君に届くのは、10分の1だけ
律のまぶたは閉じたままだった。
顔色が、さっきよりずっと悪い。

呼吸はしている。
でも、それを確認した瞬間、逆に怖くなった。

大丈夫じゃない。

手が震える。
スマホを取り出そうとして、うまくつかめない。

どうしよう。
誰を呼べばいい。
先生。
救急車。
保健室。
何からすればいい。

それでも、なんとかスマホを開く。
指がうまく動かない。

救急、って、119。

画面を押し間違えそうになって、息が詰まる。

「お願い……」

誰に言ったのか分からないまま、通話がつながる。

自分の声が、自分のものじゃないみたいだった。

高校の名前。
美術科棟。
男の子が倒れたこと。
呼吸はあること。

聞かれたことに答えているはずなのに、ちゃんと話せていたか自信がなかった。

通話を切ったあと、私は律のそばに座りこんだまま動けなかった。

「瀬川くん」

もう一度だけ、名前を呼ぶ。

返事はない。

その静かさが怖かった。

遠くで、慌ただしい足音が聞こえる。
先生たちの声。
何かを確認する声。

私の目の前にあるのは、
床に倒れた律と、
途中で止まったままの絵だけだった。

あと少しで完成しそうだった。

本当に、あと少しで。

その事実が、どうしてかひどく苦しかった。

先生に少し離れるよう言われて、
私はようやく一歩だけ後ろへ下がった。

足に力が入らない。

救急隊が来るまでの時間は、短かったはずなのに長すぎた。

担架。
低い声。
てきぱきした動き。

その中で、律だけが静かだった。

名前を呼ばれて、
軽く肩を叩かれて、
それでも反応が鈍いのを見た瞬間、胸の奥が冷たくなる。

運ばれていく。

それを見て、私はやっと、これは夢じゃないのだと思った。

先生が付き添いについて話している。
家族への連絡も、もうしているらしかった。

「水瀬、おまえは……」

声をかけられて顔を上げる。

どうする、と聞かれた気がした。
でも、その言葉の意味が一瞬分からなかった。

どうする、なんて、決まっている。

「行きます」

自分でも驚くくらい、すぐに声が出た。

先生が少しだけ間を置いてから、うなずく。

そのあと、私は鞄をつかんで、救急隊の人たちの後ろを追った。

外はもう、ほとんど夜だった。

救急車の赤い光が、校舎の壁に何度も反射している。

ドアが閉まる。

金属の音がして、
車内の狭い空間に、知らない機械の音が混ざる。

私は端に座って、律を見る。

顔色が悪い。
目を閉じたまま。
呼びかけても、返事はない。

近くにいるのに、遠かった。

怖い。

その言葉が、やっと形になった。

手のひらが冷たい。
でも震えは止まらない。

何でもない疲れだと思っていた。
寝不足かもしれないと、勝手に軽くしていた。

違った。

救急車の中で、私はただ黙って律を見ていた。

何を祈ればいいのかも分からない。

大丈夫でいてほしい。

それだけだった。

病院に着いて、律はすぐに中へ運ばれていった。

私はその後ろ姿を見送ることしかできなかった。

白い廊下。
明るすぎる照明。
消毒液のにおい。

しばらくして、律のお母さんとお父さんが来た。
私は立ち上がって頭を下げる。

何か言わなきゃと思うのに、
「すみません」しか出てこなかった。

本当は謝ることなんてないのかもしれない。
でも、そう言うしかなかった。

律のお母さんは泣いてはいなかった。
でも、顔が白かった。

「一緒にいてくれてありがとう」

そう言われて、私は何も言えなくなった。

待合の椅子に座る。

時間の流れ方がおかしかった。

スマホを見ても、何も頭に入らない。
時計を見ても、針が進んでいる感じがしない。

ただ、待つしかなかった。

しばらくして、先生が来た。

命に別状はないこと。
意識も戻るだろうということ。
ただ、詳しく調べたほうがいいから、このまま検査になること。

その説明を聞いた瞬間、
私は初めて少しだけ息ができた。

よかった、と思った。

でも、そのすぐあとに別の不安が来る。

詳しく調べたほうがいい。

その言葉が、胸に重く残った。

命に別状はない。
でも、何でもないわけじゃない。

私は膝の上で手を握る。

大丈夫だと信じたいのに、
もう前みたいに、ただの疲れだと思うことはできなかった。

美術室に残してきた絵のことを思い出す。

あと少しで、完成しそうだった。

でも、その「あと少し」が、
急にとても遠いものになった気がした。
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