ポンコツ執事なのに、お嬢様に溺愛される
✪政略結婚断固拒否
アキラの私室で起きたあの凄惨な「対戦」から数日。
屋敷の空気は、奇妙なほど静かに、そして完全に様変わりしていた。
白鷺アキラが顔に大きな怪我を負い、さらには右腕を骨折してしばらく静養に入ったという一報は、瞬く間に屋敷内を駆け巡った。
当然、当主であるケイゾウをはじめとする周囲は騒ぎ立てたが、アキラ本人が提示した「いい感じの理由」によって、表向きは驚くほど丸く収められることになる。
『私室のバルコニーの欄干が老朽化で破損し、夜間に足を踏み外して転落した。専属執事のナオが咄嗟に庇ったが、打ち所が悪かった』
それが、アキラ自身の口から語られた公式発表だった。
自分の不祥事や焦りを隠したいアキラにとっては、ナギサに殴り飛ばされたなどという醜態は死んでも公にできない。
さらに、証拠を握られている以上、ナギサやナオを「犯人」として告発すれば、自分の大罪がその場で爆発する。
結果として、アキラは自分で自分の首を絞めるように、そのプライドの高い嘘を受け入れるしかなかったのだ。
「ナオ君、カリンさん。……怪我の具合はどう?」
かつてアキラの命令で凍りついていた廊下。
ミアの部屋の前で、ナギサは新しく包帯が巻かれた自分の右手を少し動かしながら、目の前の二人に声をかけた。
そこにいたのは、アキラ専属執事のナオと、メイドのカリンだ。
主が静養に入ったことで、本来なら彼らも謹慎処分か、あるいは白鷺の「処分」対象になるはずだった。
しかし、イツキの裏回しとミアの強い要望によって、二人は一時的に「ミアお嬢様付きの増員」という形で救い出されていた。
「いやぁ、俺はアキラ様を庇って派手に転んだって設定だからさ。ちょっと腰が痛いかなぁ、なんて」
ナオはいつも通りの飄々とした態度で首を竦めてみせる。けれど、その瞳は以前のようなアキラの『機械的な人形』のそれではない。迷いと、そしてナギサへの深い複雑な感情が滲んでいた。
「……ナギサ」
カリンが静かに頭を下げ、冷徹だった声を微かに震わせる。
「私達を、白鷺の『トカゲの尻尾切り』から救い出してくれたこと、感謝するわ。けれど……私達はあの方の罪の片棒を担いできた身。本当に、ここにいて良いのかしら」
「良いに決まってるでしょ」
部屋の扉が開き、ミアが中から姿を現した。彼女は二人を優しく、けれど毅然とした目で見つめる。
「貴方達は、兄様に縛られていただけ。これからは、私のためにその力を使って。……まずは、あの傲慢な天城朔春を、完膚なきまでに叩き潰すわよ」
ミアの宣言に、ナオとカリンの表情が引き締まる。
アキラという絶対的な防壁を失った天城家は、今や浬の情報工作によって崖っぷちに立たされている。焦った天城朔春が、いよいよ直接ミアを奪いに暴挙に出てくるのは時間の問題だった。
(アキラ様の動きを止めて、ナオ君達を引き剥がした。ここまでは完璧な『確定反撃』だ。だけど……)
ナギサは屋敷の奥、静まり返ったイツキの執事室の方向をちらりと見やった。
アキラの失脚を最も冷酷に、そして完璧に利用している男。この盤面を一番上から見下ろしている総括執事は、今何を考えているのか。
「よし、第二ラウンドだ」
ナギサは拳を軽く握り直し、迫り来る天城との最終決戦、そしてその先に待つ本当の混沌へ向けて、静かに思考を加速させた。
アキラが表舞台から一時退場したことで、白鷺家と天城家の「政略結婚」という歪な盤面は、いよいよ最終局面へと突入しようとしていた。