冷徹な天才医師は泣けない彼女を溺愛する
第六章 選ぶ
八月になった。
外科病棟の窓から見える空は、青く高く、入道雲が白く盛り上がっていた。夏の病院は独特の空気がある。冷房の効いた廊下と、蒸し暑い駐車場の空気が、自動ドアのたびに混ざり合う。面会に来る家族が半袖になり、患者のパジャマが薄くなった。
篠原さんが去ってから約一ヶ月が経ち、病棟は少しずつ、元の空気を取り戻していた。
木村くんは以前より積極的に動くようになり、橘さんは相変わらず要所で支えてくれて、林さんはどっしりと病棟を回していた。先生はいつも通り冷徹で、私にだけ毎朝少し足を緩めて、廊下で「昨夜は眠れたか」と声をかけてくる。
それが、今の私の日常だった。
悪くない日常だと思っていた。
変化は、そんな平穏な日常の中に、静かに入ってきた。
最初に変わったのは、病棟の外側だった。
外科病棟から少し離れた場所に、循環器内科病棟がある。その病棟のリーダー的存在で、スタッフの間でひそかに「王子様」と呼ばれている医師がいた。
二谷渉。三十歳。
背が高く、顔立ちが整っていて、患者への言葉が丁寧で、スタッフへの気配りも自然だった。廊下で会うと必ず「お疲れ様です」と声をかけてくれて、困っているスタッフを見かけると助けに行く。医師としての腕も確かで、患者からの評判もいい。
要するに、絵に描いたような「いい人」だった。
私が二谷先生を意識するようになったのは、ある昼休みのことだった。
食堂で一人で昼食を取っていると、「ここ、いいですか」と声をかけられた。
二谷先生だった。
「どうぞ」
「外科の白石さんですよね。朝霧先生の専属看護師の」
「そうです」
「以前、廊下で会ったとき、患者さんへの対応がすごく丁寧だと思って。あのとき声をかけそびれたんですが」
二谷先生は自然な笑顔で言った。押しつけがましくなかった。
「ありがとうございます」
「朝霧先生って、厳しいですよね。あの先生のそばで働くのは、大変じゃないですか」
「慣れました」
「すごいですね。自分だったら三日で折れる気がします」
二谷先生が笑った。柔らかい笑い方だった。
私は少し、温かい気持ちになった。
先生のそばで働くことに「すごいですね」と言われることは、今まであまりなかった。
(こんな話し方をする人がいるんだ)
そう思っただけで、その日は終わった。
でも次の日も、食堂で二谷先生と会った。また隣に座った。また話した。
三日続いたとき、偶然ではないと気づいた。
二谷先生との食堂での昼食が習慣になってから一週間後、別の方向からも変化が来た。
理学療法士の桐島健太、二十八歳。
外科病棟のリハビリ担当として定期的に来ていた。茶色がかった髪に人懐っこい笑顔で、患者の評判が良く、スタッフとの距離も近い。
「白石さん、少しいいですか」
廊下で声をかけられたのは、八月の中頃だった。
「はい」
「先日、白石さんが担当していた佐々木さんのリハビリなんですが、術後の回復が早くて。白石さんのケアが良かったんじゃないかと思って、お礼が言いたくて」
「チームでやっていることなので」
「でも、患者さんが「白石さんが夜中にそばにいてくれた」って話してくれて。それってリハビリにも絶対影響しているんですよね、精神的な安心感が」
桐島さんの目が、真剣だった。お世辞ではなかった。
「ありがとうございます」
「白石さん、食事とか行きませんか。お礼の意味で」
直球だった。
私は少し戸惑いながら答えた。
「……今は少し、忙しくて」
「そうですよね、すみません。急に。でも、またいつか、ぜひ」
桐島さんは笑って、リハビリ室の方に歩いていった。
私はその背中を見ながら、少し不思議な気持ちになった。
(誘われた)
感情があるから、そのことがちゃんと「嬉しい」という感触として届いた。
誰かに誘われることが、嬉しかった。
その感覚を、私はしばらくの間、持て余した。
三人目が来たのは、翌週だった。
新しく赴任してきた外科の研修医、水島颯太、二十六歳。
背が高く、笑顔が爽やかで、研修医の中では飛び抜けて動きが早い。朝霧先生への指導を毎日受けており、先生に怒鳴られながらも「先生、もう一度教えてください」と食らいつく根性があった。
水島先生は、ある朝の処置の後で声をかけてきた。
「白石さん、今日の処置、一緒にできてよかったです」
「ありがとう。動きが早くなりましたね」
「白石さんのおかげです。前回、タイミングを教えてもらってから、ずっと意識していて」
「そう」
「白石さんって、すごいですね。朝霧先生の右腕じゃないですか」
「そんなことはないですよ」
「いや、すごいですよ。俺、白石さんみたいな看護師と組めて本当によかった」
水島先生は真剣な目をしていた。
「……頑張ってください」
「あの、白石さん、もし良かったら、仕事の話も含めて、今度食事に行きませんか。教えてもらいたいことがたくさんあって」
三人目の誘いだった。
私は少し微笑んで「考えておきます」と答えた。
自分が「考えておきます」と答えたことに、少し驚いた。以前の私なら、即座に「必要ありません」と言っていた。
感情が戻ったことで、「嬉しい」という感触が先に来るようになった。それが返事を柔らかくした。
その夜、アパートで橘さんからメッセージが来た。
「白石さん、最近モテてるね。病院内で話題になってるよ」
私は少し、困惑した。
「話題になってるんですか」
「二谷先生と食堂で毎日いるって有名だし、桐島くんが誘ったって木村くんから聞いたし、水島先生も「白石さんがいい」みたいに言ってるって」
「……」
「白石さん、どうするの。朝霧先生のこと、どうなってるの?」
私は少し考えてから返した。
「先生とは、特に何も変わっていません」
橘さんからすぐに返信が来た。
「そうなの? 先生、最近また白石さんのこと見てるよ。いつもより」
私はその文を読んで、スマートフォンを置いた。
先生が、私を見ている。
でも先生は何も言わない。いつも通りだ。廊下で足を緩めて、「昨夜は眠れたか」と聞いて、業務の話をして、それだけだ。
二谷先生は食堂で笑顔で話しかけてくれる。桐島さんは直接誘ってくれた。水島先生は真剣な目で「一緒にいたい」と言う。
みんな、言葉にしてくれる。
先生は、言葉にしない。
(言葉にしないことと、何も感じていないことは、違う)
そうわかっていた。でも今夜は少しだけ、その違いが、もどかしかった。
ノートに書いた。
「三人に誘われた。嬉しかった。自分がそれを嬉しいと感じることを、少し不思議に思っている。先生のことが好きなのに、なぜ他の人に誘われて嬉しいのか。わからない」
書いてから、もう一行書いた。
「でも、嬉しいという感情を持てることが単純に嬉しい」
ノートを閉じた。
窓の外に、夏の夜空が広がっていた。
二谷先生との食堂での昼食は、二週間が経った。
毎日ではなかったが、週に三、四回は会った。話す内容は、仕事のことが多かった。お互いの担当患者の話、最近読んだ医療の記事、病棟での出来事。二谷先生は聞き上手で、私が話したことに対して必ず何かを返してくれた。
先生との会話とは、全然違った。
朝霧先生との会話は、短かった。必要なことを言って、それで終わることが多かった。でも二谷先生は、私の話を広げてくれた。「それってどういう意味ですか」「もう少し聞かせてください」と言ってくれた。
(こんなに話を聞いてもらえることが、あるんだ)
そう思うことが、何度かあった。
ある昼休み、二谷先生が少し真剣な顔で言った。
「白石さん、一つ聞いていいですか」
「はい」
「朝霧先生と、その……プライベートでも会っていたりしますか」
直接的な問いだった。私は少し間を置いた。
「……なぜですか」
「正直に言うと、白石さんのことが気になっています。最初は仕事の話だけのつもりだったんですが、話すたびに、もっと話したいと思うようになってきて」
二谷先生の声は、落ち着いていた。感情的ではなく、でも真剣だった。
「朝霧先生のことを聞いたのは、あの先生が白石さんを特別に思っているのはわかるから、自分が入り込む余地があるかどうかを確認したくて」
「先生が、私を特別に思っているとなぜ思うんですか」
「廊下で白石さんを見るときの目が、他のスタッフへの目と違います。外科の先生たちに、朝霧先生のこと聞いたら、「あの先生が特定のスタッフを長く見ることはない、白石さんは例外的だ」と言っていました」
私は少し驚いた。先生の目が私を特別に見ていることが、外から見てもわかるのか。
「……プライベートで会うことは、あります」
「そうか」
二谷先生は少しだけ、表情を落ち着かせた。
「それは、二人の間に、何かあるということですか」
「……先生とは、仲がいい、と思っています」
「仲がいい、以上のことは」
私は答えられなかった。
先生と私の間には、「好き」という言葉が一度だけ、あの雪の夜の屋上で交わされていた。「俺も」という先生の言葉があった。でも、それ以降、二人の関係は形として何も変わっていなかった。肩書きも、距離も、呼び方も。
「……はっきりとした形では、ありません」
正直に言った。
二谷先生がまた真剣な顔になった。
「白石さん、一つだけ言ってもいいですか」
「どうぞ」
「朝霧先生は、すごい医師だと思います。でも、白石さんにとっていい相手かどうかは、別の話じゃないかと思う。白石さんには、もっとちゃんと言葉にしてくれる人の方が、合っているんじゃないかって、話していて思いました」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
ちゃんと言葉にしてくれる人。
それは、私がずっと、密かに求めていたものかもしれなかった。
「白石さん、考えてみてください。俺は待てます」
二谷先生はそれだけ言って、席を立った。
私は一人、食堂に残った。
食べかけのランチを見つめながら、胸の中で何かが揺れているのを感じた。
揺れていた。確かに揺れていた。
それが何のせいなのか、今日の私には、はっきりとわからなかった。
二谷先生の言葉が、頭の中に残った。
「白石さんには、もっとちゃんと言葉にしてくれる人の方が合っている」
それは、的を射ていた。
私は感情を取り戻してから、感情に言葉をもらうことの大切さを知っていた。誰かが「寂しかった」と言えるのは、その言葉を受け取る練習ができているからだ。先生との間で、私はたくさんの感情を感じてきた。でも先生は、それを言葉にすることが少なかった。
「俺も」の二文字が、先生の告白だった。
あの夜は、それで十分だと思った。先生らしいと思った。
でも今は、少しだけ、もどかしかった。
そんな気持ちを抱えたまま迎えたある夜、桐島さんから連絡が来た。
「白石さん、今夜時間ありますか。ちょっとだけ話せたら」
断る理由がなかった。「少しなら」と返して、病院近くのカフェで会った。
桐島さんは飾らない人だった。
「白石さんのこと、好きです。率直に言います」
開口一番に言った。私は少し目を丸くした。
「理学療法士として患者さんのそばで関わることが多いんですが、白石さんの患者さんへの接し方を、前からすごいと思っていたんです。でも最近、仕事以外でも気になってきて」
「……理由は、それだけですか」
「それだけじゃないですけど、最初のきっかけはそれです。白石さんって、感情が自然で。以前は違う雰囲気だったって聞いたことがあるんですけど、今の白石さんは、喜びも悔しさも全部顔に出るじゃないですか。それが好きで」
感情が自然で、という言葉が、予想していなかった場所に届いた。
「……前は、感情がなかったんです、私」
「え」
「うまく感じられなかった。だから今は、感じられることが、まだ新鮮で」
「そうなんですね」
桐島さんが、まっすぐに私を見た。
「今の白石さんの方が、絶対いいですよ。感情が出てる方が、人間らしくて温かくて。一緒にいたいと思える」
その言葉が、温かかった。
こんなにはっきりと「一緒にいたい」と言ってもらえることが、温かかった。
「……嬉しいです」
私は正直に言った。
「でも」
「でも?」
「少し、考えさせてください」
桐島さんは少し照れたように笑った。
「わかりました。待ちます」
帰り道、夏の夜の空気の中を一人で歩きながら、私は自分の胸の中を確認した。
桐島さんのことを、どう思っているか。
温かい人だと思う。真剣だと思う。「一緒にいたい」という言葉が、嬉しかった。
でも、先生と同じ重さがあるかというと、違う気がした。
(違う気がする)
その「違う気がする」の根拠を、まだうまく言葉にできなかった。
翌日の朝、先生と廊下ですれ違った。
先生はいつも通りだった。足が少し緩んで、「昨夜は眠れたか」と聞いた。
「はい」
「顔色は悪くないな」
「ありがとうございます」
「今日は術前の確認が午後に一件ある。準備しておけ」
「はい」
それだけだった。
先生は歩き続けた。
私はその背中を見ながら、昨夜の桐島さんの「一緒にいたいと思える」という言葉と、先生の「昨夜は眠れたか」という言葉を、頭の中で並べた。
どちらが、温かいか。
どちらが、私に届いているか。
答えは出なかった。
でも出ない、ということ自体が、何かを示していた気がした。
九月になった。
残暑が続く中、私の中の揺れは続いていた。
二谷先生とは食堂で会い続け、桐島さんとは時々メッセージをやりとりし、水島先生は廊下で会うたびに「白石さん、今日もかっこいいです」と言ってきた。
水島先生の言葉は、毎回照れた。感情が戻ってから、そういう直接的な言葉に照れるようになった。それ自体は悪くなかった。
でも、何かがずっと引っかかっていた。
先生との間に、何も動きがない、ということが。
先生は毎朝「昨夜は眠れたか」と聞く。私が何かを言えば聞く。でもそれ以上は何もない。また二人で外に出ることも、プライベートの連絡も、この一ヶ月はなかった。
(先生は、何も感じていないのだろうか)
そう思うことが、増えていた。
ある午後の処置の後、私は記録室で一人、入力作業をしていた。
扉が開いて、先生が入ってきた。
珍しかった。先生が用もなく記録室に来ることは、あまりない。
「白石」
「はい」
先生はドアを閉めた。私の向かいの椅子には座らず、窓際に立った。
「最近、二谷と食堂で会っているな」
私は手を止めた。
「……はい」
「桐島とも、外で会ったか」
私はゆっくりと先生を見た。
「見ていたんですか」
「病院内での話は、自然に耳に入ってくる」
先生は窓の外を見たまま言った。
「それが何か」
「何もない」
「何もないなら、なぜ言うんですか」
先生が少し間を置いた。
「……確認したかった」
「何を確認したいんですか」
先生が私の方を向いた。
その目が、今日は少し違った。冷えてはいた。でも、その奥に、何かが揺れていた。
「お前が、どうしたいのかを」
「どうしたいのか、とは」
「二谷や桐島と、どうしたいのかを」
私は先生を見た。
「先生は、どうしてほしいんですか」
先生が少し止まった。
「……それを俺が言う立場にあるかどうか、わからない」
「なぜですか」
「俺とお前の間には、まだ何も、形になっていない」
「そうですね」
私は静かに言った。
「先生が形にしようとしなかったから」
少し、踏み込んだことを言った気がした。でも、言いたかった。
「……そうだな」
先生が認めた。
「なぜ、形にしなかったんですか」
「うまく言えなかった」
「先生はいつも、そう言います」
「そうかもしれない」
先生が窓の外に視線を戻した。
「白石。俺はお前に対して、何かを持っている。それがどういう名前のものか、今でも正確にはわからない。でも、お前が二谷や桐島のそばにいることを思うと、何かが動く」
「何かが動く、というのは」
「気持ちが良くない」
先生が、珍しい言い方をした。
「気持ちが良くない、とは」
「落ち着かない。仕事に集中できる時間が、少し減った」
私はしばらく、先生の横顔を見た。
「先生、それは嫉妬じゃないですか」
先生が止まった。
「……そういう言葉に当てはまるのか、わからない」
「わかります。嫉妬です」
「俺がそういうものを感じるとは思っていなかった」
「感情は情報です、先生が言いました」
先生がまた止まった。
「……そうだな」
「嫉妬という感情が先生に届いているということは、先生が私に対して何かを感じているということです」
先生は私を見た。
「お前は、今、どうしたいんだ」
「先生に聞く前に、先生が答えてください」
先生の目が、少し揺れた。
「……俺は、お前のそばにいたい」
静かな声だった。でも、今まで先生が言った言葉の中で、一番まっすぐな言葉だった気がした。
「理由は」
「言語化できない部分が多い。でも、お前がいない場所に、足りなさを感じる。お前が笑うと、俺も何かが動く。お前が傷つくと、俺が傷つく。それが何かはわからないが、手放したくない」
「手放したくない」
「ああ」
私は少し間を置いた。
「先生、もう少し早く言えていたら、私がこんなに揺れることもなかったかもしれません」
「……そうだな。俺の責任だ」
「責任とかじゃないんですが」
「では何だ」
「先生がもっと言葉にしてくれると、私は安心します。言葉じゃないと届かないこともあるので」
先生はしばらく、私を見ていた。
「……善処する」
「善処、というのが先生らしいですね」
「俺にできることをする、という意味だ」
「わかっています」
私はそう言って、記録の入力に戻った。
先生は少しの間そこにいてから、扉を開けて出ていった。
私はキーボードを叩きながら、胸の中が少し、温かいことを感じた。
先生が嫉妬していた。
先生が「手放したくない」と言った。
それが言葉になった。
言葉になったという事実が、今の私には大きかった。
その夜、私は散歩に出た。
夜の住宅街を、目的なく歩いた。夏の終わりの空気は、少しだけ秋の匂いがした。街灯の下を一人で歩きながら、頭の中を整理しようとした。
二谷先生のことを考えた。
二谷先生は言葉を持っている人だ。「白石さんのことが気になっている」「一緒にいたい」と、ちゃんと言葉にしてくれる。聞き上手で、話しやすくて、一緒にいて居心地がいい。
なぜ先生を選ばないのか、と問われたら、今夜は少し言いにくかった。
桐島さんのことも、考えた。
温かい人だ。直球で、正直で、感情をちゃんと持っている。「今の白石さんが好き」という言葉は、本物だった。
なぜ先生を選ばないのか。
私は立ち止まった。
街灯の下で、自分の影を見た。
(なぜ先生を選ぶのか、を考えるべきだ)
逆から考えた方がいい。二谷先生ではない理由、桐島さんではない理由より、なぜ朝霧先生なのかを考えた方がいい。
なぜ先生なのか。
歩きながら、考えた。
先生は言葉が少ない。直接的な言葉を言わない。「好き」という言葉さえ、まだ一度も言われていない。「俺も」の二文字だけだ。
先生は冷たい。患者に優しい言葉をかけない。スタッフへの気配りが自然ではない。廊下ですれ違う人に「お疲れ様」と言わない。
先生は読めない。何を考えているか、外から見てもわからない。今でも時々、先生が何を思っているかを確かめるのに、かなりの観察が必要だ。
それでも、先生との時間に、他の誰ともない「何か」があった。
帰宅してから、私は過去のノートを開いた。
感情日記をつけ始めてから、何冊も積み重なっていた。最初の一冊目を開いた。
初めて感情を取り戻した夜のことが書いてあった。三田村さんが亡くなった夜。先生の手が頭の上に乗った感触。「泣いていい」と先生が言った声。
「九年ぶりに、誰かのそばで泣いた。誰かが、そばにいてくれた」
その一文が、胸に刺さった。
二冊目を開いた。
公園で先生と並んで座った日。「また来るか」と先生が言った日。
「また来たいと思った。先生が選ぶ場所には、先生の意図がある気がするから、ついていきたかった」
三冊目。
屋上で初雪の中、告白した夜。
「先生が『俺も』と言った。その二文字が、今夜の一番の言葉だった」
私は何冊も読み返した。
そこにあったのは、感情を取り戻してからの私の記録だった。でも同時に、先生との記録でもあった。
先生が「今からでも遅くはない」と言ってくれた夜。先生が「壊す」と宣言した夕暮れ。先生が公園で「手術がうまくいかなかったとき、ここに来る」と話してくれた日。先生が篠原さんの嘘を信じかけながらも、私の証拠を受け取って「俺の判断が間違っていた」と言った夜。先生が飲み会を一時間以上、駐車場で待っていた夜。
全部、ここにあった。
(先生は、ずっとそばにいた)
言葉にしなかっただけで、行動でそこにいた。
先生は「昨夜は眠れたか」と毎朝聞く。それは愛情の表現だ。言葉を持たない人間の、精一杯の言葉だ。
先生はコートを忘れても、私のコートを持ってきて渡した。先生は飲み会の後で一時間待った。先生は私が辞めようとしたとき「辞めるな」と言った。
全部が、先生の言い方での「ここにいる」だった。
私は、それを知っていた。ずっと知っていた。
なのになぜ、揺れていたのか。
(言葉が欲しかったから)
そうだ。言葉が欲しかった。二谷先生が言葉をくれて、桐島さんが言葉をくれた。その言葉の心地よさに、揺れていた。
でも、言葉と行動は別だ。
先生の行動を、私は誰よりも知っている。
言葉をくれる人と、行動でそこにいてくれる人。どちらを選ぶか、ではなかった。
私が選ぶのは、先生だった。
それは最初から決まっていたことかもしれなかった。
でも今夜、ちゃんと、確かめられた。
ノートを閉じた。
窓の外の夜空に、秋の星が出ていた。
この空を、先生と見たいと思った。
翌日、私は二谷先生に正直に話した。
食堂での昼食の席で、静かに言った。
「二谷先生、先日の話の返事をしたいんですが」
「はい」
「私には、大切に思っている人がいます。だから、二谷先生のお気持ちには、お応えできません」
二谷先生は少しの間、私を見ていた。
「朝霧先生ですね」
「はい」
「そうか」
二谷先生は短く言って、少し笑った。
「白石さんらしいな、と思います。朝霧先生みたいな人を選ぶところが」
「どういう意味ですか」
「白石さんって、表面上は穏やかなのに、芯がすごく強い。流されない。だから、言葉が少ない人でも、ちゃんとその奥を見られる。俺みたいに言葉が多い人間には、かえって少し物足りないかもしれないですね」
私は少し驚いた。
「……物足りない、ですか」
「俺は言葉にするのが得意なんです。それが好きな人もいるけど、白石さんには多すぎるかもしれない。白石さんは、言葉の奥を読む人だから」
その言い方が、少し新鮮だった。
「二谷先生は、すごく言語化するのが上手ですね」
「ありがとうございます。でもそれが全てじゃないってことも、知っています」
二谷先生が立ち上がった。
「白石さんのこと、応援しています。朝霧先生も、大事にしてくれる人だといいですね」
「……ありがとうございます」
「仕事では引き続きよろしくお願いします」
二谷先生はそう言って、食堂を出た。
私はその後ろ姿を見ながら、胸の中に残ったものを確認した。
温かかった。二谷先生は、いい人だった。
でも先生とは、違う温かさだった。
桐島さんには、メッセージで伝えた。
「ご縁を大切にしてくださってありがとうございます。でも私には、大切に思っている人がいます。申し訳ありません」
しばらくして返信が来た。
「わかりました。白石さんが幸せになることを願っています。また仕事でよろしくお願いします」
シンプルで、温かい返信だった。
桐島さんらしかった。
水島先生には、廊下で静かに話した。
「水島先生、誘ってくれてありがとう。でも私には好きな人がいるので、お応えできないです」
「えっ、そうなんですね! 誰ですか」
「それは言えません」
「朝霧先生ですか」
直球すぎた。私は少し苦笑した。
「なぜそう思うんですか」
「みんな知ってますよ。先生が白石さんのことだけ見てる目、全然違うので」
水島先生が、少し残念そうに笑った。
「白石さん、朝霧先生のこと選ぶなら、絶対大事にしてもらってくださいよ。あんな怖い先生でも、白石さんのためなら動ける人だって、みんな見てるから」
「みんな見ているんですね」
「外科病棟で一番有名なカップルですよ、公式じゃないですけど」
水島先生は笑って、手術室の方向に走っていった。
私は廊下に一人残って、少し、顔が熱くなった。
有名なカップル。公式じゃないけど。
その「公式じゃないけど」が、今の私たちだった。
その日の夕方、先生に「今夜、少し話せますか」とメッセージした。
「ああ」
「どこかで」
「病院の近くでいい。十九時に正面玄関で」
先生からの返信は、迷わなかった。
十九時、正面玄関に先生がいた。コートを羽織っていた。九月になって、夜は少し涼しくなっていたから、今日はちゃんと着ていた。
「どこへ行くか」
「先生が決めてください」
「また池か」
「それでもいいです」
先生は少し歩いてから、違う方向に曲がった。池の公園ではなく、川沿いの道に向かった。
「今日はこっちにする」
「川沿いですね」
「秋の川の方が、落ち着く」
先生が「落ち着く」と言った。
感情の言葉が、少し増えていた。あのとき「善処する」と言っていたから、この一ヶ月で、少し練習したのかもしれなかった。
川沿いのベンチに並んで座った。川の音がした。街灯が水面に反射して揺れていた。
「話があると言っていた」
「はい」
「なんだ」
「二谷先生と桐島さんに、断りました」
先生が少し止まった。
「……そうか」
「はい」
「なぜ」
「先生がいるから」
先生は川を見たまま、何も言わなかった。
「先生」
「なんだ」
「先生は、私の傍にいてくれますか」
先生が私の方を向いた。
その目が、今夜は穏やかだった。冷えてはいたが、穏やかだった。
「いる」
先生が言った。
「なぜいるんですか」
「お前がいないと、足りないから」
「それは以前も聞きました。もう少し、詳しく言えますか」
先生が少し間を置いた。
「……お前と話すと、何かが動く。お前が笑うと、俺も何かが動く。お前が傷つくと、俺が傷つく。お前が揺れているとき、俺が落ち着かなかった。この一ヶ月、お前が二谷のそばにいる話を聞いて、初めて、こんな感情があるとわかった」
「どんな感情ですか」
「……失いたくない、という感情だ」
川の音が、静かに続いた。
「先生」
「なんだ」
「私は、先生がそれを言葉にしてくれて、嬉しいです」
「そうか」
「先生が行動でそこにいてくれることは、ずっと感じていました。でも言葉になると、もっと届きます」
「……それは、覚えておく」
「覚えておいてください」
先生はまた川を見た。
「白石」
「はい」
「俺は、感情を言葉にすることが、うまくない」
「知っています」
「でも、努力する」
「努力、と言うんですね、先生は」
「何と言えばいいんだ」
「頑張るでも、練習するでも、大切にするでもいいですよ」
先生が少し間を置いた。
「……大切にする」
その言葉が、川の音の中に静かに落ちた。
大切にする。
それは、先生にとってはとても大きな言葉だったと思う。感情を言語化することが苦手な先生が、そう言った。
「先生」
「なんだ」
「私も、先生を大切にします」
「……そうか」
「そうかじゃなくて」
「なんと返せばいいんだ」
「ありがとうでも、嬉しいでも、俺も、でも」
先生が少し、口元を動かした。
「……嬉しい」
その一言が、川の音の中に溶けた。
先生が「嬉しい」と言った。
私は、目が少し熱くなった。
先生が感情を言葉にした。その一言が、今夜の全部だった。
「先生」
「なんだ」
「今夜の先生、すごく頑張っていますね」
「うるさい」
先生がぶっきらぼうに言った。
でも、耳の後ろが、また少し赤かった。
秋の夜の川沿いで、私は少しだけ笑った。
本当に、自然に笑えた。
先生の横顔が、街灯の光の中で、今夜は少し柔らかかった。
十月になった。
病棟の窓から、金木犀の香りが入ってきた。
秋の病院は、夏よりも静かだった。面会時間が終わった夕方、廊下に差し込む夕陽が、床に長く伸びた。
私は今日も働いていた。
患者に声をかけ、処置をして、記録を書いた。急変があれば動いた。揺れることもあった。怖いこともあった。でも、動き続けた。
感情があることが、今は当たり前になっていた。
喜びも悔しさも、心配も悲しみも、全部が私の一部になっていた。
その日の夕方、橘さんが「報告があります」という顔でやってきた。
「白石さん、聞いた? 二谷先生、循環器内科の竹田さんと付き合うって」
「そうですか」
「竹田さん、すごく明るくて話し好きな人だから、お似合いだよね」
「そうですね」
私は自然に言えた。二谷先生が幸せになることを、心から思えた。
「白石さんは、どうなの。朝霧先生と」
「……仲良くしています」
「仲良く、ね」橘さんが笑った。「それ、もう付き合ってるって言えない?」
「形は、まだないです」
「形がないって、告白はしたんでしょ、屋上で」
「……しました」
「先生、俺もって言ったんでしょ」
「……そうです」
「それ、付き合ってるでしょ、どう考えても」
私は少し困って、「そうかもしれません」と答えた。
橘さんが「もう」と言いながら笑った。
「二人とも、もっとちゃんとしてほしい」
「先生に言ってみます」
「言えるの?」
「最近は、少し言えるようになりました」
橘さんが目を丸くした。
「え、すごい。先生が変わった?」
「少し。言葉が増えました」
「嘘でしょ、あの先生が」
「本当のことです」
橘さんが「すごいすごい」と言いながら自分の仕事に戻った。
私もデスクに向かった。
画面を見ながら、少し、胸が温かかった。
先生が言葉を増やした。それは先生の、精一杯だった。
精一杯は、その人の言い方によって形が違う。言葉で示す人もいれば、行動で示す人もいる。先生は行動の人だったが、私のために言葉を増やそうとしている。
それが、今の私には、何より嬉しかった。
その夜、先生から短いメッセージが来た。
「今夜、空いているか」
「空いています」
「いつもの川沿い、二十時」
川沿いが「いつもの」になっていた。
先生が場所に名前をつけた。それだけのことが、少し嬉しかった。
二十時に川沿いに行くと、先生がいた。今夜は薄手のジャケットを着ていた。秋らしい服装だった。
「来たか」
「はい」
「歩くか」
「はい」
二人で川沿いを歩いた。
先生が歩きながら言った。
「今日、竹田から聞いた。二谷と付き合ったって」
「橘さんからも聞きました」
「そうか」
先生は少し間を置いた。
「二谷は、ちゃんと言葉にする人間だな」
「そうですね」
「お前は、そういう人間の方が良かったか」
先生が、珍しく、直接聞いてきた。
私は先生の横顔を見た。
「良かったら、そっちを選んでいました」
「……そうか」
「私が選んだのは先生です。先生のことが好きです。それは変わっていません」
先生が少し止まった。
「俺も」
また「俺も」だった。
でも今夜は、それでよかった。
「先生の「俺も」は、もう私のお気に入りの言葉です」
「なぜだ」
「先生の精一杯だから」
先生が少し止まって、また歩いた。
「……白石」
「はい」
「お前が揺れていた一ヶ月、俺は、何もしなかった」
「先生は記録室で話しかけてきてくれました」
「それだけだ。もっと早く、もっとはっきりと言うべきだった」
私は先生を見た。
「言えないんですよね、先生は」
「練習中だ」
「知っています」
「でも、これからはもう少し言う。お前が揺れないように」
その言葉が、今夜の一番の言葉だった。
「お前が揺れないように」
先生が、私を揺れないようにしようとしている。それは先生なりの愛情の言い方だった。
「先生」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「何の礼だ」
「全部です」
先生が少し間を置いた。
「……どういたしまして」
また「どういたしまして」が出た。先生が、この言葉を覚えた。
私は川の方を向いて、笑いを堪えた。
先生が「どういたしまして」を言えるようになった。感情の言葉が、少しずつ増えていく。
川の水面が、街灯を映して揺れていた。
その揺れを見ながら、私は思った。
先生と私は、どちらも、ずいぶんと変わってきた。
先生は感情を閉じていた人間が、少しずつ言葉を持つようになった。私は感情をなくしていた人間が、少しずつ感じることを取り戻した。
二人で、変わってきた。
同じ方向に向かって、それぞれの速度で、変わってきた。
それが、私たちだった。
「先生、私、先生を選んで良かったと思っています」
先生が私を見た。
「今更か」
「今更じゃないです。確認です」
「確認、か」
「大事なことは、何度でも確認します」
先生が少し、口元を動かした。
「……俺も」
また二文字だった。
でも今夜は、その二文字がとても温かかった。
川沿いを、二人で歩いた。
足音が、二人分聞こえた。
秋の夜風が、静かに吹き抜けた。
先生の手が、ふと、私の手に触れた。
指先だけが、かすかに触れた。
そのまま、繋がれた。
先生が何も言わなかった。私も何も言わなかった。
川の水面が揺れて、また静まった。
揺れても、静まっても、水は流れ続けていた。
それでいい、と思った。
揺れることも、静まることも、全部が私たちだった。
夜の川沿いを、二人の足音が続いた。
先生の手は、温かかった。
外科病棟の窓から見える空は、青く高く、入道雲が白く盛り上がっていた。夏の病院は独特の空気がある。冷房の効いた廊下と、蒸し暑い駐車場の空気が、自動ドアのたびに混ざり合う。面会に来る家族が半袖になり、患者のパジャマが薄くなった。
篠原さんが去ってから約一ヶ月が経ち、病棟は少しずつ、元の空気を取り戻していた。
木村くんは以前より積極的に動くようになり、橘さんは相変わらず要所で支えてくれて、林さんはどっしりと病棟を回していた。先生はいつも通り冷徹で、私にだけ毎朝少し足を緩めて、廊下で「昨夜は眠れたか」と声をかけてくる。
それが、今の私の日常だった。
悪くない日常だと思っていた。
変化は、そんな平穏な日常の中に、静かに入ってきた。
最初に変わったのは、病棟の外側だった。
外科病棟から少し離れた場所に、循環器内科病棟がある。その病棟のリーダー的存在で、スタッフの間でひそかに「王子様」と呼ばれている医師がいた。
二谷渉。三十歳。
背が高く、顔立ちが整っていて、患者への言葉が丁寧で、スタッフへの気配りも自然だった。廊下で会うと必ず「お疲れ様です」と声をかけてくれて、困っているスタッフを見かけると助けに行く。医師としての腕も確かで、患者からの評判もいい。
要するに、絵に描いたような「いい人」だった。
私が二谷先生を意識するようになったのは、ある昼休みのことだった。
食堂で一人で昼食を取っていると、「ここ、いいですか」と声をかけられた。
二谷先生だった。
「どうぞ」
「外科の白石さんですよね。朝霧先生の専属看護師の」
「そうです」
「以前、廊下で会ったとき、患者さんへの対応がすごく丁寧だと思って。あのとき声をかけそびれたんですが」
二谷先生は自然な笑顔で言った。押しつけがましくなかった。
「ありがとうございます」
「朝霧先生って、厳しいですよね。あの先生のそばで働くのは、大変じゃないですか」
「慣れました」
「すごいですね。自分だったら三日で折れる気がします」
二谷先生が笑った。柔らかい笑い方だった。
私は少し、温かい気持ちになった。
先生のそばで働くことに「すごいですね」と言われることは、今まであまりなかった。
(こんな話し方をする人がいるんだ)
そう思っただけで、その日は終わった。
でも次の日も、食堂で二谷先生と会った。また隣に座った。また話した。
三日続いたとき、偶然ではないと気づいた。
二谷先生との食堂での昼食が習慣になってから一週間後、別の方向からも変化が来た。
理学療法士の桐島健太、二十八歳。
外科病棟のリハビリ担当として定期的に来ていた。茶色がかった髪に人懐っこい笑顔で、患者の評判が良く、スタッフとの距離も近い。
「白石さん、少しいいですか」
廊下で声をかけられたのは、八月の中頃だった。
「はい」
「先日、白石さんが担当していた佐々木さんのリハビリなんですが、術後の回復が早くて。白石さんのケアが良かったんじゃないかと思って、お礼が言いたくて」
「チームでやっていることなので」
「でも、患者さんが「白石さんが夜中にそばにいてくれた」って話してくれて。それってリハビリにも絶対影響しているんですよね、精神的な安心感が」
桐島さんの目が、真剣だった。お世辞ではなかった。
「ありがとうございます」
「白石さん、食事とか行きませんか。お礼の意味で」
直球だった。
私は少し戸惑いながら答えた。
「……今は少し、忙しくて」
「そうですよね、すみません。急に。でも、またいつか、ぜひ」
桐島さんは笑って、リハビリ室の方に歩いていった。
私はその背中を見ながら、少し不思議な気持ちになった。
(誘われた)
感情があるから、そのことがちゃんと「嬉しい」という感触として届いた。
誰かに誘われることが、嬉しかった。
その感覚を、私はしばらくの間、持て余した。
三人目が来たのは、翌週だった。
新しく赴任してきた外科の研修医、水島颯太、二十六歳。
背が高く、笑顔が爽やかで、研修医の中では飛び抜けて動きが早い。朝霧先生への指導を毎日受けており、先生に怒鳴られながらも「先生、もう一度教えてください」と食らいつく根性があった。
水島先生は、ある朝の処置の後で声をかけてきた。
「白石さん、今日の処置、一緒にできてよかったです」
「ありがとう。動きが早くなりましたね」
「白石さんのおかげです。前回、タイミングを教えてもらってから、ずっと意識していて」
「そう」
「白石さんって、すごいですね。朝霧先生の右腕じゃないですか」
「そんなことはないですよ」
「いや、すごいですよ。俺、白石さんみたいな看護師と組めて本当によかった」
水島先生は真剣な目をしていた。
「……頑張ってください」
「あの、白石さん、もし良かったら、仕事の話も含めて、今度食事に行きませんか。教えてもらいたいことがたくさんあって」
三人目の誘いだった。
私は少し微笑んで「考えておきます」と答えた。
自分が「考えておきます」と答えたことに、少し驚いた。以前の私なら、即座に「必要ありません」と言っていた。
感情が戻ったことで、「嬉しい」という感触が先に来るようになった。それが返事を柔らかくした。
その夜、アパートで橘さんからメッセージが来た。
「白石さん、最近モテてるね。病院内で話題になってるよ」
私は少し、困惑した。
「話題になってるんですか」
「二谷先生と食堂で毎日いるって有名だし、桐島くんが誘ったって木村くんから聞いたし、水島先生も「白石さんがいい」みたいに言ってるって」
「……」
「白石さん、どうするの。朝霧先生のこと、どうなってるの?」
私は少し考えてから返した。
「先生とは、特に何も変わっていません」
橘さんからすぐに返信が来た。
「そうなの? 先生、最近また白石さんのこと見てるよ。いつもより」
私はその文を読んで、スマートフォンを置いた。
先生が、私を見ている。
でも先生は何も言わない。いつも通りだ。廊下で足を緩めて、「昨夜は眠れたか」と聞いて、業務の話をして、それだけだ。
二谷先生は食堂で笑顔で話しかけてくれる。桐島さんは直接誘ってくれた。水島先生は真剣な目で「一緒にいたい」と言う。
みんな、言葉にしてくれる。
先生は、言葉にしない。
(言葉にしないことと、何も感じていないことは、違う)
そうわかっていた。でも今夜は少しだけ、その違いが、もどかしかった。
ノートに書いた。
「三人に誘われた。嬉しかった。自分がそれを嬉しいと感じることを、少し不思議に思っている。先生のことが好きなのに、なぜ他の人に誘われて嬉しいのか。わからない」
書いてから、もう一行書いた。
「でも、嬉しいという感情を持てることが単純に嬉しい」
ノートを閉じた。
窓の外に、夏の夜空が広がっていた。
二谷先生との食堂での昼食は、二週間が経った。
毎日ではなかったが、週に三、四回は会った。話す内容は、仕事のことが多かった。お互いの担当患者の話、最近読んだ医療の記事、病棟での出来事。二谷先生は聞き上手で、私が話したことに対して必ず何かを返してくれた。
先生との会話とは、全然違った。
朝霧先生との会話は、短かった。必要なことを言って、それで終わることが多かった。でも二谷先生は、私の話を広げてくれた。「それってどういう意味ですか」「もう少し聞かせてください」と言ってくれた。
(こんなに話を聞いてもらえることが、あるんだ)
そう思うことが、何度かあった。
ある昼休み、二谷先生が少し真剣な顔で言った。
「白石さん、一つ聞いていいですか」
「はい」
「朝霧先生と、その……プライベートでも会っていたりしますか」
直接的な問いだった。私は少し間を置いた。
「……なぜですか」
「正直に言うと、白石さんのことが気になっています。最初は仕事の話だけのつもりだったんですが、話すたびに、もっと話したいと思うようになってきて」
二谷先生の声は、落ち着いていた。感情的ではなく、でも真剣だった。
「朝霧先生のことを聞いたのは、あの先生が白石さんを特別に思っているのはわかるから、自分が入り込む余地があるかどうかを確認したくて」
「先生が、私を特別に思っているとなぜ思うんですか」
「廊下で白石さんを見るときの目が、他のスタッフへの目と違います。外科の先生たちに、朝霧先生のこと聞いたら、「あの先生が特定のスタッフを長く見ることはない、白石さんは例外的だ」と言っていました」
私は少し驚いた。先生の目が私を特別に見ていることが、外から見てもわかるのか。
「……プライベートで会うことは、あります」
「そうか」
二谷先生は少しだけ、表情を落ち着かせた。
「それは、二人の間に、何かあるということですか」
「……先生とは、仲がいい、と思っています」
「仲がいい、以上のことは」
私は答えられなかった。
先生と私の間には、「好き」という言葉が一度だけ、あの雪の夜の屋上で交わされていた。「俺も」という先生の言葉があった。でも、それ以降、二人の関係は形として何も変わっていなかった。肩書きも、距離も、呼び方も。
「……はっきりとした形では、ありません」
正直に言った。
二谷先生がまた真剣な顔になった。
「白石さん、一つだけ言ってもいいですか」
「どうぞ」
「朝霧先生は、すごい医師だと思います。でも、白石さんにとっていい相手かどうかは、別の話じゃないかと思う。白石さんには、もっとちゃんと言葉にしてくれる人の方が、合っているんじゃないかって、話していて思いました」
その言葉が、静かに胸に落ちた。
ちゃんと言葉にしてくれる人。
それは、私がずっと、密かに求めていたものかもしれなかった。
「白石さん、考えてみてください。俺は待てます」
二谷先生はそれだけ言って、席を立った。
私は一人、食堂に残った。
食べかけのランチを見つめながら、胸の中で何かが揺れているのを感じた。
揺れていた。確かに揺れていた。
それが何のせいなのか、今日の私には、はっきりとわからなかった。
二谷先生の言葉が、頭の中に残った。
「白石さんには、もっとちゃんと言葉にしてくれる人の方が合っている」
それは、的を射ていた。
私は感情を取り戻してから、感情に言葉をもらうことの大切さを知っていた。誰かが「寂しかった」と言えるのは、その言葉を受け取る練習ができているからだ。先生との間で、私はたくさんの感情を感じてきた。でも先生は、それを言葉にすることが少なかった。
「俺も」の二文字が、先生の告白だった。
あの夜は、それで十分だと思った。先生らしいと思った。
でも今は、少しだけ、もどかしかった。
そんな気持ちを抱えたまま迎えたある夜、桐島さんから連絡が来た。
「白石さん、今夜時間ありますか。ちょっとだけ話せたら」
断る理由がなかった。「少しなら」と返して、病院近くのカフェで会った。
桐島さんは飾らない人だった。
「白石さんのこと、好きです。率直に言います」
開口一番に言った。私は少し目を丸くした。
「理学療法士として患者さんのそばで関わることが多いんですが、白石さんの患者さんへの接し方を、前からすごいと思っていたんです。でも最近、仕事以外でも気になってきて」
「……理由は、それだけですか」
「それだけじゃないですけど、最初のきっかけはそれです。白石さんって、感情が自然で。以前は違う雰囲気だったって聞いたことがあるんですけど、今の白石さんは、喜びも悔しさも全部顔に出るじゃないですか。それが好きで」
感情が自然で、という言葉が、予想していなかった場所に届いた。
「……前は、感情がなかったんです、私」
「え」
「うまく感じられなかった。だから今は、感じられることが、まだ新鮮で」
「そうなんですね」
桐島さんが、まっすぐに私を見た。
「今の白石さんの方が、絶対いいですよ。感情が出てる方が、人間らしくて温かくて。一緒にいたいと思える」
その言葉が、温かかった。
こんなにはっきりと「一緒にいたい」と言ってもらえることが、温かかった。
「……嬉しいです」
私は正直に言った。
「でも」
「でも?」
「少し、考えさせてください」
桐島さんは少し照れたように笑った。
「わかりました。待ちます」
帰り道、夏の夜の空気の中を一人で歩きながら、私は自分の胸の中を確認した。
桐島さんのことを、どう思っているか。
温かい人だと思う。真剣だと思う。「一緒にいたい」という言葉が、嬉しかった。
でも、先生と同じ重さがあるかというと、違う気がした。
(違う気がする)
その「違う気がする」の根拠を、まだうまく言葉にできなかった。
翌日の朝、先生と廊下ですれ違った。
先生はいつも通りだった。足が少し緩んで、「昨夜は眠れたか」と聞いた。
「はい」
「顔色は悪くないな」
「ありがとうございます」
「今日は術前の確認が午後に一件ある。準備しておけ」
「はい」
それだけだった。
先生は歩き続けた。
私はその背中を見ながら、昨夜の桐島さんの「一緒にいたいと思える」という言葉と、先生の「昨夜は眠れたか」という言葉を、頭の中で並べた。
どちらが、温かいか。
どちらが、私に届いているか。
答えは出なかった。
でも出ない、ということ自体が、何かを示していた気がした。
九月になった。
残暑が続く中、私の中の揺れは続いていた。
二谷先生とは食堂で会い続け、桐島さんとは時々メッセージをやりとりし、水島先生は廊下で会うたびに「白石さん、今日もかっこいいです」と言ってきた。
水島先生の言葉は、毎回照れた。感情が戻ってから、そういう直接的な言葉に照れるようになった。それ自体は悪くなかった。
でも、何かがずっと引っかかっていた。
先生との間に、何も動きがない、ということが。
先生は毎朝「昨夜は眠れたか」と聞く。私が何かを言えば聞く。でもそれ以上は何もない。また二人で外に出ることも、プライベートの連絡も、この一ヶ月はなかった。
(先生は、何も感じていないのだろうか)
そう思うことが、増えていた。
ある午後の処置の後、私は記録室で一人、入力作業をしていた。
扉が開いて、先生が入ってきた。
珍しかった。先生が用もなく記録室に来ることは、あまりない。
「白石」
「はい」
先生はドアを閉めた。私の向かいの椅子には座らず、窓際に立った。
「最近、二谷と食堂で会っているな」
私は手を止めた。
「……はい」
「桐島とも、外で会ったか」
私はゆっくりと先生を見た。
「見ていたんですか」
「病院内での話は、自然に耳に入ってくる」
先生は窓の外を見たまま言った。
「それが何か」
「何もない」
「何もないなら、なぜ言うんですか」
先生が少し間を置いた。
「……確認したかった」
「何を確認したいんですか」
先生が私の方を向いた。
その目が、今日は少し違った。冷えてはいた。でも、その奥に、何かが揺れていた。
「お前が、どうしたいのかを」
「どうしたいのか、とは」
「二谷や桐島と、どうしたいのかを」
私は先生を見た。
「先生は、どうしてほしいんですか」
先生が少し止まった。
「……それを俺が言う立場にあるかどうか、わからない」
「なぜですか」
「俺とお前の間には、まだ何も、形になっていない」
「そうですね」
私は静かに言った。
「先生が形にしようとしなかったから」
少し、踏み込んだことを言った気がした。でも、言いたかった。
「……そうだな」
先生が認めた。
「なぜ、形にしなかったんですか」
「うまく言えなかった」
「先生はいつも、そう言います」
「そうかもしれない」
先生が窓の外に視線を戻した。
「白石。俺はお前に対して、何かを持っている。それがどういう名前のものか、今でも正確にはわからない。でも、お前が二谷や桐島のそばにいることを思うと、何かが動く」
「何かが動く、というのは」
「気持ちが良くない」
先生が、珍しい言い方をした。
「気持ちが良くない、とは」
「落ち着かない。仕事に集中できる時間が、少し減った」
私はしばらく、先生の横顔を見た。
「先生、それは嫉妬じゃないですか」
先生が止まった。
「……そういう言葉に当てはまるのか、わからない」
「わかります。嫉妬です」
「俺がそういうものを感じるとは思っていなかった」
「感情は情報です、先生が言いました」
先生がまた止まった。
「……そうだな」
「嫉妬という感情が先生に届いているということは、先生が私に対して何かを感じているということです」
先生は私を見た。
「お前は、今、どうしたいんだ」
「先生に聞く前に、先生が答えてください」
先生の目が、少し揺れた。
「……俺は、お前のそばにいたい」
静かな声だった。でも、今まで先生が言った言葉の中で、一番まっすぐな言葉だった気がした。
「理由は」
「言語化できない部分が多い。でも、お前がいない場所に、足りなさを感じる。お前が笑うと、俺も何かが動く。お前が傷つくと、俺が傷つく。それが何かはわからないが、手放したくない」
「手放したくない」
「ああ」
私は少し間を置いた。
「先生、もう少し早く言えていたら、私がこんなに揺れることもなかったかもしれません」
「……そうだな。俺の責任だ」
「責任とかじゃないんですが」
「では何だ」
「先生がもっと言葉にしてくれると、私は安心します。言葉じゃないと届かないこともあるので」
先生はしばらく、私を見ていた。
「……善処する」
「善処、というのが先生らしいですね」
「俺にできることをする、という意味だ」
「わかっています」
私はそう言って、記録の入力に戻った。
先生は少しの間そこにいてから、扉を開けて出ていった。
私はキーボードを叩きながら、胸の中が少し、温かいことを感じた。
先生が嫉妬していた。
先生が「手放したくない」と言った。
それが言葉になった。
言葉になったという事実が、今の私には大きかった。
その夜、私は散歩に出た。
夜の住宅街を、目的なく歩いた。夏の終わりの空気は、少しだけ秋の匂いがした。街灯の下を一人で歩きながら、頭の中を整理しようとした。
二谷先生のことを考えた。
二谷先生は言葉を持っている人だ。「白石さんのことが気になっている」「一緒にいたい」と、ちゃんと言葉にしてくれる。聞き上手で、話しやすくて、一緒にいて居心地がいい。
なぜ先生を選ばないのか、と問われたら、今夜は少し言いにくかった。
桐島さんのことも、考えた。
温かい人だ。直球で、正直で、感情をちゃんと持っている。「今の白石さんが好き」という言葉は、本物だった。
なぜ先生を選ばないのか。
私は立ち止まった。
街灯の下で、自分の影を見た。
(なぜ先生を選ぶのか、を考えるべきだ)
逆から考えた方がいい。二谷先生ではない理由、桐島さんではない理由より、なぜ朝霧先生なのかを考えた方がいい。
なぜ先生なのか。
歩きながら、考えた。
先生は言葉が少ない。直接的な言葉を言わない。「好き」という言葉さえ、まだ一度も言われていない。「俺も」の二文字だけだ。
先生は冷たい。患者に優しい言葉をかけない。スタッフへの気配りが自然ではない。廊下ですれ違う人に「お疲れ様」と言わない。
先生は読めない。何を考えているか、外から見てもわからない。今でも時々、先生が何を思っているかを確かめるのに、かなりの観察が必要だ。
それでも、先生との時間に、他の誰ともない「何か」があった。
帰宅してから、私は過去のノートを開いた。
感情日記をつけ始めてから、何冊も積み重なっていた。最初の一冊目を開いた。
初めて感情を取り戻した夜のことが書いてあった。三田村さんが亡くなった夜。先生の手が頭の上に乗った感触。「泣いていい」と先生が言った声。
「九年ぶりに、誰かのそばで泣いた。誰かが、そばにいてくれた」
その一文が、胸に刺さった。
二冊目を開いた。
公園で先生と並んで座った日。「また来るか」と先生が言った日。
「また来たいと思った。先生が選ぶ場所には、先生の意図がある気がするから、ついていきたかった」
三冊目。
屋上で初雪の中、告白した夜。
「先生が『俺も』と言った。その二文字が、今夜の一番の言葉だった」
私は何冊も読み返した。
そこにあったのは、感情を取り戻してからの私の記録だった。でも同時に、先生との記録でもあった。
先生が「今からでも遅くはない」と言ってくれた夜。先生が「壊す」と宣言した夕暮れ。先生が公園で「手術がうまくいかなかったとき、ここに来る」と話してくれた日。先生が篠原さんの嘘を信じかけながらも、私の証拠を受け取って「俺の判断が間違っていた」と言った夜。先生が飲み会を一時間以上、駐車場で待っていた夜。
全部、ここにあった。
(先生は、ずっとそばにいた)
言葉にしなかっただけで、行動でそこにいた。
先生は「昨夜は眠れたか」と毎朝聞く。それは愛情の表現だ。言葉を持たない人間の、精一杯の言葉だ。
先生はコートを忘れても、私のコートを持ってきて渡した。先生は飲み会の後で一時間待った。先生は私が辞めようとしたとき「辞めるな」と言った。
全部が、先生の言い方での「ここにいる」だった。
私は、それを知っていた。ずっと知っていた。
なのになぜ、揺れていたのか。
(言葉が欲しかったから)
そうだ。言葉が欲しかった。二谷先生が言葉をくれて、桐島さんが言葉をくれた。その言葉の心地よさに、揺れていた。
でも、言葉と行動は別だ。
先生の行動を、私は誰よりも知っている。
言葉をくれる人と、行動でそこにいてくれる人。どちらを選ぶか、ではなかった。
私が選ぶのは、先生だった。
それは最初から決まっていたことかもしれなかった。
でも今夜、ちゃんと、確かめられた。
ノートを閉じた。
窓の外の夜空に、秋の星が出ていた。
この空を、先生と見たいと思った。
翌日、私は二谷先生に正直に話した。
食堂での昼食の席で、静かに言った。
「二谷先生、先日の話の返事をしたいんですが」
「はい」
「私には、大切に思っている人がいます。だから、二谷先生のお気持ちには、お応えできません」
二谷先生は少しの間、私を見ていた。
「朝霧先生ですね」
「はい」
「そうか」
二谷先生は短く言って、少し笑った。
「白石さんらしいな、と思います。朝霧先生みたいな人を選ぶところが」
「どういう意味ですか」
「白石さんって、表面上は穏やかなのに、芯がすごく強い。流されない。だから、言葉が少ない人でも、ちゃんとその奥を見られる。俺みたいに言葉が多い人間には、かえって少し物足りないかもしれないですね」
私は少し驚いた。
「……物足りない、ですか」
「俺は言葉にするのが得意なんです。それが好きな人もいるけど、白石さんには多すぎるかもしれない。白石さんは、言葉の奥を読む人だから」
その言い方が、少し新鮮だった。
「二谷先生は、すごく言語化するのが上手ですね」
「ありがとうございます。でもそれが全てじゃないってことも、知っています」
二谷先生が立ち上がった。
「白石さんのこと、応援しています。朝霧先生も、大事にしてくれる人だといいですね」
「……ありがとうございます」
「仕事では引き続きよろしくお願いします」
二谷先生はそう言って、食堂を出た。
私はその後ろ姿を見ながら、胸の中に残ったものを確認した。
温かかった。二谷先生は、いい人だった。
でも先生とは、違う温かさだった。
桐島さんには、メッセージで伝えた。
「ご縁を大切にしてくださってありがとうございます。でも私には、大切に思っている人がいます。申し訳ありません」
しばらくして返信が来た。
「わかりました。白石さんが幸せになることを願っています。また仕事でよろしくお願いします」
シンプルで、温かい返信だった。
桐島さんらしかった。
水島先生には、廊下で静かに話した。
「水島先生、誘ってくれてありがとう。でも私には好きな人がいるので、お応えできないです」
「えっ、そうなんですね! 誰ですか」
「それは言えません」
「朝霧先生ですか」
直球すぎた。私は少し苦笑した。
「なぜそう思うんですか」
「みんな知ってますよ。先生が白石さんのことだけ見てる目、全然違うので」
水島先生が、少し残念そうに笑った。
「白石さん、朝霧先生のこと選ぶなら、絶対大事にしてもらってくださいよ。あんな怖い先生でも、白石さんのためなら動ける人だって、みんな見てるから」
「みんな見ているんですね」
「外科病棟で一番有名なカップルですよ、公式じゃないですけど」
水島先生は笑って、手術室の方向に走っていった。
私は廊下に一人残って、少し、顔が熱くなった。
有名なカップル。公式じゃないけど。
その「公式じゃないけど」が、今の私たちだった。
その日の夕方、先生に「今夜、少し話せますか」とメッセージした。
「ああ」
「どこかで」
「病院の近くでいい。十九時に正面玄関で」
先生からの返信は、迷わなかった。
十九時、正面玄関に先生がいた。コートを羽織っていた。九月になって、夜は少し涼しくなっていたから、今日はちゃんと着ていた。
「どこへ行くか」
「先生が決めてください」
「また池か」
「それでもいいです」
先生は少し歩いてから、違う方向に曲がった。池の公園ではなく、川沿いの道に向かった。
「今日はこっちにする」
「川沿いですね」
「秋の川の方が、落ち着く」
先生が「落ち着く」と言った。
感情の言葉が、少し増えていた。あのとき「善処する」と言っていたから、この一ヶ月で、少し練習したのかもしれなかった。
川沿いのベンチに並んで座った。川の音がした。街灯が水面に反射して揺れていた。
「話があると言っていた」
「はい」
「なんだ」
「二谷先生と桐島さんに、断りました」
先生が少し止まった。
「……そうか」
「はい」
「なぜ」
「先生がいるから」
先生は川を見たまま、何も言わなかった。
「先生」
「なんだ」
「先生は、私の傍にいてくれますか」
先生が私の方を向いた。
その目が、今夜は穏やかだった。冷えてはいたが、穏やかだった。
「いる」
先生が言った。
「なぜいるんですか」
「お前がいないと、足りないから」
「それは以前も聞きました。もう少し、詳しく言えますか」
先生が少し間を置いた。
「……お前と話すと、何かが動く。お前が笑うと、俺も何かが動く。お前が傷つくと、俺が傷つく。お前が揺れているとき、俺が落ち着かなかった。この一ヶ月、お前が二谷のそばにいる話を聞いて、初めて、こんな感情があるとわかった」
「どんな感情ですか」
「……失いたくない、という感情だ」
川の音が、静かに続いた。
「先生」
「なんだ」
「私は、先生がそれを言葉にしてくれて、嬉しいです」
「そうか」
「先生が行動でそこにいてくれることは、ずっと感じていました。でも言葉になると、もっと届きます」
「……それは、覚えておく」
「覚えておいてください」
先生はまた川を見た。
「白石」
「はい」
「俺は、感情を言葉にすることが、うまくない」
「知っています」
「でも、努力する」
「努力、と言うんですね、先生は」
「何と言えばいいんだ」
「頑張るでも、練習するでも、大切にするでもいいですよ」
先生が少し間を置いた。
「……大切にする」
その言葉が、川の音の中に静かに落ちた。
大切にする。
それは、先生にとってはとても大きな言葉だったと思う。感情を言語化することが苦手な先生が、そう言った。
「先生」
「なんだ」
「私も、先生を大切にします」
「……そうか」
「そうかじゃなくて」
「なんと返せばいいんだ」
「ありがとうでも、嬉しいでも、俺も、でも」
先生が少し、口元を動かした。
「……嬉しい」
その一言が、川の音の中に溶けた。
先生が「嬉しい」と言った。
私は、目が少し熱くなった。
先生が感情を言葉にした。その一言が、今夜の全部だった。
「先生」
「なんだ」
「今夜の先生、すごく頑張っていますね」
「うるさい」
先生がぶっきらぼうに言った。
でも、耳の後ろが、また少し赤かった。
秋の夜の川沿いで、私は少しだけ笑った。
本当に、自然に笑えた。
先生の横顔が、街灯の光の中で、今夜は少し柔らかかった。
十月になった。
病棟の窓から、金木犀の香りが入ってきた。
秋の病院は、夏よりも静かだった。面会時間が終わった夕方、廊下に差し込む夕陽が、床に長く伸びた。
私は今日も働いていた。
患者に声をかけ、処置をして、記録を書いた。急変があれば動いた。揺れることもあった。怖いこともあった。でも、動き続けた。
感情があることが、今は当たり前になっていた。
喜びも悔しさも、心配も悲しみも、全部が私の一部になっていた。
その日の夕方、橘さんが「報告があります」という顔でやってきた。
「白石さん、聞いた? 二谷先生、循環器内科の竹田さんと付き合うって」
「そうですか」
「竹田さん、すごく明るくて話し好きな人だから、お似合いだよね」
「そうですね」
私は自然に言えた。二谷先生が幸せになることを、心から思えた。
「白石さんは、どうなの。朝霧先生と」
「……仲良くしています」
「仲良く、ね」橘さんが笑った。「それ、もう付き合ってるって言えない?」
「形は、まだないです」
「形がないって、告白はしたんでしょ、屋上で」
「……しました」
「先生、俺もって言ったんでしょ」
「……そうです」
「それ、付き合ってるでしょ、どう考えても」
私は少し困って、「そうかもしれません」と答えた。
橘さんが「もう」と言いながら笑った。
「二人とも、もっとちゃんとしてほしい」
「先生に言ってみます」
「言えるの?」
「最近は、少し言えるようになりました」
橘さんが目を丸くした。
「え、すごい。先生が変わった?」
「少し。言葉が増えました」
「嘘でしょ、あの先生が」
「本当のことです」
橘さんが「すごいすごい」と言いながら自分の仕事に戻った。
私もデスクに向かった。
画面を見ながら、少し、胸が温かかった。
先生が言葉を増やした。それは先生の、精一杯だった。
精一杯は、その人の言い方によって形が違う。言葉で示す人もいれば、行動で示す人もいる。先生は行動の人だったが、私のために言葉を増やそうとしている。
それが、今の私には、何より嬉しかった。
その夜、先生から短いメッセージが来た。
「今夜、空いているか」
「空いています」
「いつもの川沿い、二十時」
川沿いが「いつもの」になっていた。
先生が場所に名前をつけた。それだけのことが、少し嬉しかった。
二十時に川沿いに行くと、先生がいた。今夜は薄手のジャケットを着ていた。秋らしい服装だった。
「来たか」
「はい」
「歩くか」
「はい」
二人で川沿いを歩いた。
先生が歩きながら言った。
「今日、竹田から聞いた。二谷と付き合ったって」
「橘さんからも聞きました」
「そうか」
先生は少し間を置いた。
「二谷は、ちゃんと言葉にする人間だな」
「そうですね」
「お前は、そういう人間の方が良かったか」
先生が、珍しく、直接聞いてきた。
私は先生の横顔を見た。
「良かったら、そっちを選んでいました」
「……そうか」
「私が選んだのは先生です。先生のことが好きです。それは変わっていません」
先生が少し止まった。
「俺も」
また「俺も」だった。
でも今夜は、それでよかった。
「先生の「俺も」は、もう私のお気に入りの言葉です」
「なぜだ」
「先生の精一杯だから」
先生が少し止まって、また歩いた。
「……白石」
「はい」
「お前が揺れていた一ヶ月、俺は、何もしなかった」
「先生は記録室で話しかけてきてくれました」
「それだけだ。もっと早く、もっとはっきりと言うべきだった」
私は先生を見た。
「言えないんですよね、先生は」
「練習中だ」
「知っています」
「でも、これからはもう少し言う。お前が揺れないように」
その言葉が、今夜の一番の言葉だった。
「お前が揺れないように」
先生が、私を揺れないようにしようとしている。それは先生なりの愛情の言い方だった。
「先生」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「何の礼だ」
「全部です」
先生が少し間を置いた。
「……どういたしまして」
また「どういたしまして」が出た。先生が、この言葉を覚えた。
私は川の方を向いて、笑いを堪えた。
先生が「どういたしまして」を言えるようになった。感情の言葉が、少しずつ増えていく。
川の水面が、街灯を映して揺れていた。
その揺れを見ながら、私は思った。
先生と私は、どちらも、ずいぶんと変わってきた。
先生は感情を閉じていた人間が、少しずつ言葉を持つようになった。私は感情をなくしていた人間が、少しずつ感じることを取り戻した。
二人で、変わってきた。
同じ方向に向かって、それぞれの速度で、変わってきた。
それが、私たちだった。
「先生、私、先生を選んで良かったと思っています」
先生が私を見た。
「今更か」
「今更じゃないです。確認です」
「確認、か」
「大事なことは、何度でも確認します」
先生が少し、口元を動かした。
「……俺も」
また二文字だった。
でも今夜は、その二文字がとても温かかった。
川沿いを、二人で歩いた。
足音が、二人分聞こえた。
秋の夜風が、静かに吹き抜けた。
先生の手が、ふと、私の手に触れた。
指先だけが、かすかに触れた。
そのまま、繋がれた。
先生が何も言わなかった。私も何も言わなかった。
川の水面が揺れて、また静まった。
揺れても、静まっても、水は流れ続けていた。
それでいい、と思った。
揺れることも、静まることも、全部が私たちだった。
夜の川沿いを、二人の足音が続いた。
先生の手は、温かかった。