寿命の旋律が聞こえる私と、残り100日の君

第3エピソード「壊れた旋律」

 四月の第二週、教室がようやく落ち着いてきた頃、私はクラスの旋律を覚え始めていた。
 意識してやっているわけじゃない。毎日同じ場所で同じ人たちと過ごしていると、自然と耳が慣れていく。あの子はこんな音、この子はこんな音——背景の音楽みたいに、輪郭が染みついていく。
 三十二人のクラスメイト。
 全員の旋律を、たぶんもう識別できる。
 長くて安定したもの。ゆったり揺れるもの。少し高くて軽やかなもの。低くて静かなもの。
 どれも、穏やかだった。
 だから——
 その朝、教室に入った瞬間に気づいた。
 何かが、おかしい。
 旋律がゆっくり変わることはある。

 でもこんなふうに、一晩で壊れるように変わるのは——たいてい事故の直前だ。

 木曜日の朝。
 一限は現代文だった。教室の前方、窓から三列目の席。そこに座っているのは、川村奈津という女の子だ。背が高くて、バレー部で、いつも大きな声で笑っている子。
 彼女の旋律が——壊れていた。
 壊れた、という言葉が一番近い。
 音程が狂っている。本来なら滑らかに続くはずの旋律が、ぶつぶつと途切れて、音と音のあいだに奇妙な間が開いている。静電気みたいなノイズが混じって、本来の旋律がうまく聞こえない。
 不協和音。
 それも、ひどい。
 私は席に着きながら、さりげなく川村さんを見た。
 見た目は普通だった。今日もクラスメイトと笑っている。大きなお弁当を机の引き出しにしまって、朝のホームルームを待っている。
 何もおかしくない。
 なのに、旋律だけが、崩れている。
 どくん、と心臓が音を立てた。
 昨日は違った。昨日の川村さんの旋律は——普通だった。少し元気のいい、明るい旋律。それが今朝、突然こんな音になっている。
 私は鉛筆を机の上に置いて、じっと考えた。
 昨日も同じクラスにいた。昨日も聞こえていたはずだ。それが今日の朝、突然変わったということは——
 今日、何かが起きる。
 あのカウントダウンと同じだ。灯さんのときは「直前」に音が変わった。だとしたら、川村さんも——
「陰山さん、どうかした?」
 隣の福田さんが小声で言った。
「ぼーっとしてるよ」
「ごめん。大丈夫です」
 授業が始まった。先生の声が聞こえない。私はずっと、川村さんの旋律から耳を離せなかった。

 一限が終わった。
 川村さんはいつも通り、友達と笑いながら廊下に出ていった。体育館へ続く方向だ。一限と二限のあいだの休み時間、バレー部はよく自主練をしている。
 私は立ち上がった。
 特に考えてはいなかった。体が先に動いていた。
 廊下に出て、川村さんの背中を追う。階段を下りて、体育館の方へ。
 内側の廊下を歩きながら、旋律を追う。まだ不協和音が続いている。ノイズが大きくなっている気がする。
 嫌な感覚だった。
 あのカウントダウンの直前みたいに——でも今回は数字じゃない。音が、崩れていく感じだ。
 体育館の入り口の前で、川村さんが止まった。
 バッグから何かを取り出している。テーピングのテープだった。手首に巻いていく。バレーをする前の、準備だ。
 旋律が、一段と乱れた。
 「川村さん!」
 声が出ていた。
 川村さんが振り返った。私の顔を見て、少し不思議そうな顔をした。
「陰山さん? どうしたの?」
「あの、今日……練習、休んだほうがいいと思います」
 言ってから、しまったと思った。何を言っているんだろう。根拠は何だ。旋律が変だったから、なんて言えない。
 川村さんは一瞬、きょとんとして——それから笑った。
「え、なんで? 大丈夫だよ、すごく調子いいし」
「でも……なんか、今日は無理しないほうがいい気が」
「陰山さんって一年生だっけ。心配してくれてありがとうね」
 明らかに「変な子」と思われた顔だった。苦笑いとも違う、少し困惑した笑顔。
 旋律が、さらに乱れた。
 私が何か言う前に、川村さんはさっさと体育館に入っていった。
 扉が閉まった。
 どうすればいいんだろう。
 強引に止めることも、理由を説明することも、できない。
 でも——
 扉の向こうで、旋律がまだ崩れている。
 私は扉の外で、立ち尽くした。

 二限が始まる三分前だった。
 体育館のなかで、音がした。
 ガン、という鈍い金属音。直後、複数の人の声が重なった。何かが倒れる音。
 私は走った。
 体育館の扉を開けると、バレー部の女子が数人、中央に集まっていた。ネット支柱が倒れていた。重い金属製の支柱が、床に横倒しになっている。
 川村さんは、その支柱のすぐ横に立っていた。
 倒れなかった。当たらなかった。
 でも——あと十センチずれていたら。
「大丈夫っ!?」
「うん、びっくりしたけど……当たってない」
 川村さんは顔が青かった。笑おうとして、うまく笑えていない。
 私は扉の前で、ただ見ていた。
 助けられなかった。
 間に合わなかった、という意味じゃなく——止めようとしたけど、止められなかった。
 川村さんが避けたのは、自分の力だ。私が何かしたわけじゃない。
 でも——旋律が、変わった。
 さっきまでのノイズが消えて、本来の旋律が戻ってきている。ぶつぶつと途切れていた音が、再びつながっている。
 不協和音が、消えた。
 危機が、過ぎた。
 私は胸の前で手を握った。
 良かった、と思う気持ちと、間に合わなかった、という気持ちが混じって、うまく形にならないまま胸の奥に溜まっていった。

 昼休み、屋上で灯さんと向き合ったとき、私は今朝のことを話した。
 全部は話せなかった。旋律のことや、能力のことは言えなかった。でも——「クラスメイトが怪我をしそうで、止めようとしたけどできなかった」という部分だけは、言った。
 灯さんはしばらく黙って聞いていた。
「当たらなかったんでしょ?」
「はい」
「じゃあ良かったじゃん」
「でも、私は何もできなかったです。止めようとしたのに、空振りで」
 灯さんは少し首をかしげた。
「止めようとしたこと、自体は良くない?」
「……」
「結果は、たまたま本人が避けた。でも澪ちゃんは動こうとした。それって、意味ないの?」
 返す言葉が出なかった。
「澪ちゃんって。なんか、全部自分でやろうとするよね」
「そうですか?」
「うん。先週の自転車のときもそうだったけど——誰かのために動くの、すごく迷わないんだなって思って」
「迷う時間がなかっただけです」
「それが迷わないってことじゃないの」
 灯さんはそう言って、空を見上げた。今日は晴れていて、雲が速く流れていた。
「どうしてそこまでして助けるの?」
 静かな声だった。責めているわけじゃない。ただ、純粋に聞いている声だった。
 私は答えられなかった。
 なぜ、か。
 自分でもわからない。
 聞こえてしまうから、動かずにはいられない——そういうことだとは思う。でもそれだけじゃない気がする。もっと深いところに、うまく言葉にできない何かがある。
「わからないです」
 正直に言った。
 灯さんは「そっか」とだけ言った。
 それ以上は聞かなかった。
 その代わりに、こう言った。
「でもわたしは、澪ちゃんが動いてくれて良かったって思ってる。先週のこと」
「……」
「怖かったよ、あとから考えると。あのとき澪ちゃんが来なかったら、どうなってたんだろうって」
「それは——」
「だから。あなたが動くことに、意味はあると思う。たとえ空振りでも」
 私は黙っていた。
 胸の奥に、じわっと何かがにじんだ。
 旋律が聞こえた。灯さんの旋律が。
 今日も、昨日より少し長い。
 そして私の旋律は——また、削れていた。

 放課後。
 下校の途中で、川村さんに会った。
 校門の近くで、バレー部の友達と話していた。支柱の件を笑い話にしているようだった。「マジ死ぬかと思った」と言いながら笑っている。
 私が横を通り過ぎようとしたとき、川村さんが声をかけてきた。
「陰山さん」
 足を止めた。
「さっき——体育館の前にいたよね? 扉越しに見えた気がして」
「いました」
 川村さんはしばらく私を見て、それから、
「なんで来たの?」
「……なんとなくです。気になって」
「気になって?」
 頷いた。
 川村さんは少し不思議そうな顔をしたまま、「変な子だね」と言った。さっきの「困惑した笑顔」じゃなくて、今度は普通に笑っていた。
「ありがとね、気にしてくれて」
「いえ、何もできなかったんで」
「でもまあ、当たらなかったし。結果オーライ」
 そう言って、また友達の輪に戻っていった。
 私はその背中を見ながら、旋律を確認した。
 川村さんの旋律は、もう完全に戻っていた。穏やかで、安定していて、元気のいい音。
 良かった、と思った。
 でも——
 胸の奥で、別の感覚があった。
 もし今日、支柱が川村さんに当たっていたら。
 もし私が体育館に行けていたら、あるいは行かなかったら——結果は変わっていたのか。
 わからない。
 何が作用して、何が結果を変えるのか。旋律の変化と、現実の出来事のあいだには、どんなルールがあるのか。
 三年間、能力のことを考えてきたのに、まだわかっていないことの方が多すぎる。
 ひとつ確かなのは——
 また、私の旋律が削れたことだった。
 川村さんの危機を感じ、体育館に向かった。その行為が、何かを削った。
 大きくはない。ほんのわずかだ。でも確かに。
 昨日より少し、短い。

 私は三年前のことを思い出した。川沿いの帰り道。ある女の子の旋律が短かった。
 でも私は何もしなかった。

 次の日、その子は交通事故で学校に来なかった。
 あのとき、私は音を聞いただけだった。だから私は、もう聞くだけではいられない。

 夜、灯さんから短いメッセージが来た。
「今日もちゃんと眠れそう」
 それだけだった。
 私は画面を見つめて、少し笑ってしまった。
 短いメッセージのはずなのに、なぜかとても安心する。
 返信を打とうとして——止まった。
 もし灯さんが残り100日しかないとして。
 もし私が動くたびに、その100日が伸びていくとして。
 そしてその代わりに、私の旋律が削れていくとして。
 それは——私の命が、灯さんの命と、入れ替わっていくということなのか。
 お互いの旋律が、少しずつ交差していく。
 そんなことが、起きているのか。
 夜の静寂の中で、二つの旋律が聞こえた。
 灯さんのは昨日より確かに伸びていた。
 私のは——やっぱり、短くなっていた。
 けれど私は、「やめよう」とは思わなかった。
 思えなかった。
 怖かった。
 でも、灯さんの「今日もちゃんと眠れそう」という一行が、その怖さを少しだけ上回った。
 私は返信を打った。
「良かった。おやすみなさい」
 送信して、スマホを伏せた。
 電気を消すと、部屋が暗くなった。
 旋律が二つ、静かに鳴り続けている。

 翌日。
 朝のホームルームが始まる前に、担任の先生が言った。
「来週から、転入生が来ます」
 誰かが「男? 女?」と聞いた。
「男子です。名前は——」
 先生がプリントを見た。
「真白、と書いて、ましろ。白神真白くんです」
 私は特に気にしなかった。
 新しいクラスメイトが来る。それだけのことだ、と思っていた。
 ただひとつ——
 なんとなく、胸のどこかが、ざわついた。
 なぜかはわからなかった。
 転入生の名前を聞いただけで、なぜ。
 私はその感覚を振り払って、教科書を開いた。
 授業が始まった。
 あの名前が頭の中で、もう一度だけ響いた。
 真白。
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