冷徹な天才医師は泣けない彼女を溺愛する
第三章 崩壊と覚醒
悠斗くんが亡くなった翌朝も、病棟は動いていた。
七時三十分の申し送り。回診。処置。手術準備。患者たちは昨夜のことを知らない。ナースコールが鳴り、点滴の残量を確認し、バイタルを測る。病院という場所は、誰かが死んでも止まらない。止まってはいけない。
私はいつも通り動いた。
白衣を着て、靴を履いて、廊下を歩いた。手を動かして、記録を入力して、患者に声をかけた。動作の一つひとつは、昨日と変わらなかった。
でも、何かが少しだけ違った。
廊下を歩くとき、足が重かった。デスクで記録を入力するとき、指が一瞬止まることがあった。昨夜の先生の声が、ふとした拍子に耳の奥で再生された。震えていた。あの声が、確かに震えていた。
「それで看護師か」
何度も反響した。消えなかった。
感情と呼べるほどのものではない、と思いたかった。でも、確かに何かが残っていた。
引っかかり、という言葉が浮かんだ。それが一番近いのかもしれなかった。
朝の申し送りで、先生は昨夜のことに一切触れなかった。
悠斗くんの名前は、担当患者のリストから消えていた。それだけだった。先生はいつも通り淡々と当日の指示を告げ、私もいつも通りメモを取った。
二人の間で交わされた言葉は、業務上のものだけだった。
でも申し送りの終わり際、先生の視線が一度だけ私の顔の上で止まった。
何かを確認するような目だった。昨夜の私が今朝どうなっているかを、測っているような。血圧計を当てるときのような、静かな精度で。
私は先生の視線を受け止めて、それから目を逸らした。
(見ないでほしい)
そう思ったのは初めてのことだった。今まで先生に観察されることを、事実として受け取るだけだった。不快でも快でもなく、ただそこにある現象として。でも今朝は、見られることが少し、苦しかった。
苦しい、という言葉が浮かんだことに、気づいた。
自分の中から、その言葉が出てきた。
その日の昼過ぎ、私が処置室で器具の片付けをしていると、先生が入ってきた。
珍しいことだった。先生が処置室に単独で、しかも用件もなく来ることは通常ない。
先生はドアを閉めた。
狭い処置室に、二人きりになった。消毒液の匂いが、いつもより濃く感じた。棚に整列した器具が、蛍光灯の光を反射して白く光っていた。
「白石」
「はい」
「少し聞いていいか」
私は手を止めた。
「なんでしょう」
「お前の過去のことだ」
胸の奥で、何かが固まった。
「……何のことですか」
「二十三歳のとき、何があった」
先生の声は、静かだった。責めているのではなかった。詰問でもなかった。ただ、知ろうとしている声だった。
「先生には関係のないことです」
私は静かに言い返した。
「そうかもしれない」
先生はあっさりと認めた。しかし、引き下がりもしなかった。
「俺は患者の過去を知ることで、その人間の体を正確に理解しようとする。傷の原因を知らずに、傷だけを治しても意味がない。お前に対しても、同じだ」
「私は患者ではありません」
「そうだな」
先生は認めた。
「でも、俺がお前の中の空白を壊すためには、その空白がどうやってできたかを知る必要がある。昨夜の話で、感情を閉じたのが二十三歳のときだということはわかった」
私はしばらく、先生の顔を見た。
先生の目は、いつもと同じだった。冷たく、深く、測るような目。でも今日の目の奥には、昨夜とは違う何かがある気がした。
「……今夜、話せますか」
言ってから、少し驚いた。「話す必要はありません」と言うつもりだった。でも口から出たのは別の言葉だった。
先生も少し驚いた様子だった。でもすぐに元の表情に戻って、短く頷いた。
「残業後、ナースステーションで待っている」
そう言って、処置室を出た。
私は残された器具を見つめたまま、しばらく動けなかった。
なぜ「話す」と言ったのか、自分でもわからなかった。
先生に話す必要はない。話したからといって、何かが変わるとも思えない。
それでも「話す」と言った。
(なぜ、この人には、話せる気がするんだろう)
答えは出なかった。ただ、その問い自体が、何かの証拠のような気がした。
その夜、二十一時過ぎのナースステーションの前で、先生は確かに待っていた。
フロアの照明が落とされていて、ナースステーションだけが白く光っていた。夜勤スタッフが廊下を巡回しており、この場に残っているのは私たちだけだった。
先生はデスクの椅子に座って、カルテを閉じた状態で待っていた。仕事をしながら待つのではなく、ただ待っていた。それが先生らしくなかったから、私は少し面食らった。
向かいの椅子に座った。
先生は何も言わなかった。
私が話し始めるのを、待っていた。
しばらく、ナースステーションの機械音だけが続いた。モニターの小さなランプが、一定のリズムで明滅していた。
「二十三歳の冬に、交通事故がありました」
声は、思ったより静かだった。感情を込めようとしなかったからかもしれない。
「車に、四人で乗っていました。私と、母と、父と、弟と」
先生は黙って聞いていた。動かなかった。
「雪の夜でした。帰省の途中で。弟が助手席で寝ていて、私は後部座席で音楽を聴いていました。父が運転していて、母はその隣で地図を見ていて」
映像で覚えている。後部座席の窓から見えた、雪の降る夜道。街灯が等間隔に続いていた。弟が「まだ着かない」と言って眠ってしまった。
「対向車がスリップして、こちらの車線に入ってきました。気づいたときには、ぶつかっていました」
衝撃の感覚を、体が覚えている。それ以上は、しばらく何も覚えていない。
「私だけが、助かりました」
先生は何も言わなかった。
「弟は即死でした。十八歳でした。父は病院に運ばれて、三日後に。母は……一週間後でした」
声が、揺れなかった。感情がないから、揺れなかった。
「葬儀のとき、親戚が泣いていました。父の会社の人が泣いていました。近所の人も、弟のクラスの友達も、みんな泣いていました。私は……泣けませんでした」
あのときの自分の手を覚えている。白い喪服の袖から出た、自分の手。震えていなかった。
「ぼんやりとして、何もわからなくて。でも泣き方がわからなくて、泣けなかった。あの三人が死んだという事実は頭でわかっていました。でも感情として受け取れなかった」
「それから感情が、なくなったのか」
先生の声は、静かだった。責めていなかった。ただ確認していた。
「なくなった、というより……感じ方がわからなくなりました。悲しいはずなのに、悲しくない。嬉しいことがあっても、嬉しくない。どこかで何かが切れて、そのままです」
言ってから、少し続けた。
「母が、一週間入院していたんです。意識があって、私のことも認識していて。でも私は、病室で母のそばに立てなかった」
「なぜだ」
「泣けないから、どんな顔をして母の前に立てばいいかわからなくて。母が私の顔を見るたびに、泣けない私を見せることが……申し訳なかった」
先生の目が、わずかに変わった。
「だから最後の一週間、ちゃんと手を握れなかった。ちゃんとそばにいられなかった」
声が、少し変わった気がした。「気がした」というのは、自分の声の変化に気づけないからだ。でも何かが、その言葉を言ったとき、喉のあたりに引っかかった。
「切れたのは、守るためだったのかもしれない」
先生が静かに言った。
「感じたら、壊れるから。だから感じないようにした」
「……先生は、そう思うんですか」
「俺も、昔そうだった」
意外な言葉だった。私は先生の顔を見た。
「感情は邪魔だと思っていた。医師として判断を鈍らせる、不要なノイズだと。だから意図的に切った」
「……先生も、感情を切っているんですか」
「切ろうとしていた。お前を見るまでは」
廊下からかすかな足音が聞こえた。夜勤スタッフが遠くを歩いていた。その音が遠くなっていった。
「お前は俺の鏡だった。感情を必要としない人間が徹底した姿を、俺はお前の中に見た。そして初めて、それが何かを失っているということを、感じた」
「先生が感じた、ということですか」
「ああ。奇妙なことだが」
先生の口元に、わずかな自嘲の色があった。
「感情に価値がないと信じていた人間が、感情のない人間を見て、初めて感情を感じた。矛盾している」
「……矛盾していますね」
「そうだ」
先生は認めた。
「あのときの話でいいですか」
私は少し考えてから、続けた。
「あの夜、ずっと考えていました。なぜ私だけが助かったのか。三人が死んで、なぜ私だけが」
「答えは出たか」
「出ません。今も出ない。ただ……生き残ってしまったから、ちゃんと生きないといけないと思って、看護師になりました。誰かのそばにいることを仕事にすれば、あのとき母のそばにいられなかった罪悪感が、少し薄まると思って」
「今は薄まっているか」
私は少し間を置いた。
「……わかりません。薄まる、というより、麻痺しているのかもしれない」
先生は何も言わなかった。
しばらく、沈黙が続いた。
「お前がそれを話したのは初めてか」
「はい」
「誰にも」
「誰にも」
先生は窓の外の夜を見た。
「今からでも遅くはないと思っている」
静かな声だった。
「何がですか」
「お前が閉じたものを、開けることが。あの夜に戻れと言っているんじゃない。ただ、今ここで、感じられるようになることが。まだ、できる」
(今からでも遅くはない)
その言葉の温度が、どこかに触れた気がした。
温度、という感覚が正確かどうかもわからなかった。でも確かに、その言葉の中に何かがあった。それが何なのかを確かめるだけの言語を、私はまだ持っていなかった。
「……先生は、なぜそう思うんですか」
「お前が昨夜、俺の言葉で揺れたからだ」
「揺れた、とは」
「それで看護師か、と言ったとき、お前の顔が変わった。微かだったが、確かに変わった。何も感じない人間の顔は変わらない。お前は何かを感じた」
あの廊下の感覚を思い出した。先生の言葉が胸に刺さった、あの感覚。
「……そうかもしれません」
「だから可能だ」
先生は立ち上がった。
「今夜は帰れ。考えすぎるな」
それだけ言って、先生はナースステーションを出た。
私は一人、残された。
窓の外に、冬の星空が広がっていた。
二十三歳の夜も、星が出ていた。雪が降る前の、澄んだ空だった。
あの夜から、私は星を見るたびに何も感じなくなっていた。感じないようにしていたのかもしれない。星を見ると、あの夜を思い出すから。
でも、今夜は少しだけ、寒い気がした。
星が遠い気がした。
それは「感じた」と言えることなのか、わからなかった。でも、何もなかった夜とは違った。
私は荷物を取って、立ち上がった。
コートを羽織りながら、先生の言葉をもう一度心の中で繰り返した。
「今からでも遅くはない」
その言葉を、胸のどこかに、そっと仕舞った。
翌日から、朝霧先生の態度が変わった。
変わった、というより、何かが加わった。
もともと先生は私を観察していた。でもそれは、標本を眺めるような観察だった。距離があり、冷静で、評価する目だった。
それが翌日から、少しだけ違った。
申し送りのとき、先生の視線が私の顔に止まる時間が、以前より少し長くなった。廊下ですれ違うとき、先生の足が一瞬だけゆっくりになった気がした。手術の準備中、先生がふと私の方を向いて、でも何も言わずに作業に戻ることが、何度かあった。
誰かが気づくかどうかというほどの変化だったが、長い間観察されてきた私には、わかった。
観察から、何か別のものへ。
その「何か別のもの」が何なのか、言葉にする力が私にはなかった。
その週の金曜日、午後の処置が一段落した夕方だった。
病棟の西側の廊下に、夕陽が差し込んでいた。といっても十二月の夕陽は低く、廊下の床に薄く伸びるだけだった。窓の外の空は、燃えるようなオレンジと、深い青が混ざり合っていた。
先生が、非常階段のそばの窓辺に立っていた。
こんな時間に、こんな場所に立っていることが珍しかった。先生はいつも動いているか、カルテに向かっているか、だ。ただ窓の外を見て、立っているだけの先生を、私は初めて見た気がした。
「白石」
私の足音に気づいたのか、先生が声をかけた。
「はい」
「少しいいか」
問いかけの体だったが、返事を待つ前に先生は話し始めた。
「昨夜、話してくれた」
「……はい」
「俺はお前のことを、少しわかった」
窓の外の空が、どんどん暗くなっていった。オレンジが薄れて、青が濃くなって、最初の星が一つ、光り始めた。
「お前は感情を殺したのではなく、感情を閉じた。閉じた扉の向こうに、感じることのできる自分が、まだいる」
「……そうでしょうか」
「そうだ」
先生の断言は、いつも通り迷いがなかった。
「九年間閉じていれば、開き方を忘れる。でも扉は、まだある」
「その扉を開けるのが、先生が言う、壊すということですか」
「ああ」
先生がこちらを向いた。
夕暮れの残光の中で、先生の顔が半分、影の中にあった。
「もう少し正確に言うなら、お前が自分で閉じたものを、俺が外から叩き続ける。いつか、中から開く」
「……乱暴な言い方ですね」
「俺には優しい言い方ができない」
先生は事実として言った。
「知っています」
私も事実として言った。
先生の口元に、かすかな変化があった。笑みとは言えなかった。でも何か、柔らかいものが一瞬だけ、そこにあった。
「先生」
「なんだ」
「なぜ先生がそれをするんですか」
私は本当に知りたかった。管理の理由は知っている。観察の理由もわかってきた。でも「壊す」ことを宣言して、実行しようとする理由が、まだ飲み込めていなかった。
「お前が悠斗の死に何も感じなかった夜。俺は初めて、誰かに怒った」
先生は窓の外に目を戻して、言葉を続けた。
「俺はずっと、感情は不要なものだと思っていた。医師として判断を曇らせる、排除すべきノイズだと。だからなるべく感じないようにしてきた。感情を持たない医師の方が、正確に人を救えると信じていた」
「今もそう思いますか」
「わからなくなった」
珍しい答えだった。先生が「わからない」と言うのを、また聞いた。
「お前を見てから、わからなくなった。感情がない人間が隣にいると、何かが欠けていると感じた。感じること自体が、俺には矛盾だった。でもそれが、俺が初めて感じた本物の感情だったのかもしれない」
「……本物の感情、とは」
「お前に対して怒ったとき。お前がいないと、何かが足りないと感じるとき。それが感情というものなら、俺はお前のせいで初めて、感情というものを理解し始めた」
廊下に、静寂が落ちた。
遠くで、ナースコールが鳴った。でも夜勤スタッフが対応するのだろう、また静かになった。
私は先生の言葉を、ゆっくりと飲み込もうとした。
(お前がいないと、何かが足りない)
その言葉の意味を、正確に理解できていなかった。感情のないままで受け取ると、情報として頭に入るだけだ。でも今夜は、それが情報以上の何かとして、体のどこかに触れた気がした。
「俺はお前を壊す」
先生は静かに言った。
「それはお前のためでもあるが、俺自身の答えを探すためでもある。感情に価値があるのかないのかを、お前が感情を取り戻すことで、俺は確かめたい」
「……先生の実験ですか」
「最初はそうだった」
先生が、正直に言った。
「今は?」
先生は少し間を置いた。
「今はわからない。最初とは違う何かになっているが、言語化できない」
私は先生の横顔を見た。
あの冷えた顔が、夕暮れの最後の光の中で、ほんの少しだけ、人間的な何かを帯びていた。
「わかりました」
気づいたら、そう言っていた。
「何をわかった」
「……先生がやろうとしていることを、止めない、ということです」
先生は私を見た。
「止めたいと思っていたのか」
「少し、思っていました。何かが変わるのが怖かったのかもしれない。今のままの方が楽ですから」
「今のままが楽なのはわかる。感じなければ、痛くないから」
「はい」
「でもそれは、生きているとは言えない」
その言葉が、静かに、でも深く刺さった。
痛くはなかった。でも確かに、届いた。
先生はそれ以上何も言わずに、踵を返した。
廊下に、先生の足音が遠くなっていった。
私は窓辺に残って、完全に暗くなった空を見た。最初の一つだった星が、今は三つになっていた。
壊される。
その言葉を、今夜は怖いとは感じなかった。
怖い、の代わりにあったのは、もっと別の何かだった。
待っている、という感覚に、少し近かった。
自分の中にそんな感覚があることを、私は夜空に向かって、静かに認めた。
翌週の土曜日の昼過ぎ、スマホが鳴った。
洗濯物を畳んでいた私は、見知らぬ番号からの着信に少し戸惑いながら電話に出た。
「白石か」
声でわかった。
「……先生ですか」
「ああ。今から出られるか」
「どこにですか」
「外だ。迎えに行く」
一方的に言って、電話が切れた。
私は畳みかけの洗濯物を持ったまま、少しの間スマホを見つめた。
(外に連れ出す、ということか)
「外気に当たって神経系をリセットしろ」と先生が言っていたことを思い出した。あれが実行される日が来るとは、正直思っていなかった。先生はあのような言い方をして、そのままにすることが多かったから。
でも今日は、実行するらしい。
何を着て行けばいいのかわからなかった。先生とどこかへ行くという経験が初めてすぎて、判断の基準がなかった。とりあえず、いつもより少し厚手のコートを選んだ。
三十分後、アパートの前に黒い車が停まった。
先生が運転席にいた。スーツではなく、シンプルな濃紺のコートを着ていた。病院の外で先生に会うのが初めてだったから、少し違和感があった。でも顔は変わらなかった。相変わらず、冷えた目をしていた。
私は助手席に乗った。
「どこに行くんですか」
「決めていない」
先生はそう言って、車を出した。
(決めていない)
その答えが、意外だった。先生は何事も計画する人間だと思っていたから。
「……どこでもいいんですか」
「行ってみてから決める」
それだけ言って、先生は運転に集中した。
私は窓の外の景色を見た。十二月の街が、流れていった。師走の人通り、デパートのショーウィンドウに飾られたクリスマスの装飾、コートを着た人々の息が白くなっていた。
車内は静かだった。ラジオもかかっていなかった。先生は何も話さなかった。
でも不思議と、沈黙は苦ではなかった。
先生が車を止めたのは、郊外の大きな公園の駐車場だった。
十二月末の公園は人が少なかった。落ち葉が一面に積もり、木々は枝だけになっていて、その隙間から白い冬空が見えた。風はなく、空気は冷たく澄んでいた。
先生は車から降りて、公園の入口に向かって歩き始めた。コートのポケットに手を入れたまま、迷いない歩き方で。私はその後ろをついていった。
並んで歩いた。というより、先生の半歩後ろを歩いた。
落ち葉を踏む音が、二人分続いた。
先生は何も言わなかった。私も何も言わなかった。
(この人は、いつも口数が少ない)
でも今日は、その口数の少なさが、病棟にいるときとは少し違う気がした。病棟での沈黙は、効率の産物だ。余計な言葉を省いた、合理的な静けさ。でも今日の沈黙は、少し、違った。
うまく言えなかったけれど。
「何か感じるか」
先生がふいに言った。
「……今のところ、ありません」
「そうか」
先生は短く答えた。責めるでも、落胆するでもなく、ただ「そうか」と言った。
「何かを感じることを期待していたんですか」
「いや」
「では、なぜ聞いたんですか」
「経過観察だ」
また、合理的な答えだった。
私は少し先生の横顔を見た。
「先生は、この公園に来たことがあるんですか」
「ある」
「一人で?」
「ああ」
「何のために来るんですか」
先生は少し間を置いた。
「手術がうまくいかなかったとき、ここに来る」
意外な答えだった。
「……うまくいかなかったとき、というのは」
「患者が死んだとき。処置が届かなかったとき」
「先生でも、そういうことがあるんですか」
「ある」
「そのとき、先生は何を感じるんですか」
先生はしばらく歩きながら考えた。
「うまく言えない。言語化できる感情ではない。ただ、ここに来て歩くと、少し、整理できる」
「整理できる、というのは」
「何がいけなかったか。次にどうすべきか。頭が落ち着く」
「それは感情ではなく、思考の整理ですね」
「そうかもしれない。感情と思考の境目が、俺にはわからない」
私は、その言葉を少し意外に思った。あれだけ論理的な先生が、感情と思考の境目がわからない、と言った。
「……先生も、わからないことがあるんですね」
「当然だ」
先生は当たり前のように言った。
「なぜ当然なんですか」
「人間である以上、わからないことがある。わかること全てを言語化できると思っている人間の方が、危険だ」
私はその言葉を、ゆっくりと咀嚼した。
池のそばのベンチに、自然に足が向かった。先生が先に座り、私が隣に座った。
池は静かだった。水面が、白い冬空を映していた。鴨が二羽、水の上を漂っていた。どちらも急いでいなかった。
「先生」
「なんだ」
「先生は、感情に価値があると今は思いますか」
「……まだよくわからない」
先生は池を見たまま言った。
「ただ、感情のない人間の隣にいると、奇妙な気分になることはわかった」
「奇妙な気分、というのは、どういうものですか」
「居心地が悪い、という言葉が近い。でも正確ではない」
「正確には?」
先生は少し黙った。
「足りない、という感覚かもしれない。お前が何かを感じないでいると、俺の側から何かが抜けていくような。それが何なのかを、俺は知りたい」
私は先生の横顔を見た。
先生の目が、池の水面を見ていた。静かな目だったが、今日の目の奥には、何かがあった。いつもの「測る目」とは違う、もっと内側を向いている目。
「……先生が足りないと感じるのは、私が何かを感じないからですか。それとも」
言いかけて、止まった。
「それとも?」
「……いいえ、なんでもないです」
先生は少し私の方を向いたが、追及しなかった。
池の鴨が、水面を蹴って移動した。波紋が広がり、映っていた空を揺らした。
私はその波紋を眺めた。
広がって、広がって、やがて消えていく。でも消えたように見えても、水の分子は動き続けている。目に見えなくなっただけで、消えたわけではない。
(私の感情も、そうなのだろうか)
消えたように見えるだけで、どこかで動き続けているのだろうか。
「寒いか」
先生が聞いた。
「少し」
「帰るか」
「……もう少し、いいですか」
言ってから、少し驚いた。
今日は先生に連れてこられた。でも「もう少しいたい」と言ったのは、自分の意志からだった。
先生は何も言わなかった。ただ、池の方を向いたまま、動かなかった。それが「いい」という意味だと、なぜかわかった。
二人で、しばらく池を見ていた。
空が暗くなり始めた頃、先生が立ち上がった。私も立ち上がった。
帰り道、落ち葉を踏みながら、先生がぽつりと言った。
「また来るか」
また、という言葉だった。
「……はい」
私は短く答えた。
車に乗って、帰る道も、二人はほとんど話さなかった。でも行きとは少し違う静けさだった。
アパートの前で車が止まった。
「ありがとうございました」
扉を開けながら、自然に言葉が出た。計算してではなく、ただ出た。
「また連絡する」
先生はそれだけ言って、車を出した。
私はその後ろ姿を見送った。
テールランプが遠くなっていった。
アパートの階段を上りながら、私は思った。
今日、何かを感じたか。
「感じた」と言えるほどのものは、なかった。でも、「また来たい」という気持ちは本物だった。
それが感情と呼べるものかどうかはわからなかった。
でも、冬の外気が少しだけ好きになった気がした。
その夜、布団に入りながら、私は公園の池を思い出した。
波紋が広がって、空を揺らして、消えていく。
消えても、水は動き続けている。
そのことを、なんとなく、大切なことのように思った。
十二月に入ってから、先生との「外出」は続いた。
毎週というわけではなかったが、先生から連絡が来る頻度が少しずつ増えていった。美術館、植物園、夜の川沿い。場所は毎回違った。先生は行き先をあらかじめ告げないことが多く、車を走らせながら「今日はここにする」と決めた。
私はその都度、先生の選択に従った。
拒む理由がなかったのと、先生が選ぶ場所には何かしら先生の意図があるのだろうと思っていたからだ。
美術館に行ったとき、先生は絵の前に立ちながら私に聞いた。「この絵の中の人間は何を考えている」と。私が「遠いところを見ている」と答えると、「なぜそう思う」と聞いた。私が「目の焦点が、この場所にないから」と言うと、先生は少し黙ってから「お前はよく人の目を見ているな」と言った。
川沿いを歩いたとき、先生が「冷たいか」と聞いた。「冷たいです」と答えると、先生は何も言わなかった。でも少し歩いてから、先生の歩く速度が、微かに遅くなった気がした。
毎回、劇的なことは何も起きなかった。感情が戻ってきた、という大きな変化もなかった。
でも外出を重ねるうちに、私の中の何かが少しずつ変化していた。
「綺麗」「冷たい」「広い」「静か」「好き」「嫌い」。感覚と感情を示す言葉が、以前より自然に出てくるようになった。言葉を選ぶ前に、言葉の方が先に来るようになった。
先生はそれを、毎回静かに聞いていた。
三田村さんが入院してきたのは、十二月の第二週の夕方だった。
三十四歳の女性。交通事故による複数骨折と内臓損傷で、救急搬送されてきた。処置を急ぐ必要があり、朝霧先生が担当することになった。
私が最初に三田村さんと話したのは、搬送直後の処置室だった。三田村さんは意識があり、痛みで顔を歪めながらも、ただ一点だけを繰り返していた。
「子供が、子供が一緒にいたんです。蓮は、蓮はどこにいますか」
掠れた声で、同じことを繰り返した。
搬送記録を確認すると、三田村さんの四歳の息子、蓮くんも同じ事故に遭っていた。軽傷で、小児科に搬送済みとのことだった。
「軽傷です。今、小児科にいます。安全です」
私はすぐに伝えた。
三田村さんの表情が、一瞬だけ崩れた。泣いた。安堵で泣いた。
「よかった。よかった……」
私は処置を進めながら、その涙を見ていた。
(安堵で泣くことができる)
その事実を、頭の隅で確認していた。自分にそれができるかどうかはわからなかったけれど。
三田村さんの手術は翌日の午前中に行われた。朝霧先生の執刀で、処置は成功した。術後、三田村さんは病棟に戻ってきた。
意識があったが、痛みと疲労で顔色が悪かった。それでも目を開けると最初に「蓮はいつ来られますか」と聞いた。
小児科に確認すると、蓮くんは軽傷で、傷の処置が終わった翌日には面会できる状態だった。
「明日の午後に来られます」と伝えると、三田村さんは少し、目を閉じて頷いた。
翌日の午後。
私が三田村さんの病室の前を通りかかると、廊下の奥からお父さんに手を引かれた小さな男の子が歩いてくるのが見えた。
蓮くんだとわかった。頬に絆創膏が貼ってあったが、歩いている。小柄で、まんまるな目をした子だった。
病室のドアの前まで来たとき、蓮くんの足が止まった。
「ママ、いたい?」
小さな声で聞いた。
病室の中から、三田村さんの声が聞こえた。
「いたくないよ。蓮に会いたかったよ」
蓮くんはゆっくりとドアを開けて、病室に入った。私はちょうど廊下で処置の準備をしていて、半開きのドアから病室の様子が見えた。
蓮くんがベッドの横に立って、三田村さんを見上げていた。三田村さんが点滴のついた方ではない方の手を伸ばして、蓮くんの頭を撫でた。
「ぼく、ずっとまってた」
蓮くんが言った。
「ごめんね、待たせて」
「いい。ままがいれば、いい」
三田村さんが、また泣いた。
蓮くんがベッドの縁に手をかけて、つま先立ちになって、三田村さんの顔に近づいた。
「ままのかお、みたかった」
「蓮の顔も、見たかったよ」
「ままのて、あったかい」
「蓮の手は、もっとあったかいよ」
二人の声が、廊下まで聞こえた。
私の手が、止まった。
処置の準備をしていた手が、止まった。
胸の奥で、何かが動いた。
強く、動いた。
今まで感じたことのない動き方だった。痛みに近かったが、痛みではなかった。胸を押しつぶされるような感覚なのに、押しつぶされたくはなかった。
(これは……)
三田村さんと蓮くんの姿が、別の映像と重なった。
雪の夜の病院。白い廊下。消毒液の匂い。「お母さんは今どんな状態ですか」と医師に聞く、二十三歳の自分。
あのとき、お母さんはまだ生きていた。一週間だけ、生きていた。
病室に行けなかったわけではない。でも、行くたびに、お母さんが私の顔を見た。泣けない私の顔を見た。「しっかりしてる子だから大丈夫」と言った。
その言葉が、刺さった。
しっかりしているのではなかった。ただ、泣き方を知らなかっただけだった。でもそう説明できなかったから、ただ頷いた。
最後の一週間、私はちゃんと、お母さんの手を握れなかった。握ると、もう帰ってこないことを認めてしまう気がして。
だから、ちゃんとそばにいられなかった。
「ままのて、あったかい」
蓮くんの声が、また聞こえた。
私の目が、熱くなった。
熱くなった、という感覚が確かにあった。
でも涙は出なかった。
出そうで、出なかった。
氷が溶け始めているのに、まだ形を保っているような感覚だった。
私は処置の準備に戻ろうとした。手を動かそうとした。でも少しの間、動けなかった。
廊下の窓から、冬の空が見えた。白く、低く、雲が厚い。
二十三歳の冬も、こんな空だった。
あのとき、もしちゃんとそばにいられていたら。最後に、ちゃんと手を握れていたら。
今の私は、少し違っていたかもしれない。
それは後悔と呼ぶべきものなのか、私にはわからなかった。でも今、胸の中で、何かが確かに痛かった。
痛かった。
感情と呼べるかどうかはわからない。でも、痛かった。
その夜、先生に短いメッセージを送った。
「今日、少し感じました」
しばらくして、返信が来た。
「何を」
私は少し考えてから、返した。
「後悔、かもしれないもの」
返信はなかった。
でも翌朝の申し送りのとき、先生は一度だけ、私の顔をまっすぐに見た。
「そうか」とだけ言った。
それだけだったが、それで十分だった。
三田村さんが急変したのは、入院から十日後の夜だった。
それまでの経過は順調だった。骨折の回復も予定より早く、痛みも引いてきていた。リハビリも始まっていて、先生が「来週から歩行訓練に入れる」と言っていた。退院の目処も立ち始めていた。
蓮くんとお父さんは毎日面会に来ていた。
三田村さんの病室からは、毎日、笑い声が聞こえた。
「今日の幼稚園どうだった」
「おゆうぎかいのれんしゅうした。ぼく、ステージにのぼれるかな」
「登れるよ、蓮なら絶対」
「ままも、きてくれる?」
「絶対行くよ。退院したら、絶対見に行く」
私はそれを廊下で聞くたびに、胸の奥の何かが動くのを感じていた。
動く、という感覚が少しずつ強くなっていた。感情と呼べるものが、氷の下から、確実に、近づいてきていた。
急変が起きたのは、二十時十四分だった。
三田村さんが突然の胸痛と呼吸困難を訴えた。ナースコールが鳴り、夜勤の木村くんが駆けつけると、三田村さんは胸を押さえて浅い呼吸をしていた。血圧が急激に低下していた。
木村くんが私に連絡してきたとき、私はすでに廊下を走っていた。
病室に入ると状況を瞬時に把握した。血栓塞栓症の可能性が高かった。術後の合併症として、最も恐れるものの一つだ。
当直医への連絡、酸素投与、ライン確保、薬剤準備。同時並行で指示を出しながら、私は朝霧先生の番号を押した。
今夜は先生の当直ではなかった。でも躊躇しなかった。
「朝霧です」
「白石です。三田村さん、急変です。呼吸困難、血圧低下、PE疑いです。バイタルは──」
「今から行く」
先生の声は落ち着いていた。でも電話が切れるまでの一秒が、いつもより速かった気がした。
先生が来るまでの間、私は三田村さんのそばから離れなかった。
三田村さんは意識があった。苦しそうに、でも私の顔を見ていた。
「白石さん」
細い声だった。
「ここにいます」
「……蓮に、伝えてもらえますか。明日また来てって。発表会の話、まだ途中だったから」
私は三田村さんの手を握った。
「直接言えます。大丈夫ですよ」
嘘をつくつもりで言ったわけではなかった。でも医療者として、それを確信できる状況ではなかった。
それでも、そう言っていた。
(頼む)
誰かに向けて、そう思っていた。誰に向けているのかはわからなかった。でも、体が動きながら、頭の奥で声がしていた。
頼む、助けてくれ、と。
今まで、処置中にそんな感情を持ったことはなかった。
先生が到着した。
白衣ではなく、私服のコートを着たまま、先生は病室に飛び込んできた。コートを脱ぎながら当直医から状況を聞き、瞬時に判断を下した。
「緊急処置に移行する。手術室を押さえろ」
先生の声は冷静だった。感情がなかった。でもその目が、今夜は違った。
私には、先生の目が普段と違うことがわかった。これまで、先生の目を見てきたから。
三田村さんへの処置が始まった。
先生の指示は速く、正確だった。当直医も全力で動いた。私も動いた。薬を出し、器具を渡し、バイタルを読み上げた。体は正確に、フルスピードで動いていた。
でも体が動いている間ずっと、胸の中で何かが鳴っていた。
鳴っている、という感覚が正確かどうかはわからない。でも、今まで処置中に感じたことのない何かが、ずっとそこにあった。
蓮くんの声が、頭の中で鳴り続けていた。
「ままも来てくれる?」
「絶対行くよ。退院したら、絶対見に行く」
お願いだ、と思っていた。
三田村さんには、帰ってほしかった。
それは感情だったのか、論理的な判断だったのか、区別がつかなかった。でも、確かに思っていた。
処置は一時間近く続いた。
途中で手術室に移行した。私はそこには入れず、廊下で待機した。
廊下に立ちながら、私はずっと病室の扉を見ていた。
この一時間の間に、三田村さんのお父さんから病院に電話が入った。蓮くんが「ままに電話したい」と言っているという。木村くんが対応してくれていた。
私は廊下で、ただ立っていた。
何もできなかった。
こんなにも、何もできないと感じたのは、初めてだった。いつもは「することをする」だけだった。でも今夜は、「することがない」時間が、こんなに重かった。
(重い)
その感覚が、確かにあった。
手術室の扉が開いたのは、二十二時を少し過ぎた頃だった。
先生が出てきた。
コートを脱いだまま、術衣の上から白衣を羽織っていた。袖口に、血がついていた。
その顔を見た瞬間、私は理解した。
先生は静かに、お父さんと並んで立っていた当直医の方へ歩いた。でも最初に口を開いたのは先生だった。
「手術は行いました」
声が、静かだった。
「ですが、処置が届きませんでした。二十二時七分に、三田村さんは亡くなりました」
お父さんが、声をあげた。
壁に手をついて、「そんな」と繰り返した。
「嘘だ、嘘だろう、さっきまで話してたのに、さっきまで」
私はお父さんのそばに近づいた。背中に手を当てた。椅子を引き寄せた。「つらい結果となり、本当に残念です」と言った。
正確に動けていた。体が動いた。
でも、胸の中では、何かが崩れていた。
崩れる音が、自分の内側から聞こえるような気がした。
三田村さんの顔が浮かんだ。
「蓮に伝えてもらえますか。明日また来てって」
あの細い声が、耳の中で再生された。
発表会の話をしていた蓮くんの声も。「絶対見に行くよ」と言った三田村さんの声も。
全部が混ざって、頭の中で鳴り続けた。
お父さんが病室に移り、当直スタッフに引き継いで廊下に出た。
朝霧先生が壁に背を預けて立っていた。
廊下の照明が落ちていて、先生の顔は半分、影の中にあった。術衣の袖口の血が、蛍光灯の届かない側にある。腕を組んでいた。下を向いていた。
私が近づくと、先生が顔を上げた。
その目が、今まで見たことのない色をしていた。
感情のない目ではなかった。何かが、揺れていた。あの冷えた、深い瞳の奥に、今夜だけは、人間的な何かが浮かんでいた。
「白石」
「はい」
先生は少しの間、私の顔を見た。
「お前、今、何を感じている」
昨夜と同じ問いかけだった。でも昨夜とは聞き方が違った。「何も感じていないか」ではなく、「何を感じているか」と聞いた。
私は先生を見た。
「……悔しいです」
言ってから、驚いた。
その言葉が、自分の中から出てくることを、知らなかった。
「悔しい」
先生が繰り返した。
「届かなかったことが、悔しいです」
声が、震えていた。
震えていた。
私の声が、震えていた。
「蓮くんが発表会に来てほしいと言っていて、三田村さんが絶対行くと言っていて、それが、届かなかったことが」
喉が、締まった。
涙が、出た。
出ていた。
一粒、また一粒。気づいたとき、頬を伝っていた。
止まらなかった。
悔しかった。悲しかった。間に合わなかったことが、悔しかった。三田村さんが死んだことが、悲しかった。蓮くんのことを思ったら、胸が痛かった。
お母さんのことも、浮かんだ。弟のことも。父のことも。
あの雪の夜から九年間、一度も感じられなかったものが、今夜、一気に溢れてきた。
泣いていた。
声は出なかった。でも涙が止まらなかった。
(これが、泣くということだ)
わかった。わかってしまった。
泣くということが、こんなに苦しいものだということが。
こんなに痛くて、こんなに息が詰まって、こんなにどうしようもなくて、それでも止まらないということが。
私はずっと、泣けないことを「感情がない」という事実として受け取っていた。でも今、初めてわかった。泣けないということは、こんなにも、溜め込んでいたということだ。
九年分が、今夜、少しずつ溢れていた。
気づいたとき、朝霧先生が私のそばにいた。
当直医は退出していた。廊下には、私と先生だけが残っていた。
先生は私を見ていた。
その目に、今まで見たことのない色があった。
困惑に近かった。でも困惑だけではなかった。何か、もっと複雑なものが、あの無表情な顔に重なっていた。
「白石」
「……はい」
声が、まだ震えていた。
「泣いている」
「はい」
先生は少し間を置いた。
「悔しいと言った」
「はい」
「それは、お前の感情だ」
当たり前のことを言っていた。でも先生の声は、平坦ではなかった。何かが揺れていた。
「俺が壊そうとしていたものが、お前の中にまだあった」
「……あったみたいです」
「それは」
先生が、言いかけて止まった。
「それは、俺の──」
また止まった。
先生の表情が、微かに動いた。
見たことのない表情だった。困惑よりも深く、驚きよりも静かで、何か、先生自身も予期していなかった感情が、表面に出かけているような顔だった。
「違う」
先生が、低い声で言った。
「違う、こんなはずでは……」
「先生?」
先生は私を見た。
その目が、揺れていた。
先生の瞳が、揺れていた。
「お前が泣くのを見て、俺が──」
また、止まった。
先生の手が、上がった。
私の頭に、その手が乗った。
そっと。触れるか触れないかのくらいに。でも確かに、温かかった。
手が、温かかった。
私はそれを感じた。
泣きながら感じた。先生の手の温度を、確かに感じた。
「泣いていい」
先生が言った。
命令口調だった。でも声は、今まで聞いたことのない柔らかさを持っていた。
「泣いていいと言っている。誰も見ていない」
「……先生が、見ています」
「俺は見ていない」
見ていないわけがなかった。でも先生はそう言った。
私は少し、笑いそうになった。
笑いそうになりながら、また泣いた。
先生の手が、頭の上にあった。
動かなかった。ただそこにあった。
九年ぶりに、誰かのそばで泣いた。
誰かが、そばにいてくれた。
それだけのことが、今夜の私には、何よりも温かかった。
涙が、少しずつ収まっていった。
先生の手が、静かに下りた。
二人で、廊下に立っていた。
遠くで、ナースコールが鳴り始めた。夜はまだ続いている。
「今夜は一人で帰るな」
先生が言った。
「……医学的な話ですか」
「そうだ。医学的に言っている」
医学的という言い方が、先生らしかった。
「わかりました」
先生は私を病院近くのカフェに連れて行った。
深夜のカフェは空いていた。窓際の席に座って、温かいものを飲んだ。
しばらくは、お互い何も言わなかった。
それでよかった。何かを言う必要がなかった。
窓の外に、冬の夜の街が見えた。街灯が、水たまりに映って揺れていた。
今夜、雨が降っていたことを、私は知らなかった。
「先生」
しばらくして、私は言った。
「なんだ」
「さっき、こんなはずでは、と言いかけていましたが」
「……言っていない」
「言っていました」
先生は少し間を置いた。
「聞き間違いだ」
「そうですか」
私は追及しなかった。でも、胸の中に、その言葉を仕舞った。
先生が言いかけた言葉の続きが何だったのか、今夜はまだ聞かなかった。
でも、いつか聞く日が来る気がした。
「温かいですね」
カップを両手で包みながら、私は言った。
「何が」
「全部」
外の空気も、先生の声も、このカップも。
全部、今夜は、少しだけ温かかった。
九年ぶりに、何かが温かかった。
先生は何も言わなかった。でもカップを持ったまま、窓の外を見ていた先生の横顔が、蛍光灯の光の中で、今夜だけは、少し柔らかかった。
私はそれを見て、また少し泣きそうになった。
泣きそうになることが、今はもう怖くなかった。
七時三十分の申し送り。回診。処置。手術準備。患者たちは昨夜のことを知らない。ナースコールが鳴り、点滴の残量を確認し、バイタルを測る。病院という場所は、誰かが死んでも止まらない。止まってはいけない。
私はいつも通り動いた。
白衣を着て、靴を履いて、廊下を歩いた。手を動かして、記録を入力して、患者に声をかけた。動作の一つひとつは、昨日と変わらなかった。
でも、何かが少しだけ違った。
廊下を歩くとき、足が重かった。デスクで記録を入力するとき、指が一瞬止まることがあった。昨夜の先生の声が、ふとした拍子に耳の奥で再生された。震えていた。あの声が、確かに震えていた。
「それで看護師か」
何度も反響した。消えなかった。
感情と呼べるほどのものではない、と思いたかった。でも、確かに何かが残っていた。
引っかかり、という言葉が浮かんだ。それが一番近いのかもしれなかった。
朝の申し送りで、先生は昨夜のことに一切触れなかった。
悠斗くんの名前は、担当患者のリストから消えていた。それだけだった。先生はいつも通り淡々と当日の指示を告げ、私もいつも通りメモを取った。
二人の間で交わされた言葉は、業務上のものだけだった。
でも申し送りの終わり際、先生の視線が一度だけ私の顔の上で止まった。
何かを確認するような目だった。昨夜の私が今朝どうなっているかを、測っているような。血圧計を当てるときのような、静かな精度で。
私は先生の視線を受け止めて、それから目を逸らした。
(見ないでほしい)
そう思ったのは初めてのことだった。今まで先生に観察されることを、事実として受け取るだけだった。不快でも快でもなく、ただそこにある現象として。でも今朝は、見られることが少し、苦しかった。
苦しい、という言葉が浮かんだことに、気づいた。
自分の中から、その言葉が出てきた。
その日の昼過ぎ、私が処置室で器具の片付けをしていると、先生が入ってきた。
珍しいことだった。先生が処置室に単独で、しかも用件もなく来ることは通常ない。
先生はドアを閉めた。
狭い処置室に、二人きりになった。消毒液の匂いが、いつもより濃く感じた。棚に整列した器具が、蛍光灯の光を反射して白く光っていた。
「白石」
「はい」
「少し聞いていいか」
私は手を止めた。
「なんでしょう」
「お前の過去のことだ」
胸の奥で、何かが固まった。
「……何のことですか」
「二十三歳のとき、何があった」
先生の声は、静かだった。責めているのではなかった。詰問でもなかった。ただ、知ろうとしている声だった。
「先生には関係のないことです」
私は静かに言い返した。
「そうかもしれない」
先生はあっさりと認めた。しかし、引き下がりもしなかった。
「俺は患者の過去を知ることで、その人間の体を正確に理解しようとする。傷の原因を知らずに、傷だけを治しても意味がない。お前に対しても、同じだ」
「私は患者ではありません」
「そうだな」
先生は認めた。
「でも、俺がお前の中の空白を壊すためには、その空白がどうやってできたかを知る必要がある。昨夜の話で、感情を閉じたのが二十三歳のときだということはわかった」
私はしばらく、先生の顔を見た。
先生の目は、いつもと同じだった。冷たく、深く、測るような目。でも今日の目の奥には、昨夜とは違う何かがある気がした。
「……今夜、話せますか」
言ってから、少し驚いた。「話す必要はありません」と言うつもりだった。でも口から出たのは別の言葉だった。
先生も少し驚いた様子だった。でもすぐに元の表情に戻って、短く頷いた。
「残業後、ナースステーションで待っている」
そう言って、処置室を出た。
私は残された器具を見つめたまま、しばらく動けなかった。
なぜ「話す」と言ったのか、自分でもわからなかった。
先生に話す必要はない。話したからといって、何かが変わるとも思えない。
それでも「話す」と言った。
(なぜ、この人には、話せる気がするんだろう)
答えは出なかった。ただ、その問い自体が、何かの証拠のような気がした。
その夜、二十一時過ぎのナースステーションの前で、先生は確かに待っていた。
フロアの照明が落とされていて、ナースステーションだけが白く光っていた。夜勤スタッフが廊下を巡回しており、この場に残っているのは私たちだけだった。
先生はデスクの椅子に座って、カルテを閉じた状態で待っていた。仕事をしながら待つのではなく、ただ待っていた。それが先生らしくなかったから、私は少し面食らった。
向かいの椅子に座った。
先生は何も言わなかった。
私が話し始めるのを、待っていた。
しばらく、ナースステーションの機械音だけが続いた。モニターの小さなランプが、一定のリズムで明滅していた。
「二十三歳の冬に、交通事故がありました」
声は、思ったより静かだった。感情を込めようとしなかったからかもしれない。
「車に、四人で乗っていました。私と、母と、父と、弟と」
先生は黙って聞いていた。動かなかった。
「雪の夜でした。帰省の途中で。弟が助手席で寝ていて、私は後部座席で音楽を聴いていました。父が運転していて、母はその隣で地図を見ていて」
映像で覚えている。後部座席の窓から見えた、雪の降る夜道。街灯が等間隔に続いていた。弟が「まだ着かない」と言って眠ってしまった。
「対向車がスリップして、こちらの車線に入ってきました。気づいたときには、ぶつかっていました」
衝撃の感覚を、体が覚えている。それ以上は、しばらく何も覚えていない。
「私だけが、助かりました」
先生は何も言わなかった。
「弟は即死でした。十八歳でした。父は病院に運ばれて、三日後に。母は……一週間後でした」
声が、揺れなかった。感情がないから、揺れなかった。
「葬儀のとき、親戚が泣いていました。父の会社の人が泣いていました。近所の人も、弟のクラスの友達も、みんな泣いていました。私は……泣けませんでした」
あのときの自分の手を覚えている。白い喪服の袖から出た、自分の手。震えていなかった。
「ぼんやりとして、何もわからなくて。でも泣き方がわからなくて、泣けなかった。あの三人が死んだという事実は頭でわかっていました。でも感情として受け取れなかった」
「それから感情が、なくなったのか」
先生の声は、静かだった。責めていなかった。ただ確認していた。
「なくなった、というより……感じ方がわからなくなりました。悲しいはずなのに、悲しくない。嬉しいことがあっても、嬉しくない。どこかで何かが切れて、そのままです」
言ってから、少し続けた。
「母が、一週間入院していたんです。意識があって、私のことも認識していて。でも私は、病室で母のそばに立てなかった」
「なぜだ」
「泣けないから、どんな顔をして母の前に立てばいいかわからなくて。母が私の顔を見るたびに、泣けない私を見せることが……申し訳なかった」
先生の目が、わずかに変わった。
「だから最後の一週間、ちゃんと手を握れなかった。ちゃんとそばにいられなかった」
声が、少し変わった気がした。「気がした」というのは、自分の声の変化に気づけないからだ。でも何かが、その言葉を言ったとき、喉のあたりに引っかかった。
「切れたのは、守るためだったのかもしれない」
先生が静かに言った。
「感じたら、壊れるから。だから感じないようにした」
「……先生は、そう思うんですか」
「俺も、昔そうだった」
意外な言葉だった。私は先生の顔を見た。
「感情は邪魔だと思っていた。医師として判断を鈍らせる、不要なノイズだと。だから意図的に切った」
「……先生も、感情を切っているんですか」
「切ろうとしていた。お前を見るまでは」
廊下からかすかな足音が聞こえた。夜勤スタッフが遠くを歩いていた。その音が遠くなっていった。
「お前は俺の鏡だった。感情を必要としない人間が徹底した姿を、俺はお前の中に見た。そして初めて、それが何かを失っているということを、感じた」
「先生が感じた、ということですか」
「ああ。奇妙なことだが」
先生の口元に、わずかな自嘲の色があった。
「感情に価値がないと信じていた人間が、感情のない人間を見て、初めて感情を感じた。矛盾している」
「……矛盾していますね」
「そうだ」
先生は認めた。
「あのときの話でいいですか」
私は少し考えてから、続けた。
「あの夜、ずっと考えていました。なぜ私だけが助かったのか。三人が死んで、なぜ私だけが」
「答えは出たか」
「出ません。今も出ない。ただ……生き残ってしまったから、ちゃんと生きないといけないと思って、看護師になりました。誰かのそばにいることを仕事にすれば、あのとき母のそばにいられなかった罪悪感が、少し薄まると思って」
「今は薄まっているか」
私は少し間を置いた。
「……わかりません。薄まる、というより、麻痺しているのかもしれない」
先生は何も言わなかった。
しばらく、沈黙が続いた。
「お前がそれを話したのは初めてか」
「はい」
「誰にも」
「誰にも」
先生は窓の外の夜を見た。
「今からでも遅くはないと思っている」
静かな声だった。
「何がですか」
「お前が閉じたものを、開けることが。あの夜に戻れと言っているんじゃない。ただ、今ここで、感じられるようになることが。まだ、できる」
(今からでも遅くはない)
その言葉の温度が、どこかに触れた気がした。
温度、という感覚が正確かどうかもわからなかった。でも確かに、その言葉の中に何かがあった。それが何なのかを確かめるだけの言語を、私はまだ持っていなかった。
「……先生は、なぜそう思うんですか」
「お前が昨夜、俺の言葉で揺れたからだ」
「揺れた、とは」
「それで看護師か、と言ったとき、お前の顔が変わった。微かだったが、確かに変わった。何も感じない人間の顔は変わらない。お前は何かを感じた」
あの廊下の感覚を思い出した。先生の言葉が胸に刺さった、あの感覚。
「……そうかもしれません」
「だから可能だ」
先生は立ち上がった。
「今夜は帰れ。考えすぎるな」
それだけ言って、先生はナースステーションを出た。
私は一人、残された。
窓の外に、冬の星空が広がっていた。
二十三歳の夜も、星が出ていた。雪が降る前の、澄んだ空だった。
あの夜から、私は星を見るたびに何も感じなくなっていた。感じないようにしていたのかもしれない。星を見ると、あの夜を思い出すから。
でも、今夜は少しだけ、寒い気がした。
星が遠い気がした。
それは「感じた」と言えることなのか、わからなかった。でも、何もなかった夜とは違った。
私は荷物を取って、立ち上がった。
コートを羽織りながら、先生の言葉をもう一度心の中で繰り返した。
「今からでも遅くはない」
その言葉を、胸のどこかに、そっと仕舞った。
翌日から、朝霧先生の態度が変わった。
変わった、というより、何かが加わった。
もともと先生は私を観察していた。でもそれは、標本を眺めるような観察だった。距離があり、冷静で、評価する目だった。
それが翌日から、少しだけ違った。
申し送りのとき、先生の視線が私の顔に止まる時間が、以前より少し長くなった。廊下ですれ違うとき、先生の足が一瞬だけゆっくりになった気がした。手術の準備中、先生がふと私の方を向いて、でも何も言わずに作業に戻ることが、何度かあった。
誰かが気づくかどうかというほどの変化だったが、長い間観察されてきた私には、わかった。
観察から、何か別のものへ。
その「何か別のもの」が何なのか、言葉にする力が私にはなかった。
その週の金曜日、午後の処置が一段落した夕方だった。
病棟の西側の廊下に、夕陽が差し込んでいた。といっても十二月の夕陽は低く、廊下の床に薄く伸びるだけだった。窓の外の空は、燃えるようなオレンジと、深い青が混ざり合っていた。
先生が、非常階段のそばの窓辺に立っていた。
こんな時間に、こんな場所に立っていることが珍しかった。先生はいつも動いているか、カルテに向かっているか、だ。ただ窓の外を見て、立っているだけの先生を、私は初めて見た気がした。
「白石」
私の足音に気づいたのか、先生が声をかけた。
「はい」
「少しいいか」
問いかけの体だったが、返事を待つ前に先生は話し始めた。
「昨夜、話してくれた」
「……はい」
「俺はお前のことを、少しわかった」
窓の外の空が、どんどん暗くなっていった。オレンジが薄れて、青が濃くなって、最初の星が一つ、光り始めた。
「お前は感情を殺したのではなく、感情を閉じた。閉じた扉の向こうに、感じることのできる自分が、まだいる」
「……そうでしょうか」
「そうだ」
先生の断言は、いつも通り迷いがなかった。
「九年間閉じていれば、開き方を忘れる。でも扉は、まだある」
「その扉を開けるのが、先生が言う、壊すということですか」
「ああ」
先生がこちらを向いた。
夕暮れの残光の中で、先生の顔が半分、影の中にあった。
「もう少し正確に言うなら、お前が自分で閉じたものを、俺が外から叩き続ける。いつか、中から開く」
「……乱暴な言い方ですね」
「俺には優しい言い方ができない」
先生は事実として言った。
「知っています」
私も事実として言った。
先生の口元に、かすかな変化があった。笑みとは言えなかった。でも何か、柔らかいものが一瞬だけ、そこにあった。
「先生」
「なんだ」
「なぜ先生がそれをするんですか」
私は本当に知りたかった。管理の理由は知っている。観察の理由もわかってきた。でも「壊す」ことを宣言して、実行しようとする理由が、まだ飲み込めていなかった。
「お前が悠斗の死に何も感じなかった夜。俺は初めて、誰かに怒った」
先生は窓の外に目を戻して、言葉を続けた。
「俺はずっと、感情は不要なものだと思っていた。医師として判断を曇らせる、排除すべきノイズだと。だからなるべく感じないようにしてきた。感情を持たない医師の方が、正確に人を救えると信じていた」
「今もそう思いますか」
「わからなくなった」
珍しい答えだった。先生が「わからない」と言うのを、また聞いた。
「お前を見てから、わからなくなった。感情がない人間が隣にいると、何かが欠けていると感じた。感じること自体が、俺には矛盾だった。でもそれが、俺が初めて感じた本物の感情だったのかもしれない」
「……本物の感情、とは」
「お前に対して怒ったとき。お前がいないと、何かが足りないと感じるとき。それが感情というものなら、俺はお前のせいで初めて、感情というものを理解し始めた」
廊下に、静寂が落ちた。
遠くで、ナースコールが鳴った。でも夜勤スタッフが対応するのだろう、また静かになった。
私は先生の言葉を、ゆっくりと飲み込もうとした。
(お前がいないと、何かが足りない)
その言葉の意味を、正確に理解できていなかった。感情のないままで受け取ると、情報として頭に入るだけだ。でも今夜は、それが情報以上の何かとして、体のどこかに触れた気がした。
「俺はお前を壊す」
先生は静かに言った。
「それはお前のためでもあるが、俺自身の答えを探すためでもある。感情に価値があるのかないのかを、お前が感情を取り戻すことで、俺は確かめたい」
「……先生の実験ですか」
「最初はそうだった」
先生が、正直に言った。
「今は?」
先生は少し間を置いた。
「今はわからない。最初とは違う何かになっているが、言語化できない」
私は先生の横顔を見た。
あの冷えた顔が、夕暮れの最後の光の中で、ほんの少しだけ、人間的な何かを帯びていた。
「わかりました」
気づいたら、そう言っていた。
「何をわかった」
「……先生がやろうとしていることを、止めない、ということです」
先生は私を見た。
「止めたいと思っていたのか」
「少し、思っていました。何かが変わるのが怖かったのかもしれない。今のままの方が楽ですから」
「今のままが楽なのはわかる。感じなければ、痛くないから」
「はい」
「でもそれは、生きているとは言えない」
その言葉が、静かに、でも深く刺さった。
痛くはなかった。でも確かに、届いた。
先生はそれ以上何も言わずに、踵を返した。
廊下に、先生の足音が遠くなっていった。
私は窓辺に残って、完全に暗くなった空を見た。最初の一つだった星が、今は三つになっていた。
壊される。
その言葉を、今夜は怖いとは感じなかった。
怖い、の代わりにあったのは、もっと別の何かだった。
待っている、という感覚に、少し近かった。
自分の中にそんな感覚があることを、私は夜空に向かって、静かに認めた。
翌週の土曜日の昼過ぎ、スマホが鳴った。
洗濯物を畳んでいた私は、見知らぬ番号からの着信に少し戸惑いながら電話に出た。
「白石か」
声でわかった。
「……先生ですか」
「ああ。今から出られるか」
「どこにですか」
「外だ。迎えに行く」
一方的に言って、電話が切れた。
私は畳みかけの洗濯物を持ったまま、少しの間スマホを見つめた。
(外に連れ出す、ということか)
「外気に当たって神経系をリセットしろ」と先生が言っていたことを思い出した。あれが実行される日が来るとは、正直思っていなかった。先生はあのような言い方をして、そのままにすることが多かったから。
でも今日は、実行するらしい。
何を着て行けばいいのかわからなかった。先生とどこかへ行くという経験が初めてすぎて、判断の基準がなかった。とりあえず、いつもより少し厚手のコートを選んだ。
三十分後、アパートの前に黒い車が停まった。
先生が運転席にいた。スーツではなく、シンプルな濃紺のコートを着ていた。病院の外で先生に会うのが初めてだったから、少し違和感があった。でも顔は変わらなかった。相変わらず、冷えた目をしていた。
私は助手席に乗った。
「どこに行くんですか」
「決めていない」
先生はそう言って、車を出した。
(決めていない)
その答えが、意外だった。先生は何事も計画する人間だと思っていたから。
「……どこでもいいんですか」
「行ってみてから決める」
それだけ言って、先生は運転に集中した。
私は窓の外の景色を見た。十二月の街が、流れていった。師走の人通り、デパートのショーウィンドウに飾られたクリスマスの装飾、コートを着た人々の息が白くなっていた。
車内は静かだった。ラジオもかかっていなかった。先生は何も話さなかった。
でも不思議と、沈黙は苦ではなかった。
先生が車を止めたのは、郊外の大きな公園の駐車場だった。
十二月末の公園は人が少なかった。落ち葉が一面に積もり、木々は枝だけになっていて、その隙間から白い冬空が見えた。風はなく、空気は冷たく澄んでいた。
先生は車から降りて、公園の入口に向かって歩き始めた。コートのポケットに手を入れたまま、迷いない歩き方で。私はその後ろをついていった。
並んで歩いた。というより、先生の半歩後ろを歩いた。
落ち葉を踏む音が、二人分続いた。
先生は何も言わなかった。私も何も言わなかった。
(この人は、いつも口数が少ない)
でも今日は、その口数の少なさが、病棟にいるときとは少し違う気がした。病棟での沈黙は、効率の産物だ。余計な言葉を省いた、合理的な静けさ。でも今日の沈黙は、少し、違った。
うまく言えなかったけれど。
「何か感じるか」
先生がふいに言った。
「……今のところ、ありません」
「そうか」
先生は短く答えた。責めるでも、落胆するでもなく、ただ「そうか」と言った。
「何かを感じることを期待していたんですか」
「いや」
「では、なぜ聞いたんですか」
「経過観察だ」
また、合理的な答えだった。
私は少し先生の横顔を見た。
「先生は、この公園に来たことがあるんですか」
「ある」
「一人で?」
「ああ」
「何のために来るんですか」
先生は少し間を置いた。
「手術がうまくいかなかったとき、ここに来る」
意外な答えだった。
「……うまくいかなかったとき、というのは」
「患者が死んだとき。処置が届かなかったとき」
「先生でも、そういうことがあるんですか」
「ある」
「そのとき、先生は何を感じるんですか」
先生はしばらく歩きながら考えた。
「うまく言えない。言語化できる感情ではない。ただ、ここに来て歩くと、少し、整理できる」
「整理できる、というのは」
「何がいけなかったか。次にどうすべきか。頭が落ち着く」
「それは感情ではなく、思考の整理ですね」
「そうかもしれない。感情と思考の境目が、俺にはわからない」
私は、その言葉を少し意外に思った。あれだけ論理的な先生が、感情と思考の境目がわからない、と言った。
「……先生も、わからないことがあるんですね」
「当然だ」
先生は当たり前のように言った。
「なぜ当然なんですか」
「人間である以上、わからないことがある。わかること全てを言語化できると思っている人間の方が、危険だ」
私はその言葉を、ゆっくりと咀嚼した。
池のそばのベンチに、自然に足が向かった。先生が先に座り、私が隣に座った。
池は静かだった。水面が、白い冬空を映していた。鴨が二羽、水の上を漂っていた。どちらも急いでいなかった。
「先生」
「なんだ」
「先生は、感情に価値があると今は思いますか」
「……まだよくわからない」
先生は池を見たまま言った。
「ただ、感情のない人間の隣にいると、奇妙な気分になることはわかった」
「奇妙な気分、というのは、どういうものですか」
「居心地が悪い、という言葉が近い。でも正確ではない」
「正確には?」
先生は少し黙った。
「足りない、という感覚かもしれない。お前が何かを感じないでいると、俺の側から何かが抜けていくような。それが何なのかを、俺は知りたい」
私は先生の横顔を見た。
先生の目が、池の水面を見ていた。静かな目だったが、今日の目の奥には、何かがあった。いつもの「測る目」とは違う、もっと内側を向いている目。
「……先生が足りないと感じるのは、私が何かを感じないからですか。それとも」
言いかけて、止まった。
「それとも?」
「……いいえ、なんでもないです」
先生は少し私の方を向いたが、追及しなかった。
池の鴨が、水面を蹴って移動した。波紋が広がり、映っていた空を揺らした。
私はその波紋を眺めた。
広がって、広がって、やがて消えていく。でも消えたように見えても、水の分子は動き続けている。目に見えなくなっただけで、消えたわけではない。
(私の感情も、そうなのだろうか)
消えたように見えるだけで、どこかで動き続けているのだろうか。
「寒いか」
先生が聞いた。
「少し」
「帰るか」
「……もう少し、いいですか」
言ってから、少し驚いた。
今日は先生に連れてこられた。でも「もう少しいたい」と言ったのは、自分の意志からだった。
先生は何も言わなかった。ただ、池の方を向いたまま、動かなかった。それが「いい」という意味だと、なぜかわかった。
二人で、しばらく池を見ていた。
空が暗くなり始めた頃、先生が立ち上がった。私も立ち上がった。
帰り道、落ち葉を踏みながら、先生がぽつりと言った。
「また来るか」
また、という言葉だった。
「……はい」
私は短く答えた。
車に乗って、帰る道も、二人はほとんど話さなかった。でも行きとは少し違う静けさだった。
アパートの前で車が止まった。
「ありがとうございました」
扉を開けながら、自然に言葉が出た。計算してではなく、ただ出た。
「また連絡する」
先生はそれだけ言って、車を出した。
私はその後ろ姿を見送った。
テールランプが遠くなっていった。
アパートの階段を上りながら、私は思った。
今日、何かを感じたか。
「感じた」と言えるほどのものは、なかった。でも、「また来たい」という気持ちは本物だった。
それが感情と呼べるものかどうかはわからなかった。
でも、冬の外気が少しだけ好きになった気がした。
その夜、布団に入りながら、私は公園の池を思い出した。
波紋が広がって、空を揺らして、消えていく。
消えても、水は動き続けている。
そのことを、なんとなく、大切なことのように思った。
十二月に入ってから、先生との「外出」は続いた。
毎週というわけではなかったが、先生から連絡が来る頻度が少しずつ増えていった。美術館、植物園、夜の川沿い。場所は毎回違った。先生は行き先をあらかじめ告げないことが多く、車を走らせながら「今日はここにする」と決めた。
私はその都度、先生の選択に従った。
拒む理由がなかったのと、先生が選ぶ場所には何かしら先生の意図があるのだろうと思っていたからだ。
美術館に行ったとき、先生は絵の前に立ちながら私に聞いた。「この絵の中の人間は何を考えている」と。私が「遠いところを見ている」と答えると、「なぜそう思う」と聞いた。私が「目の焦点が、この場所にないから」と言うと、先生は少し黙ってから「お前はよく人の目を見ているな」と言った。
川沿いを歩いたとき、先生が「冷たいか」と聞いた。「冷たいです」と答えると、先生は何も言わなかった。でも少し歩いてから、先生の歩く速度が、微かに遅くなった気がした。
毎回、劇的なことは何も起きなかった。感情が戻ってきた、という大きな変化もなかった。
でも外出を重ねるうちに、私の中の何かが少しずつ変化していた。
「綺麗」「冷たい」「広い」「静か」「好き」「嫌い」。感覚と感情を示す言葉が、以前より自然に出てくるようになった。言葉を選ぶ前に、言葉の方が先に来るようになった。
先生はそれを、毎回静かに聞いていた。
三田村さんが入院してきたのは、十二月の第二週の夕方だった。
三十四歳の女性。交通事故による複数骨折と内臓損傷で、救急搬送されてきた。処置を急ぐ必要があり、朝霧先生が担当することになった。
私が最初に三田村さんと話したのは、搬送直後の処置室だった。三田村さんは意識があり、痛みで顔を歪めながらも、ただ一点だけを繰り返していた。
「子供が、子供が一緒にいたんです。蓮は、蓮はどこにいますか」
掠れた声で、同じことを繰り返した。
搬送記録を確認すると、三田村さんの四歳の息子、蓮くんも同じ事故に遭っていた。軽傷で、小児科に搬送済みとのことだった。
「軽傷です。今、小児科にいます。安全です」
私はすぐに伝えた。
三田村さんの表情が、一瞬だけ崩れた。泣いた。安堵で泣いた。
「よかった。よかった……」
私は処置を進めながら、その涙を見ていた。
(安堵で泣くことができる)
その事実を、頭の隅で確認していた。自分にそれができるかどうかはわからなかったけれど。
三田村さんの手術は翌日の午前中に行われた。朝霧先生の執刀で、処置は成功した。術後、三田村さんは病棟に戻ってきた。
意識があったが、痛みと疲労で顔色が悪かった。それでも目を開けると最初に「蓮はいつ来られますか」と聞いた。
小児科に確認すると、蓮くんは軽傷で、傷の処置が終わった翌日には面会できる状態だった。
「明日の午後に来られます」と伝えると、三田村さんは少し、目を閉じて頷いた。
翌日の午後。
私が三田村さんの病室の前を通りかかると、廊下の奥からお父さんに手を引かれた小さな男の子が歩いてくるのが見えた。
蓮くんだとわかった。頬に絆創膏が貼ってあったが、歩いている。小柄で、まんまるな目をした子だった。
病室のドアの前まで来たとき、蓮くんの足が止まった。
「ママ、いたい?」
小さな声で聞いた。
病室の中から、三田村さんの声が聞こえた。
「いたくないよ。蓮に会いたかったよ」
蓮くんはゆっくりとドアを開けて、病室に入った。私はちょうど廊下で処置の準備をしていて、半開きのドアから病室の様子が見えた。
蓮くんがベッドの横に立って、三田村さんを見上げていた。三田村さんが点滴のついた方ではない方の手を伸ばして、蓮くんの頭を撫でた。
「ぼく、ずっとまってた」
蓮くんが言った。
「ごめんね、待たせて」
「いい。ままがいれば、いい」
三田村さんが、また泣いた。
蓮くんがベッドの縁に手をかけて、つま先立ちになって、三田村さんの顔に近づいた。
「ままのかお、みたかった」
「蓮の顔も、見たかったよ」
「ままのて、あったかい」
「蓮の手は、もっとあったかいよ」
二人の声が、廊下まで聞こえた。
私の手が、止まった。
処置の準備をしていた手が、止まった。
胸の奥で、何かが動いた。
強く、動いた。
今まで感じたことのない動き方だった。痛みに近かったが、痛みではなかった。胸を押しつぶされるような感覚なのに、押しつぶされたくはなかった。
(これは……)
三田村さんと蓮くんの姿が、別の映像と重なった。
雪の夜の病院。白い廊下。消毒液の匂い。「お母さんは今どんな状態ですか」と医師に聞く、二十三歳の自分。
あのとき、お母さんはまだ生きていた。一週間だけ、生きていた。
病室に行けなかったわけではない。でも、行くたびに、お母さんが私の顔を見た。泣けない私の顔を見た。「しっかりしてる子だから大丈夫」と言った。
その言葉が、刺さった。
しっかりしているのではなかった。ただ、泣き方を知らなかっただけだった。でもそう説明できなかったから、ただ頷いた。
最後の一週間、私はちゃんと、お母さんの手を握れなかった。握ると、もう帰ってこないことを認めてしまう気がして。
だから、ちゃんとそばにいられなかった。
「ままのて、あったかい」
蓮くんの声が、また聞こえた。
私の目が、熱くなった。
熱くなった、という感覚が確かにあった。
でも涙は出なかった。
出そうで、出なかった。
氷が溶け始めているのに、まだ形を保っているような感覚だった。
私は処置の準備に戻ろうとした。手を動かそうとした。でも少しの間、動けなかった。
廊下の窓から、冬の空が見えた。白く、低く、雲が厚い。
二十三歳の冬も、こんな空だった。
あのとき、もしちゃんとそばにいられていたら。最後に、ちゃんと手を握れていたら。
今の私は、少し違っていたかもしれない。
それは後悔と呼ぶべきものなのか、私にはわからなかった。でも今、胸の中で、何かが確かに痛かった。
痛かった。
感情と呼べるかどうかはわからない。でも、痛かった。
その夜、先生に短いメッセージを送った。
「今日、少し感じました」
しばらくして、返信が来た。
「何を」
私は少し考えてから、返した。
「後悔、かもしれないもの」
返信はなかった。
でも翌朝の申し送りのとき、先生は一度だけ、私の顔をまっすぐに見た。
「そうか」とだけ言った。
それだけだったが、それで十分だった。
三田村さんが急変したのは、入院から十日後の夜だった。
それまでの経過は順調だった。骨折の回復も予定より早く、痛みも引いてきていた。リハビリも始まっていて、先生が「来週から歩行訓練に入れる」と言っていた。退院の目処も立ち始めていた。
蓮くんとお父さんは毎日面会に来ていた。
三田村さんの病室からは、毎日、笑い声が聞こえた。
「今日の幼稚園どうだった」
「おゆうぎかいのれんしゅうした。ぼく、ステージにのぼれるかな」
「登れるよ、蓮なら絶対」
「ままも、きてくれる?」
「絶対行くよ。退院したら、絶対見に行く」
私はそれを廊下で聞くたびに、胸の奥の何かが動くのを感じていた。
動く、という感覚が少しずつ強くなっていた。感情と呼べるものが、氷の下から、確実に、近づいてきていた。
急変が起きたのは、二十時十四分だった。
三田村さんが突然の胸痛と呼吸困難を訴えた。ナースコールが鳴り、夜勤の木村くんが駆けつけると、三田村さんは胸を押さえて浅い呼吸をしていた。血圧が急激に低下していた。
木村くんが私に連絡してきたとき、私はすでに廊下を走っていた。
病室に入ると状況を瞬時に把握した。血栓塞栓症の可能性が高かった。術後の合併症として、最も恐れるものの一つだ。
当直医への連絡、酸素投与、ライン確保、薬剤準備。同時並行で指示を出しながら、私は朝霧先生の番号を押した。
今夜は先生の当直ではなかった。でも躊躇しなかった。
「朝霧です」
「白石です。三田村さん、急変です。呼吸困難、血圧低下、PE疑いです。バイタルは──」
「今から行く」
先生の声は落ち着いていた。でも電話が切れるまでの一秒が、いつもより速かった気がした。
先生が来るまでの間、私は三田村さんのそばから離れなかった。
三田村さんは意識があった。苦しそうに、でも私の顔を見ていた。
「白石さん」
細い声だった。
「ここにいます」
「……蓮に、伝えてもらえますか。明日また来てって。発表会の話、まだ途中だったから」
私は三田村さんの手を握った。
「直接言えます。大丈夫ですよ」
嘘をつくつもりで言ったわけではなかった。でも医療者として、それを確信できる状況ではなかった。
それでも、そう言っていた。
(頼む)
誰かに向けて、そう思っていた。誰に向けているのかはわからなかった。でも、体が動きながら、頭の奥で声がしていた。
頼む、助けてくれ、と。
今まで、処置中にそんな感情を持ったことはなかった。
先生が到着した。
白衣ではなく、私服のコートを着たまま、先生は病室に飛び込んできた。コートを脱ぎながら当直医から状況を聞き、瞬時に判断を下した。
「緊急処置に移行する。手術室を押さえろ」
先生の声は冷静だった。感情がなかった。でもその目が、今夜は違った。
私には、先生の目が普段と違うことがわかった。これまで、先生の目を見てきたから。
三田村さんへの処置が始まった。
先生の指示は速く、正確だった。当直医も全力で動いた。私も動いた。薬を出し、器具を渡し、バイタルを読み上げた。体は正確に、フルスピードで動いていた。
でも体が動いている間ずっと、胸の中で何かが鳴っていた。
鳴っている、という感覚が正確かどうかはわからない。でも、今まで処置中に感じたことのない何かが、ずっとそこにあった。
蓮くんの声が、頭の中で鳴り続けていた。
「ままも来てくれる?」
「絶対行くよ。退院したら、絶対見に行く」
お願いだ、と思っていた。
三田村さんには、帰ってほしかった。
それは感情だったのか、論理的な判断だったのか、区別がつかなかった。でも、確かに思っていた。
処置は一時間近く続いた。
途中で手術室に移行した。私はそこには入れず、廊下で待機した。
廊下に立ちながら、私はずっと病室の扉を見ていた。
この一時間の間に、三田村さんのお父さんから病院に電話が入った。蓮くんが「ままに電話したい」と言っているという。木村くんが対応してくれていた。
私は廊下で、ただ立っていた。
何もできなかった。
こんなにも、何もできないと感じたのは、初めてだった。いつもは「することをする」だけだった。でも今夜は、「することがない」時間が、こんなに重かった。
(重い)
その感覚が、確かにあった。
手術室の扉が開いたのは、二十二時を少し過ぎた頃だった。
先生が出てきた。
コートを脱いだまま、術衣の上から白衣を羽織っていた。袖口に、血がついていた。
その顔を見た瞬間、私は理解した。
先生は静かに、お父さんと並んで立っていた当直医の方へ歩いた。でも最初に口を開いたのは先生だった。
「手術は行いました」
声が、静かだった。
「ですが、処置が届きませんでした。二十二時七分に、三田村さんは亡くなりました」
お父さんが、声をあげた。
壁に手をついて、「そんな」と繰り返した。
「嘘だ、嘘だろう、さっきまで話してたのに、さっきまで」
私はお父さんのそばに近づいた。背中に手を当てた。椅子を引き寄せた。「つらい結果となり、本当に残念です」と言った。
正確に動けていた。体が動いた。
でも、胸の中では、何かが崩れていた。
崩れる音が、自分の内側から聞こえるような気がした。
三田村さんの顔が浮かんだ。
「蓮に伝えてもらえますか。明日また来てって」
あの細い声が、耳の中で再生された。
発表会の話をしていた蓮くんの声も。「絶対見に行くよ」と言った三田村さんの声も。
全部が混ざって、頭の中で鳴り続けた。
お父さんが病室に移り、当直スタッフに引き継いで廊下に出た。
朝霧先生が壁に背を預けて立っていた。
廊下の照明が落ちていて、先生の顔は半分、影の中にあった。術衣の袖口の血が、蛍光灯の届かない側にある。腕を組んでいた。下を向いていた。
私が近づくと、先生が顔を上げた。
その目が、今まで見たことのない色をしていた。
感情のない目ではなかった。何かが、揺れていた。あの冷えた、深い瞳の奥に、今夜だけは、人間的な何かが浮かんでいた。
「白石」
「はい」
先生は少しの間、私の顔を見た。
「お前、今、何を感じている」
昨夜と同じ問いかけだった。でも昨夜とは聞き方が違った。「何も感じていないか」ではなく、「何を感じているか」と聞いた。
私は先生を見た。
「……悔しいです」
言ってから、驚いた。
その言葉が、自分の中から出てくることを、知らなかった。
「悔しい」
先生が繰り返した。
「届かなかったことが、悔しいです」
声が、震えていた。
震えていた。
私の声が、震えていた。
「蓮くんが発表会に来てほしいと言っていて、三田村さんが絶対行くと言っていて、それが、届かなかったことが」
喉が、締まった。
涙が、出た。
出ていた。
一粒、また一粒。気づいたとき、頬を伝っていた。
止まらなかった。
悔しかった。悲しかった。間に合わなかったことが、悔しかった。三田村さんが死んだことが、悲しかった。蓮くんのことを思ったら、胸が痛かった。
お母さんのことも、浮かんだ。弟のことも。父のことも。
あの雪の夜から九年間、一度も感じられなかったものが、今夜、一気に溢れてきた。
泣いていた。
声は出なかった。でも涙が止まらなかった。
(これが、泣くということだ)
わかった。わかってしまった。
泣くということが、こんなに苦しいものだということが。
こんなに痛くて、こんなに息が詰まって、こんなにどうしようもなくて、それでも止まらないということが。
私はずっと、泣けないことを「感情がない」という事実として受け取っていた。でも今、初めてわかった。泣けないということは、こんなにも、溜め込んでいたということだ。
九年分が、今夜、少しずつ溢れていた。
気づいたとき、朝霧先生が私のそばにいた。
当直医は退出していた。廊下には、私と先生だけが残っていた。
先生は私を見ていた。
その目に、今まで見たことのない色があった。
困惑に近かった。でも困惑だけではなかった。何か、もっと複雑なものが、あの無表情な顔に重なっていた。
「白石」
「……はい」
声が、まだ震えていた。
「泣いている」
「はい」
先生は少し間を置いた。
「悔しいと言った」
「はい」
「それは、お前の感情だ」
当たり前のことを言っていた。でも先生の声は、平坦ではなかった。何かが揺れていた。
「俺が壊そうとしていたものが、お前の中にまだあった」
「……あったみたいです」
「それは」
先生が、言いかけて止まった。
「それは、俺の──」
また止まった。
先生の表情が、微かに動いた。
見たことのない表情だった。困惑よりも深く、驚きよりも静かで、何か、先生自身も予期していなかった感情が、表面に出かけているような顔だった。
「違う」
先生が、低い声で言った。
「違う、こんなはずでは……」
「先生?」
先生は私を見た。
その目が、揺れていた。
先生の瞳が、揺れていた。
「お前が泣くのを見て、俺が──」
また、止まった。
先生の手が、上がった。
私の頭に、その手が乗った。
そっと。触れるか触れないかのくらいに。でも確かに、温かかった。
手が、温かかった。
私はそれを感じた。
泣きながら感じた。先生の手の温度を、確かに感じた。
「泣いていい」
先生が言った。
命令口調だった。でも声は、今まで聞いたことのない柔らかさを持っていた。
「泣いていいと言っている。誰も見ていない」
「……先生が、見ています」
「俺は見ていない」
見ていないわけがなかった。でも先生はそう言った。
私は少し、笑いそうになった。
笑いそうになりながら、また泣いた。
先生の手が、頭の上にあった。
動かなかった。ただそこにあった。
九年ぶりに、誰かのそばで泣いた。
誰かが、そばにいてくれた。
それだけのことが、今夜の私には、何よりも温かかった。
涙が、少しずつ収まっていった。
先生の手が、静かに下りた。
二人で、廊下に立っていた。
遠くで、ナースコールが鳴り始めた。夜はまだ続いている。
「今夜は一人で帰るな」
先生が言った。
「……医学的な話ですか」
「そうだ。医学的に言っている」
医学的という言い方が、先生らしかった。
「わかりました」
先生は私を病院近くのカフェに連れて行った。
深夜のカフェは空いていた。窓際の席に座って、温かいものを飲んだ。
しばらくは、お互い何も言わなかった。
それでよかった。何かを言う必要がなかった。
窓の外に、冬の夜の街が見えた。街灯が、水たまりに映って揺れていた。
今夜、雨が降っていたことを、私は知らなかった。
「先生」
しばらくして、私は言った。
「なんだ」
「さっき、こんなはずでは、と言いかけていましたが」
「……言っていない」
「言っていました」
先生は少し間を置いた。
「聞き間違いだ」
「そうですか」
私は追及しなかった。でも、胸の中に、その言葉を仕舞った。
先生が言いかけた言葉の続きが何だったのか、今夜はまだ聞かなかった。
でも、いつか聞く日が来る気がした。
「温かいですね」
カップを両手で包みながら、私は言った。
「何が」
「全部」
外の空気も、先生の声も、このカップも。
全部、今夜は、少しだけ温かかった。
九年ぶりに、何かが温かかった。
先生は何も言わなかった。でもカップを持ったまま、窓の外を見ていた先生の横顔が、蛍光灯の光の中で、今夜だけは、少し柔らかかった。
私はそれを見て、また少し泣きそうになった。
泣きそうになることが、今はもう怖くなかった。