君に届くのは、10分の1だけ

第5章 止まる手

高校二年の秋は、去年より少しだけ早く暗くなる気がした。

放課後、美術室に着いたときには、もう窓の外の色がやわらかく落ち始めている。
私はいつもの席に鞄を置いて、律の背中を見る。

あの絵は、もうかなり完成に近づいていた。

律は相変わらず「まだ違う」と言っていたけれど、
私には、もう十分きれいに見えた。

「今日で終わりそう?」

そう聞くと、律は少しだけ振り返った。

「んー、どうだろ」
「終わらせたいけど」

そう言って笑う。
いつも通りの顔だった。

ただ、そのあと少しだけ肩を回した。

「つかれた?」

「ちょっと」

「課題多いの」

「まあ、それなりに」

私は「無理しないでね」とだけ言って、机の上のペットボトルを律の近くへ置いた。
律は「ありがと」と返して、またキャンバスに向き直る。

筆を持つ手が動く。
少し離れて全体を見る。
また近づいて、色を足す。

でも、その日は一度だけ、律が筆を持ったままじっと止まった。

私は本から顔を上げる。

「瀬川くん?」

「……ん」

返事はしたけれど、少しだけ遅かった。

律は空いた手で額のあたりを押さえて、それから小さく息をつく。

「大丈夫?」

「うん。ちょっとくらっとしただけ」

言いながら、律は笑った。

「ちゃんと休んだほうがいいんじゃない」

「あと少しだから」

そう言って、また絵のほうを見る。

私は口を閉じた。

律はこういうとき、変に強がる。
でもそれは今に始まったことじゃない。
課題が詰まっているときは、多少無理をするのも前からだった。

窓の外がさらに暗くなっていく。

美術室の明かりの下で見ると、絵の色は昼間より少し深く見えた。

律はまた少し後ろへ下がって、全体を見る。

「水瀬」

「なに」

「今、どう?」

私は立ち上がって、絵の近くまで行った。

キャンバスの前に立つ。

「……好き」

思わずそう言うと、律が少し笑った。

「感想そればっか」

「だって、ほんとだから」

私は絵を見たまま続ける。

「前より、ちゃんと息ができる感じがする」
「でも静かで」
「なんか……終わりじゃなくて、続いていく感じ」

でも律は、その言葉をちゃんと聞いていた。

少しだけ目を細めて、うなずく。

「そっか」

それから、またキャンバスのほうへ向き直る。

「じゃあ、もう少しだけやる」

その声が、さっきより少し低かった。

私は「うん」と答えて席に戻る。

それから数分もしないうちだった。

小さな音がした。

最初は、筆でも落としたのかと思った。

でも次の瞬間、もっと鈍い音が続いた。

顔を上げる。

律の体が、不自然に傾いていた。

「……瀬川くん?」

呼んでも、返事がない。

律は机に手をつこうとして、そのまま崩れるみたいに床へ落ちた。

頭の中が、一瞬、真っ白になった。

椅子を引く音だけが大きく響く。
私は立ち上がって、ほとんど走るみたいに律のところへ行った。

「瀬川くん」

しゃがみこむ。
肩に触れる。

「瀬川くん、ねえ」

もう一度呼ぶ。

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