君に届くのは、10分の1だけ
「……すごい」
やっと出たのは、それだった。
律は少し困ったように笑う。
「それだと、だいたい何見ても言えるだろ」
「でも、ほんとに」
私はもう一度、絵を見る。
「なんか」
言いかけて、少し迷う。
律は何も急かさずに待っていた。
「……ちゃんと、そこにいたくなる感じがする」
でも律は笑わなかった。
「そこにいたくなる?」
「うん」
私は絵から目を離せないまま続ける。
「きれい、っていうのとも少し違う気がして」
「見てると、入っていけそうっていうか」
「その場所の空気がある感じがする」
言葉を探しながら、ひとつずつ置いていく。
「……あと」
「さみしいわけじゃないのに、少しだけ苦しい」
そこまで言って、私ははっとした。
言いすぎた、と思って律を見る。
律は少しだけ驚いた顔をしていた。
それから、目を伏せる。
「そういうの」
小さく言う。
「初めて言われた」
「ご、ごめん、変なこと言った」
「いや」
律は首を振った。
「変じゃない」
「むしろ、たぶん一番うれしいかも」
律はキャンバスのほうを見る。
「先生とか、同じ科のやつには、ここが甘いとか、色がどうとか言われるし」
「それはそれで分かるんだけど」
少しだけ笑う。
「水瀬の今の、たぶん俺が描きたいものに近い」
「……よかった」
小さく言うと、律がこっちを見る。
「うん」
窓の外は、いつのまにか夕方の色になっていた。
教室の中も少し暗くなっている。
律は机の上の筆を片づけながら言った。
「これ、まだ途中なんだよな」
「そうなんだ」
「なんか、うまくいかなくて」
「瀬川くんでも、そういうことあるんだ」
「あるよ、全然」
少し笑ってから、筆を置く。
「むしろ、しょっちゅう」
「描きたい感じはあるのに、手が追いつかないこと多いし」
私はその横顔を見た。
「でも」
気づいたら、言葉が出ていた。
「瀬川くんの絵、好き」
律の手が止まる。
「……ちゃんと分かるわけじゃないけど」
「でも、好き」
律はすぐには何も言わなかった。
少しだけ視線をそらして、それから小さく笑う。
「それ、反則」
「え」
「うれしいから」
顔が熱くなる。
律はそんな私を見て、少しだけ笑ったまま言った。
「帰る?」
「……うん」
「じゃあ駅まで一緒でいい?」
その言い方が自然すぎて、でも少しだけ特別に聞こえた。
「うん」
私は小さく答えた。
美術科棟を出て、二人で校門へ向かう。
駅までの道は、夕方の人が多かった。
部活帰りの生徒が笑いながら歩いていく。
自転車が横を通る。
律が、ふいに言った。
「水瀬ってさ」
「……なに」
「感想、ちゃんと言葉にするの上手いよな」
「全然そんなことない」
「いや、今日のやつ、かなりうれしかった」
「適当に言ってない感じするし」
律は続ける。
「見たまま言ってるだけなの、分かるから」
「余計に信用できる」
「……瀬川くんは」
「うん」
「描いてるとき、楽しそう」
そう言うと、律は少し考えるような顔をした。
「楽しいときもある」
「ときも?」
「うん。苦しいときもある」
「でも、やめたいとは思わないかな」
駅が近づくと、人の流れも少し増えた。
改札の前で立ち止まる。
律が鞄の中からスマホを出す。
「そうだ」
顔を上げると、律がこちらを見ていた。
「今度、完成したらまた見て」
その言葉に、胸が小さく鳴る。
「……いいの?」
「むしろ見てほしい」
「うん」
なんとかそれだけ言う。
「見たい」
律は少し笑って、スマホを軽く持ち上げた。
「連絡する」
「……うん」
「じゃ、また」
律が言う。
「また」
私は答える。
律が改札へ向かって歩き出す。
私はその背中を見送る。
見えなくなる直前、律が一度だけ振り返って、軽く手を上げた。
それだけで、胸の奥がやわらかくなる。
帰りの電車の中でも、私はずっと今日のことを思い出していた。
美術科棟のにおい。
描きかけの絵。
「一番うれしいかも」と言った声。
それから、「見てほしい」と言われたこと。
家に帰って、制服を着替えて、部屋の机に鞄を置く。
スマホを開く。
新しい通知が一件、届いていた。
今日はありがと
水瀬の感想、まじでうれしかった
その二行を見ただけで、胸がいっぱいになった。
少し迷ってから、ゆっくり文字を打つ。
こちらこそ
見せてくれてありがとう
完成したら、また見たい
送ってから、息を止めてしまっていたことに気づく。
すぐに返信が来た。
見る前提なんだ
うれしい
思わず、少しだけ笑ってしまった。
そのあと、もう一度だけ律の描きかけの絵を思い出す。
まだ途中なのに、ちゃんと惹かれた。
完成していないのに、もう好きだと思った。
それはたぶん、絵だけじゃなかった。
でも、その先の言葉は、まだ自分の中で名前を持たなかった。
ベッドに入って、目を閉じる。
今日、思い出すのは冬の屋上じゃない。
描きかけの絵の前で、少し照れたみたいに笑った律の顔だった。
また、見たいと思った。
絵も。
たぶん、律のことも。