冷徹な天才医師は泣けない彼女を溺愛する

第四章 再生と選択

 翌朝、目が覚めたとき、世界の色が変わっていた。
 変わった、というのは比喩だ。実際には、アパートの天井はいつも通り白く、窓から差し込む十二月の光はいつも通り薄かった。壁のシミも、カーテンのくすみも、昨日のままだった。
 なのに、何かが違った。
 昨夜泣いた後、先生がカフェに連れて行ってくれて、温かいものを飲んで、それからアパートまで送ってもらった。部屋に入って、シャワーを浴びて、布団に入った。眠れないかと思ったが、気づいたら朝になっていた。目覚ましより五分早く目が覚めた。
 布団の中で、天井を見た。
 いつもなら、今日の業務の確認が始まる。何時に何の処置があって、誰の検温が残っていて、今週の手術スケジュールはどうで。頭が自動的に、タスクを整理し始める。
 でも今朝は、それより先に、昨夜のことが浮かんだ。
 三田村さんの、処置が終わってから静かになった顔。蓮くんの「ままも来てくれる?」という声。廊下で泣いた自分。先生の手の温度。
 浮かんだ瞬間、胸がぎゅっとした。
 ぎゅっとした、という感覚が確かにあった。
 (これが、感情というものか)
 知っているようで、知らなかった。九年前まで持っていたはずなのに、すっかり忘れていた。もしかしたら、持っていたときも、ちゃんと感じていなかったのかもしれない。感じることを当たり前にしていたから、感じることの重さに気づいていなかったのかもしれない。
 胸が、じわじわと痛かった。
 (これが、悲しみというものか)
 そう理解した瞬間、もっと痛くなった。
 理解することで、感情はより鮮明になるらしかった。名前をつけると、逃げ場がなくなる。
 私は布団を顔まで引き上げた。
 どうすればいいかわからなかった。感情の扱い方を、すっかり忘れていた。いや、知らなかったのかもしれない。二十三歳になる前から、私はそれほど上手に感情と付き合えていたわけではなかったかもしれない。あの事故は、ただそれを完全にわからなくさせただけで。
 布団の中で、しばらくじっとしていた。
 胸が痛かった。でも、それが嫌いではなかった。
 感じることが、久しぶりに自分のことのように感じられた。

 病棟に出ると、仕事は普通に始まった。
 七時三十分の申し送り。回診。処置。記録の更新。患者たちはいつも通り話しかけてきた。「今日は冷えますね」「そうですね、暖かくしてください」「昨夜よく眠れなかったんだよ」「何か気になることがありましたか」。会話は成立していた。体は動いていた。
 でも私の内側は、昨日までと違った。
 患者の話を聞きながら、感情が動いた。
 七十代の田村さんが「孫がまた来てくれた」と嬉しそうに話したとき、私の中で何かが温かくなった。五十代の中村さんが「退院したら妻の料理が食べたい」と言ったとき、胸の奥が少し緩んだ。
 今まで、患者の言葉は情報として頭に入っていた。「高齢男性、孫の面会により精神状態良好、経過観察」というような形で。でも今朝は違った。田村さんの嬉しそうな目を見て、私の中で何かが動いた。その動きに、名前はまだなかったが、確かに動いた。
 温かい、という感覚だった。
 それはいつも通りの処置の最中に、突然訪れた。
 二十代の女性患者が術前処置の際、「怖い」と言いながら泣いた。
 今まで、患者が泣く場面を何百回も経験してきた。そのたびに、適切な言葉を選んで、適切な声のトーンで応答してきた。でも今朝は、患者の涙を見た瞬間、私の目が熱くなった。
 自分でも驚いた。
 「大丈夫です、そばにいます」と言いながら、私は声が少しかすれないように注意しなければならなかった。そういうことが、初めて起きた。

 昼過ぎ、休憩室でひとりになったとき、私はソファに座って少し目を閉じた。
 体が重かった。頭が重かった。疲れていた。でも、昨日までの「パフォーマンスが低下している」という疲れとは違った。
 感情が動くたびに、体力が使われていた。
 喜んで、心配して、悲しんで、温かくなって。それを繰り返すだけで、体の奥からエネルギーが消耗していった。
 (これが普通の人間の毎日なのか)
 そう思ったとき、同僚たちへの敬意が、不思議なほど鮮明に生まれた。
 橘さんは毎日患者の話に笑い、急変に怖がり、別れに寂しがりながら、それでも翌日また出勤してくる。木村くんは失敗するたびに落ち込みながら、翌日また立ち直っている。林さんは怒ったり励ましたりしながら、病棟を回している。
 みんな毎日、これをやっていたのか。
 感情を持ちながら働くということが、こんなに体力を使うことだとは、知らなかった。
 知らなかったから、私はずっと彼女たちを「感情的だ」と思っていた。でも今は違う。彼女たちは感情的なのではなく、感情を持ちながらも、動き続けていたのだ。
 それは強さだった。
 私が今まで持っていなかった種類の強さだった。

 一番困ったのは、急変患者への対応だった。
 その日の夕方、入院中の高齢男性が意識レベルの低下を来した。緊急処置が必要だった。
 私は動いた。体は動いた。九年間の経験が、体を動かした。手順通りに、正確に。
 でも今まで処置中に感じなかったものを、感じた。
 怖かった。
 患者が死ぬかもしれない、という怖さが、今まで感じたことのない形で体の中に入ってきた。「この患者が死ぬかもしれない」という事実が、情報ではなく感情として届いた。
 手が、少し震えた。
 声が、一瞬だけかすれた。
 処置は成功した。患者の状態は安定した。
 でも処置室を出たとき、私は廊下の壁に手をついた。
 膝が、少し笑っていた。
 深く息を吐いた。それから、もう一度吸った。
 (前の方が、楽だった)
 その思いが、するりと入ってきた。
 感情がなかったとき、急変は「対処すべき事態」だった。怖くなかった。揺れなかった。揺れないから、迷いなく動けた。
 でも今の私は、怖い。揺れる。それが処置の質に影響するかもしれない。
 今日は影響しなかった。でも次回は? その次は?
 患者の安全を守るために、感情を持たない方がいいのではないか。
 (看護師に向いていないのかもしれない)
 その考えが、静かに入ってきた。そして、なかなか出ていかなかった。

 その夜、帰宅してから、ずっとその考えが頭の中に居座っていた。
 夕食を食べながら、テレビをつけた。バラエティ番組で誰かが笑っていた。今日は、それが少しだけ、おかしいと感じた。
 笑えた。そのことに、少し驚いた。
 でも同時に、今日の手の震えも、思い出していた。
 感情を持ったことで、私は何かを得た。でも同時に、何かを失ったかもしれない。
 感情があると、怖い。怖いと、揺れる。揺れると、処置が乱れるかもしれない。
 感情のなかった私の方が、患者にとっては安全だったかもしれない。
 そういう考えは、感情のなかった頃の自分には出てこなかった。感情があるからこそ、「患者を傷つけるかもしれない」という怖さが生まれる。その怖さが、また揺れを生む。
 感情は、感情を怖がる。その循環が、今夜の私の頭の中で回り続けていた。
 布団に入ると、三田村さんの顔が浮かんだ。
 蓮くんの声が聞こえた気がした。
 「ままも、きてくれる?」
 泣きそうになった。
 泣きそうになりながら、今夜は堪えた。
 泣くことに、まだ慣れていなかった。泣くとまた体力が消耗する気がして、今夜はそれが怖かった。
 ただ、目を開けて天井を見た。
 先生は「壊す」と言った。壊れた。では次はどうなるのか。
 感情を取り戻した私が、どこへ向かうのか。
 わからないままで、眠れない夜が、少しずつ明けていった。

 翌日の朝、先生と廊下ですれ違った。
 先生はカルテを手に、早足で歩いていた。私の姿を見て、一瞬、足を緩めた。
「昨夜は眠れたか」
 私は少し驚いた。先生がそういう問いかけをすることが、珍しかった。
「……少し」
「顔色が悪い」
「そうですか」
「今日は残業するな。定時に帰れ」
 また管理だ、と思いながら、でも今日は嫌ではなかった。
「わかりました」
 先生はそれだけ確認すると、また歩き始めた。
 その背中を見ながら、私は思った。
 先生はいつも、管理という形で何かを言う。でも、その言葉の選び方の奥に、言えない何かがある。
 それが何なのかを、まだ言葉にできないままでいた。

 感情を取り戻してから、十日が過ぎた。
 その十日間は、今まで生きてきた中で最も混乱した時間だった。
 感情は、想像していたより、ずっと騒がしかった。
 患者が回復すると嬉しかった。処置がうまくいかないと悔しかった。同僚が疲れた顔をしていると心配になった。先生がいつもより険しい顔で廊下を歩いていると、何があったのかと気になった。廊下で子供の声がすると、胸が少し痛くなった。
 何かを感じるたびに、その感情の扱い方がわからなかった。
 喜びはどこに置けばいいのか。悔しさはどう消化すればいいのか。心配になったとき、どこまで踏み込めばいいのか。
 九年間、感情を持たなかった人間には、そのすべてが初めてのことだった。
 子供が鉄棒で逆上がりを初めて覚えるとき、体の使い方がわからなくて何度も転ぶ。感情を取り戻した私は、ちょうどそんな状態だった。何度もうまく扱えなくて、疲れて、時々ただ座り込みたくなった。
 でもそれより困ったのは、急変患者への対応だった。
 二度目の急変は、七日目に起きた。
 術後の患者が夜中に急激に状態悪化した。私は動いた。処置は成功した。でも処置の最中、手が震えた。昨日より大きく震えた。薬剤を出す手が、かすかに乱れた。
 誰も気づかなかったと思う。結果に影響はなかった。
 でも私は気づいていた。
 処置室を出た後、私は洗面所に入った。蛇口をひねって冷たい水を顔にかけた。鏡の中の自分を見た。
 青白かった。
 (これは、看護師として正しい姿なのか)
 その問いが、水の滴る顔に向かって、静かに落ちた。

 十二日目の朝、私は院長室のドアをノックした。
 師長の林さんではなく、院長の大野先生に直接話したかった。林さんに話せば、丸め込まれるか、朝霧先生に情報が回るか、どちらかだと思った。大野先生は、この病院の医師の中で唯一、私に対して先入観を持たずに話を聞いてくれる人だと感じていた。
「失礼します。少し、お時間をいただけますか」
 大野先生は六十代の穏やかな男性で、私が入室すると眼鏡をゆっくりと外して「どうぞ、座って」と椅子を勧めてくれた。窓の外には、冬枯れの中庭が見えた。
 私は椅子に座って、準備してきた言葉を、静かに告げた。
「看護師を、辞めたいと思っています」
 大野先生が、少し目を見開いた。
「突然だね。何があったかな」
「感情が戻りました」
 大野先生が、また目を見開いた。
「……感情が戻った」
「はい。今まで患者の死に何も感じていなかったのが、感じるようになりました。怖さも、悔しさも、悲しさも。それに伴って、処置中に手が震えることがあります。声がかすれることがあります。そのような状態では、患者さんの安全を守れないと判断しました」
 大野先生はしばらく、私の顔を見ていた。何かを測るような目だったが、先生の「測る目」とは種類が違った。大野先生の目は、温かかった。
「白石さんは、感情があることで仕事の質が下がると思っているんだね」
「……そう思っています」
「それは違う」
 大野先生は、静かにはっきりと言った。
「感情があるからこそ、患者の痛みに寄り添える。感情があるからこそ、異変に気づける。感情があるからこそ、チームで働ける。感情のなさをプロフェッショナリズムと呼ぶ時代は、もう終わっています」
「でも私は、今その感情をうまく扱えていません。処置中に揺れます」
「その揺れは、今後も続くと思うか」
「……わかりません」
「白石さん、感情を持ち始めてから、ミスは出たか」
 私は答えられなかった。
 出ていなかった。処置の結果は変わっていなかった。揺れながらも、体は動いていた。
「出ていません」
「そうだろう。体はちゃんと動いている。それは三年間積み上げてきたものがあるからだ。感情が戻ったからといって、技術は消えない。揺れることと、失敗することは、別のことだ」
「でも今後は」
「今後のことは、今後考えればいい」
 大野先生は少し微笑んだ。
「少し休むという選択もある。でも辞める必要はないと思う。今すぐ答えを出さずに、もう少し時間をかけてみなさい。感情というのは、慣れるものでもあるから」
 私は頷いて、部屋を出た。
 廊下に出て、壁に背中をつけた。
 (慣れるものでもある、か)
 先生も似たようなことを言っていた。「適応期間は必ず終わる」と。
 それは正しいことなのかもしれなかった。でも今の私には、まだその「慣れた後」の自分が、想像できなかった。

 その日の午後、先生に呼ばれた。
 処置室でも、ナースステーションでもなく、先生の執務室に来るよう言われた。病棟の奥にある小さな個室で、先生が普段カルテの整理や論文作業をする部屋だ。一対一で呼ばれるのは初めてだった。
 ドアをノックして入ると、先生はデスクの前に座っていた。カルテは開いていなかった。私が入ると、向かいの椅子に座るよう視線で促した。
 椅子に座った。
 先生は少しの間、私の顔を見ていた。
「聞いた」
 先生が言った。
「……何をですか」
「辞めると言ったことを」
 院長から情報が伝わったのか、それとも先生自身が何かで知ったのかは、わからなかった。でも先生は、確かに知っていた。
「先生には関係のないことです」
 そう言いながら、その言葉がどこかで聞き覚えのある言い方だと気づいた。
 前にも同じことを言った。先生に「放っておいてください」と言ったとき。あのときから、もうずいぶん経った。あのときの私は、感情がなかった。でも今の私は、先生に「関係ない」と言いながら、それが本当は関係あると知っている。
「関係ある」
 先生はいつも通り、あっさりと言い返した。
「なぜですか」
「お前が辞めようとしている理由が、俺の行動と関連している。だから関係ある」
 論理的だったが、その言葉の選び方に、何かがあった。
「……先生のせいにしているわけじゃありません」
「そうは言っていない。ただ俺がお前の感情を動かしたことで、お前が辞めようとしている。少なくとも俺はそう理解している」
 先生はデスクの上に肘をついて、私をまっすぐに見た。
「感情が戻って、怖くなったか」
「……はい」
「何が怖い」
「感情があると、揺れます。揺れると判断が鈍るかもしれない。患者に何かあったとき、感情のなかったときの方が、正確に動けていた気がする」
「それは錯覚だ」
 先生が、静かに言った。
「錯覚、ですか」
「感情のなかったお前は、確かに揺れなかった。処置は正確だった。だが、何かを見落としていた」
「何をですか」
「患者の微細な変化だ。感情は、共感を生む。共感は、観察の精度を上げる。患者の顔が曇ったことに気づく、声のトーンが変わったことに気づく。それは論理的な分析だけではなく、感じることによって初めて届く情報だ」
 私は先生の顔を見た。
「先生は、私が感情を取り戻してから仕事を観察していたんですか」
「ずっと見ていた」
 先生は当然のように言った。
「お前が今揺れているのは事実だ。だが今のお前の仕事には、以前はなかったものがある。患者の変化を感じ取る速度が上がっている。異変への気づきが、以前より早い」
「……本当ですか」
「俺は嘘をつく理由がない」
 私は少し間を置いた。
「でも手が震えました。急変のとき」
「震えても、処置は成功した」
「今後も必ずそうとは限らない」
「それは誰でも同じだ」
 先生は、私の目を見たまま続けた。
「完璧な人間はいない。震えながらも動ける人間は、震えないふりをしている人間より、長く働ける。お前が今揺れているのは、感情を持ったことへの適応期間だ。その期間は必ず終わる。問題は適応できるかどうかではなく、適応するまで続けるかどうかだ」
 私は先生の言葉を、一つひとつ聞いた。
「先生は、私に辞めてほしくないんですか」
 少し間があった。
「そうだ」
 先生が、短く言った。
 短いのに、重かった。
「なぜですか」
「……それは今は言わない」
「前にも「今は言わない」と言いましたね」
「ああ」
「ずっと言えないままですか」
 先生は少し、視線を逸らした。
 珍しかった。先生が視線を逸らすことは、ほとんどない。
「言える日が来ると思っている」
「いつですか」
「お前が自分でそれを感じ取れるようになったとき」
 私には、その答えの意味がすぐにはわからなかった。「自分でそれを感じ取れる」とはどういうことか。感じ取れるようになった、と自分でわかるのか。
「……わかりました」
 先生は一度頷いた。
「今日は定時に帰れ。夕食はちゃんと食べろ」
「先生、私の夕食まで」
「業務的な意味で言っている」
「業務時間外の話ですが」
「お前の業務は二十四時間だ」
 私はそれ以上言い返さなかった。
 立ち上がって、ドアに向かった。
「白石」
 振り返ると、先生がデスクの上の一点を見ながら言った。
「辞めるな」
 たった四文字だった。命令口調だった。でもその四文字に、先生には珍しい、言い切れない何かが詰まっていた。
「……考えます」
 私は静かに答えて、部屋を出た。
 廊下に出て、少しだけ息を吐いた。
 先生が目を逸らした。先生が「辞めるな」と言った。先生が「言える日が来る」と言った。
 それらの言葉が、一つひとつ、胸の中で重さを持っていた。
 その重さの意味を、まだ正確に言語化できないままでいた。でも、何かは確かに感じていた。
 それがどんな感情なのかを問われたら、今夜はまだ答えられなかった。
 でも、先生の執務室を出た廊下で、私は少しだけ歩みが軽くなったことに、気づいていた。

 その夜、アパートで布団に入りながら、私は先生の言葉を一つずつ思い返した。
 「感情は共感を生む。共感は観察の精度を上げる」
 「震えながらも動ける人間は、震えないふりをしている人間より長く働ける」
 「辞めるな」
 論理と、命令と、その間にある何かが、混ざり合っていた。
 先生はいつも論理で話す。でも「辞めるな」という言葉には、論理の根拠がなかった。先生は理由を言わなかった。「今は言わない」と言った。
 理由を言えないのに、「辞めるな」と言った。
 (それはどういう意味なんだろう)
 考えながら、目が閉じていった。
 今夜は、眠れそうな気がした。
 眠れるかもしれない、という感覚が、感情のひとつだと気づきながら、私は眠った。

 辞表を書きかけたのは、翌週の火曜日だった。
 夜、アパートの机に向かって、便箋を一枚取り出した。ペンを持った。
 「拝啓」
 そこまで書いて、止まった。
 手が動かなかった。
 便箋の「拝啓」という二文字を見ながら、私はしばらくその状態でいた。
 なぜ手が動かないのかを、考えた。辞めたいという気持ちは、まだある。看護師を続けることへの怖さも、まだある。でも手が動かない。
 (動かせない)
 便箋を机の引き出しにしまった。
 やめた、という決断ではなかった。ただ、今夜は書けなかっただけだ。
 そう自分に言い聞かせながら、布団に入った。

 翌日の午後、病棟で急変があった。
 六十代の男性患者が、術後の内出血の疑いで状態悪化した。緊急処置が必要だった。
 私は動いた。
 今回は手が震えなかった。
 昨日まで震えていた手が、今日は震えなかった。自分でも驚いた。体が、少しずつ感情と折り合いをつけ始めているのかもしれなかった。
 処置をしながら、患者の奥さんが廊下にいることを知っていた。廊下の窓越しに見えた。手を口に当てて、祈るような姿勢で立っていた。
 気になった。心配だった。でも今は処置に集中しなければならない。その「でも」と「今は」の間を、私はかろうじて保ちながら動き続けた。
 処置が終わり、患者が安定した。
 廊下に出ると、奥さんがまだそこにいた。
「ご主人の処置が終わりました。状態は安定しています」
 奥さんの顔が崩れた。
 泣きながら、「よかった、よかった」と繰り返した。
 それから、私の手を握った。
「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
 温かかった。
 奥さんの手の温度が、私の手の平に伝わってきた。
 それはただの体温だった。でも今日の私には、それがただの体温ではなかった。
 誰かが、私に感謝している。誰かが、私の存在に意味を見出している。
 感情のなかった頃は、「ありがとうございます」という言葉を、業務の完了としてのみ受け取っていた。でも今日は違った。この人が今感じていることが、私の手の平を通して、わずかに届いてきた気がした。
 (この感触を、私は知っていた)
 三田村さんが亡くなる前夜、私が三田村さんの手を握った。あのときの感触と、今日の感触が、似ていた。
 誰かの手の温度が、伝わってくる。それが今、怖いものではなくなっていた。
 (私は、これをしたくて看護師になったのかもしれない)
 その考えが、静かに浮かんだ。
 感情のなかった頃、私は「すべきことをするために」動いていた。動機が感情ではなく、論理だった。でも今日は違う。「この人のそばにいたい」という気持ちが、動作の前にあった気がした。
 二つの動機は、似ているようで、全然違う。
 それに今、初めて気づいた。
 アパートに帰って、机の引き出しから便箋を取り出した。
 「拝啓」の二文字を見た。
 それから、ゆっくりと便箋を破いた。
 辞める理由が、今日少し、薄くなった気がしたから。

 でも翌朝、また迷いが戻ってきた。
 感情があることへの恐怖が、昨日より少し薄れて、でもまだそこにあった。また急変があったら。また手が震えたら。またうまく対処できなかったら。
 そういった「もしも」が、ぐるぐると回った。
 その日の午前中、処置が続いて外に出られなかった。午後になってようやく一息つけた頃、病院の外に出た。一階の入口脇の自動ドアをくぐった。
 十二月の冷たい風が、顔に当たった。
 駐車場の向こうに、冬の空が広がっていた。
 低く、白く、今にも雪が降りそうな空だった。
 (あの夜みたいな空だ)
 二十三歳の、雪の夜を思い出した。あの夜の空も、こんな色をしていた。
 でも今日は、その記憶が、以前ほど鋭くなかった。まだ痛かったが、今まで感じていなかった感情の種類が増えた分、その一つの記憶が占める割合が、少し小さくなった気がした。
「白石」
 背後から声がした。
 振り向くと、先生が外に出てきていた。白衣のままで、コートを羽織っていなかった。
「先生、寒いですよ」
「わかっている」
 先生は私の隣に立った。私と同じように、駐車場の向こうの空を見た。
「今日、どうだった」
「……急変がありました。うまく対処できました」
「手は震えたか」
「……震えませんでした」
「そうか」
 先生は短く言った。でも、その「そうか」の声が、いつもより少し、柔らかかった気がした。
 二人で、空を見た。
「先生」
「なんだ」
「先生は、迷ったことがありますか。外科医を続けることを」
 ふいに聞いていた。
「一度だけ、ある」
「どんなときですか」
「研修医の頃だ。患者を死なせた。自分の判断ミスで。処置の選択を誤った。防げた死だった」
 私は先生の横顔を見た。先生は空を見たまま、話していた。
「その後一週間、メスを持てなかった。怖かった。自分の判断を、信じられなくなった」
「……一週間、持てなかったんですか」
「ああ。研修室の隅で、ただ座っていた日もあった。上の先生に「どうした」と言われても、「大丈夫です」しか言えなかった。大丈夫ではなかった」
 先生が、「大丈夫ではなかった」と言った。
 その言葉の素直さに、私は少し驚いた。
「それで、どうしたんですか」
「上の先生に言われた。お前が止まっても患者は来る、と」
「それで続けたんですか」
「それだけが理由じゃない。ただ、その言葉で、自分のことだけを考えていたと気づいた。俺がメスを持てないことで、誰が困るかを、考えられていなかった」
「患者が、困る」
「そうだ」
 先生は少し、息を吐いた。白い息が冷たい空気に広がって、消えた。
「俺が怖いと思うことは、俺の問題だ。患者の問題ではない。患者には、俺の恐怖に関わっている時間はない。患者はただ、助けを必要としている。それを論理的に整理したとき、メスを持てた」
「論理的に」
「ああ。感情で乗り越えたわけじゃない。でも後から思えば」
 先生が少し止まった。
「あのとき一週間メスを持てなかったことが、俺を外科医にした気がしている。怖かったから、より慎重になった。怖かったから、判断の精度を上げようとした。怖さが、技術になった」
 私は先生の言葉を、ゆっくりと聞いた。
「先生も、感情と折り合いをつけてきたんですね」
「俺の場合は、感情を持たないようにすることで折り合いをつけてきた。だからお前とは逆だ。お前は感情をなくすことで折り合いをつけていた。俺は感情を出さないことで折り合いをつけていた」
「どちらも、間違っていたということですか」
「どちらも、正しくなかった、の方が近い」
 先生が私の方を向いた。
「白石。お前が今揺れているのは、感情を持ったことへの適応だ。俺はそれを横で見ている。一週間メスを持てなかった俺が言えた話ではないが」
「先生が一週間止まったなら、私ももう少し止まっていて、いいですか」
「……止まっていい。ただ、辞めるな」
「なぜですか」
 先生は少し間を置いた。
 先生の横顔が、冷たい空気の中で、珍しく柔らかかった。
「それはまだ、言えない」
「ずっとそう言いますね」
「言える日が来る。待っていろ」
 「待っていろ」という言葉が、妙に温かかった。
 先生が帰ってくることを前提にした言葉だった。私がどこかへ行かないことを、当然のように含んだ言葉だった。
「……わかりました」
 私は短く答えた。
 先生は頷いて、病院の中に戻った。コートを着ずに出てきたから、寒かったはずだった。でも先生は顔色一つ変えずに戻っていった。
 私は少しの間、冬の空を見ていた。
 今にも雪が降りそうで、でも降らない空だった。
 「待っていろ」
 先生の言葉を、もう一度、心の中で繰り返した。
 先生が何かを言える日を、私は待ってみようと思った。
 それは、初めて、自分が誰かを「待つ」ことを選んだ瞬間だった。

 その夜、私はもう便箋を取り出さなかった。
 代わりに、橘さんからもらっていた「感情日記をつけると楽になるよ」という言葉を思い出して、ノートを一冊買ってきた。
 机に向かって、ノートを開いた。
 最初のページに、今日感じたことを書いた。
 「急変のとき、手が震えなかった。昨日より怖かったのに、震えなかった。なぜかはわからない。でも、体はちゃんと動いた」
 「奥さんの手の温度が、温かかった。温かいという感覚を、久しぶりに確かめた気がした」
 「先生が、待っていろ、と言った。待ってみようと思う」
 それだけを書いて、ノートを閉じた。
 短かったが、書けた。
 書けた、という事実が、少しだけ、今夜の私を支えた。

 それから二週間が過ぎた。
 感情を持ったまま働くことに、少しずつ慣れてきた。
 慣れた、というのは正確ではないかもしれない。感情は相変わらず動く。患者の回復には喜び、急変には怖さがあり、別れには寂しさがある。それは変わらなかった。
 でも、感情が動いても、動きながら同時に動ける、という感覚が出てきた。揺れながら歩ける、ということが、少しずつわかってきた。波に飲まれるのではなく、波の上に乗ることができるようになりつつある。まだ不安定だったが、もう溺れそうではなかった。
 毎晩、ノートに感情を書き留めることが習慣になっていた。
 「今日、山田さんが退院した。白石さんにお世話になれてよかったと言ってくれた。嬉しかった。嬉しいという感情があることを、今日また確かめた」
 「急変は今月三件目。今日は声がかすれなかった。体が少しずつ覚えている」
 「先生が今日も廊下で声をかけてきた。昨日は眠れたかと。なぜ毎日聞くのかと思いながら、答えてしまう」
 毎夜、ノートに書くことで、感情が少しずつ整理された。洗濯物を畳むように、広がった感情を一つずつ折り畳んで、しまっていく感じだった。
 先生は毎日、私を観察していた。
 以前の「観察」とは少し違った。今の先生の目は、器具を点検するような目ではなく、何か別の目だった。廊下で私を見かけると、足が一瞬緩む。朝の申し送りのとき、私の顔を少し長く見る。何も言わないのに、視線だけがそこにある。
 その視線の意味を、私は薄々知り始めていた。
 でも、確かめることを、まだしていなかった。

 クリスマスの前日、病棟は少しだけ華やかだった。
 林さんがナースステーションに小さなツリーを飾り、有志でプレゼント交換をして、ケーキを食べた。患者の病室にも、ボランティアがポインセチアを飾りに来た。十二月の病棟に、少しだけ、外の世界の色が入ってきた。
 私はその雰囲気を、今年は少しだけ楽しめた。
 ケーキを一口食べたとき、甘くておいしかった。
 それだけのことが、去年までの私には起きなかったことだった。
 橘さんが一切れ渡しながら言った。
「白石さん、最近、顔が変わったね」
「そうですか」
「うん。なんか、表情が動くようになった。前はいつも穏やかで、きれいな顔してたけど、今の方がずっと人間みたいで、いいよ」
「人間みたい、というのは以前は人間じゃなかったみたいですが」
「ちょっと、そういう意味じゃなくて」
 橘さんが笑った。私も少し笑った。
 笑えた、という感覚が、今は自然だった。
 ケーキを食べながら、目が少し熱くなった。
 甘くておいしくて、橘さんと笑えて、それだけのことで。
 こんな小さなことで感情が動くようになった。
 それが、今は嬉しかった。

 その夜、先生からメッセージが来た。
 「時間があれば、病院の屋上に来い。二十一時」
 短い文面だった。
 私は「わかりました」と返した。
 二十一時に、屋上に向かった。
 冬の屋上は、暗くて広かった。機械室の明かりが弱く灯っているだけで、空の星が近く見えた。街の灯りが、遠くに広がっていた。
 先生は手すりのそばに立って、街の方を見ていた。今夜はちゃんとコートを羽織っていた。それがなぜか、少し可笑しかった。
「来たな」
「はい」
 私は先生の隣に並んだ。
 街の灯りが、足元から広がっていた。遠くを走る電車の灯りが、小さく光って消えた。
 しばらく、二人で黙っていた。
「言いたいことがある」
 先生が言った。
「はい」
「聞いていいか」
「……どうぞ」
「お前は今、俺に対して何を感じているか」
 私は少し戸惑った。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ。好きか嫌いか、怖いか鬱陶しいか、何でもいい。感情の話をしている」
 私は少し間を置いた。
 先生に対して何を感じているか。それは、ここ数週間、ノートに書くたびに出てきていた問いだった。
 答えることができるかどうか、今まで自信がなかった。
 でも今夜、先生が直接聞いてきた。
「鬱陶しいと思ったことはあります」
「そうか」
「怖いと思ったことも、最初はありました」
「そうか」
「今は……」
 私は、手すりの向こうの街を見た。
 たくさんの灯りが並んでいた。それぞれの灯りの下に、それぞれの誰かがいる。誰かのそばに誰かがいる。そういう夜が、毎夜繰り返されている。
「先生のそばにいると、何かが動きます」
「何かが、とは」
「名前がわかりません。でも、先生の顔を見ると、胸の中で何かが動く。先生がいない日の病棟は、何かが足りない感じがします。先生の声を聞くと、落ち着きます。先生が何かを言うとき、どんな言葉でも、ちゃんと届きます」
 私は先生の方を向いた。
「それが何なのか、私にはまだ正確な言葉がありません。でも、悪いものではないとは思っています」
 先生が、私の方を向いた。
 その目が、今まで一度も見たことのない色をしていた。
 冷たくなかった。測る目でもなかった。ただ、まっすぐに、私を見ていた。
「俺も、言葉がない」
 先生が言った。
「先生も?」
「ああ。感情に正確な言語を当てることは、俺には難しい。でも」
 先生は少し間を置いた。
「お前がそばにいることが、当たり前になってきた。お前がいない空間に、足りなさを感じる。お前が泣いたとき、俺の中で何かが崩れた。こんなはずではないと思った。それはお前を実験対象として見ていた自分が崩れた、ということだ。気づいたときには、お前は実験対象ではなくなっていた」
「何になったんですか」
 先生が、少し黙った。
「……それを言語化するのが、俺には難しい。ただ、お前に辞めてほしくないと思ったとき、俺は初めて誰かに、そばにいてほしいと思っていた」
 夜の空気が、冷たかった。
 でもその冷たさが、今夜は澄んで感じた。
「先生」
「なんだ」
「お前が泣けない彼女でも泣ける彼女でも、というような意味のことを、あの雪の夜に言いましたね」
 先生が、少し止まった。
「……ああ」
「私は今、泣けます」
「知っている」
「知っているのに、あの言葉を言ったんですか」
「ああ。お前が泣けなかったときから、俺はもうそばにいたかった。それは変わらないということを、言いたかった」
 私の目が、熱くなった。
 こみ上げてくるものがあった。涙ではなかった。もっと深いところから来る、何か。
「先生」
「なんだ」
「私も、先生のそばにいたいです」
 先生は何も言わなかった。
 でも、その目が、今夜だけは穏やかだった。
 先生の手が伸びてきて、私の頭に触れた。
 あの夜と同じように。でも今夜は、もう少し確かな重さで。
「お前が泣くのは、弱さじゃない」
 先生が言った。
「俺がそばにいる理由だ」
 その言葉が、胸の奥まで届いた。
 九年分の空白に、その言葉が静かに落ちてきた。
 全部埋まったわけではなかった。でも先生がそばにいるなら、少しずつ埋めていける気がした。
「先生」
「なんだ」
「私は先生のことが好きです」
 先生が、止まった。
 頭の上の手が、止まった。
 少しの間、静寂があった。
 遠くで電車が走る音がした。街の灯りが、そのまま輝いていた。
「……そうか」
「そうかじゃなくて」
「先生も、ですか、と聞くのか」
「聞きます」
 先生は少しの間、私の目を見た。
 それから視線を街に向けたまま、低い声で言った。
「俺も」
 その二文字が、今夜の一番の言葉だった。
 それ以上は言わなかった。説明も、飾り言葉も、何も加えなかった。ただ「俺も」と言った。
 私はその二文字を、胸の中にしまった。
 大切にしまった。
 その直後、空から白いものが舞い始めた。
 雪だった。
 十二月の初雪だった。
 先生が空を見上げた。私も空を見上げた。
 白い粒が、街の灯りを背景に、静かに降ってきた。
 私は手のひらを上に向けた。雪が一粒、手の平に落ちて、すぐに溶けた。
 冷たかった。
 確かに、冷たかった。
 でも今夜は、その冷たさが嫌いではなかった。
 先生も手のひらを上に向けた。隣に並んで、同じように雪を受けた。
 二人で、降り始めた雪を見た。
 しばらく、何も言わなかった。でも何も言わなくてよかった。
 先生の「俺も」という言葉が、雪と一緒に、静かにそこにあった。
 それで、十分だった。

 翌年の春になった。
 病棟の窓から、桜の木が見えるようになった。
 外科病棟から見える中庭の隅に、一本だけある桜の木が、三月の終わりに白い花をつけた。前の年も、その前の年も、同じように咲いていたはずだった。でも今年は、咲いていることに気づいた。
 窓に近づいて、少しの間、その花を見た。
 白くて、柔らかくて、風が吹くとはらはらと揺れた。
 (綺麗)
 そう思った。思えた。
 去年まで、桜を見て綺麗と思ったことがなかった。見ていなかったわけではない。ただ、感じることができなかっただけだ。
 感じることができる、ということが、今はまだ、少し不思議だった。
 でも嬉しかった。

 春になっても、変わらないことがある。
 朝の申し送りは七時三十分。回診があり、処置があり、手術がある。患者が生きることと、死ぬことが、ある。病棟は今日も動いている。
 変わったことがある。
 私の中に、感情がある。
 患者が笑えば、嬉しかった。患者が死ねば、悲しかった。同僚が疲れていれば、心配になった。処置がうまくいけば、満足した。失敗すれば、悔しかった。
 それらの感情を、今は少しずつ、上手に扱えるようになっていた。
 波に飲まれなくなった。揺れながらも、立っていられるようになった。
 ノートは三冊目になっていた。

 ある朝の回診のことだった。
 朝霧先生が病棟に来た。コートを脱ぎながら廊下を歩いてくる姿は、一年前と変わらなかった。背が高く、足音は静かで、冷えた目が前を向いていた。
 でも一つだけ、変わったことがあった。
 私を見たとき、先生の足が少し緩む。毎朝、決まってそうなる。
 他のスタッフには気づかれていないと思う。あるいは気づいていても、言わないでいる。先生は私以外のスタッフに対して、まったく変わらなかった。冷徹で、簡潔で、無駄がなかった。
 先生は、先生のままだった。
 ただ、私にだけ、少し違った。

 ある朝、申し送りが終わった後のことだった。
 先生がカルテを手に、次の処置に向かおうとしていた。私も別の処置の準備に向かうところだった。廊下ですれ違った。
 先生が、私の方に顔を向けた。
 他のスタッフが廊下にいる中で、先生はそのまま通り過ぎようとしたが、直前でわずかに足を止めた。
「昨夜は眠れたか」
 小さな声だった。他のスタッフに聞こえないほどの声だった。
「はい、よく眠れました」
「そうか」
 それだけ言って、先生は歩き始めた。
 橘さんがすぐ後ろにいて、「また先生に聞かれてる」と小声で言った。
「何がですか」
「昨夜の話。先生って毎朝、白石さんにだけそれ聞いてるの、気づいてた?」
「……そうなんですか」
「気づいてなかったの?」
 私は少し、考えた。
 毎朝先生が声をかけてくることは、わかっていた。でも「毎朝」「白石さんにだけ」という組み合わせは、改めて言われると、少し顔が温かくなった。
「冷暖房の調整がおかしい気がします」
「毎日その言い訳してる」
 橘さんが笑った。
 私も、笑った。

 その日の午後、私が廊下を歩いていると、小児科から転棟してきたばかりの小さな女の子と出会った。
 五歳くらいだろうか。ガーゼの帽子をかぶって、点滴のスタンドを押しながら、ちょこちょこと廊下を歩いていた。
「こんにちは」
 私が声をかけると、女の子は立ち止まって私を見上げた。
「おねえさん、だれ?」
「白石っていうの。看護師よ」
「かんごしさん? おいしゃさんとちがうの?」
「うん、違うよ。お医者さんが病気を治して、看護師さんはそのそばにいるの」
 女の子は少し考えてから、「じゃあかんごしさんの方がいい」と言った。
「なんで?」
「だってそばにいてくれるから」
 私は笑った。
 本当に、自然に笑えた。
「そうだね」と言って、女の子の帽子を直してあげた。
「えへへ」と女の子が笑って、またちょこちょこと歩き始めた。
 その後ろ姿を見ながら、私は思った。
 「そばにいてくれるから」
 私が看護師を続けている理由が、今はそれになっていた。
 するべきだから、ではなく。
 そばにいたいから。
 その違いが、今の私には、すべてだった。

 廊下の端に、先生が立っていた。
 いつからいたのかわからなかった。カルテを持ったまま、私と女の子のやりとりを見ていたらしかった。
 目が合った。
 先生は何も言わなかった。でも、何も言わないまま少しの間、私を見ていた。
 私も何も言わなかった。
 先生がカルテを開いて、また歩き始めた。
 その背中を見ながら、私は思った。
 先生は何も言わなかった。でも、見ていてくれていた。
 それで、十分だった気がした。

 夕方の処置が終わって、病棟が落ち着いてきた頃、先生が私のそばに来た。
「時間はあるか」
「はい、あります」
「少し付き合え」
 また、病院の外に連れ出された。
 今夜は、病院の近くを二人で歩いた。特に目的地はなかった。先生はポケットに手を入れて、私の隣を歩いた。
 桜並木があった。
 春の夜の並木道は、花びらが散り始めていて、地面に薄く積もっていた。街灯の光が、白い花びらを照らしていた。
「綺麗ですね」
 私は言った。
 先生は少し、その桜を見た。
「そうか」
「先生は、綺麗だと思いませんか」
「……思うかもしれない」
 思うかもしれない、という答え方が、先生らしかった。
「去年の春は、見ていませんでした。桜があることを、知っていたけど、感じていなかった」
「今年は感じるか」
「感じます」
 先生が少し、私の方を向いた。
「よかった」
 小さな声だった。でも確かに、そう言った。
 私は先生の横顔を見た。
 先生の目が、桜の方を向いていた。白い花びらが一枚、先生の肩に落ちた。先生はそれに気づかずに歩いていた。
「先生、肩に花びら」
「ほっておけ」
「取りますよ」
 私は手を伸ばして、先生の肩の花びらを取った。
 白くて、薄くて、すぐに風に飛ばされていった。
 先生が少し私を見て、それからまた前を向いた。
「白石」
「はい」
「お前が笑うと、俺も何かが動く」
 言いかけていた言葉を、今夜は最後まで言った。
 私は少し驚いた。
「何かが動く、とは」
「名前はまだわからない。でも、お前が笑うと、俺の中で何かが変わる。それが何なのかを、俺は今も探している」
「見つかりそうですか」
「……お前の近くにいれば、見つかる気がしている」
 その言葉が、夜の桜並木の中に静かに広がった。
 私の胸の中で、何かが温かく動いた。
 名前は、知っていた。
 でも今夜は、先生が自分で見つけるまで、待とうと思った。
 先生に「待っていろ」と言われたように、私も待てる。
 それが、今の私にできることだった。

 桜並木の端まで来て、二人で立ち止まった。
 並木の向こうに、夜の街が広がっていた。灯りが、たくさんあった。
 先生が言った。
「お前が感情を持つ前のことを、覚えているか」
「はい、覚えています」
「あの頃のお前は、何かが足りなかった」
「そうですね」
「今は」
「今は……足りています」
 先生が少し、私の方を向いた。
「俺も、今は足りている」
 その言葉が、先生にしてはずいぶんと、率直だった。
 私は少し笑った。
「先生が「足りている」と言うのは、珍しいですね」
「滅多に言わない言葉だ」
「ありがとうございます」
「礼を言う場面ではない」
「でも、嬉しいので」
 先生は何も言わなかった。
 でも、その横顔が、今夜は少しだけ、柔らかかった。
 先生がコートのポケットに手を戻して、また歩き始めた。
 私も隣を歩いた。
 足音が、二人分聞こえた。
 桜の花びらが、また一枚、夜の風に乗って舞った。
 春に向かう夜の道を、私たちは並んで歩いた。
 感情があることが、もう怖くなかった。
 感じることが、今は少しだけ、好きだった。
 誰かのそばにいることが、今は少しだけ、温かかった。
 それが、今の白石美月だった。

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