君に届くのは、10分の1だけ
川の色は前より落ち着いていて、
空は夕方と夜のあいだみたいな色をしている。
木の葉はもうほとんど落ちていて、道の上には薄く影がかかっていた。

あのとき感じた「入りたくなる感じ」は、今もあった。

でも、前とは少し違う。

前は、ただそこにいたくなった。

今は、そこを誰かと歩きたくなる。

「……前より、さみしくなくなった」

思ったまま言うと、律が振り返った。

「さみしかったんだ、前」

「ちょっとだけ」

私は絵を見る。

「今は、一人の景色って感じがしない」

律は少し黙ってから、「そっか」と言った。

「俺も、今のほうが好き」

そう言って、律はまたキャンバスを見る。

冬休みが近づくころには、
私たちは放課後に寄り道をすることも増えていた。

コンビニで飲み物を買ったり、
駅前の小さい本屋に入ったり、
たまに遠回りして帰ったり。

ある日、本屋で美術雑誌の前に立ち止まった律が、
ページをめくりながら小さくため息をついた。

「どうしたの」

聞くと、律は雑誌を閉じる。

「いや。すごいなって思って」

「その人が?」

「うん。この人の絵、光の置き方うますぎてへこむ」

言いながら、少し笑う。

「でも」

私が言うと、律がこっちを見る。

「瀬川くんの絵も、好きだよ」

律は一瞬、何も言わなかった。

それから、少しだけ困ったみたいに笑う。

「そういうの、急に言うよな」

「ほんとのことだから」

「……知ってる」

その返事が少しだけ低くて、私はすぐに前を向いた。

冬休みのあいだも、ときどき会った。

毎日じゃない。
でも、会わないまま何週間も過ぎることはなかった。

図書館で待ち合わせたり、
駅前を少し歩いたり、
律の課題終わりに少しだけ顔を見たり。

年が明けて、高校一年の終わりが近づく。

教室にも慣れた。
クラスで少し話せる子もできた。
相変わらず、輪の中心にいるタイプではないけれど、
前みたいに息をひそめているだけではなくなった。

そのことを、ある日律に言われた。

帰り道、駅まで歩きながら。

「水瀬、変わったよな」

「……そうかな」

「うん。最初より全然、顔上げてる」

その言葉に、少しだけ足が止まりそうになる。

「瀬川くんのせいだよ」

気づいたら、そう言っていた。

律が少し驚いた顔をする。

あの日からここまで来た時間の中に、
律がいなかった日はほとんどない。

屋上で止めてくれたこと。
再会してくれたこと。
名前を呼んでくれたこと。
絵を見せてくれたこと。
好きだと言ってくれたこと。

律は少し黙ってから、前を向いたまま言った。

「それなら、うれしい」

春になって、二年生になった。

クラス替えがあった。
去年よりは、少しだけ落ち着いて名簿を見られた。

律は相変わらず美術科で、
校舎も時間割も少し違うままだった。

それでも、会う時間はちゃんとあった。

去年より自然に、
去年より当たり前みたいに、
私たちは一緒にいた。

「水瀬、今日先帰る?」

「今日は待てる」

「じゃあ、あとちょっと」

そんなやりとりが増えた。

そして、あの絵も少しずつ完成に近づいていた。

春には、空が変わった。
夏のはじめには、川の光がもっと静かになった。
道の影が前よりやわらかくなった。

律はまだ「違う」と言っていたけれど、
私はそのたびに、完成へ近づいているのが分かった。

ある夏の放課後、美術室には私たちしかいなかった。

窓が開いていて、外からぬるい風が入る。

律は筆を置いて、少しだけ肩を回した。

「つかれた」

「おつかれ」

私は机の上のペットボトルを渡す。
律は「ありがと」と言って、それを受け取った。

飲んだあと、少しだけ息をつく。

「あと少しなんだけどな」

視線の先には、あの絵がある。

「完成したら、さみしいかも」

私が小さく言うと、律が笑った。

「なんで」

「ずっと見てたから」

律は少しだけ目を細めた。

「じゃあ、次の描けばいい」

その言い方に、私は少しだけうれしくなった。

夏が過ぎて、
高校二年の秋が近づいてきた。

放課後の空気が少しだけ軽くなる。
日が落ちるのも、前より早い。

ある日、美術室で律はいつもより黙っていた。

描いているあいだ無口なのは珍しくない。
でも、その日は少し違った。

何度か筆を止める。
少し離れて見て、また戻る。
その動きの途中で、一度だけ机に手をついた。

私は顔を上げる。

「瀬川くん?」

「んー?」

返事はいつも通りだった。

でも、少しだけ遅かった。

「大丈夫?」

「大丈夫。ちょっと立ちくらみしただけ」

そう言って笑う。

私はその顔を見た。

たしかに笑っている。
でも、少しだけ白い気がした。

「最近、ちゃんと寝てる?」

「寝てる」
「……たぶん」

「たぶんなんだ」

言うと、律は肩をすくめた。

「課題重なると、まあ」

それは前からあったことだ。
だから、私もそのときは強く言えなかった。

律はまた筆を持つ。

私はその背中を見ながら、
どうか何でもありませんように、と
まだ名前にもならない不安を、心の中で小さく握っていた。

あの絵は、もうすぐ完成する。

そう思っていた。

そのときの私は、まだ何も知らなかった。
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