君に届くのは、10分の1だけ
「なに」
「待つの苦じゃないの」
少し考える。
正直に言えば、苦じゃなかった。
むしろ、こうして同じ空間にいられることのほうがうれしい。
でも、それをそのまま言う勇気はまだなかった。
「……そんなに」
答えると、律は少しだけ目を細めた。
「そっか」
それだけだった。
それだけなのに、また何か見透かされた気がした。
クラスでも、少しずつ変化があった。
隣の席の子が、何気なく聞いてきたことがある。
「水瀬さんって、美術科の瀬川くんと仲いいよね」
その一言に、胸がどきっとした。
「え、そうかな」
「よく一緒にいるじゃん」
笑いながら言われる。
悪い意味じゃないのは分かった。
でも、私はそれだけで落ち着かなくなった。
よく一緒にいる。
そう見えているんだ、と思った。
その日の放課後、駅までの道でその話をすると、律は少しだけ笑った。
「まあ、いるしな」
「……そんな普通に言うんだ」
「だって事実じゃん」
事実。
私は前を向いたまま、聞く。
「瀬川くんは、嫌じゃないの」
「何が」
「そう見られるの」
少しだけ間があった。
律の足音が、私の横で同じ速さで続く。
「嫌じゃない」
はっきりした声だった。
「むしろ、嫌だったらこんなに一緒にいない」
その言葉に、息が少し止まりそうになる。
それでも、気持ちは少しずつ大きくなっていった。
律の名前を見るだけで、うれしい。
描きかけの絵を見せてもらえることが、特別に思える。
自分だけが知っている律の顔が増えていくのが、うれしい。
それが何なのか、もう分からないふりはできなかった。
好きなんだ、と思った。
そう認めた日の帰り道、胸の奥が少し苦しかった。
このままの距離が壊れるくらいなら、何も言わないほうがいいのかもしれない。
そう思うのに、律が「またな」と笑うたび、それでは足りなくなる。
秋のはじまりだった。
夏服のままでは少しだけ寒い夕方、美術室の窓が半分開いていた。
その日は課題が長引いて、帰るのがいつもより遅くなった。
私はいつものように、律が片づけるのを待っていた。
外は薄暗くなっていて、教室の中だけが静かに明るい。
律が筆を洗い終わって、蛇口を閉める。
それから、何でもないみたいに言った。
「今日さ」
「うん」
「駅までじゃなくて、もう少し歩く?」
私は少しだけ驚いた。
「……いいけど」
「コンビニ寄りたい」
たぶん、それだけじゃないんだろうなと思った。でも聞かなかった。
二人で学校を出る。
駅とは少し違う道へ曲がる。
住宅街のほうは静かで、人通りも少なかった。
コンビニで律は缶のミルクティー、私は小さいカフェオレを買った。
店を出ても、すぐには駅へ向かわない。
川沿いの道を、ゆっくり歩く。
少しだけ風があった。
でも、寒いというほどではない。
律が缶を片手に持ったまま言う。
「水瀬って、最初よりだいぶ喋るようになったよな」
「……最初が喋らなすぎたんだと思う」
「それはそう」
少し笑う。
そのあと、また沈黙が落ちた。
気まずくはない。
でも今日は、どこか落ち着かない。
街灯がぽつぽつ灯り始める。
川の水は暗くて、よく見えない。
律が立ち止まったのは、その少しあとだった。
私も足を止める。
「瀬川くん?」
呼ぶと、律がこっちを見た。
いつもの顔なのに、いつもより少しだけ真剣だった。
「俺さ」
それだけで、心臓がうるさくなる。
「水瀬といるの、すごい楽なんだよね」
何を言われるのか分からなくて、私は黙ったまま待つ。
「無理しなくていいし」
「変に気をつかわなくていいし」
「一緒にいて、ちゃんと落ち着く」
私は缶を持つ手に、少しだけ力を入れた。
「最初は、屋上のことあったから気になるっていうのも、たぶんあった」
でも、律はすぐに続けた。
「でも、今はそれだけじゃない」
街灯の光が、律の横顔に少しかかる。
「水瀬だから一緒にいたい」
その一言で、頭の中が真っ白になった。
心臓が、苦しいくらい速い。
「……俺だけかもしれないけど」
少しだけ困ったみたいに笑う。
私は首を振った。
「……私も」
やっと、それだけ言う。
声が少し震えていた。
律が何も言わずに待ってくれる。
そのことが、余計に泣きそうだった。
「私も、瀬川くんといると落ち着く」
「会えるとうれしいし」
「今日は会えるかなって、ずっと思ってた」
「……好き」
言った瞬間、胸がぎゅっと縮む。
律が息をつくみたいに少し笑った。
安心したみたいな、やわらかい顔だった。
「よかった」
小さく言う。
それから少しだけ近づいてくる。
「じゃあ」
律の声が少し低くなる。
「付き合ってる、って思っていい?」
私はうなずいた。
でも、それだけじゃ足りない気がして、ちゃんと口にする。
「……うん」
喉が少し乾く。
「私も、そう思いたい」
律が少しだけ目を細める。
律が手を出すでもなく、抱き寄せるでもなく、ただ私の隣に立っている。
でも次の瞬間、律が少し迷うみたいに手を動かした。
私は反射みたいに、自分の指先を少しだけ開く。
触れるか、触れないか。
そのぎりぎりで、律の指が私の手に触れた。
それから、そっと重なる。
手をつなぐ、というほど強くはない。
でも、離れてもいない。
そのぬくもりに、冬の屋上を思い出した。
あのときも、この手は温かかった。
気づいたら、少しだけ笑っていた。
律がそれに気づいて言う。
「なに」
「……温かいなって思って」
律は少しだけ不思議そうな顔をして、それから小さく笑った。
「水瀬、たまに変なこと言うよね」
「そうかも」
駅までの帰り道、私たちは前より少しだけゆっくり歩いた。
改札の前で立ち止まる。
律が言う。
「じゃあ、また明日」
私はうなずいた。
「うん。また明日」
律が少し笑って、改札の向こうへ行く。
その背中を見送りながら、私は自分の右手を見る。
さっきまで、律の手があった。
家に帰って、制服を脱いで、ベッドに座る。
スマホが震える。
ちゃんと聞けてよかった
今めっちゃ安心してる
画面を見た瞬間、思わず口元がゆるんだ。
私は少し迷ってから返す。
私も
まだ信じられないけど、うれしい
すぐに返信が来る。
俺もまだちょっと信じられない
でもうれしい
似たようなことを思っていたのが、なんだかおかしくて、少し笑ってしまった。
ベッドに横になる。
今日のことを思い出す。
川沿いの道。
律の声。
「水瀬だから一緒にいたい」と言った顔。
それから、重なった手の温度。
私は毛布を胸まで引き上げて、目を閉じる。
でも、明日が来るのが楽しみだった。
それだけで、十分だった。