国を追われましたが、文官令嬢としてセカンドライフを送ります!
「ロゼッタを連れてまいりました」
そう言って、エドガーがゆっくりと扉を押し開く。
エドガーの背後にいるロゼッタを見て、レオナールは満面の笑みを浮かべる。
「ああ、会いたかったよ、ロゼッタ!」
「お久しぶりでございます、レオナール陛下」
ロゼッタは恭しくお辞儀をした。
そして何かを探すように、きょろきょろと辺りを見回す。
「あら? シャロンはまだ馬車の中ですか?」
「あ、いや。先ほども説明したのだが、急に体調を崩してしまって……」
レオナールがしどろもどろになって弁解しようとすると、ロゼッタは残念そうに溜め息を零した。
「シャロンがまいりましたら、一言申し上げるつもりでいましたのに」
「なんだ、妹が具合悪いのにそういう言い方はないんじゃ……」
「所詮、陛下ではあの暴れ馬の手綱を引くなど、無理な話ですもの。結局、面倒だから置いてきた。……それだけのことでしょう?」
「なっ……」
小首を傾げるロゼッタに、レオナールは言葉を詰まらせる。
「ああ、それと妹の頑強さは私が保証いたしますわ。流行り病で家族全員が倒れた時も、ひとりだけぴんぴんしていましたから」
「王家の公務に奔走して、ストレスで体が弱くなったんだ。国王と王妃の前で、誤解を招くような言い草はやめてくれないか!」
無言で状況を見守っている国王夫妻をちらりと見て、レオナールは強い口調で反論した。
けれど、ロゼッタは容赦なく攻めの一手を重ねていく。
「妹は自身のカフェを立ち上げ、開店パーティーで浮かれていたと聞き及んでおりますが。体が弱いと仰るわりには、随分と活発に動き回っているのですね」
「それは……」
「てっきり、友好条約のために謝罪に来られたのかと思っていましたが、わざわざ私を呼び出したということは、目的はそれだけではないようですね。……もしかして、あなたは『ある物』を手に入れたのではありませんか?」
「……っ」
口元にうっすらと微笑を浮かべながらも、ロゼッタの瞳は獲物を追い詰める猛禽類のように、冷たく鋭い光を放っていた。
「そして、そのために私が必要になった。違いますか?」
何もかも見透かされている。
完膚なきまでに言い込められ、レオナールはぐうの音も出なかった。
「いい加減にしないか!」
ドン、と鈍い音が室内に響き渡る。テーブルに拳を叩きつけ、宰相は澄ました表情のロゼッタを睨みつけた。
「たかだか文官の分際で、他国の国王に対し何たる口の利き方だ! 元婚約者であることを傘に着て不敬であるぞ、ロゼッタ!」
「たかだか文官?」
宰相の放った言葉に、エドガーが声音を低くする。
「彼女は我が国において、唯一無二の存在です。いくらでも替えのきく私やあなたと違ってね」
「だ、だからといって、部下が王族に対して無礼を働くのを黙認するというのか」
「そもそも、無礼なのはそちらも同じこと。先日の詫び状も、レオナール陛下ではなくシャロン妃が直筆すべきだった。まさか、極度の緊張で筆も持てなかった、などと仰るつもりではありませんよね?」
「………」
皮肉交じりの正論に返す言葉もなく、宰相は悔しげに口を閉ざした。
(ええい、役立たずめ! こうも簡単に言いくるめられてどうする!)
宰相までもがあっけなく敗北を喫し、レオナールはいよいよ追い詰められていた。シャロンの嘘は見破られ、真の目的すらも見透かされている。
残る手段はただひとつ。
レオナールは意を決したように、ロゼッタに縋るような熱い眼差しを向けた。
「ロゼッタ、聞いてくれ。私がこの国に来た本当の理由は、他でもない君に会うためだったんだ」
周囲の冷ややかな視線など無視して、レオナールは椅子を蹴るようにして立ち上がり、ロゼッタの下に駆け寄った。
そしてその場に跪くと、ロゼッタの手を恭しく取った。
「シャロンと結婚したことを、心の底から後悔しているよ。彼女の散財ぶりは目に余る。どれだけドレスや宝石を買い与えても満足せず、わがままが通らなければ子供のように泣き喚く。おかげで王家は、国内の貴族たちから完全に見放されてしまった」
シャロンへの恨み言を口にしながら、レオナールは握りしめたロゼッタの手に力を込める。
「君の言う通り、魔導書を見つけたのは事実だ。君との婚約の経緯もすべて聞いた。だが、あんなもの君に比べればゴミも同然だ。……頼む、私のもとへ戻ってきてくれ。ただの文官で終わるような人生なんて楽しいはずがない。私の隣で王妃として華やかな暮らしを謳歌する方が君に相応しいとは思わないかい?」
情に訴えかけるように囁くと、氷のように冷たかったロゼッタの表情がふっと和らぐ。
「レオナール陛下……そこまで、私を想っていてくださったのですね」
「ああ、そうだとも。私には最初から、君しかいなかったんだ」
レオナールは潤んだ瞳でロゼッタを見上げ、まるで悲劇の騎士のように微笑んだ。
(ロゼッタも所詮はただの女だな。こうも簡単に落ちてくれるとは)
けれど次の瞬間、レオナールの笑顔は引きつるように凍りつく。
「でしたら、愛の証としてまずは魔導書をお返しください」
「……は?」
虚を突かれた顔で固まるレオナールを、ロゼッタは目を細めて静かに見下ろす。
「あれは元々、祖父オーヴァンの所有物です。王家への献上を条件に結ばれた婚約が解消されたのですから、速やかに返還していただくのが道理というもの。今すぐ返還書に署名をいただけますか?」
「い、いや、それは……また婚約を結び直すのだから、急ぐ必要はないだろう?」
「勘違いしないでいただけますか?」
ロゼッタは有無を言わせぬ響きで言い放った。
「あなたとよりを戻すつもりなど毛頭ございません」
トドメの一言を告げられ、ロゼッタの手を掴んでいたレオナールの指先から力が抜け落ちた。虚しい静寂が室内を包み込む。
「応じてくださらないなら、これで失礼いたします」
床に座り込んだレオナールに一瞥もくれず、ロゼッタが謁見室を後にしようと背を向ける。
「少し賢いからといって、いい気になるなよ……っ」
後ろ姿を追いかけるように、レオナールはゆらりと立ち上がった。哀れな元婚約者の仮面をかなぐり捨て、ロゼッタの腕を力任せに掴む。
「貴様など女として終わっているんだ! 魔導書という利用価値がなければ、誰が貴様のような可愛げのない女を相手にするか!」
レオナールが唾を飛ばして喚き、大きく手を振り上げる。
「……っ!」
ロゼッタは反射的に目を瞑った。その怯えを含んだ表情に溜飲を下げ、歪んだ優越感とともに手を振り下ろそうとした、その時。
「そこまでにしていただきましょうか」
怒りを押し殺したような低い声が耳元に届く。背後からエドガーに手首を掴まれ、レオナールは瞬時に我に返った。
(私は今、何をした?)
激情に駆られるままロゼッタを罵倒し、あまつさえ暴力を振ろうとした。一国の王とは到底思えない醜態を、居合わせた全員に晒してしまったのだ。
「私的な揉め事に口出しするのは無粋だが、今の振る舞いは流石に看過できぬ。たとえ隣国の王であろうと、我が臣下に手を上げたことへの報いは受けてもらうぞ」
国王の剣呑な眼差しが、レオナールを射抜いた。
「ち、違う! これは誤解です! この女は婚約解消の腹いせに私をわざと怒らせて、陥れようとしたに相違ございません!」
「そのような戯れ言が通用するとでもお思いですの? これ以上はご自身の価値を卑しめるだけですわよ」
王妃がたおやかな、けれど芯の通った声で言い切る。
けれど、レオナールも簡単に引き下がるわけにはいかなかった。
「そんな……どうか私の話を聞いてください! エリアン王国は今、未曾有の窮地にあるのです! 数々の難題を解決するには、どうしてもロゼッタが必要不可欠で……!」
「陛下!」
なりふり構わず叫ぶレオナールを、宰相が鋭く一喝する。
「本日のところは、失礼させていただきましょう!」
「お、おい、何をする!」
無理やり腕を引かれ、立ち上がったレオナールが怒声を上げる。宰相は構う暇もないとばかりに、青ざめた顔で国王夫妻に深く頭を下げた。
「陛下は長引く心労により、少々お心を乱しておいでです。どうか、今しがたの非礼をお許しください」
「であれば致し方あるまいな。早々に帰国し、ゆっくりと静養されるがよい」
遠回しに帰れと告げられたのだ。レオナールははっと身を強張らせ、喉を鳴らした。
(ロゼッタ……貴様さえ私の手を取っていれば、こんなことには……!)
元婚約者はエドガーに庇われながら、レオナールを真っ直ぐに見据えていた。もはや、こちらの言葉に耳を貸す様子さえない。
王城を出る頃には、しとしとと細い雨が降り始めていた。まるでエリアン王国の行く末を示しているかのような、重苦しく淀んだ空だった。
「最悪だ……魔導書どころか、これでは友好条約への参加さえ危ういじゃないか」
次第に強まっていく雨の中、馬を走らせるわけにもいかない。王都の宿に向かう馬車の中で、レオナールは忌々しげに親指の爪を噛んだ。
「陛下、策なら講じております」
宰相がやけに落ち着き払った口調で口を開く。
「ルミナリア王城の内情を探らせていた際、ひとり使い勝手のよさそうな手駒を見つけておきました」
「手駒だと?」
「古書の製本に携わっている人間です。我が国での重職をちらつかせたところ、実にあっけなくなびいてくれました」
「貴様、なぜそのことをもっと早く言わなかったのだ! それなら、わざわざここまで来て屈辱を味わうこともなかったというのに!」
八つ当たり同然に憤慨するレオナールに、宰相は深く眉をひそめた。
「切り札というものは、慎重に扱うべきものです。万が一の保険として、用意しておきました」
ロゼッタが魔導書について素直に話す可能性は五分五分だと踏んでいた。けれど、レオナールがあれほどまでに暴走するのは宰相も予想外だったのだ。
「そ、そういうことなら今回は不問にしてやろう」
自分がやらかした自覚があるレオナールは、宰相の冷めた視線から逃げるように窓の外へ目を向けた。
そう言って、エドガーがゆっくりと扉を押し開く。
エドガーの背後にいるロゼッタを見て、レオナールは満面の笑みを浮かべる。
「ああ、会いたかったよ、ロゼッタ!」
「お久しぶりでございます、レオナール陛下」
ロゼッタは恭しくお辞儀をした。
そして何かを探すように、きょろきょろと辺りを見回す。
「あら? シャロンはまだ馬車の中ですか?」
「あ、いや。先ほども説明したのだが、急に体調を崩してしまって……」
レオナールがしどろもどろになって弁解しようとすると、ロゼッタは残念そうに溜め息を零した。
「シャロンがまいりましたら、一言申し上げるつもりでいましたのに」
「なんだ、妹が具合悪いのにそういう言い方はないんじゃ……」
「所詮、陛下ではあの暴れ馬の手綱を引くなど、無理な話ですもの。結局、面倒だから置いてきた。……それだけのことでしょう?」
「なっ……」
小首を傾げるロゼッタに、レオナールは言葉を詰まらせる。
「ああ、それと妹の頑強さは私が保証いたしますわ。流行り病で家族全員が倒れた時も、ひとりだけぴんぴんしていましたから」
「王家の公務に奔走して、ストレスで体が弱くなったんだ。国王と王妃の前で、誤解を招くような言い草はやめてくれないか!」
無言で状況を見守っている国王夫妻をちらりと見て、レオナールは強い口調で反論した。
けれど、ロゼッタは容赦なく攻めの一手を重ねていく。
「妹は自身のカフェを立ち上げ、開店パーティーで浮かれていたと聞き及んでおりますが。体が弱いと仰るわりには、随分と活発に動き回っているのですね」
「それは……」
「てっきり、友好条約のために謝罪に来られたのかと思っていましたが、わざわざ私を呼び出したということは、目的はそれだけではないようですね。……もしかして、あなたは『ある物』を手に入れたのではありませんか?」
「……っ」
口元にうっすらと微笑を浮かべながらも、ロゼッタの瞳は獲物を追い詰める猛禽類のように、冷たく鋭い光を放っていた。
「そして、そのために私が必要になった。違いますか?」
何もかも見透かされている。
完膚なきまでに言い込められ、レオナールはぐうの音も出なかった。
「いい加減にしないか!」
ドン、と鈍い音が室内に響き渡る。テーブルに拳を叩きつけ、宰相は澄ました表情のロゼッタを睨みつけた。
「たかだか文官の分際で、他国の国王に対し何たる口の利き方だ! 元婚約者であることを傘に着て不敬であるぞ、ロゼッタ!」
「たかだか文官?」
宰相の放った言葉に、エドガーが声音を低くする。
「彼女は我が国において、唯一無二の存在です。いくらでも替えのきく私やあなたと違ってね」
「だ、だからといって、部下が王族に対して無礼を働くのを黙認するというのか」
「そもそも、無礼なのはそちらも同じこと。先日の詫び状も、レオナール陛下ではなくシャロン妃が直筆すべきだった。まさか、極度の緊張で筆も持てなかった、などと仰るつもりではありませんよね?」
「………」
皮肉交じりの正論に返す言葉もなく、宰相は悔しげに口を閉ざした。
(ええい、役立たずめ! こうも簡単に言いくるめられてどうする!)
宰相までもがあっけなく敗北を喫し、レオナールはいよいよ追い詰められていた。シャロンの嘘は見破られ、真の目的すらも見透かされている。
残る手段はただひとつ。
レオナールは意を決したように、ロゼッタに縋るような熱い眼差しを向けた。
「ロゼッタ、聞いてくれ。私がこの国に来た本当の理由は、他でもない君に会うためだったんだ」
周囲の冷ややかな視線など無視して、レオナールは椅子を蹴るようにして立ち上がり、ロゼッタの下に駆け寄った。
そしてその場に跪くと、ロゼッタの手を恭しく取った。
「シャロンと結婚したことを、心の底から後悔しているよ。彼女の散財ぶりは目に余る。どれだけドレスや宝石を買い与えても満足せず、わがままが通らなければ子供のように泣き喚く。おかげで王家は、国内の貴族たちから完全に見放されてしまった」
シャロンへの恨み言を口にしながら、レオナールは握りしめたロゼッタの手に力を込める。
「君の言う通り、魔導書を見つけたのは事実だ。君との婚約の経緯もすべて聞いた。だが、あんなもの君に比べればゴミも同然だ。……頼む、私のもとへ戻ってきてくれ。ただの文官で終わるような人生なんて楽しいはずがない。私の隣で王妃として華やかな暮らしを謳歌する方が君に相応しいとは思わないかい?」
情に訴えかけるように囁くと、氷のように冷たかったロゼッタの表情がふっと和らぐ。
「レオナール陛下……そこまで、私を想っていてくださったのですね」
「ああ、そうだとも。私には最初から、君しかいなかったんだ」
レオナールは潤んだ瞳でロゼッタを見上げ、まるで悲劇の騎士のように微笑んだ。
(ロゼッタも所詮はただの女だな。こうも簡単に落ちてくれるとは)
けれど次の瞬間、レオナールの笑顔は引きつるように凍りつく。
「でしたら、愛の証としてまずは魔導書をお返しください」
「……は?」
虚を突かれた顔で固まるレオナールを、ロゼッタは目を細めて静かに見下ろす。
「あれは元々、祖父オーヴァンの所有物です。王家への献上を条件に結ばれた婚約が解消されたのですから、速やかに返還していただくのが道理というもの。今すぐ返還書に署名をいただけますか?」
「い、いや、それは……また婚約を結び直すのだから、急ぐ必要はないだろう?」
「勘違いしないでいただけますか?」
ロゼッタは有無を言わせぬ響きで言い放った。
「あなたとよりを戻すつもりなど毛頭ございません」
トドメの一言を告げられ、ロゼッタの手を掴んでいたレオナールの指先から力が抜け落ちた。虚しい静寂が室内を包み込む。
「応じてくださらないなら、これで失礼いたします」
床に座り込んだレオナールに一瞥もくれず、ロゼッタが謁見室を後にしようと背を向ける。
「少し賢いからといって、いい気になるなよ……っ」
後ろ姿を追いかけるように、レオナールはゆらりと立ち上がった。哀れな元婚約者の仮面をかなぐり捨て、ロゼッタの腕を力任せに掴む。
「貴様など女として終わっているんだ! 魔導書という利用価値がなければ、誰が貴様のような可愛げのない女を相手にするか!」
レオナールが唾を飛ばして喚き、大きく手を振り上げる。
「……っ!」
ロゼッタは反射的に目を瞑った。その怯えを含んだ表情に溜飲を下げ、歪んだ優越感とともに手を振り下ろそうとした、その時。
「そこまでにしていただきましょうか」
怒りを押し殺したような低い声が耳元に届く。背後からエドガーに手首を掴まれ、レオナールは瞬時に我に返った。
(私は今、何をした?)
激情に駆られるままロゼッタを罵倒し、あまつさえ暴力を振ろうとした。一国の王とは到底思えない醜態を、居合わせた全員に晒してしまったのだ。
「私的な揉め事に口出しするのは無粋だが、今の振る舞いは流石に看過できぬ。たとえ隣国の王であろうと、我が臣下に手を上げたことへの報いは受けてもらうぞ」
国王の剣呑な眼差しが、レオナールを射抜いた。
「ち、違う! これは誤解です! この女は婚約解消の腹いせに私をわざと怒らせて、陥れようとしたに相違ございません!」
「そのような戯れ言が通用するとでもお思いですの? これ以上はご自身の価値を卑しめるだけですわよ」
王妃がたおやかな、けれど芯の通った声で言い切る。
けれど、レオナールも簡単に引き下がるわけにはいかなかった。
「そんな……どうか私の話を聞いてください! エリアン王国は今、未曾有の窮地にあるのです! 数々の難題を解決するには、どうしてもロゼッタが必要不可欠で……!」
「陛下!」
なりふり構わず叫ぶレオナールを、宰相が鋭く一喝する。
「本日のところは、失礼させていただきましょう!」
「お、おい、何をする!」
無理やり腕を引かれ、立ち上がったレオナールが怒声を上げる。宰相は構う暇もないとばかりに、青ざめた顔で国王夫妻に深く頭を下げた。
「陛下は長引く心労により、少々お心を乱しておいでです。どうか、今しがたの非礼をお許しください」
「であれば致し方あるまいな。早々に帰国し、ゆっくりと静養されるがよい」
遠回しに帰れと告げられたのだ。レオナールははっと身を強張らせ、喉を鳴らした。
(ロゼッタ……貴様さえ私の手を取っていれば、こんなことには……!)
元婚約者はエドガーに庇われながら、レオナールを真っ直ぐに見据えていた。もはや、こちらの言葉に耳を貸す様子さえない。
王城を出る頃には、しとしとと細い雨が降り始めていた。まるでエリアン王国の行く末を示しているかのような、重苦しく淀んだ空だった。
「最悪だ……魔導書どころか、これでは友好条約への参加さえ危ういじゃないか」
次第に強まっていく雨の中、馬を走らせるわけにもいかない。王都の宿に向かう馬車の中で、レオナールは忌々しげに親指の爪を噛んだ。
「陛下、策なら講じております」
宰相がやけに落ち着き払った口調で口を開く。
「ルミナリア王城の内情を探らせていた際、ひとり使い勝手のよさそうな手駒を見つけておきました」
「手駒だと?」
「古書の製本に携わっている人間です。我が国での重職をちらつかせたところ、実にあっけなくなびいてくれました」
「貴様、なぜそのことをもっと早く言わなかったのだ! それなら、わざわざここまで来て屈辱を味わうこともなかったというのに!」
八つ当たり同然に憤慨するレオナールに、宰相は深く眉をひそめた。
「切り札というものは、慎重に扱うべきものです。万が一の保険として、用意しておきました」
ロゼッタが魔導書について素直に話す可能性は五分五分だと踏んでいた。けれど、レオナールがあれほどまでに暴走するのは宰相も予想外だったのだ。
「そ、そういうことなら今回は不問にしてやろう」
自分がやらかした自覚があるレオナールは、宰相の冷めた視線から逃げるように窓の外へ目を向けた。