寿命の旋律が聞こえる私と、残り100日の君
第4エピソード「音のない少年」
転入生が来たのは、月曜日の朝だった。
ホームルームの前に担任が教室に入ってきて、「今日から来ます」とだけ言った。廊下に向かって手招きをすると、男子生徒がひとり入ってきた。
すらりと背が高かった。白に近い、薄い色の髪。色素が薄いのか、まつ毛まで明るい。肌も白くて、教室の中で一人だけ違う光を浴びているみたいに見えた。顔の造作はきれいだったけど、表情がなかった。愛想笑いも緊張もなく、ただそこにいる、という感じの顔。
「白神真白です。よろしくお願いします」
短い自己紹介だった。声は低くて、落ち着いていた。
席は、私の二つ隣になった。
窓際から二列目、前から四番目。私が窓際の前から四番目だから、ほぼ真横だ。
真白くんが席に着いた瞬間、私は気づいた。
聞こえない。
聞こえない、というのは——旋律が、だ。
三年間、旋律が聞こえなかった人間はいない。どんな人からも、何かしら聞こえてきた。音の大きさも長さも質も違うけど、「無音」なんてことはなかった。
なのに。
真白くんからは、何も聞こえない。
完全な無音。
私は自分の耳を疑った。集中が足りないのかもしれない、と思って、もっと意識を向けてみた。目を細めて、息を整えて、耳を澄ます。
無音。
ノイズすらない。旋律が乱れているわけでも、小さすぎて聞こえないわけでもない。そもそも、音が存在していない。
彼の方向から聞こえてくるのは、ただ——静寂だけだった。
どくん、と心臓が鳴った。
隣の福田さんが「かっこいいね」と小声で言ってきたけど、私は返事ができなかった。
一限が始まった。
私はずっと、真白くんの方向を気にしていた。さりげなく視線を向けると、彼は教科書を開いて、先生の話を聞いていた。当たり前の光景だ。何もおかしくない。
でも——音がない。
生きている人間から、旋律が聞こえない。
今まで一度もなかったことだ。
考えられる可能性を頭の中で並べてみた。旋律の強さは人によって違う。もしかして、極端に弱い場合は聞こえないこともある? でも「弱い」と「無音」は違う。弱ければかすかに聞こえるはずで、「まったく存在しない」というのは別の話だ。
あるいは——この能力自体に、例外がある?
三年間、そんな例外には当たったことがなかったのに。
昼休みになった。私は屋上に向かいながら、どう考えても答えが出ないことに気づいて、とりあえず灯さんに話してみようと思った。
でも屋上の扉を開けたとき、灯さんはいなかった。
代わりに——真白くんがいた。
フェンスにもたれて、空を見上げていた。
昼食を持っている様子もない。ただ、立っている。
私が扉を開けた音で振り返った。目が合った。
「……ごめんなさい、邪魔でしたか」
「別に」
愛想のない返事だった。でも出ていけ、という感じでもない。
私は少し迷って、フェンスから少し離れた排気口の前に腰を下ろした。お弁当を開く。
沈黙が続いた。真白くんはまた空を見ていた。
私はその間も、ずっと耳を澄ましていた。
無音。
彼のいる方向だけ、すっぽりと音が抜けている。周囲の空気の旋律は聞こえるのに、彼の輪郭だけが静かだった。
不思議、というより——怖かった。
「さっきからこっちを気にしてるね」
急に言われた。
私は箸を止めた。
「そうですか?」
「何か聞こえる?」
「え?」
真白くんがこちらを向いた。さっきまでの無表情が、少しだけ変わっていた。探っているような目だった。
「聞こえますか、って言ったんだけど」
「……何が?」
「音」
心臓が、大きく跳ねた。
「音って」
「人の音。旋律みたいなやつ」
息が止まった。
私はしばらく、真白くんの顔を見つめた。表情を読もうとしたけど、読めない。ただ、真剣な目だと思った。
「なんで……そんなことを」
「顔に出てるから」と彼は言った。「さっきから俺の方を気にして、聞こうとして、聞こえなくて困ってる顔」
どうして、そこまでわかるんだ。
「その能力、まだ消えてなかったんだ」
真白くんがぽつりと言った。
まだ、という言葉が引っかかった。
「——どういう意味ですか」
「消えるはずだったんだよ、本来は。三年くらい前に」
三年前。
能力を手に入れた時期と、一致していた。
「あなたは、誰なんですか」
私は聞いた。声が少し震えていた。
真白くんはフェンスから離れて、排気口の横に座った。向かい合う形になった。
「白神真白。さっき自己紹介した」
「そういう意味じゃなくて」
「わかってる」
彼はしばらく黙っていた。迷っているのか、タイミングを計っているのか。
「その力は人間のものじゃない」
静かな声だった。でも言葉の重さが、空気を変えた。
「人間のものじゃない——」
「もともとは別のものが持つ力。誰かが間違えて、あるいは意図的に、陰山澪に流れ込んだ」
私の名前を知っている。今朝会ったばかりなのに、名前を言わなかったのに。
「私のことを知っているんですか?」
「知ってる」
「どこで?」
「ずっと見てたから」
ぞくり、とした。怖さじゃなくて——確信に近い感覚。この子は本当のことを言っている、という感覚。
「ずっとって、いつから?」
「三年前から」
やっぱり、三年前だ。
「その力が流れ込んだとき、から?」
真白くんは少し目を細めた。驚いたように見えた。
「飲み込みが早いね」
「怖いからです。早く全部聞きたい」
「……」
彼は少し間を置いて、言った。
「今日は全部は話せない」
「どうして」
「順番がある。話す順番が」
「誰が決めた順番ですか」
「俺じゃない」
それ以上は言わなかった。
私は奥歯を噛んだ。聞きたいことが山ほどある。でも彼は答えない、という顔をしていた。
「ひとつだけ聞かせてください」
「何」
「あなたから旋律が聞こえない理由」
真白くんは少し考えて——答えた。
「俺は、あなたが聞けるものを持っていないから」
「持っていない?」
「旋律は寿命の音だろ。俺には寿命がない」
「……」
「だから音もない」
私は言葉を失った。
寿命がない、という言葉の意味を、頭が処理しようとして——できなかった。
その日の放課後。
灯さんに会ったとき、私は転入生の話をしなかった。
できなかった、というより——どこから話せばいいかわからなかった。「音のない転入生が来て、私の能力を知っていて、寿命がないと言った」なんて、どう説明するんだ。
灯さんはいつもの喫茶店でケーキを食べながら、「今日のバイトどうしようかな」と世俗的なことを話していた。私はその横で、返事をしながら、ずっと別のことを考えていた。
「澪ちゃん、上の空」
灯さんに言われた。
「ごめんなさい」
「なんかあった?」
「……ちょっと、気になる人ができて」
言ってから、言葉の選択を後悔した。灯さんが「え!」と前のめりになった。
「好きな人?」
「違います。そういうんじゃなくて」
「どういうの?」
「謎な人、です。何考えてるかわからない」
灯さんは少し考えてから、「クラスの子?」と聞いた。
「転入生です。今日来た」
「あ、転入生来たんだ。どんな人?」
「白っぽい人」
「白っぽい?」
「髪が白くて、静かで、あんまり笑わない」
灯さんはおかしそうに笑った。
「白くて静かで笑わない人が謎なの、当然じゃない?」
「それだけじゃなくて——なんか、普通の人と違う感じがして」
「違うって、どんなふうに?」
答えに詰まった。
「うまく言えないんですけど。なんか、音が違うというか」
「また音の話だ」
灯さんは笑いながら言った。
「澪ちゃんって、音で人を感じるんだね。おもしろい」
「おもしろい、ですか?」
「うん。音楽家みたいで、好きだよそういうの」
好き、という言葉をさらりと使う。灯さんはそういう子だ。
「転入生の子の音は、どんな音なの?」
私は少し考えた。
「——無音、です」
「無音?」
「何も聞こえない」
「それは、もしかして、静かすぎる人なのかもね。音がないくらい、静かな」
私は答えなかった。
灯さんのその解釈は、きれいだと思った。でも正しくない、ということもわかっていた。
翌朝。
真白くんは昨日と同じ席に座って、昨日と同じ無表情で教科書を読んでいた。
私が席に着くと、視線だけこちらに向けた。目が合った。
「おはよう」
「おはよう」
それだけだった。でも昨日と違って、完全な他人ではなくなっていた。
一限の途中、真白くんがノートの端に何か書いて、消しゴムをすべらせてよこした。
見ると、小さな文字でこう書いてあった。
『放課後、話せる?』
私は少し考えて、頷いた。
放課後、真白くんは私を学校の裏手にある旧校舎の方へ連れて行った。使われていない棟で、今は物置になっている。人気がない。
錆びた椅子が二脚、廊下に出されていた。二人で向かい合わせに座った。
「昨日の続き、話す」
真白くんは開口一番、そう言った。
「聞きます」
「陰山は三年前、その力を手に入れたとき——何かに触れなかったか?」
「触れた?」
「何でもいい。見慣れないもの、音のするもの、感覚が変わったとき」
私は記憶を辿った。三年前、中一の秋。
「……川辺で、何かが光ったのを見た気がする」
「川辺」
「学校帰りに川を渡って帰ってたんですけど。橋の上で、川の中に光みたいなものが沈んでいくのが見えて。そのあとから、聞こえるようになったんだと思います」
「光」と真白くんは繰り返した。低く、独り言のように。
「そこに、力が落ちた」
「落ちた?」
「本来は俺が回収するはずだったものが、陰山の傍に落ちた。それが吸収された」
「……あなたが回収する? 何を?」
「死神の力」
空気が変わった。
”死神”という言葉が、旧校舎の古い廊下に、静かに広がった。
「死神、って——」
「文字通りの意味だよ。人の寿命を管理して、終わりに立ち会う存在」
「あなたが?」
「俺は死神じゃない。俺は——監視者だ。死神が正しく動いているか確認する側」
「どう違うんですか」
「死神は能動的に動く。俺は基本、見ているだけ」
「見ているだけ、って——三年間?」
「ああ」
私は少し黙った。
「なんで黙って見てたんですか」
「陰山がその力を使わなければ、問題はなかった。人の寿命を感じるだけなら、人間の側に影響はない。だから介入しなかった。旋律を聞くだけなら問題はない。だが——運命を動かした瞬間——
それは禁忌になる」
「でも——」
「使い始めた。先週、日向灯の危機に介入した」
灯さんの名前が出た。
「監視者は灯さんのことも知っているんですか」
「知ってる」
「灯さんが残り100日だということも?」
真白くんは少しだけ、表情が変わった。驚いたというより——何かを確認したような顔。
「陰山にはそう聞こえているんだ」
「違うんですか?」
「数字じゃないよ、本来は。でも陰山にはそう聞こえる。それはおそらく、人間の感覚に翻訳されているから。大体、合ってると思っていい」
「大体」
「誤差はある」
「どのくらいの誤差ですか」
「わからない」
「わからないって——」
「誰にもわからないよ。そういうもんだから」
真白くんは淡々と言った。感情が読めない。
「それで、私に言いたいことは何ですか」
「止まれ、と言いたかった」
「止まれ」
「日向灯の運命に介入するのを、やめろ」
その言葉は、思ったよりも重くなかった。
たぶん私はもう、止まれないとわかっていたから。
「できません」
「わかってた」
真白くんはため息をつくでもなく、怒るでもなく、ただそう言った。
「なんでわかったんですか」
「陰山は先週から、自分の旋律が削れているのを知りながら動いてる」
「……聞こえるんですか、私の旋律が」
「監視者だから、全員の旋律が見える」
見える、という表現だった。聞こえる、ではなく。
「陰山の旋律は今週だけで、かなり削れてる」
「どのくらい?」
「具体的な数字は言わない。怖くて動けなくなっても困る」
「怖くても動くと思います」
「そういうやつだから言わない」
真白くんは立ち上がった。夕日が旧校舎の廊下を斜めに照らしていた。
「俺が言いたかったのは、止まれ、ではなくて——本当は、知っておけ、ってことだ」
「知っておく?」
「その力はルールを持ってる。人間の感情や善意で動いていいものじゃない。だから——このまま動き続けると、陰山は消える」
「消える」
「旋律が終わる、ということだよ」
静かな言葉だった。でもその静かさのせいで、言葉が全部、まっすぐに届いた。
「それでも止まれませんか」
責める声じゃなかった。ただ、確認しているような声。
私は少し間を置いて——答えた。
「止まれません」
真白くんは何も言わなかった。
ただ、かすかに——本当にかすかに——表情が変わった気がした。何かを受け入れるような、あるいは何かを決めたような顔。
「わかった」
「え?」
「止まれないなら、俺が傍にいる。最低限の損害になるよう、監視する」
「監視、って」
「見ているだけが仕事だから。でも——見ていることしかできないわけじゃ、たぶんない」
その言葉の意味を聞く前に、真白くんは歩き出した。
「また明日」
それだけ言って、夕日の中を歩いていった。
白い髪が、オレンジの光に照らされて——すこしだけ、金色に見えた。
夜、布団の中で私は天井を見上げた。
死神の力。
監視者。
消える。
言葉がいくつも頭の中で回っていた。
怖いか、と自分に聞いてみた。
怖い、と思う。消えたくない、とも思う。
でも灯さんの旋律が消えるところを想像すると——それの方が、ずっと怖かった。
理屈じゃない。
ただ、そう感じる。
スマホが光った。灯さんからだった。
「澪ちゃん、明日も屋上行っていい?」
私は少し笑って、返信を打った。
「もちろんです」
送信して、スマホを置いた。
旋律が二つ、聞こえた。
灯さんのは今夜も伸びていた。わずかに、でも確かに。
私のは——また、少し短くなっていた。
それでも今夜は、不思議と穏やかな気持ちだった。
怖さより先に、明日が楽しみだと思っていた。
ホームルームの前に担任が教室に入ってきて、「今日から来ます」とだけ言った。廊下に向かって手招きをすると、男子生徒がひとり入ってきた。
すらりと背が高かった。白に近い、薄い色の髪。色素が薄いのか、まつ毛まで明るい。肌も白くて、教室の中で一人だけ違う光を浴びているみたいに見えた。顔の造作はきれいだったけど、表情がなかった。愛想笑いも緊張もなく、ただそこにいる、という感じの顔。
「白神真白です。よろしくお願いします」
短い自己紹介だった。声は低くて、落ち着いていた。
席は、私の二つ隣になった。
窓際から二列目、前から四番目。私が窓際の前から四番目だから、ほぼ真横だ。
真白くんが席に着いた瞬間、私は気づいた。
聞こえない。
聞こえない、というのは——旋律が、だ。
三年間、旋律が聞こえなかった人間はいない。どんな人からも、何かしら聞こえてきた。音の大きさも長さも質も違うけど、「無音」なんてことはなかった。
なのに。
真白くんからは、何も聞こえない。
完全な無音。
私は自分の耳を疑った。集中が足りないのかもしれない、と思って、もっと意識を向けてみた。目を細めて、息を整えて、耳を澄ます。
無音。
ノイズすらない。旋律が乱れているわけでも、小さすぎて聞こえないわけでもない。そもそも、音が存在していない。
彼の方向から聞こえてくるのは、ただ——静寂だけだった。
どくん、と心臓が鳴った。
隣の福田さんが「かっこいいね」と小声で言ってきたけど、私は返事ができなかった。
一限が始まった。
私はずっと、真白くんの方向を気にしていた。さりげなく視線を向けると、彼は教科書を開いて、先生の話を聞いていた。当たり前の光景だ。何もおかしくない。
でも——音がない。
生きている人間から、旋律が聞こえない。
今まで一度もなかったことだ。
考えられる可能性を頭の中で並べてみた。旋律の強さは人によって違う。もしかして、極端に弱い場合は聞こえないこともある? でも「弱い」と「無音」は違う。弱ければかすかに聞こえるはずで、「まったく存在しない」というのは別の話だ。
あるいは——この能力自体に、例外がある?
三年間、そんな例外には当たったことがなかったのに。
昼休みになった。私は屋上に向かいながら、どう考えても答えが出ないことに気づいて、とりあえず灯さんに話してみようと思った。
でも屋上の扉を開けたとき、灯さんはいなかった。
代わりに——真白くんがいた。
フェンスにもたれて、空を見上げていた。
昼食を持っている様子もない。ただ、立っている。
私が扉を開けた音で振り返った。目が合った。
「……ごめんなさい、邪魔でしたか」
「別に」
愛想のない返事だった。でも出ていけ、という感じでもない。
私は少し迷って、フェンスから少し離れた排気口の前に腰を下ろした。お弁当を開く。
沈黙が続いた。真白くんはまた空を見ていた。
私はその間も、ずっと耳を澄ましていた。
無音。
彼のいる方向だけ、すっぽりと音が抜けている。周囲の空気の旋律は聞こえるのに、彼の輪郭だけが静かだった。
不思議、というより——怖かった。
「さっきからこっちを気にしてるね」
急に言われた。
私は箸を止めた。
「そうですか?」
「何か聞こえる?」
「え?」
真白くんがこちらを向いた。さっきまでの無表情が、少しだけ変わっていた。探っているような目だった。
「聞こえますか、って言ったんだけど」
「……何が?」
「音」
心臓が、大きく跳ねた。
「音って」
「人の音。旋律みたいなやつ」
息が止まった。
私はしばらく、真白くんの顔を見つめた。表情を読もうとしたけど、読めない。ただ、真剣な目だと思った。
「なんで……そんなことを」
「顔に出てるから」と彼は言った。「さっきから俺の方を気にして、聞こうとして、聞こえなくて困ってる顔」
どうして、そこまでわかるんだ。
「その能力、まだ消えてなかったんだ」
真白くんがぽつりと言った。
まだ、という言葉が引っかかった。
「——どういう意味ですか」
「消えるはずだったんだよ、本来は。三年くらい前に」
三年前。
能力を手に入れた時期と、一致していた。
「あなたは、誰なんですか」
私は聞いた。声が少し震えていた。
真白くんはフェンスから離れて、排気口の横に座った。向かい合う形になった。
「白神真白。さっき自己紹介した」
「そういう意味じゃなくて」
「わかってる」
彼はしばらく黙っていた。迷っているのか、タイミングを計っているのか。
「その力は人間のものじゃない」
静かな声だった。でも言葉の重さが、空気を変えた。
「人間のものじゃない——」
「もともとは別のものが持つ力。誰かが間違えて、あるいは意図的に、陰山澪に流れ込んだ」
私の名前を知っている。今朝会ったばかりなのに、名前を言わなかったのに。
「私のことを知っているんですか?」
「知ってる」
「どこで?」
「ずっと見てたから」
ぞくり、とした。怖さじゃなくて——確信に近い感覚。この子は本当のことを言っている、という感覚。
「ずっとって、いつから?」
「三年前から」
やっぱり、三年前だ。
「その力が流れ込んだとき、から?」
真白くんは少し目を細めた。驚いたように見えた。
「飲み込みが早いね」
「怖いからです。早く全部聞きたい」
「……」
彼は少し間を置いて、言った。
「今日は全部は話せない」
「どうして」
「順番がある。話す順番が」
「誰が決めた順番ですか」
「俺じゃない」
それ以上は言わなかった。
私は奥歯を噛んだ。聞きたいことが山ほどある。でも彼は答えない、という顔をしていた。
「ひとつだけ聞かせてください」
「何」
「あなたから旋律が聞こえない理由」
真白くんは少し考えて——答えた。
「俺は、あなたが聞けるものを持っていないから」
「持っていない?」
「旋律は寿命の音だろ。俺には寿命がない」
「……」
「だから音もない」
私は言葉を失った。
寿命がない、という言葉の意味を、頭が処理しようとして——できなかった。
その日の放課後。
灯さんに会ったとき、私は転入生の話をしなかった。
できなかった、というより——どこから話せばいいかわからなかった。「音のない転入生が来て、私の能力を知っていて、寿命がないと言った」なんて、どう説明するんだ。
灯さんはいつもの喫茶店でケーキを食べながら、「今日のバイトどうしようかな」と世俗的なことを話していた。私はその横で、返事をしながら、ずっと別のことを考えていた。
「澪ちゃん、上の空」
灯さんに言われた。
「ごめんなさい」
「なんかあった?」
「……ちょっと、気になる人ができて」
言ってから、言葉の選択を後悔した。灯さんが「え!」と前のめりになった。
「好きな人?」
「違います。そういうんじゃなくて」
「どういうの?」
「謎な人、です。何考えてるかわからない」
灯さんは少し考えてから、「クラスの子?」と聞いた。
「転入生です。今日来た」
「あ、転入生来たんだ。どんな人?」
「白っぽい人」
「白っぽい?」
「髪が白くて、静かで、あんまり笑わない」
灯さんはおかしそうに笑った。
「白くて静かで笑わない人が謎なの、当然じゃない?」
「それだけじゃなくて——なんか、普通の人と違う感じがして」
「違うって、どんなふうに?」
答えに詰まった。
「うまく言えないんですけど。なんか、音が違うというか」
「また音の話だ」
灯さんは笑いながら言った。
「澪ちゃんって、音で人を感じるんだね。おもしろい」
「おもしろい、ですか?」
「うん。音楽家みたいで、好きだよそういうの」
好き、という言葉をさらりと使う。灯さんはそういう子だ。
「転入生の子の音は、どんな音なの?」
私は少し考えた。
「——無音、です」
「無音?」
「何も聞こえない」
「それは、もしかして、静かすぎる人なのかもね。音がないくらい、静かな」
私は答えなかった。
灯さんのその解釈は、きれいだと思った。でも正しくない、ということもわかっていた。
翌朝。
真白くんは昨日と同じ席に座って、昨日と同じ無表情で教科書を読んでいた。
私が席に着くと、視線だけこちらに向けた。目が合った。
「おはよう」
「おはよう」
それだけだった。でも昨日と違って、完全な他人ではなくなっていた。
一限の途中、真白くんがノートの端に何か書いて、消しゴムをすべらせてよこした。
見ると、小さな文字でこう書いてあった。
『放課後、話せる?』
私は少し考えて、頷いた。
放課後、真白くんは私を学校の裏手にある旧校舎の方へ連れて行った。使われていない棟で、今は物置になっている。人気がない。
錆びた椅子が二脚、廊下に出されていた。二人で向かい合わせに座った。
「昨日の続き、話す」
真白くんは開口一番、そう言った。
「聞きます」
「陰山は三年前、その力を手に入れたとき——何かに触れなかったか?」
「触れた?」
「何でもいい。見慣れないもの、音のするもの、感覚が変わったとき」
私は記憶を辿った。三年前、中一の秋。
「……川辺で、何かが光ったのを見た気がする」
「川辺」
「学校帰りに川を渡って帰ってたんですけど。橋の上で、川の中に光みたいなものが沈んでいくのが見えて。そのあとから、聞こえるようになったんだと思います」
「光」と真白くんは繰り返した。低く、独り言のように。
「そこに、力が落ちた」
「落ちた?」
「本来は俺が回収するはずだったものが、陰山の傍に落ちた。それが吸収された」
「……あなたが回収する? 何を?」
「死神の力」
空気が変わった。
”死神”という言葉が、旧校舎の古い廊下に、静かに広がった。
「死神、って——」
「文字通りの意味だよ。人の寿命を管理して、終わりに立ち会う存在」
「あなたが?」
「俺は死神じゃない。俺は——監視者だ。死神が正しく動いているか確認する側」
「どう違うんですか」
「死神は能動的に動く。俺は基本、見ているだけ」
「見ているだけ、って——三年間?」
「ああ」
私は少し黙った。
「なんで黙って見てたんですか」
「陰山がその力を使わなければ、問題はなかった。人の寿命を感じるだけなら、人間の側に影響はない。だから介入しなかった。旋律を聞くだけなら問題はない。だが——運命を動かした瞬間——
それは禁忌になる」
「でも——」
「使い始めた。先週、日向灯の危機に介入した」
灯さんの名前が出た。
「監視者は灯さんのことも知っているんですか」
「知ってる」
「灯さんが残り100日だということも?」
真白くんは少しだけ、表情が変わった。驚いたというより——何かを確認したような顔。
「陰山にはそう聞こえているんだ」
「違うんですか?」
「数字じゃないよ、本来は。でも陰山にはそう聞こえる。それはおそらく、人間の感覚に翻訳されているから。大体、合ってると思っていい」
「大体」
「誤差はある」
「どのくらいの誤差ですか」
「わからない」
「わからないって——」
「誰にもわからないよ。そういうもんだから」
真白くんは淡々と言った。感情が読めない。
「それで、私に言いたいことは何ですか」
「止まれ、と言いたかった」
「止まれ」
「日向灯の運命に介入するのを、やめろ」
その言葉は、思ったよりも重くなかった。
たぶん私はもう、止まれないとわかっていたから。
「できません」
「わかってた」
真白くんはため息をつくでもなく、怒るでもなく、ただそう言った。
「なんでわかったんですか」
「陰山は先週から、自分の旋律が削れているのを知りながら動いてる」
「……聞こえるんですか、私の旋律が」
「監視者だから、全員の旋律が見える」
見える、という表現だった。聞こえる、ではなく。
「陰山の旋律は今週だけで、かなり削れてる」
「どのくらい?」
「具体的な数字は言わない。怖くて動けなくなっても困る」
「怖くても動くと思います」
「そういうやつだから言わない」
真白くんは立ち上がった。夕日が旧校舎の廊下を斜めに照らしていた。
「俺が言いたかったのは、止まれ、ではなくて——本当は、知っておけ、ってことだ」
「知っておく?」
「その力はルールを持ってる。人間の感情や善意で動いていいものじゃない。だから——このまま動き続けると、陰山は消える」
「消える」
「旋律が終わる、ということだよ」
静かな言葉だった。でもその静かさのせいで、言葉が全部、まっすぐに届いた。
「それでも止まれませんか」
責める声じゃなかった。ただ、確認しているような声。
私は少し間を置いて——答えた。
「止まれません」
真白くんは何も言わなかった。
ただ、かすかに——本当にかすかに——表情が変わった気がした。何かを受け入れるような、あるいは何かを決めたような顔。
「わかった」
「え?」
「止まれないなら、俺が傍にいる。最低限の損害になるよう、監視する」
「監視、って」
「見ているだけが仕事だから。でも——見ていることしかできないわけじゃ、たぶんない」
その言葉の意味を聞く前に、真白くんは歩き出した。
「また明日」
それだけ言って、夕日の中を歩いていった。
白い髪が、オレンジの光に照らされて——すこしだけ、金色に見えた。
夜、布団の中で私は天井を見上げた。
死神の力。
監視者。
消える。
言葉がいくつも頭の中で回っていた。
怖いか、と自分に聞いてみた。
怖い、と思う。消えたくない、とも思う。
でも灯さんの旋律が消えるところを想像すると——それの方が、ずっと怖かった。
理屈じゃない。
ただ、そう感じる。
スマホが光った。灯さんからだった。
「澪ちゃん、明日も屋上行っていい?」
私は少し笑って、返信を打った。
「もちろんです」
送信して、スマホを置いた。
旋律が二つ、聞こえた。
灯さんのは今夜も伸びていた。わずかに、でも確かに。
私のは——また、少し短くなっていた。
それでも今夜は、不思議と穏やかな気持ちだった。
怖さより先に、明日が楽しみだと思っていた。