寿命の旋律が聞こえる私と、残り100日の君

第5エピソード「死神のルール」

 五月に入った。
 桜はとっくに散って、木々が濃い緑をまとい始めていた。教室の窓から見える景色が、先月とは全然違う色になっている。季節は確実に動いていた。
 灯さんと会うようになって、三週間が経っていた。
 毎日昼休みを屋上で過ごして、週に二度か三度、放課後に喫茶店へ行く。それが当たり前の時間になっていた。灯さんはよく笑うようになっていた。最初に会ったときの、どこか宙に浮いているような雰囲気が、少しずつ地に足がついてきている感じがした。
 それに比例するように——灯さんの旋律は、少しずつ伸びていた。
 残り100日が、残り110日になっていた。120日に近づいていた。
 そして私の旋律は——。
 考えないようにしていた。でも、確かに削れていた。

ある日、屋上で澪は少しふらついた。
「澪ちゃん、大丈夫?」
「うん、ちょっと寝不足」
灯は少し黙ってから言う。
「最近さ、澪ちゃん、ちょっと痩せたよね」
澪は笑う。
「気のせい」
「無理してない?」
「してない」
灯は困った顔を浮かべて、少し考えてから言う。
「でもさ、もし無理してたら。わたしに言ってよ」
澪は答えない。
灯は笑って言う。
「だってわたし、澪ちゃんに助けてもらったから。今度はわたしの番でしょ。これあげる」
 灯はそう言って、自分のヘアゴムを澪に渡す。
「お守り」
 真白くんはあの旧校舎での会話以来、余計なことを言わなくなっていた。
 学校では普通のクラスメイトとして、静かに存在していた。私とも、廊下で目が合えば頷く程度。授業中にノートを回してくることも、話しかけてくることもなかった。
 でも——時々、視線を感じた。
 授業中、ふと顔を上げると、真白くんがこちらを見ていた。見ている、というより——確認している、という感じの視線。体温計で熱を測るような、感情のない観察の目。
 それが少し、不思議と安心した。
 監視者がいる、ということが。
 「あの転入生、陰山さんと仲いいの?」と福田さんに聞かれたのは、五月の第二週のことだ。
「別に普通ですよ」
「でもよく見てるじゃん、陰山さんのこと」
「そうですか?」
「うん。なんか——心配してるみたいな目で」
 福田さんの観察眼は、意外と鋭い。

 真白くんが「もっと話したい」と言ってきたのは、五月の半ばだった。
 またノートの端に文字を書いてよこした。今度は『昼、旧校舎』とだけ。
 灯さんとの屋上の時間を削るのは惜しかったけど、断る理由もなかった。
 旧校舎の廊下に椅子を出して、向かい合わせで座る。前回と同じ配置。ただ今回は夕方ではなく昼で、窓から降り注ぐ光が白くて明るかった。
「聞きたいことがあるんじゃないの」と真白くんが先に言った。
「あります」
「どうぞ」
「死神、というのは——何人いるんですか」
 真白くんは少し考えた。
「正確な数は言えない。ただ、世界中にいる」
「私の力は、もともとある死神のものだったと言ってましたよね」
「ああ」
「その死神は今、どこに?」
「いない」
「いない?」
「その死神は消えた。三年前に」
 消えた。
「死神も、消えるんですか」
「消えるよ。死神は人間より長く存在できるけど、永遠じゃない。力を失ったり、ルールを破ったりすると、消える」
「ルールを破ると」
「死神のルールは、ひとつだ。人の運命を変えない」
 静かな言葉だった。でも重さがあった。
「人の運命を変えない——それが死神のルール」
「ああ。死神は寿命を管理するだけで、変えない。観察して、記録して、終わりに立ち会う。介入は、禁忌だ」
「でも私は」
「陰山は、禁忌を犯してる」
 まっすぐに言われた。
「三年前に消えた死神は、そのルールを破ったから消えたんですか」
「……違う。あの死神は、力を誰かに渡したくて、渡した。意図的に」
「誰かって——私に?」
「陰山に、だ。たぶん」
  たぶん、という言葉が引っかかった。
「確認できないんですか」
「消えたから。理由も動機も、残っていない」
「なんで私に渡したんだろう」
「わからない。でも、意図的に渡したなら——陰山に使ってほしかったんだと思う」
「使ってほしかった」
「死神のルールを破るために」
 その言葉は、奇妙なほど静かに、廊下の空気に溶けた。
 死神のルールを破るために、力を渡した死神。
 消えることを知りながら、それでも渡した。
「その死神は、誰かを助けたかったんでしょうか」
 私が言うと、真白くんはしばらく黙っていた。
「さあ。でも——そういうことかもしれない」

「死神のルールの話を、もっと聞かせてもらえますか」
 私は続けた。
「どんな?」
「運命を変えると、なぜ寿命が削れるのか」
 真白くんは窓の外を見た。白い光の中で、彼の横顔は彫刻みたいに見えた。
「等価交換、に近い概念だ」と彼は言った。「人の運命を変えるには、何かが必要になる。死神が持つ力を使った場合、その代償として——使った本人の寿命から引かれる」
「だから削れる」
「そう」
「どのくらい削れるかは、介入の大きさによりますか」
「大体は。大きく変えるほど、大きく削れる」
「じゃあ、灯さんを100日伸ばすとしたら——」
「それだけ削れる、とは限らない。運命の変化と寿命の削れ方は、一対一じゃない。もっと複雑だ」
「でも」
「でも——大きな変化を起こすほど、陰山の寿命は大きく減る。それは確かだ」
 私は膝の上で手を握った。
「最悪の場合」
「最悪の場合は、旋律が完全に消える」
「それは——死ぬということ?」
 真白くんは少し間を置いた。
「消える、というのは——人間の死とは少し違う。旋律が終わる、ということは、存在が薄れていく。消えていく。死ぬより静かで、気づかないうちに終わる感じに近い」 
「消えていく」
「陰山は今、どのくらい削れているか聞きたい?」
「聞きたい、とは言えない」
「なんで」
「聞いたら、動けなくなるかもしれないから」
 真白くんは黙った。
「それでも動くって言ったよね、前に」
「言いました。でも数字を知ったら、怖くなるかもしれない。今はまだ、怖くなりたくない」
「臆病だな」
「そうです」
「——正直だな」
 ちょっとだけ、真白くんの口元が動いた。笑ったわけじゃない。でも、かたい表情が、ほんの少し緩んだ。
「ひとつだけ言う」と彼は言った。「今の陰山の旋律は、まだ続いている。消えかけてはいない」
「……ありがとう」
「感謝する必要はない。事実を言っただけだ」
「それでも、ありがとうございます」
 真白くんは何も言わなかった。

 その週の金曜日。
 放課後、喫茶店で灯さんと話していたとき、灯さんが突然、真剣な顔になった。
「澪ちゃん、聞いてもいい?」
「何ですか?」
「最近、顔が細くなってない?」
「そうですか?」
「うん。なんか、前より疲れてる感じがする。体調、大丈夫?」
 灯さんはテーブルに肘をついて、まっすぐ私を見ていた。心配している目だった。
「大丈夫です」
「本当に?」
「本当に」
 灯さんはしばらく私を見ていた。それから、ゆっくりと尋ねた。
「わたしのせい?」
「え?」
「わたしのこと、気にしすぎて疲れてるんじゃないかと思って」
「違います」
「でも——」
「灯さんといる時間は、疲れません。好きだから」
 言葉が出てから、少し恥ずかしくなった。灯さんは目を丸くして、それから柔らかく笑った。
「わたしも。澪ちゃんといると、なんか——生きてる感じがする」
 生きてる感じ。
 その言葉が、胸に刺さった。
「最近さ、あんまりぼんやりしなくなったんだよね。あの、現実から浮いてるみたいな感じ。消えてきた気がして」
「良かった」
「澪ちゃんのおかげだと思う」
「私は何もしてないですよ」
「一緒にいてくれてる」
 灯さんは窓の外を見た。夕方の光の中で、彼女の横顔は穏やかだった。
「それだけで、全然違うんだよ。ひとりで浮いてるのと、誰かと話してるのって」
 私は黙って、灯さんの旋律を聞いた。
 穏やかで、安定していて——確かに伸びていた。
 最初の100日より、もう30日近く伸びている。
 それと引き換えに、私の旋律は削れていた。
 でも今この瞬間、後悔はなかった。
 一ミリも、なかった。

 翌週の月曜日。
 帰り道で、真白くんに追いつかれた。
「少し話せる?」
「はい」
 二人で川沿いの道を歩いた。三年前に光を見た川。今は何もない。ただ、夕方の光を反射して、水面がきらきら光っている。
「陰山に、知っておいてほしいことがある」
 真白くんは前を向いたまま言った。
「何ですか」
「死神の力を持ったまま、禁忌を犯し続けた人間がどうなるか」
「消える、と言ってましたよね」
「消えるか——あるいは」
 真白くんが少し間を置いた。
「別の何かになる」
「別の何か?」
「死神の力を人間が持ったまま使い続けると、力の方が人間の側を飲み込んでいく場合がある。そうなると——人間じゃなくなる」
「死神に、なるということ?」
「そうじゃない。死神でも人間でもない、中途半端な何か。どちらの世界にも属さない存在」
「それは……怖いですね」
「ああ」
「でも、消えるよりはましかもしれない」
「そうは思わない方がいい。中途半端な存在は、どこにもいられない。人間の世界にも、死神の世界にも。ただ、存在するだけになる」
「孤独だ」
「最悪だ」
 まっすぐな言い方だった。
「だから——陰山には消えてほしくないし、中途半端にもなってほしくない」
 私は少し驚いて、真白くんの横顔を見た。
「それは——監視者として?」
「……そうだ」
 一瞬の間があった。
 川の水音が、静かに続いている。夕日が水面を赤く染めていた。
「真白くんは、私のことを三年間見ていたんですよね」
「ああ」
「その間、話しかけたいと思ったことは?」
 真白くんはしばらく黙っていた。
「あった」
「なんで話しかけなかったんですか」
「それが仕事じゃないから」
「でも今は話しかけてる」
「陰山が禁忌を犯したから」
「それだけですか?」
 真白くんは答えなかった。
 川が流れていた。風が吹いた。
「——おかしいな」と真白くんが独り言みたいに、静かに言う。
「監視者が、監視対象に肩入れするなんて」
「でも今はしてるんでしょう?」
「……している、かもしれない」
 それだけだった。でも十分だった。
「ありがとう」
「だから感謝するなと言っている」
「それでも言います」
 真白くんは小さく息を吐いた。呆れているのか、苦笑いに近い何かなのか、よくわからない。
 でも——悪くない空気だった。

 その夜。
 灯さんから電話がかかってきた。夜の十時過ぎ。
「ねえ澪ちゃん」
「はい」
「わたしって、ずっと生きられると思う?」
 突然だった。でも、驚かなかった。灯さんはたまに、こういうことを突然言う。
「どうしてそう思うんですか」
「なんか今日、急に——もし死ぬとしたら、って考えた。怖くなったわけじゃなくて、ただなんとなく」
「……」
「澪ちゃんは怖い? 死ぬこと」
「怖いです」
「何が怖い?」
「誰かに会えなくなること。話せなくなること」
「誰か——って」
「灯さんとか」
「わたし?」
「はい」
 灯さんはしばらく沈黙した。
「わたしもだよ。最近、会いたい人ができたから、死ねないなって思う」
「誰ですか?」
「澪ちゃん」
 一言だった。でも、その一言が今夜一番重かった。
「だからね。もし私が死にそうになったら、また止めてね。先週みたいに」
「止めます」
「約束だよ」
「約束します」
「……よかった」
 灯さんは笑った。電話越しにも、笑っているのがわかった。
「じゃあおやすみ」
「おやすみなさい」
 電話が切れた。
 私はスマホを胸の上に置いて、目を閉じた。
 「止めてね」と灯さんは言った。
 止める。
 そのためには、私が消えちゃいけない。
 でも止めるためには、私の旋律が削れる。
 どちらも諦めない方法が、あるのだろうか。
 考えて——考えて——答えが出ないまま、眠りに落ちた。
 夢の中でも、旋律が聞こえていた。
 灯さんのと、私のと。
 二つの音が重なって、一瞬だけ——とても、きれいなハーモニーを奏でた。

 翌朝。
 真白くんが珍しく、登校してすぐに声をかけてきた。
「今日、放課後に時間はあるか」
「あります。どうして?」
「話したいことがある。重要なことだ」
「重要なこと」
 真白くんはまわりを一瞥して、声をひそめた。
「陰山の能力に関することで——俺が最初から知っていて、まだ言っていないことがある」
 私は少し息を止めた。
「最初から、知っていた?」
「ああ。ただ、言うべきかどうか迷っていた」
「今は言えますか」
「今なら言える。言うべきだと思った」
「何ですか」
 真白くんはまた周囲を見てから、私をまっすぐ見た。
「陰山のその力には——出口がある」
「出口」
「消えずに済む方法、だ」
 心臓が、大きく跳ねた。
「それを、今まで言わなかったんですか」
「言ったら、陰山が日向灯のために全部使い切ろうとすると思った」
「……」
「違う?」
 違わない。たぶん、そうしていた。
「放課後に。全部話す」
 それだけ言って、自分の席に戻っていった。
 私はしばらく、その後ろ姿を見ていた。
 出口がある。
 消えずに済む方法がある。
 じゃあ——灯さんを助けながら、私も消えない方法が?
 授業が始まった。先生の声が、今日はいつもより遠かった。
 でも今日は、遠くてもよかった。
 放課後まで、ちゃんと待っていられる気がした。
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