのが好きだけど、松永さんはどうかなって思ってたので」
「俺も、重めの方が好みです」
彼女が嬉しそうにはにかむ。うつむき加減になったので、彼女の頭が見えた。今日の髪型も、この前と同じ。左右からねじって猫のヘアクリップで留めている。
ぽん。
思わず手が出ていた。髪を触るようになでる。
ぼん。
彼女の顔が真っ赤になった。
ハッと手を引っ込める。俺は今、一体何を……。
「すみません、つい……」
「いえ、あの……」
彼女は真っ赤のまま。
「気持ち良かったです……」
ぼん。
今度は俺の顔が赤くなる番だった。
「あ、おいしい」
スパゲッティを食べた。言葉が思わず口から出た。ソースは市販のペペロンチーノを使ったと言っていた。具材を足したせいか、味が深い。
「……良かった」
彼女がホッとしている。
続いて、トマトとアボカドのサラダを食べる。これも。
「おいしいです」
オリーブオイルとレモン汁って言ってたな。さっぱりしてて、なんにでも合いそうだ。もちろんワインにも。
「あっ松永さん、これ」
彼女が、俺が買ってきたバゲットを差し出す。ああ、これのためだったのか。
バゲットにサラダをのせて食べる。これもいい。
頷いて見せると、彼女はまたホッと息をついた。
「良かった。料理、あんまり上手くないので、ちょっと心配だったんですけど」
「心配いらないです。おいしいですよ」
「人のために作るなんて滅多にないから、緊張しました」
人のために。この場合、俺のため……?
顔がほころんだのが、自分でもわかった。こんな笑い方、したことないかもしれない。彼女が目を丸くしてる。
「松永さん、もしかしてもう酔ってますか?」
「さあ……そうかもしれないです」
彼女の部屋。手料理。ワイン。そして彼女。酔う要素が満載だ。
「お水持ってきますね」
彼女が立ち上がる。
今日もひらひらのスカートだ。そのひらひらが遠くなっていって、俺の意識も遠くなっていった。