冷徹な天才医師は泣けない彼女を溺愛する
第五章 嵐のあとの春
四月の第二週、病棟に新しい看護師が来た。
異動ではなく、中途採用だった。前の病院では外科病棟で三年の経験があると聞いていた。名前は、篠原涼香。二十六歳。
私より二歳年下だった。
最初に会ったとき、篠原さんは柔らかく微笑んだ。
「白石先輩ですよね。朝霧先生の専属看護師さんって聞いています。すごいですね、よろしくお願いします」
声は明るく、表情は穏やかで、第一印象は悪くなかった。長い黒髪をきれいにまとめていて、立ち居振る舞いも丁寧だった。
私は「こちらこそよろしく」と返して、その日は終わった。
何も感じなかった。感じなかった、というのは以前の「感情がない」という意味ではなく、本当に特別な印象がなかった、ということだ。
この人物が、この先しばらくの間、私の日常をすっかり変えてしまうことを、そのときの私はまだ知らなかった。
篠原さんは、仕事が早かった。
初日から臆せず動き、患者への対応も自然で、先輩への質問のタイミングも的確だった。林さんが「即戦力ね」と言っていた。橘さんも「飲み込みが早い」と話していた。
仕事ぶりを見ている限り、確かにそうだった。
ただ、一つだけ気になることがあった。
篠原さんは、朝霧先生への対応が、他のスタッフと少し違った。
先生が回診に来ると、篠原さんは必ずその場にいた。偶然にしては、頻度が高すぎた。先生が何か言うと、他のスタッフより少しだけ前に出て、「私がやります」と言った。先生が帰り際に廊下を歩いていると、何かと理由をつけて同じ方向に歩いた。
私はそれを、いくつかの場面で目にした。
(先生に取り入ろうとしている)
そう感じたが、確信はなかった。新しいスタッフが部長の動きを把握しようとするのは、不自然なことではないかもしれない。
私はそれ以上考えるのをやめて、自分の仕事に戻った。
今思えば、あのとき少し慎重に見ておくべきだったのかもしれない。
異変は、二週間後から始まった。
最初は小さなことだった。
私が手術前の準備室でチェックリストを確認していると、器具の一つが足りなかった。必ず前日の夕方に確認して、棚に並べておいたはずのものだった。
「白石さん、これ足りないんだけど」
当直医の一人が眉をひそめた。
「申し訳ありません、すぐに取ってきます」
急いで器具室に走った。間に合ったが、準備に数分の遅れが出た。
(昨日確認したはずなのに)
棚を振り返ると、器具はそこになかった。確かに自分の目で並べたはずだった。
でも、思い違いかもしれない。疲れていたのかもしれない。
そのときはそう思って、終わりにした。
二日後、似たようなことが起きた。
今度は、患者の記録ファイルに、私が書いた観察メモが一枚、抜けていた。朝の申し送りで先生に「311号室の昨日の様子は」と聞かれたとき、私はファイルを開いて確認しようとして、メモがないことに気づいた。
「……少しお待ちください」
記憶から答えた。内容は頭に入っていたから問題はなかったが、ファイルを見てすぐに答えられなかったことで、先生の眉が微かに動いた。
「確認できていないのか」
「いいえ、確認しています。ただ、メモが見当たらなくて」
「そういうことは事前に整備しておけ」
「はい、申し訳ありません」
短い、いつも通りのやりとりだった。でも、先生に「申し訳ありません」と言うことが、今まであまりなかった。
(どうして抜けていたんだろう)
帰宅後、そのことをノートに書いた。
「二日続けて、準備したものがなくなっていた。疲れのせいかもしれない。でも確認した記憶がある。引き続き注意する」
その時点ではまだ、自分のミスだと思っていた。
一週間後の昼休み、私が休憩室に入ると、二年目の木村くんと、篠原さんが話していた。
私が入ると、篠原さんの話し声が消えた。
「あ、白石先輩、お疲れ様です」
篠原さんは明るく言った。木村くんが少し、視線を泳がせた。
「お疲れ様」
私はお茶を入れながら、何気なく聞いた。
「何の話をしていたの?」
「いいえ、別に大した話じゃないですよ」
篠原さんが笑った。
木村くんがお茶を飲んだ。
その微妙な間が、少しだけ気になった。でも、大げさに受け取るのも違う気がして、私はそのまま窓の外を見た。
その日の午後、廊下で別のスタッフとすれ違ったとき、その人が私に少し不自然な笑みを向けて通り過ぎた。
いつもと少し、違う気がした。
(気のせいかな)
そう思って、仕事に戻った。
五月になった。
篠原さんが来て一ヶ月が過ぎた頃から、病棟の空気が、微かに変わり始めた。
変わった、と感じたのは、視線だった。
私が廊下を歩くと、何人かのスタッフの視線が、以前と少し違う気がした。避けているわけではなかった。でも、どこかぎこちなかった。普通に話しかけてくるのに、何かが薄い膜を一枚、隔てているような感じがした。
感情を取り戻してから、私はそういう微細な変化に気づくようになっていた。以前の私なら、気づかなかったかもしれない。
橘さんだけは、いつも通りだった。
ある朝、橘さんが記録を入力しながらそっと言った。
「白石さん、最近何かあった?」
「……何かとは」
「変な噂が回ってる気がして」
私は橘さんを見た。
「どんな噂ですか」
「具体的には言えないんだけど」
橘さんが少し困った顔をした。
「白石さんが最近ミスが増えているとか、患者さんへの対応が雑になっているとか、そういう感じのことを……誰かから聞いた、っていう形で、いくつか耳に入ってきたの」
私は黙った。
「私はそう思ってないよ、全然。だからこそ変だと思って」
「……誰が言っていたか、わかりますか」
「それが、みんな「誰かから聞いた」っていう形で。出どころがはっきりしないの」
出どころがはっきりしない噂。
私は少し考えた。
ミスが増えている、という噂。でも私のミスは、器具がなくなっていたことと、メモが抜けていたこと、その二つだけだ。他に思い当たることはなかった。
(誰かが何かをしている)
でもまだ、確信はなかった。証拠もなかった。
「橘さん、教えてくれてありがとう。気をつけます」
「うん。何かあったらすぐ言ってね」
橘さんが戻っていった。
私は画面を見つめながら、記憶を整理した。
器具がなかった。メモが抜けていた。休憩室で話が止んだ。視線が変わった。
一つひとつは偶然かもしれない。でも積み重なると、偶然と呼ぶには多すぎた。
その日の夕方、私は少し早めに残って、器具の準備室を念入りに確認した。
翌日の手術用の器具を、リストと照合しながら一つずつ確認して、棚に並べた。それから、棚のそばの小さな窓の反射に映る自分の手元を確認しながら、メモに「確認済み・白石美月・17:45」と書いて、ファイルに挟んだ。
証跡を残す、ということを意識し始めた。
翌朝、確認しに来ると、器具は一つ足りなかった。
私はメモを見た。昨夜確認した、同じ棚の同じ位置に、器具が足りない。
(やはり、誰かが動かしている)
ようやく確信が持てた。
でも誰が、と問われると、まだわからなかった。確信はあっても証拠はない。
私は足りない器具を補充して、何も言わなかった。
今はまだ、動くべきではないと思った。
その週の木曜日、篠原さんが朝霧先生に声をかける場面を、私は処置室の前で見た。
先生が廊下を歩いていると、篠原さんが近づいた。
「朝霧先生、先日の術後患者の観察記録なんですが、少し気になることがあって。直接ご意見を聞いてもいいですか」
先生は立ち止まった。
「何が気になる」
「記録の書き方について、自分のやり方が正しいかどうか確認したくて。少しだけお時間を」
先生は「ここで話せ」と言った。
篠原さんはにっこりと笑った。
「実は昨日、白石先輩の書いた記録を参考にしていたんですが、少し気になるところがあって。先生のお考えを聞けると嬉しいんですが」
処置室の前で足が止まった。
(私の記録に気になるところがある、と先生に言った)
先生が篠原さんの話を聞き始めた。私は処置室に入って、扉をそっと閉めた。
心臓が少し、速くなった気がした。
感情がある、ということは、こういう場面でも感情が動く、ということだった。
(落ち着いて)
自分に言い聞かせながら、処置の準備を始めた。
篠原さんが言った「気になるところ」が何なのかは、聞こえなかった。でも先生が私の記録について、何かを篠原さんから聞いた、ということは確かだった。
それが何を意味するかを、私はその日の夜、ノートに書いた。
「篠原さんが、先生に私の記録について何かを言った。正確な内容は不明。でも、先生が私の仕事について何かを聞いた。これまでの噂と合わせると、意図的に私の評価を下げようとしている可能性がある。証拠はまだない」
ノートを閉じて、ふーっと息を吐いた。
胸が重かった。
でも、今夜は泣かなかった。泣きたいとも思わなかった。
ただ、何かが、静かに固まった。
私はこの状況に、向き合わなければならない。感情ではなく、証拠で。
六月に入った頃から、朝霧先生の態度が、少しずつ変わり始めた。
最初は、申し送りのときだった。
先生はいつも、申し送りの終わりに私の顔を見た。それが習慣のようになっていた。でも六月の第一週から、その視線が来なくなった。
最初は気のせいかと思った。
でも三日経っても、四日経っても、変わらなかった。先生は申し送りを淡々と終え、そのまま廊下を歩き始めた。私の顔を見なかった。
それだけじゃなかった。
回診の際、以前は私に直接確認していた患者の状態を、篠原さんに聞くようになった。篠原さんが先生の隣に自然に立ち、先生も自然にそれを受け入れていた。
廊下ですれ違っても、先生はもう「昨夜は眠れたか」と聞かなくなっていた。
私に対する先生の態度が、冷えていた。
冷えていた、というのは語弊があるかもしれない。先生はもともと冷徹だ。誰に対しても。でも私に対してだけ、少しだけ違った温度があった。それが、消えていた。
ある朝、私が先生の担当患者のひとり、六十代の西川さんの処置を終えて記録を書いていると、先生が来た。
「西川の傷口の状態はどうだ」
「昨日より浸出液が減っています。創部の発赤もほぼ消退しました。経過良好です」
「篠原に確認しろ。今朝の状態を先に確認していたはずだ」
私は手が止まった。
「……私も今朝、確認しました。先ほど処置も」
「それはわかっている。篠原からも報告を受けた。両方確認してから報告してほしかった」
先生は淡々と言って、歩き去った。
私は画面の前に座ったまま、しばらく動けなかった。
篠原さんが、先生に西川さんの報告をしていた。それ自体は問題ではない。でも先生が「篠原に確認しろ」と言った。先生が私より篠原さんの報告を優先している。
(何かを聞いたんだ)
先生が私に対して距離を取り始めた理由は、篠原さんからの情報にある。そう確信した。
でも何を聞いたのか。何を言われたのか。私には直接わからなかった。
その日の昼休み、橘さんが隣に来た。
「白石さん、大丈夫?」
「はい」
「さっき先生に篠原さんへの確認を言われてたの、見てた」
「……見てたんですね」
「先生、最近ちょっと変じゃない? なんか、篠原さんばっかり」
橘さんが声を低くして言った。
「私にはよくわかりません」
「でも先生、前は白石さんのことを一番信頼してたじゃない。何があったのかな」
「……」
「あ、ごめん。変なこと言って」
「いいえ、気にしていません」
でも気にしていた。
感情があるから、気にしていた。
先生が篠原さんを信頼しかけている。篠原さんが先生に取り入っている。私への評価が下がっている。噂が広まっている。
全部が繋がっていた。
私はひとりで、静かに、その糸を手繰り始めていた。
その週の金曜日の午後、私の更衣室のロッカーを開けると、上着がなかった。
退勤時に羽織るためにかけておいた薄手のジャケットが、消えていた。
ロッカーは鍵をかけていなかった。いつもかけない習慣だったし、病棟のスタッフが互いのロッカーを触ることは、ほとんどない。
周りを確認したが、見当たらなかった。
(また、だ)
器具。メモ。そして今度は上着。
陰で、わからないようにされている。
怒り、という感情が、じわりと浮かんだ。
でも今夜は、その怒りを冷静に扱おうと思った。怒りは証拠にならない。
翌日、上着はロッカーの床に落ちていた。まるで最初からそこにあったように。
踏まれたような跡が、裾についていた。
六月の中旬、決定的な場面があった。
その日の夕方、私は処置室の隣の小部屋で翌日の準備をしていた。壁が薄く、隣の処置室の声が聞こえることがある。
聞こえてきたのは、篠原さんの声だった。
「先生、少し気になっていることがあって」
先生の声も聞こえた。
「なんだ」
「白石先輩のことなんですが……最近、患者さんへの対応が以前と変わってきた気がして。前は完璧だったのに、最近は処置中に少し雑になっている場面を、何度か見たんです。患者さんから直接、白石さんの対応について不満の声を聞いたこともあって」
私は手を止めた。
体が動かなかった。
「患者から直接、不満を聞いたのか」
「はい。もちろん私から何か言うつもりはないんですが、先生のチームのことだから、先生にはお伝えすべきかと思って」
先生が黙っていた。
「白石さんも最近大変そうで、もしかしたら疲れているのかもしれないし、先生から少し様子を見てあげてもらえると、白石さんも助かるんじゃないかと思って。先生、白石さんのこと気にかけているじゃないですか」
篠原さんの声が、柔らかかった。心配している風を装っていた。
「……わかった」
先生の声がした。
私は準備室の壁に手をついた。
患者から不満の声を聞いた、と篠原さんは言った。でもそれは、嘘だ。私は患者のそばにいるときの自分の行動を、何度も確認している。雑になったことはない。患者からそういう言葉を受けたこともない。
篠原さんは嘘をついている。
先生に、嘘をついている。
そして先生は、それを聞いている。
私は壁から手を離して、静かに息を吐いた。
怒りが、今度ははっきりとあった。
でも、怒りで動いてはいけない。そう思った。感情ではなく、事実で動かなければならない。
(私には何もできない、のか)
そのとき、脳裏に浮かんだのは、二十三歳の冬ではなかった。
長い間、感情を閉じたまま働いてきた自分でもなかった。
三田村さんが「白石さん、大丈夫」と信じてくれた目が、浮かんだ。
悠斗が「白石さん、いる?」と夜中に呼んだ声が、聞こえた気がした。
奥さんが手を握りながら「ありがとうございます」と言ったときの温度が、手の平に残っていた。
(私が正しく動いてきたことを、患者さんたちは知っているはず)
それだけが、今の私の根拠だった。
その夜、先生からメッセージが来た。
「明日、少し話したい。業務終了後に時間を作れるか」
私は少し間を置いてから返信した。
「はい、大丈夫です」
先生が「話したい」と言ってきた。篠原さんの話を聞いた後で。
どんな話をされるのか、怖くないと言えば嘘になった。
でも、向き合うしかない。
ノートを開いて、今日聞こえたことを、できる限り正確に書き留めた。篠原さんの言葉。先生の反応。時間。場所。その日のうちに、記録した。
これが、唯一、今の私にできることだった。
翌日の業務終了後、先生の執務室に呼ばれた。
先生は椅子に座って、私が入ると向かいに座るよう促した。
「話を聞いた」
先生が言った。
「篠原さんから、ですか」
「それだけじゃない。ほかのスタッフからも、お前の最近の仕事について、いくつか話が来ている」
私は先生を見た。
「具体的には、どのような話ですか」
「処置が雑になっている。患者への対応が変わった。ミスが増えている。そういう話だ」
「……私は、そのような仕事をした覚えがありません」
「ではなぜそういう話が来る」
「それを今、調べています」
先生が少し止まった。
「調べている、とは」
「器具の紛失が何度もあって、記録のメモが抜けることがあって、私のロッカーの物が移動していることがある。全部、私の不注意かと思って最初は流していましたが、意図的に誰かが行っていると判断しています」
「証拠はあるか」
「今集めています。先生に報告できるレベルになったら、必ずお伝えします」
先生はしばらく私を見ていた。
「白石」
「はい」
「俺は今、どちらの話が正しいか、判断できない」
その言葉が、静かに刺さった。
今まで先生は私を信頼してくれていた。「俺はお前を信頼している」と言葉にしたことはなかったが、行動でそれを示してきた。でも今は、「どちらが正しいかわからない」と言っている。
それは、私への信頼が揺らいだということだ。
「わかりました」
私は静かに言った。
「証拠を揃えてから、もう一度話します」
先生は頷かなかった。ただ、私を見ていた。
その目に、何があるのかを読み取ることが、今夜は難しかった。
私は立ち上がって、先生の執務室を出た。
廊下に出ると、誰もいなかった。
窓の外には、六月の夜が広がっていた。
(先生が、私を信じていない)
その事実が、今夜は重かった。
感情があることで、重さが正確に届いた。
でも今夜は、泣かなかった。
泣く代わりに、歩いた。目的地を決めずに、病院の廊下を少しだけ歩いた。
歩きながら思った。
(証拠を揃える。それだけだ)
感情で動かない。事実で動く。
それが今の私にできる、唯一のことだった。
証拠を集めないといけない。
感情的に動くことは、今回は選ばなかった。誰かを責めることも、先生に訴えることも、同僚に相談することも、まだしなかった。
ただ、記録した。
毎日、準備した器具の配置をスマートフォンで写真に撮った。メモを書いたファイルの状態も撮った。ロッカーの中も撮った。時刻と日付を確認できる形で。
一週間後、また器具が動いていた。
写真を見比べると、昨日の夕方と今朝で、棚の配置が変わっていた。私は動かしていない。
証拠が一つ、手元に来た。
もう一つの方法として、私は患者に直接確認することにした。
篠原さんが「患者から白石への不満を聞いた」と言った。それが嘘なら、患者が証明してくれる。
私は担当患者を一人ずつ、自然な会話の中で確かめた。
「最近の処置は、何か気になることがありましたか」
「いいや、白石さん、いつも丁寧でありがたいよ」
「何かお気づきのことがあれば、遠慮なく言ってくださいね」
「逆に、何かあったの?」
「いいえ、確認のためです」
担当患者七名のうち、七名全員が、私の対応について不満を言っていなかった。
「最近来た新しい看護師さんに、白石さんへの不満を言ったことはありましたか」という問いに対しては、全員が「そんなこと言っていない」と答えた。
篠原さんの言葉は、嘘だった。
これで証拠が二つ。
三つ目の証拠は、思いがけない形で来た。
木村くんが、ある朝、私の隣に来た。
「白石さん、少しいいですか」
木村くんは少し、困った顔をしていた。
「どうしたの」
「あの……俺、以前に篠原さんから話を聞いたことがあって。白石さんがミスを隠しているって。証拠があるから、そのうち先生に報告するつもりだ、って言ってたんです」
私は黙って聞いた。
「その話を俺、信じちゃって。それで何人かに話を……してしまって」
木村くんの顔が、赤くなった。
「ごめんなさい。よく確認もしないで。最近白石さんに対する空気がおかしいの、俺が広めてしまったことも原因の一つで」
「……木村くん、それを話してくれてありがとう」
私は静かに言った。
「白石さん、怒らないの?」
「怒っています。でも木村くんに対してじゃない」
「……俺、あのとき何か変だって気づくべきでした。篠原さんって、白石さんの悪口を言うとき、すごく楽しそうだったから」
楽しそうだった。
その言葉が、重かった。
「木村くん、証言として話してもらえる?」
「……はい。言えることは全部言います」
これで三つ目の証拠が、揃った。
橘さんにも、話を聞いた。
橘さんは「変な噂が回っている」と以前から気にしていた。出どころを確認していてくれていたらしく、「篠原さんから」という話が複数経路で確認できたと教えてくれた。
「私も、白石さんをずっと見てきたから。白石さんが雑な処置をするわけないって思ってた。篠原さんから話を聞いたとき、変だとは感じていたんだけど、直接確認しないで広めてしまったスタッフも、反省している」
「橘さん、ありがとう」
「ごめんね、もっと早く動けばよかった」
「橘さんが教えてくれたから、気づけた。それで十分です」
これで、四つの証拠が揃った。
写真による器具の移動の記録。患者全員の証言。木村くんの証言。橘さんが集めた噂の出どころ。
私は全部をノートに整理して、先生に報告できる形にした。
報告する前の夜、私はアパートで一人、ノートを見ていた。
証拠は揃った。でも、これを先生に持っていくとどうなるか。
篠原さんが排除されるかもしれない。先生の信頼が私に戻るかもしれない。でも、そうならないかもしれない。
先生はいつも、論理で動く。証拠があれば、正しい判断をするはずだ。でも、人間は時々、感情で判断する。篠原さんとの距離が縮まったことで、先生の中に何かが変わっていたら。
(怖い)
そう思った。
感情があるから、怖いと思えるのだろう。
先生に信じてもらえなかったら。また「どちらが正しいかわからない」と言われたら。
でも、今夜は怖さに負けないことにした。
正しいことをした記録がある。患者が証明してくれた。仲間が証言してくれる。
それだけの誠意が、私にはある。
誠意を持って向き合うことを、今の私は怖がらない。
先生が「今からでも遅くはない」と言った夜のことを思い出した。
あのとき先生が言ったのは、感情の話だった。でも今夜は、自分がその言葉を、別の意味で使う番だった。
今からでも遅くはない。
ノートを閉じて、立ち上がった。
明日、先生に話す。全部を持って、先生に話す。
それだけだ。
翌日の業務終了後、私は先生の執務室のドアをノックした。
今回は呼ばれたのではなく、自分から来た。
「入れ」
先生の声がした。
ドアを開けると、先生はデスクに向かっていた。こちらを向いて、私が手にノートとスマートフォンを持っていることを見た。
「話があります」
「座れ」
私は椅子に座った。深呼吸を一つした。
「先日、証拠を揃えると言いました。揃えました」
先生は黙って聞いていた。
「先生に報告されていた私の仕事への不満は、事実ではありません。証拠が四点あります」
私はスマートフォンを取り出した。
「まず、器具の紛失についてです。今月、準備した器具が計六回、翌日に足りない状態になっていました。私が夕方に確認した状態の写真を、日付と時刻つきで記録しています。翌朝に変化している写真もあります。私は動かしていない。これは、第三者が動かしていることを示しています」
先生がスマートフォンの写真を見た。
「次に、患者の証言です。篠原さんは先生に「患者から白石への不満を聞いた」と言いました。しかし私が担当患者七名全員に確認したところ、そのような言葉を言った患者は一人もいませんでした。記録があります」
先生の目が、少し動いた。
「三点目に、木村くんの証言です。篠原さんは、白石がミスを隠しているという話を木村くんにしていました。木村くんはそれを信じて他のスタッフに話し、噂が広まった。篠原さんが意図的に噂を流していたことが、確認できています」
「木村が、そう言ったのか」
「はい。木村くんは直接話してくれました」
先生は少し間を置いた。
「四点目に、橘さんが収集した噂の出どころです。この病棟で回っていた私への不満の噂は、複数の経路を遡ると、全て篠原さんに行き着きます。橘さんが丁寧に確認してくれました」
私はノートを閉じた。スマートフォンをテーブルに置いた。
「以上が、私が揃えた証拠です」
先生は、しばらく、何も言わなかった。
執務室の外から、夜の病棟のかすかな音が聞こえた。どこかのナースコール。廊下の足音。空調の低い音。
「……なぜ、すぐに俺に言わなかった」
先生が、静かに言った。
「証拠がない状態で言っても先生は、どちらが正しいかわからない、とおっしゃいました。感情の話として言っても、意味がないと判断しました。だから証拠を揃えました」
「それだけか」
「……あとは」
私は少し間を置いた。
「先生に証拠なしで信じてほしかった、という気持ちは、あります。でも、それは望みすぎだと思いました。先生は論理の人だから、証拠を持って来るべきだと」
先生が私を見た。
「白石」
「はい」
「お前は、俺を責めていないのか」
その問いが、少し意外だった。
「……責めていません」
「なぜだ。俺はお前を信じなかった」
「先生は、嘘をつかれたんです。私が怒るべき相手は、先生ではありません」
先生は何も言わなかった。
長い沈黙が続いた。
先生の目が、今夜は、揺れていた。あの冷えた瞳が、わずかに揺れていた。
「……俺の判断が、間違っていた」
先生が言った。
「先生は騙されたんです」
「それは言い訳だ。俺はお前を長い時間見てきた。お前がどういう人間かを知っていたはずだった。それなのに、篠原の話を聞いて、お前との距離を取ってしまった。それは……間違いだった」
先生の声に、普段の先生には珍しい何かがあった。自分を責めている声だった。
「先生」
「なんだ」
「先生が謝ることはないです」
「謝罪ではない。事実だ」
「……わかりました」
私は少し、先生の顔を見た。
先生の目が、まっすぐに私を見ていた。
「白石。お前が誠意を持って証拠を集めてきたことを、俺は正直に言えば、予測していなかった」
「どういう意味ですか」
「感情的になっても不思議ではなかった。俺への不満を爆発させても、不当ではなかった。でもお前は、感情ではなく事実で動いた」
「感情はありました。怒りもありました。怖さも」
「でも、それで動かなかった」
「感情は、情報だと思っています。先生が教えてくれた言葉です」
先生が、少し止まった。
「……俺が言ったのか」
「はい。感情と思考の境目がわからない、とも言っていました。あの公園で」
先生の目が、少し柔らかくなった。
「覚えているのか、そんなことまで」
「全部覚えています」
先生は少し間を置いた。
「……そうか」
その「そうか」が、今夜はいつもより重かった。
「明日、対応する」
先生が立ち上がった。
「対応、とは」
「篠原に対してだ。お前が集めた証拠を俺が確認した以上、適切な対応を取る。詳細はお前には言わないが、同じことは二度起きない」
私は先生の顔を見た。
「先生に、お任せします」
「ああ」
先生はそれだけ言って、コートを手に取った。
「帰るか」
「はい」
廊下に出た。夜の病棟は静かだった。
先生が隣を歩いた。私も歩いた。
足音が、二人分聞こえた。
それが、今夜は、ものすごく安心した。
翌日、篠原さんは午前中の業務を普通にこなしていた。
何も変わらない様子だった。患者に明るく声をかけ、記録を入力し、先生の回診のときに自然に隣に立とうとした。
ただ、先生が篠原さんを見る目が、昨日と違っていた。
冷たかった。
先生はいつも冷たい。でも昨日まで、篠原さんに向ける目はどこか受け入れていた。今朝の先生の目は、初めて朝霧先生に会った頃の、誰に対しても向ける「測る目」だった。
篠原さんはそれに気づかないようで、先生の隣に立ったとき、いつものように声をかけた。
「先生、今日の手術前の確認をしたいんですが、少しよろしいですか」
「林師長に話せ」
先生は立ち止まらずに歩き続けた。
篠原さんの表情が、一瞬だけ固まった。
その場にいたスタッフの何人かが、互いに視線を交わした。
私はナースステーションのデスクで、記録の入力を続けた。
昼過ぎ、林さんが篠原さんを呼んだ。
二人は林さんの席の隣のスペースで、小声で話した。篠原さんの表情が変わっていくのが、遠目にも見えた。最初は笑顔だったのが、少しずつ固くなり、最後にはうつむいた。
私は見ないようにして、仕事を続けた。
篠原さんが何かを言い返しているのが聞こえた。林さんの声は聞こえなかった。
やがて篠原さんが立ち上がり、更衣室の方向に歩いていった。
橘さんがそっと言った。
「白石さん、林さんが呼んでる」
私は林さんのところに行った。
「少し聞いていい?」
林さんが静かに言った。
「はい」
「篠原さんのことで、何か気づいていたことはあった?」
「はい、あります。朝霧先生にはすでに報告しました」
林さんが頷いた。
「先生から話が来ていたの。昨日の夜に。だからさっき篠原さんに確認した。最初は否定していたけど、木村くんの話が出たら黙ってしまって」
「……そうですか」
「篠原さん、しばらく休職という形で、今後についての話し合いが必要だと思っている」
私は頷いた。
「白石さん、大変だったね。もっと早く気づいてあげられなくてごめんなさい」
「いいえ、橘さんが気にかけてくれていました。木村くんも正直に話してくれました。一人じゃなかったです」
林さんが少し、目を細めた。
「そういう言い方ができるようになったんだね、白石さん」
「……以前は違いましたか」
「以前はね、白石さん、何があっても「私は大丈夫です」しか言わなかった。一人で全部抱えていた。今は違う」
私はその言葉を、ゆっくりと受け取った。
変わったんだな、と思った。
感情を取り戻してから、私は少しずつ、変わっていた。
その日の夕方、篠原さんが帰っていった。
更衣室から出てきた篠原さんと、廊下で鉢合わせた。
篠原さんは私を見た。一瞬だけ、何かが揺れた。怒りか、悔しさか、それとも何か別のものか、私にはわからなかった。
「白石さん」
篠原さんが言った。
「はい」
「私、何で負けたんだろうって、今も思っています」
負けた、という言葉が、少し意外だった。
「私は篠原さんと競っていたわけじゃないです」
「そうね。白石さんはそういう人だから」
篠原さんは少し、表情が崩れた。
「先生のこと、好きだったんです。本当に」
「……そうですか」
「だからって、やったことは間違っていたって、わかっています。ただ、白石さんには、ちゃんと謝りたかった」
私はしばらく、篠原さんの顔を見た。
怒りは、まだあった。でも今夜は、その怒りよりも、別のものがあった。
「謝罪、受け取りました」
それだけ言った。
篠原さんは頷いて、廊下を歩いていった。
その背中を見ながら、私は思った。
(先生のことを好きだった)
その気持ちが嘘だったとは思わなかった。ただ、その気持ちの扱い方が、間違っていた。
感情は情報だ、と先生は言った。
でも感情の扱い方を間違えると、人を傷つける。
私が九年間感情を閉じたことで、自分を傷つけてきたように。
篠原さんは感情を誤った方向に向けることで、人を傷つけた。
どちらも、感情と正しく付き合えていなかった、ということなのかもしれない。
そこまで考えて、私は首を横に振った。
寛大になりすぎるのも、今夜はいらない。
ただ、前を向こうと思った。
その夜、先生からメッセージが来た。
「今夜、少し時間があるか」
私は「あります」と返した。
「どこへ行きますか」
「どこでもいい。お前が決めろ」
私が決めていい、ということが、少し嬉しかった。
「あの公園に行きたいです。池のそばの」
「わかった。迎えに行く」
先生の車に乗った。
十分ほど走って、あの公園の駐車場に着いた。夜の公園は、街灯が点々と灯っていた。池の水面が、光を映していた。
二人で池のそばのベンチに座った。
しばらく、何も言わなかった。
「先生」
「なんだ」
「ありがとうございました」
「何の礼だ」
「対応してくれたことです」
「俺がすべきことをしただけだ」
先生は短く言った。
「先生」
「なんだ」
「先生が、私を信じなかった期間、寂しかったです」
言ってから、少し驚いた。
寂しかったという言葉が、自然に出た。
先生が私の方を向いた。
「……そうか」
「はい」
「俺も」
先生が、また二文字で言った。
「先生も、何ですか」
「……信じなかったことを、後悔した。お前との距離が空いている間、何かが足りなかった」
「それは「寂しかった」という意味ですか」
「……おそらく」
おそらく、という言い方が先生らしかった。でも確かに、そう言った。
池の水面が、風でわずかに揺れた。波紋が広がって、街灯の光を揺らした。
「先生、私、気づいたことがあります」
「なんだ」
「感情を取り戻してから、いろんなことが起きました。今回のことも含めて、全部しんどかったです。感情があると、傷つきます。痛いです」
「そうだな」
「でも、感情があったから、証拠を揃えようと思えました。篠原さんへの怒りが、動く理由になりました。先生に信じてほしいという気持ちが、諦めない理由になりました」
先生が静かに聞いていた。
「感情は揺れる。揺れるのは感じているということだ、と先生は言いました。感じているということは見えているということだ、とも」
「ああ、言った」
「今回、私は感じながら見えていました。篠原さんが何をしているか。先生が変化したこと。自分が怖いと思っていること。全部、感じながら見えた。それで、動けました」
先生は少し間を置いた。
「俺はお前に教えたことを、お前に証明してもらった」
「そうかもしれません」
「……お前が感情を持って、よかったと思っている」
その言葉が、静かに、深く届いた。
「先生」
「なんだ」
「私も、感情を取り戻してよかったと思っています」
先生は何も言わなかった。
池の水面が、また揺れた。
二人で、その揺れを見た。
「白石」
「はい」
「以前のお前に、戻るつもりはないか」
「ありません」
「そうか」
先生は短く言った。
その「そうか」の声が、今夜はやわらかかった。
私は池の水面を見た。
揺れた波紋が、少しずつ落ち着いていく。でも、完全に静止はしない。いつも、微かに動き続けている。
それが、今の私にも、少し似ていると思った。
揺れながら、静まりながら、また揺れながら、それでも動き続けている。
それでいい、と思った。
それが、白石美月という人間の、正しい在り方だと思った。
七月になった。
病棟から梅雨が明けた空が見えるようになった。青く、高く、白い雲が浮かんでいた。
篠原さんは休職した。その後どうなるかは、まだわからなかった。私が関与できることでも、すべきことでもなかった。
木村くんが私のところに来て、「本当にすみませんでした」と深々と頭を下げた。
「噂を広めたこと、後悔しています。もっとちゃんと考えるべきでした」
「ありがとう。もういいよ」
「よくないですよ、俺のせいで白石さんが」
「木村くんが話してくれたから、解決できた。それが大事なことです」
木村くんが顔を上げた。目が赤かった。
「白石さんって、本当に強いですね」
「強いんじゃないよ。怖かったし、悔しかったし、先生に信じてもらえなくて寂しかった。全部あった」
「でも動いた」
「感情があったから動けた。感情がなかった頃の私には、たぶんできなかった」
木村くんが少し、考えるような顔をした。
「感情があるから動ける、ということがあるんですね」
「あると思う。今回、すごくそれを感じた」
木村くんが頷いた。
「俺も、もっとちゃんと感じながら動けるようになります」
「うん、頑張ろう」
木村くんが戻っていった。
私は窓から青い空を見た。
(嵐が、終わった)
そう思った。
嵐の間は怖くて、寂しくて、傷ついた。でも嵐が終わって、空は晴れた。
晴れた空を見て、「晴れた」と感じられる私が、今はいる。
それだけで、十分だった。
橘さんが「慰労会をしよう」と言って、病棟のスタッフ数人で小さな飲み会になった。近所の居酒屋で、一時間半ほど。
先生は来なかった。そういう席には来ない人だから、最初から誰も誘わなかった。
でも解散の後、病院に戻ると、駐車場に先生の車があった。
私が近づくと、運転席の窓が開いた。
「終わったか」
「はい。先生、何でいるんですか」
「送る」
「歩いて帰れます」
「夜遅い」
「まだ二十一時です」
「歩かなくていい」
先生は断言して、窓を閉めた。
私は少し笑いながら、助手席に乗った。
「先生、ここで待っていたんですか」
「少しだけ」
「少しだけじゃないでしょう、一時間以上」
「……仕事をしていた」
「車の中で?」
「カルテの見直しをしていた。静かだから集中できる」
先生が言い訳をしていた。珍しかった。
私は前を向きながら、笑いを堪えた。
車が走り出した。
夜の街が、窓の外を流れていった。
「先生」
「なんだ」
「今日の飲み会、楽しかったです」
「そうか」
「先生は来ないと思っていましたが、もし来ていたら、もっとよかったかも」
「ああいう席は苦手だ」
「知ってます。だから誘いませんでした」
「……誘ってもよかった」
私は先生の横顔を見た。
「誘っていいんですか」
「断るかもしれない。でも誘っていい」
「……わかりました。次は誘います」
先生は何も言わなかった。でも、少しだけ、口元が動いた気がした。
笑みと呼べるほどのものではなかった。でも確かに、何かが動いた。
アパートの前で車が止まった。
「ありがとうございました」
「ああ」
「先生」
「なんだ」
「一時間以上、待っていてくれて、ありがとうございました」
先生はまた少し間を置いた。
「仕事をしていた」
「はい、わかっています」
「……どういたしまして」
その言葉が、出てきたことが、少し意外だった。先生がそういう言葉を言うのを、あまり聞いたことがなかった。
「先生、「どういたしまして」って言えるんですね」
「言える」
「初めて聞きました」
「……そうか」
先生は前を向いた。
私は扉を開けて、車を降りた。
「おやすみなさい、先生」
「ああ」
扉を閉めると、車はゆっくりと走り出した。
テールランプが遠くなっていった。
私はそれを見送ってから、アパートの階段を上った。
部屋に入って、コートを脱いで、ソファに座った。
(今日もいろんなことがあった)
そう思いながら、ノートを開いた。
今日のことを書いた。
「木村くんと話した。怖かったし悔しかったと言えた。感情があるから動けた、と思えた」
「飲み会で笑えた。おいしいものを食べた。橘さんは、白石さんがいてくれてよかったと言ってくれた」
「先生が待っていてくれた。先生は、仕事していたと言った。どちらも本当だと思う」
書いてから、少し考えて、もう一行書いた。
「今日は、いい一日だった」
それだけ書いて、ノートを閉じた。
「いい一日だった」と思えることを、以前の私は知らなかった。
感情がなかった頃、一日は「業務が完了したかどうか」で終わっていた。よかったとか悪かったとか、そういう尺度がなかった。
でも今の私には、ある。
いい一日だった、と思える日が、これからも来る。
悪い日も来るかもしれない。また嵐が来るかもしれない。傷つくこともあるかもしれない。
でも今の私には、傍に先生がいる。橘さんがいる。木村くんがいる。
そして、感情がある。
それだけで、十分だった。
窓の外に、夜の星が出ていた。
先生と、初めて話したあの夜も、星が出ていた。
あのときは、星を見て何も感じなかった。
今夜は、少し、きれいだと思った。
それだけのことが、今の私には、宝物のようだった。
異動ではなく、中途採用だった。前の病院では外科病棟で三年の経験があると聞いていた。名前は、篠原涼香。二十六歳。
私より二歳年下だった。
最初に会ったとき、篠原さんは柔らかく微笑んだ。
「白石先輩ですよね。朝霧先生の専属看護師さんって聞いています。すごいですね、よろしくお願いします」
声は明るく、表情は穏やかで、第一印象は悪くなかった。長い黒髪をきれいにまとめていて、立ち居振る舞いも丁寧だった。
私は「こちらこそよろしく」と返して、その日は終わった。
何も感じなかった。感じなかった、というのは以前の「感情がない」という意味ではなく、本当に特別な印象がなかった、ということだ。
この人物が、この先しばらくの間、私の日常をすっかり変えてしまうことを、そのときの私はまだ知らなかった。
篠原さんは、仕事が早かった。
初日から臆せず動き、患者への対応も自然で、先輩への質問のタイミングも的確だった。林さんが「即戦力ね」と言っていた。橘さんも「飲み込みが早い」と話していた。
仕事ぶりを見ている限り、確かにそうだった。
ただ、一つだけ気になることがあった。
篠原さんは、朝霧先生への対応が、他のスタッフと少し違った。
先生が回診に来ると、篠原さんは必ずその場にいた。偶然にしては、頻度が高すぎた。先生が何か言うと、他のスタッフより少しだけ前に出て、「私がやります」と言った。先生が帰り際に廊下を歩いていると、何かと理由をつけて同じ方向に歩いた。
私はそれを、いくつかの場面で目にした。
(先生に取り入ろうとしている)
そう感じたが、確信はなかった。新しいスタッフが部長の動きを把握しようとするのは、不自然なことではないかもしれない。
私はそれ以上考えるのをやめて、自分の仕事に戻った。
今思えば、あのとき少し慎重に見ておくべきだったのかもしれない。
異変は、二週間後から始まった。
最初は小さなことだった。
私が手術前の準備室でチェックリストを確認していると、器具の一つが足りなかった。必ず前日の夕方に確認して、棚に並べておいたはずのものだった。
「白石さん、これ足りないんだけど」
当直医の一人が眉をひそめた。
「申し訳ありません、すぐに取ってきます」
急いで器具室に走った。間に合ったが、準備に数分の遅れが出た。
(昨日確認したはずなのに)
棚を振り返ると、器具はそこになかった。確かに自分の目で並べたはずだった。
でも、思い違いかもしれない。疲れていたのかもしれない。
そのときはそう思って、終わりにした。
二日後、似たようなことが起きた。
今度は、患者の記録ファイルに、私が書いた観察メモが一枚、抜けていた。朝の申し送りで先生に「311号室の昨日の様子は」と聞かれたとき、私はファイルを開いて確認しようとして、メモがないことに気づいた。
「……少しお待ちください」
記憶から答えた。内容は頭に入っていたから問題はなかったが、ファイルを見てすぐに答えられなかったことで、先生の眉が微かに動いた。
「確認できていないのか」
「いいえ、確認しています。ただ、メモが見当たらなくて」
「そういうことは事前に整備しておけ」
「はい、申し訳ありません」
短い、いつも通りのやりとりだった。でも、先生に「申し訳ありません」と言うことが、今まであまりなかった。
(どうして抜けていたんだろう)
帰宅後、そのことをノートに書いた。
「二日続けて、準備したものがなくなっていた。疲れのせいかもしれない。でも確認した記憶がある。引き続き注意する」
その時点ではまだ、自分のミスだと思っていた。
一週間後の昼休み、私が休憩室に入ると、二年目の木村くんと、篠原さんが話していた。
私が入ると、篠原さんの話し声が消えた。
「あ、白石先輩、お疲れ様です」
篠原さんは明るく言った。木村くんが少し、視線を泳がせた。
「お疲れ様」
私はお茶を入れながら、何気なく聞いた。
「何の話をしていたの?」
「いいえ、別に大した話じゃないですよ」
篠原さんが笑った。
木村くんがお茶を飲んだ。
その微妙な間が、少しだけ気になった。でも、大げさに受け取るのも違う気がして、私はそのまま窓の外を見た。
その日の午後、廊下で別のスタッフとすれ違ったとき、その人が私に少し不自然な笑みを向けて通り過ぎた。
いつもと少し、違う気がした。
(気のせいかな)
そう思って、仕事に戻った。
五月になった。
篠原さんが来て一ヶ月が過ぎた頃から、病棟の空気が、微かに変わり始めた。
変わった、と感じたのは、視線だった。
私が廊下を歩くと、何人かのスタッフの視線が、以前と少し違う気がした。避けているわけではなかった。でも、どこかぎこちなかった。普通に話しかけてくるのに、何かが薄い膜を一枚、隔てているような感じがした。
感情を取り戻してから、私はそういう微細な変化に気づくようになっていた。以前の私なら、気づかなかったかもしれない。
橘さんだけは、いつも通りだった。
ある朝、橘さんが記録を入力しながらそっと言った。
「白石さん、最近何かあった?」
「……何かとは」
「変な噂が回ってる気がして」
私は橘さんを見た。
「どんな噂ですか」
「具体的には言えないんだけど」
橘さんが少し困った顔をした。
「白石さんが最近ミスが増えているとか、患者さんへの対応が雑になっているとか、そういう感じのことを……誰かから聞いた、っていう形で、いくつか耳に入ってきたの」
私は黙った。
「私はそう思ってないよ、全然。だからこそ変だと思って」
「……誰が言っていたか、わかりますか」
「それが、みんな「誰かから聞いた」っていう形で。出どころがはっきりしないの」
出どころがはっきりしない噂。
私は少し考えた。
ミスが増えている、という噂。でも私のミスは、器具がなくなっていたことと、メモが抜けていたこと、その二つだけだ。他に思い当たることはなかった。
(誰かが何かをしている)
でもまだ、確信はなかった。証拠もなかった。
「橘さん、教えてくれてありがとう。気をつけます」
「うん。何かあったらすぐ言ってね」
橘さんが戻っていった。
私は画面を見つめながら、記憶を整理した。
器具がなかった。メモが抜けていた。休憩室で話が止んだ。視線が変わった。
一つひとつは偶然かもしれない。でも積み重なると、偶然と呼ぶには多すぎた。
その日の夕方、私は少し早めに残って、器具の準備室を念入りに確認した。
翌日の手術用の器具を、リストと照合しながら一つずつ確認して、棚に並べた。それから、棚のそばの小さな窓の反射に映る自分の手元を確認しながら、メモに「確認済み・白石美月・17:45」と書いて、ファイルに挟んだ。
証跡を残す、ということを意識し始めた。
翌朝、確認しに来ると、器具は一つ足りなかった。
私はメモを見た。昨夜確認した、同じ棚の同じ位置に、器具が足りない。
(やはり、誰かが動かしている)
ようやく確信が持てた。
でも誰が、と問われると、まだわからなかった。確信はあっても証拠はない。
私は足りない器具を補充して、何も言わなかった。
今はまだ、動くべきではないと思った。
その週の木曜日、篠原さんが朝霧先生に声をかける場面を、私は処置室の前で見た。
先生が廊下を歩いていると、篠原さんが近づいた。
「朝霧先生、先日の術後患者の観察記録なんですが、少し気になることがあって。直接ご意見を聞いてもいいですか」
先生は立ち止まった。
「何が気になる」
「記録の書き方について、自分のやり方が正しいかどうか確認したくて。少しだけお時間を」
先生は「ここで話せ」と言った。
篠原さんはにっこりと笑った。
「実は昨日、白石先輩の書いた記録を参考にしていたんですが、少し気になるところがあって。先生のお考えを聞けると嬉しいんですが」
処置室の前で足が止まった。
(私の記録に気になるところがある、と先生に言った)
先生が篠原さんの話を聞き始めた。私は処置室に入って、扉をそっと閉めた。
心臓が少し、速くなった気がした。
感情がある、ということは、こういう場面でも感情が動く、ということだった。
(落ち着いて)
自分に言い聞かせながら、処置の準備を始めた。
篠原さんが言った「気になるところ」が何なのかは、聞こえなかった。でも先生が私の記録について、何かを篠原さんから聞いた、ということは確かだった。
それが何を意味するかを、私はその日の夜、ノートに書いた。
「篠原さんが、先生に私の記録について何かを言った。正確な内容は不明。でも、先生が私の仕事について何かを聞いた。これまでの噂と合わせると、意図的に私の評価を下げようとしている可能性がある。証拠はまだない」
ノートを閉じて、ふーっと息を吐いた。
胸が重かった。
でも、今夜は泣かなかった。泣きたいとも思わなかった。
ただ、何かが、静かに固まった。
私はこの状況に、向き合わなければならない。感情ではなく、証拠で。
六月に入った頃から、朝霧先生の態度が、少しずつ変わり始めた。
最初は、申し送りのときだった。
先生はいつも、申し送りの終わりに私の顔を見た。それが習慣のようになっていた。でも六月の第一週から、その視線が来なくなった。
最初は気のせいかと思った。
でも三日経っても、四日経っても、変わらなかった。先生は申し送りを淡々と終え、そのまま廊下を歩き始めた。私の顔を見なかった。
それだけじゃなかった。
回診の際、以前は私に直接確認していた患者の状態を、篠原さんに聞くようになった。篠原さんが先生の隣に自然に立ち、先生も自然にそれを受け入れていた。
廊下ですれ違っても、先生はもう「昨夜は眠れたか」と聞かなくなっていた。
私に対する先生の態度が、冷えていた。
冷えていた、というのは語弊があるかもしれない。先生はもともと冷徹だ。誰に対しても。でも私に対してだけ、少しだけ違った温度があった。それが、消えていた。
ある朝、私が先生の担当患者のひとり、六十代の西川さんの処置を終えて記録を書いていると、先生が来た。
「西川の傷口の状態はどうだ」
「昨日より浸出液が減っています。創部の発赤もほぼ消退しました。経過良好です」
「篠原に確認しろ。今朝の状態を先に確認していたはずだ」
私は手が止まった。
「……私も今朝、確認しました。先ほど処置も」
「それはわかっている。篠原からも報告を受けた。両方確認してから報告してほしかった」
先生は淡々と言って、歩き去った。
私は画面の前に座ったまま、しばらく動けなかった。
篠原さんが、先生に西川さんの報告をしていた。それ自体は問題ではない。でも先生が「篠原に確認しろ」と言った。先生が私より篠原さんの報告を優先している。
(何かを聞いたんだ)
先生が私に対して距離を取り始めた理由は、篠原さんからの情報にある。そう確信した。
でも何を聞いたのか。何を言われたのか。私には直接わからなかった。
その日の昼休み、橘さんが隣に来た。
「白石さん、大丈夫?」
「はい」
「さっき先生に篠原さんへの確認を言われてたの、見てた」
「……見てたんですね」
「先生、最近ちょっと変じゃない? なんか、篠原さんばっかり」
橘さんが声を低くして言った。
「私にはよくわかりません」
「でも先生、前は白石さんのことを一番信頼してたじゃない。何があったのかな」
「……」
「あ、ごめん。変なこと言って」
「いいえ、気にしていません」
でも気にしていた。
感情があるから、気にしていた。
先生が篠原さんを信頼しかけている。篠原さんが先生に取り入っている。私への評価が下がっている。噂が広まっている。
全部が繋がっていた。
私はひとりで、静かに、その糸を手繰り始めていた。
その週の金曜日の午後、私の更衣室のロッカーを開けると、上着がなかった。
退勤時に羽織るためにかけておいた薄手のジャケットが、消えていた。
ロッカーは鍵をかけていなかった。いつもかけない習慣だったし、病棟のスタッフが互いのロッカーを触ることは、ほとんどない。
周りを確認したが、見当たらなかった。
(また、だ)
器具。メモ。そして今度は上着。
陰で、わからないようにされている。
怒り、という感情が、じわりと浮かんだ。
でも今夜は、その怒りを冷静に扱おうと思った。怒りは証拠にならない。
翌日、上着はロッカーの床に落ちていた。まるで最初からそこにあったように。
踏まれたような跡が、裾についていた。
六月の中旬、決定的な場面があった。
その日の夕方、私は処置室の隣の小部屋で翌日の準備をしていた。壁が薄く、隣の処置室の声が聞こえることがある。
聞こえてきたのは、篠原さんの声だった。
「先生、少し気になっていることがあって」
先生の声も聞こえた。
「なんだ」
「白石先輩のことなんですが……最近、患者さんへの対応が以前と変わってきた気がして。前は完璧だったのに、最近は処置中に少し雑になっている場面を、何度か見たんです。患者さんから直接、白石さんの対応について不満の声を聞いたこともあって」
私は手を止めた。
体が動かなかった。
「患者から直接、不満を聞いたのか」
「はい。もちろん私から何か言うつもりはないんですが、先生のチームのことだから、先生にはお伝えすべきかと思って」
先生が黙っていた。
「白石さんも最近大変そうで、もしかしたら疲れているのかもしれないし、先生から少し様子を見てあげてもらえると、白石さんも助かるんじゃないかと思って。先生、白石さんのこと気にかけているじゃないですか」
篠原さんの声が、柔らかかった。心配している風を装っていた。
「……わかった」
先生の声がした。
私は準備室の壁に手をついた。
患者から不満の声を聞いた、と篠原さんは言った。でもそれは、嘘だ。私は患者のそばにいるときの自分の行動を、何度も確認している。雑になったことはない。患者からそういう言葉を受けたこともない。
篠原さんは嘘をついている。
先生に、嘘をついている。
そして先生は、それを聞いている。
私は壁から手を離して、静かに息を吐いた。
怒りが、今度ははっきりとあった。
でも、怒りで動いてはいけない。そう思った。感情ではなく、事実で動かなければならない。
(私には何もできない、のか)
そのとき、脳裏に浮かんだのは、二十三歳の冬ではなかった。
長い間、感情を閉じたまま働いてきた自分でもなかった。
三田村さんが「白石さん、大丈夫」と信じてくれた目が、浮かんだ。
悠斗が「白石さん、いる?」と夜中に呼んだ声が、聞こえた気がした。
奥さんが手を握りながら「ありがとうございます」と言ったときの温度が、手の平に残っていた。
(私が正しく動いてきたことを、患者さんたちは知っているはず)
それだけが、今の私の根拠だった。
その夜、先生からメッセージが来た。
「明日、少し話したい。業務終了後に時間を作れるか」
私は少し間を置いてから返信した。
「はい、大丈夫です」
先生が「話したい」と言ってきた。篠原さんの話を聞いた後で。
どんな話をされるのか、怖くないと言えば嘘になった。
でも、向き合うしかない。
ノートを開いて、今日聞こえたことを、できる限り正確に書き留めた。篠原さんの言葉。先生の反応。時間。場所。その日のうちに、記録した。
これが、唯一、今の私にできることだった。
翌日の業務終了後、先生の執務室に呼ばれた。
先生は椅子に座って、私が入ると向かいに座るよう促した。
「話を聞いた」
先生が言った。
「篠原さんから、ですか」
「それだけじゃない。ほかのスタッフからも、お前の最近の仕事について、いくつか話が来ている」
私は先生を見た。
「具体的には、どのような話ですか」
「処置が雑になっている。患者への対応が変わった。ミスが増えている。そういう話だ」
「……私は、そのような仕事をした覚えがありません」
「ではなぜそういう話が来る」
「それを今、調べています」
先生が少し止まった。
「調べている、とは」
「器具の紛失が何度もあって、記録のメモが抜けることがあって、私のロッカーの物が移動していることがある。全部、私の不注意かと思って最初は流していましたが、意図的に誰かが行っていると判断しています」
「証拠はあるか」
「今集めています。先生に報告できるレベルになったら、必ずお伝えします」
先生はしばらく私を見ていた。
「白石」
「はい」
「俺は今、どちらの話が正しいか、判断できない」
その言葉が、静かに刺さった。
今まで先生は私を信頼してくれていた。「俺はお前を信頼している」と言葉にしたことはなかったが、行動でそれを示してきた。でも今は、「どちらが正しいかわからない」と言っている。
それは、私への信頼が揺らいだということだ。
「わかりました」
私は静かに言った。
「証拠を揃えてから、もう一度話します」
先生は頷かなかった。ただ、私を見ていた。
その目に、何があるのかを読み取ることが、今夜は難しかった。
私は立ち上がって、先生の執務室を出た。
廊下に出ると、誰もいなかった。
窓の外には、六月の夜が広がっていた。
(先生が、私を信じていない)
その事実が、今夜は重かった。
感情があることで、重さが正確に届いた。
でも今夜は、泣かなかった。
泣く代わりに、歩いた。目的地を決めずに、病院の廊下を少しだけ歩いた。
歩きながら思った。
(証拠を揃える。それだけだ)
感情で動かない。事実で動く。
それが今の私にできる、唯一のことだった。
証拠を集めないといけない。
感情的に動くことは、今回は選ばなかった。誰かを責めることも、先生に訴えることも、同僚に相談することも、まだしなかった。
ただ、記録した。
毎日、準備した器具の配置をスマートフォンで写真に撮った。メモを書いたファイルの状態も撮った。ロッカーの中も撮った。時刻と日付を確認できる形で。
一週間後、また器具が動いていた。
写真を見比べると、昨日の夕方と今朝で、棚の配置が変わっていた。私は動かしていない。
証拠が一つ、手元に来た。
もう一つの方法として、私は患者に直接確認することにした。
篠原さんが「患者から白石への不満を聞いた」と言った。それが嘘なら、患者が証明してくれる。
私は担当患者を一人ずつ、自然な会話の中で確かめた。
「最近の処置は、何か気になることがありましたか」
「いいや、白石さん、いつも丁寧でありがたいよ」
「何かお気づきのことがあれば、遠慮なく言ってくださいね」
「逆に、何かあったの?」
「いいえ、確認のためです」
担当患者七名のうち、七名全員が、私の対応について不満を言っていなかった。
「最近来た新しい看護師さんに、白石さんへの不満を言ったことはありましたか」という問いに対しては、全員が「そんなこと言っていない」と答えた。
篠原さんの言葉は、嘘だった。
これで証拠が二つ。
三つ目の証拠は、思いがけない形で来た。
木村くんが、ある朝、私の隣に来た。
「白石さん、少しいいですか」
木村くんは少し、困った顔をしていた。
「どうしたの」
「あの……俺、以前に篠原さんから話を聞いたことがあって。白石さんがミスを隠しているって。証拠があるから、そのうち先生に報告するつもりだ、って言ってたんです」
私は黙って聞いた。
「その話を俺、信じちゃって。それで何人かに話を……してしまって」
木村くんの顔が、赤くなった。
「ごめんなさい。よく確認もしないで。最近白石さんに対する空気がおかしいの、俺が広めてしまったことも原因の一つで」
「……木村くん、それを話してくれてありがとう」
私は静かに言った。
「白石さん、怒らないの?」
「怒っています。でも木村くんに対してじゃない」
「……俺、あのとき何か変だって気づくべきでした。篠原さんって、白石さんの悪口を言うとき、すごく楽しそうだったから」
楽しそうだった。
その言葉が、重かった。
「木村くん、証言として話してもらえる?」
「……はい。言えることは全部言います」
これで三つ目の証拠が、揃った。
橘さんにも、話を聞いた。
橘さんは「変な噂が回っている」と以前から気にしていた。出どころを確認していてくれていたらしく、「篠原さんから」という話が複数経路で確認できたと教えてくれた。
「私も、白石さんをずっと見てきたから。白石さんが雑な処置をするわけないって思ってた。篠原さんから話を聞いたとき、変だとは感じていたんだけど、直接確認しないで広めてしまったスタッフも、反省している」
「橘さん、ありがとう」
「ごめんね、もっと早く動けばよかった」
「橘さんが教えてくれたから、気づけた。それで十分です」
これで、四つの証拠が揃った。
写真による器具の移動の記録。患者全員の証言。木村くんの証言。橘さんが集めた噂の出どころ。
私は全部をノートに整理して、先生に報告できる形にした。
報告する前の夜、私はアパートで一人、ノートを見ていた。
証拠は揃った。でも、これを先生に持っていくとどうなるか。
篠原さんが排除されるかもしれない。先生の信頼が私に戻るかもしれない。でも、そうならないかもしれない。
先生はいつも、論理で動く。証拠があれば、正しい判断をするはずだ。でも、人間は時々、感情で判断する。篠原さんとの距離が縮まったことで、先生の中に何かが変わっていたら。
(怖い)
そう思った。
感情があるから、怖いと思えるのだろう。
先生に信じてもらえなかったら。また「どちらが正しいかわからない」と言われたら。
でも、今夜は怖さに負けないことにした。
正しいことをした記録がある。患者が証明してくれた。仲間が証言してくれる。
それだけの誠意が、私にはある。
誠意を持って向き合うことを、今の私は怖がらない。
先生が「今からでも遅くはない」と言った夜のことを思い出した。
あのとき先生が言ったのは、感情の話だった。でも今夜は、自分がその言葉を、別の意味で使う番だった。
今からでも遅くはない。
ノートを閉じて、立ち上がった。
明日、先生に話す。全部を持って、先生に話す。
それだけだ。
翌日の業務終了後、私は先生の執務室のドアをノックした。
今回は呼ばれたのではなく、自分から来た。
「入れ」
先生の声がした。
ドアを開けると、先生はデスクに向かっていた。こちらを向いて、私が手にノートとスマートフォンを持っていることを見た。
「話があります」
「座れ」
私は椅子に座った。深呼吸を一つした。
「先日、証拠を揃えると言いました。揃えました」
先生は黙って聞いていた。
「先生に報告されていた私の仕事への不満は、事実ではありません。証拠が四点あります」
私はスマートフォンを取り出した。
「まず、器具の紛失についてです。今月、準備した器具が計六回、翌日に足りない状態になっていました。私が夕方に確認した状態の写真を、日付と時刻つきで記録しています。翌朝に変化している写真もあります。私は動かしていない。これは、第三者が動かしていることを示しています」
先生がスマートフォンの写真を見た。
「次に、患者の証言です。篠原さんは先生に「患者から白石への不満を聞いた」と言いました。しかし私が担当患者七名全員に確認したところ、そのような言葉を言った患者は一人もいませんでした。記録があります」
先生の目が、少し動いた。
「三点目に、木村くんの証言です。篠原さんは、白石がミスを隠しているという話を木村くんにしていました。木村くんはそれを信じて他のスタッフに話し、噂が広まった。篠原さんが意図的に噂を流していたことが、確認できています」
「木村が、そう言ったのか」
「はい。木村くんは直接話してくれました」
先生は少し間を置いた。
「四点目に、橘さんが収集した噂の出どころです。この病棟で回っていた私への不満の噂は、複数の経路を遡ると、全て篠原さんに行き着きます。橘さんが丁寧に確認してくれました」
私はノートを閉じた。スマートフォンをテーブルに置いた。
「以上が、私が揃えた証拠です」
先生は、しばらく、何も言わなかった。
執務室の外から、夜の病棟のかすかな音が聞こえた。どこかのナースコール。廊下の足音。空調の低い音。
「……なぜ、すぐに俺に言わなかった」
先生が、静かに言った。
「証拠がない状態で言っても先生は、どちらが正しいかわからない、とおっしゃいました。感情の話として言っても、意味がないと判断しました。だから証拠を揃えました」
「それだけか」
「……あとは」
私は少し間を置いた。
「先生に証拠なしで信じてほしかった、という気持ちは、あります。でも、それは望みすぎだと思いました。先生は論理の人だから、証拠を持って来るべきだと」
先生が私を見た。
「白石」
「はい」
「お前は、俺を責めていないのか」
その問いが、少し意外だった。
「……責めていません」
「なぜだ。俺はお前を信じなかった」
「先生は、嘘をつかれたんです。私が怒るべき相手は、先生ではありません」
先生は何も言わなかった。
長い沈黙が続いた。
先生の目が、今夜は、揺れていた。あの冷えた瞳が、わずかに揺れていた。
「……俺の判断が、間違っていた」
先生が言った。
「先生は騙されたんです」
「それは言い訳だ。俺はお前を長い時間見てきた。お前がどういう人間かを知っていたはずだった。それなのに、篠原の話を聞いて、お前との距離を取ってしまった。それは……間違いだった」
先生の声に、普段の先生には珍しい何かがあった。自分を責めている声だった。
「先生」
「なんだ」
「先生が謝ることはないです」
「謝罪ではない。事実だ」
「……わかりました」
私は少し、先生の顔を見た。
先生の目が、まっすぐに私を見ていた。
「白石。お前が誠意を持って証拠を集めてきたことを、俺は正直に言えば、予測していなかった」
「どういう意味ですか」
「感情的になっても不思議ではなかった。俺への不満を爆発させても、不当ではなかった。でもお前は、感情ではなく事実で動いた」
「感情はありました。怒りもありました。怖さも」
「でも、それで動かなかった」
「感情は、情報だと思っています。先生が教えてくれた言葉です」
先生が、少し止まった。
「……俺が言ったのか」
「はい。感情と思考の境目がわからない、とも言っていました。あの公園で」
先生の目が、少し柔らかくなった。
「覚えているのか、そんなことまで」
「全部覚えています」
先生は少し間を置いた。
「……そうか」
その「そうか」が、今夜はいつもより重かった。
「明日、対応する」
先生が立ち上がった。
「対応、とは」
「篠原に対してだ。お前が集めた証拠を俺が確認した以上、適切な対応を取る。詳細はお前には言わないが、同じことは二度起きない」
私は先生の顔を見た。
「先生に、お任せします」
「ああ」
先生はそれだけ言って、コートを手に取った。
「帰るか」
「はい」
廊下に出た。夜の病棟は静かだった。
先生が隣を歩いた。私も歩いた。
足音が、二人分聞こえた。
それが、今夜は、ものすごく安心した。
翌日、篠原さんは午前中の業務を普通にこなしていた。
何も変わらない様子だった。患者に明るく声をかけ、記録を入力し、先生の回診のときに自然に隣に立とうとした。
ただ、先生が篠原さんを見る目が、昨日と違っていた。
冷たかった。
先生はいつも冷たい。でも昨日まで、篠原さんに向ける目はどこか受け入れていた。今朝の先生の目は、初めて朝霧先生に会った頃の、誰に対しても向ける「測る目」だった。
篠原さんはそれに気づかないようで、先生の隣に立ったとき、いつものように声をかけた。
「先生、今日の手術前の確認をしたいんですが、少しよろしいですか」
「林師長に話せ」
先生は立ち止まらずに歩き続けた。
篠原さんの表情が、一瞬だけ固まった。
その場にいたスタッフの何人かが、互いに視線を交わした。
私はナースステーションのデスクで、記録の入力を続けた。
昼過ぎ、林さんが篠原さんを呼んだ。
二人は林さんの席の隣のスペースで、小声で話した。篠原さんの表情が変わっていくのが、遠目にも見えた。最初は笑顔だったのが、少しずつ固くなり、最後にはうつむいた。
私は見ないようにして、仕事を続けた。
篠原さんが何かを言い返しているのが聞こえた。林さんの声は聞こえなかった。
やがて篠原さんが立ち上がり、更衣室の方向に歩いていった。
橘さんがそっと言った。
「白石さん、林さんが呼んでる」
私は林さんのところに行った。
「少し聞いていい?」
林さんが静かに言った。
「はい」
「篠原さんのことで、何か気づいていたことはあった?」
「はい、あります。朝霧先生にはすでに報告しました」
林さんが頷いた。
「先生から話が来ていたの。昨日の夜に。だからさっき篠原さんに確認した。最初は否定していたけど、木村くんの話が出たら黙ってしまって」
「……そうですか」
「篠原さん、しばらく休職という形で、今後についての話し合いが必要だと思っている」
私は頷いた。
「白石さん、大変だったね。もっと早く気づいてあげられなくてごめんなさい」
「いいえ、橘さんが気にかけてくれていました。木村くんも正直に話してくれました。一人じゃなかったです」
林さんが少し、目を細めた。
「そういう言い方ができるようになったんだね、白石さん」
「……以前は違いましたか」
「以前はね、白石さん、何があっても「私は大丈夫です」しか言わなかった。一人で全部抱えていた。今は違う」
私はその言葉を、ゆっくりと受け取った。
変わったんだな、と思った。
感情を取り戻してから、私は少しずつ、変わっていた。
その日の夕方、篠原さんが帰っていった。
更衣室から出てきた篠原さんと、廊下で鉢合わせた。
篠原さんは私を見た。一瞬だけ、何かが揺れた。怒りか、悔しさか、それとも何か別のものか、私にはわからなかった。
「白石さん」
篠原さんが言った。
「はい」
「私、何で負けたんだろうって、今も思っています」
負けた、という言葉が、少し意外だった。
「私は篠原さんと競っていたわけじゃないです」
「そうね。白石さんはそういう人だから」
篠原さんは少し、表情が崩れた。
「先生のこと、好きだったんです。本当に」
「……そうですか」
「だからって、やったことは間違っていたって、わかっています。ただ、白石さんには、ちゃんと謝りたかった」
私はしばらく、篠原さんの顔を見た。
怒りは、まだあった。でも今夜は、その怒りよりも、別のものがあった。
「謝罪、受け取りました」
それだけ言った。
篠原さんは頷いて、廊下を歩いていった。
その背中を見ながら、私は思った。
(先生のことを好きだった)
その気持ちが嘘だったとは思わなかった。ただ、その気持ちの扱い方が、間違っていた。
感情は情報だ、と先生は言った。
でも感情の扱い方を間違えると、人を傷つける。
私が九年間感情を閉じたことで、自分を傷つけてきたように。
篠原さんは感情を誤った方向に向けることで、人を傷つけた。
どちらも、感情と正しく付き合えていなかった、ということなのかもしれない。
そこまで考えて、私は首を横に振った。
寛大になりすぎるのも、今夜はいらない。
ただ、前を向こうと思った。
その夜、先生からメッセージが来た。
「今夜、少し時間があるか」
私は「あります」と返した。
「どこへ行きますか」
「どこでもいい。お前が決めろ」
私が決めていい、ということが、少し嬉しかった。
「あの公園に行きたいです。池のそばの」
「わかった。迎えに行く」
先生の車に乗った。
十分ほど走って、あの公園の駐車場に着いた。夜の公園は、街灯が点々と灯っていた。池の水面が、光を映していた。
二人で池のそばのベンチに座った。
しばらく、何も言わなかった。
「先生」
「なんだ」
「ありがとうございました」
「何の礼だ」
「対応してくれたことです」
「俺がすべきことをしただけだ」
先生は短く言った。
「先生」
「なんだ」
「先生が、私を信じなかった期間、寂しかったです」
言ってから、少し驚いた。
寂しかったという言葉が、自然に出た。
先生が私の方を向いた。
「……そうか」
「はい」
「俺も」
先生が、また二文字で言った。
「先生も、何ですか」
「……信じなかったことを、後悔した。お前との距離が空いている間、何かが足りなかった」
「それは「寂しかった」という意味ですか」
「……おそらく」
おそらく、という言い方が先生らしかった。でも確かに、そう言った。
池の水面が、風でわずかに揺れた。波紋が広がって、街灯の光を揺らした。
「先生、私、気づいたことがあります」
「なんだ」
「感情を取り戻してから、いろんなことが起きました。今回のことも含めて、全部しんどかったです。感情があると、傷つきます。痛いです」
「そうだな」
「でも、感情があったから、証拠を揃えようと思えました。篠原さんへの怒りが、動く理由になりました。先生に信じてほしいという気持ちが、諦めない理由になりました」
先生が静かに聞いていた。
「感情は揺れる。揺れるのは感じているということだ、と先生は言いました。感じているということは見えているということだ、とも」
「ああ、言った」
「今回、私は感じながら見えていました。篠原さんが何をしているか。先生が変化したこと。自分が怖いと思っていること。全部、感じながら見えた。それで、動けました」
先生は少し間を置いた。
「俺はお前に教えたことを、お前に証明してもらった」
「そうかもしれません」
「……お前が感情を持って、よかったと思っている」
その言葉が、静かに、深く届いた。
「先生」
「なんだ」
「私も、感情を取り戻してよかったと思っています」
先生は何も言わなかった。
池の水面が、また揺れた。
二人で、その揺れを見た。
「白石」
「はい」
「以前のお前に、戻るつもりはないか」
「ありません」
「そうか」
先生は短く言った。
その「そうか」の声が、今夜はやわらかかった。
私は池の水面を見た。
揺れた波紋が、少しずつ落ち着いていく。でも、完全に静止はしない。いつも、微かに動き続けている。
それが、今の私にも、少し似ていると思った。
揺れながら、静まりながら、また揺れながら、それでも動き続けている。
それでいい、と思った。
それが、白石美月という人間の、正しい在り方だと思った。
七月になった。
病棟から梅雨が明けた空が見えるようになった。青く、高く、白い雲が浮かんでいた。
篠原さんは休職した。その後どうなるかは、まだわからなかった。私が関与できることでも、すべきことでもなかった。
木村くんが私のところに来て、「本当にすみませんでした」と深々と頭を下げた。
「噂を広めたこと、後悔しています。もっとちゃんと考えるべきでした」
「ありがとう。もういいよ」
「よくないですよ、俺のせいで白石さんが」
「木村くんが話してくれたから、解決できた。それが大事なことです」
木村くんが顔を上げた。目が赤かった。
「白石さんって、本当に強いですね」
「強いんじゃないよ。怖かったし、悔しかったし、先生に信じてもらえなくて寂しかった。全部あった」
「でも動いた」
「感情があったから動けた。感情がなかった頃の私には、たぶんできなかった」
木村くんが少し、考えるような顔をした。
「感情があるから動ける、ということがあるんですね」
「あると思う。今回、すごくそれを感じた」
木村くんが頷いた。
「俺も、もっとちゃんと感じながら動けるようになります」
「うん、頑張ろう」
木村くんが戻っていった。
私は窓から青い空を見た。
(嵐が、終わった)
そう思った。
嵐の間は怖くて、寂しくて、傷ついた。でも嵐が終わって、空は晴れた。
晴れた空を見て、「晴れた」と感じられる私が、今はいる。
それだけで、十分だった。
橘さんが「慰労会をしよう」と言って、病棟のスタッフ数人で小さな飲み会になった。近所の居酒屋で、一時間半ほど。
先生は来なかった。そういう席には来ない人だから、最初から誰も誘わなかった。
でも解散の後、病院に戻ると、駐車場に先生の車があった。
私が近づくと、運転席の窓が開いた。
「終わったか」
「はい。先生、何でいるんですか」
「送る」
「歩いて帰れます」
「夜遅い」
「まだ二十一時です」
「歩かなくていい」
先生は断言して、窓を閉めた。
私は少し笑いながら、助手席に乗った。
「先生、ここで待っていたんですか」
「少しだけ」
「少しだけじゃないでしょう、一時間以上」
「……仕事をしていた」
「車の中で?」
「カルテの見直しをしていた。静かだから集中できる」
先生が言い訳をしていた。珍しかった。
私は前を向きながら、笑いを堪えた。
車が走り出した。
夜の街が、窓の外を流れていった。
「先生」
「なんだ」
「今日の飲み会、楽しかったです」
「そうか」
「先生は来ないと思っていましたが、もし来ていたら、もっとよかったかも」
「ああいう席は苦手だ」
「知ってます。だから誘いませんでした」
「……誘ってもよかった」
私は先生の横顔を見た。
「誘っていいんですか」
「断るかもしれない。でも誘っていい」
「……わかりました。次は誘います」
先生は何も言わなかった。でも、少しだけ、口元が動いた気がした。
笑みと呼べるほどのものではなかった。でも確かに、何かが動いた。
アパートの前で車が止まった。
「ありがとうございました」
「ああ」
「先生」
「なんだ」
「一時間以上、待っていてくれて、ありがとうございました」
先生はまた少し間を置いた。
「仕事をしていた」
「はい、わかっています」
「……どういたしまして」
その言葉が、出てきたことが、少し意外だった。先生がそういう言葉を言うのを、あまり聞いたことがなかった。
「先生、「どういたしまして」って言えるんですね」
「言える」
「初めて聞きました」
「……そうか」
先生は前を向いた。
私は扉を開けて、車を降りた。
「おやすみなさい、先生」
「ああ」
扉を閉めると、車はゆっくりと走り出した。
テールランプが遠くなっていった。
私はそれを見送ってから、アパートの階段を上った。
部屋に入って、コートを脱いで、ソファに座った。
(今日もいろんなことがあった)
そう思いながら、ノートを開いた。
今日のことを書いた。
「木村くんと話した。怖かったし悔しかったと言えた。感情があるから動けた、と思えた」
「飲み会で笑えた。おいしいものを食べた。橘さんは、白石さんがいてくれてよかったと言ってくれた」
「先生が待っていてくれた。先生は、仕事していたと言った。どちらも本当だと思う」
書いてから、少し考えて、もう一行書いた。
「今日は、いい一日だった」
それだけ書いて、ノートを閉じた。
「いい一日だった」と思えることを、以前の私は知らなかった。
感情がなかった頃、一日は「業務が完了したかどうか」で終わっていた。よかったとか悪かったとか、そういう尺度がなかった。
でも今の私には、ある。
いい一日だった、と思える日が、これからも来る。
悪い日も来るかもしれない。また嵐が来るかもしれない。傷つくこともあるかもしれない。
でも今の私には、傍に先生がいる。橘さんがいる。木村くんがいる。
そして、感情がある。
それだけで、十分だった。
窓の外に、夜の星が出ていた。
先生と、初めて話したあの夜も、星が出ていた。
あのときは、星を見て何も感じなかった。
今夜は、少し、きれいだと思った。
それだけのことが、今の私には、宝物のようだった。