寿命の旋律が聞こえる私と、残り100日の君

第6エピソード「100日の旋律」

 放課後の旧校舎に、今日は三人いた。
 私と、真白くんと——灯さん。
 灯さんが来たのは、私が呼んだからだ。真白くんに「全部話す」と言われたとき、私は直感した。灯さんも聞くべきだ、と。
 真白くんは灯さんの姿を見て、一瞬だけ表情が変わった。でも何も言わなかった。
 古い廊下に、椅子を三脚並べた。
「真白くんって、転入生の?」
「そう」
「澪ちゃんと仲いいんだ。意外」
「仲良くはない」
 真白くんは否定の力がいつもより弱かった。
 灯さんは私を見て、「仲良いじゃん」と小声で言った。
 私は苦笑いして、「始めてください」と真白くんに言った。

 真白くんはしばらく黙っていた。
 何から話すか、組み立てているように見えた。
「日向灯。陰山からある程度聞いているとは思うが、俺は監視者だ。人間じゃない」
「聞いた」
 灯さんは驚いた様子はなかった。
「信じてる。澪ちゃんが信頼してる人だから」
 真白くんはわずかに間を置いて、続けた。
「陰山は今、死神の力を持って使い続けている。その代償として、陰山の寿命が削れている。それも聞いているな」
「聞いてる」
「そして陰山の力の大部分は——日向、お前のために使われている」
 灯さんの視線が、私に向いた。
「澪ちゃん」
「……はい」
「それって、どういうこと?」
「灯さんの旋律が、最初に会ったとき短かった。それが、一緒にいるうちに伸びてきてる。その分だけ、私の旋律が削れてる」
 灯さんはしばらく、何も言わなかった。
 窓の外で、風が木の葉を揺らす音がした。
「どのくらい削れてるの」
「正確にはわかりません。でも——毎日、少しずつ」
「わたしのせいで」
「灯さんのせいじゃないです。でも——私が選んでやってることだから」
 灯さんは俯いた。長い髪が顔にかかった。私には表情が見えなかった。
「馬鹿じゃないの」
 静かな声だった。怒っているというより——泣きそうな声だった。
「自分の命を削って、人助けして。そんなの」
「灯さんが笑うたびに、旋律が伸びるんです。それを聞くのが——好きだから」
 灯さんは顔を上げなかった。
「出口の話を聞いてください---陰山の力には、正規の出口がある」
 真白くんは静かに話し始めた。
「死神の力を人間が持った場合、二つの終わり方がある。ひとつは、力に飲み込まれて消えること。もうひとつは——試験に合格して、新しい死神候補として認められること」
「試験?」
 灯さんが顔を上げた。
「死神は代替わりをする。力を持った人間が、一定の条件を満たしたとき、正式に死神の側の存在として認められる。その条件を『試験』と呼んでいる」
「条件って何ですか?」
「自分の命を削ってでも、誰かの運命を守り抜くこと」
 静かな廊下に、その言葉が落ちた。
「それだけ?」
「それだけじゃない。守り抜いた後も、守った相手が自分の力で生きることを選ぶこと。つまり——陰山が消えかけても、日向が自分の足で立っていること」
「それが条件?」
「試験の本質は、そこだ。力で無理やり延命させることじゃない。力を使って関係を作り、相手が自分で生きることを選ぶ土台を作ること。そこまでを含めて、試験だ」
 私は真白くんの言葉を、ゆっくり飲み込んだ。
 つまり——今私がやってきたこと全部が、試験だった。
「なぜ最初から言わなかったんですか」
「言ったら、陰山は試験に合格するために動く。そうじゃなくて——ただ日向のために動いてほしかった。その動機が純粋なものでないと、試験にならない」
「それを確かめていたんですか、ずっと」
「監視者の仕事だ」
「……ずるいですね」
「そう思う」
 真白くんは珍しく、素直に言った。
「でも、ルールだから」
 灯さんが私を見た。
「澪ちゃんは——知らないで、わたしのために動いてたの?」
「知りませんでした。でも」
「でも?」
「知っていても、同じことをしてたと思います」
 灯さんは少し泣きそうな顔をして、笑った。泣き笑い、という言葉そのものの顔だった。
「本当に馬鹿だ」
「そうかもしれないです」
「——好き」
 小さく言った。灯さんは窓の外を向いてしまったから、私には横顔しか見えなかった。
 でもその一言が、旧校舎の古い空気の中にしばらく浮かんでいた気がした。

 翌朝から、私は覚悟を決めた。
 試験の条件は、守り抜くこと。そして灯さんが自分の足で立つこと。
 じゃあ私は何をすべきか。
 力で守るだけじゃない。灯さんが自分で生きることを選べるように——灯さん自身の「生きたい理由」を育てること。
 そんなこと、今まで無意識にやっていた。
 屋上での昼食。喫茶店での会話。夜中の電話。
 ただ一緒にいただけだ。それだけだ。
 でもその積み重ねが——灯さんの旋律を30日以上伸ばしていた。
 残り100日まで、来てしまっていたのに。
 気づいたら、残り130日を超えていた。

 梅雨が来た。
 六月の中旬、雨が続く一週間。
 灯さんは「雨の日、嫌いじゃないんだよね」と言っていた。「音がするから」と。
 私はその言葉を聞いたとき、じんとした。
 音が好き。
 灯さんは音が好きだと言う。私は音を聴き続けている。
「どんな音が好きですか」
「雨の音と、遠くの電車の音と——あと」
 灯さんは少し考えた。
「澪ちゃんが話してるときの声」
「私の?」
「うん。なんか、落ち着く音なんだよね。低くもないし高くもないし、一定で」
「それは——」
「澪ちゃんの声を聞いてると、自分がちゃんとここにいるって感じがするの。不思議でしょ」
 不思議じゃない、と私は思った。
 灯さんの旋律が、私に聞こえるように——もしかしたら灯さんにも、私の音が、何かの形で届いているのかもしれない。
「灯さんの声も、好きですよ」
「どんなふうに好き?」
「笑うときの声が、特に。音がきれいになるから」
「また音の話だ」灯さんは笑った。
「でも嬉しい」
 その日の旋律は、今まで聞いたなかで一番安定していた。

 六月の末。
 灯さんの旋律が、急に揺れ始めた。
 朝、学校に着いた瞬間に気づいた。昨日まで安定していた音が、また揺れている。カウントダウンではなかった。でも、最初に会ったときのような——ろうそくの炎が大きく揺れる感じ。
 何かあったのか。
 昼休み、屋上に行くと灯さんはいた。でも今日は弁当を開かないで、フェンスにもたれてぼんやりしていた。
「灯さん」
「あ、澪ちゃん」
「どうかしましたか」
 灯さんはしばらく黙っていた。
「ちょっとね。昨日、お父さんと喧嘩して」
「……そうなんですか」
「進路のこと。わたし、音大に行きたいんだけど、反対されてて」
 初めて聞いた話だった。
「音大?」
「うん。ピアノ、ずっとやってて。音楽の先生になりたいんだよね。でもお父さんが、そんな仕事で食えるわけないって」
「……いつから、ピアノを?」
「小学生から。大好きなんだけどな」
灯さんは遠くを見ていた。
「なんか昨日ね、もう諦めようかなって思った。喧嘩して、うまくいかなくて、疲れて」
「諦めないでください」
 思ったより強い声が出た。
 灯さんが驚いてこちらを見た。
「なんで澪ちゃんがそんなに力強いの」
「灯さんが音楽を好きなのが、聞こえてくる気がするから。その話をするときの声が、他の話をするときと全然違う。楽しそうな音がする」
「澪ちゃんには、全部音に聞こえるんだね」
「聞こえます。だから——諦めないでほしい」
 灯さんはしばらく、私を見ていた。
「説得するの? お父さんを」
「灯さんが諦めなければ、伝わると思います。時間はかかるかもしれないけど」
「そんなに簡単じゃないよ」
「簡単だとは思ってないです」
 灯さんは少し笑った。
「澪ちゃんって、きれいごとを言わないね」
「言えないです」
「でも応援してくれてる」
「してます」
 灯さんは空を見上げた。梅雨の空は灰色で、低く垂れ込めていた。でも灯さんの顔は、さっきよりずっと明るかった。
「やっぱりわたし、諦めたくないな」
 旋律が、安定した。
 揺れていた炎が、ゆっくり静まっていく。
 私はその音を聞きながら、ここだ、と思った。
 これが試験の本質だ、と。
 力じゃない。
 言葉と、時間と、一緒にいることが——灯さんを生かしている。

 七月の最初の週。
 残り10日、という感覚がした。
 旋律の感覚として——ではなく、直感として。何かが変わろうとしている予感。
 真白くんも感じていたようで、その日の朝「今週、気をつけろ」とだけ言った。
「何があるんですか」
「わからない。ただ——何かある」
「旋律が変わってますか、灯さんの」
「変わっていない。でも——変わろうとしている気配がある」
「良い方向に?」
「それもわからない」
「不親切ですね」
「俺にわかることしか言えない」
「それはそうですね」
 真白くんは少し間を置いた。
「陰山の旋律も——変化している」
「削れてますか」
「削れてもいるが——別の変化だ」
「別の?」
「強くなっている。音が」
 私は思わず、自分の旋律に耳を澄ました。
 確かに——何かが違う気がした。短くなっているのは変わらない。でも音の質が、少し、変わっている気がした。細くなりながらも、芯が通っているような。
「それは、良いことですか」
「さあ。でも——嫌いじゃない音だ」

 その週の木曜日。
 灯さんから、昼休みに「今日の放課後、つきあってほしい場所がある」と言われた。
 放課後、連れて行かれたのは、駅から二十分ほど歩いた場所にある小さなホールだった。月に一度、地元の音楽家がコンサートをやっているらしい。
「今日、知り合いが弾くんだよ。ピアノ。聴きにきたかったの」
 ホールは百人も入れないくらいの広さだった。木の椅子が並んでいて、ステージにグランドピアノが一台。
「澪ちゃんは、ピアノの音、好き?」
「聴いたことがあまりないですけど」
「そっか。じゃあ今日聴いてみて」
 コンサートが始まった。
 二十代の若い女性がステージに出てきて、椅子に座って、ピアノを弾き始めた。
 聞こえた。
 私は、最初の数秒で息を止めた。
 音楽が聞こえた、という意味じゃない。
 ピアノの音の中に——旋律が混じって聞こえた。演奏者の旋律ではなく、もっと別の何か。音楽そのものから、何かが聞こえてくる感じ。
 生きていることの音みたいな。
 誰かがここにいたという証明みたいな音が、ピアノの音と一緒に、ホール中に広がっていた。
 隣を見ると、灯さんが目を閉じて聴いていた。
 その顔が——今まで見た中で、一番穏やかだった。
 ろうそくの炎じゃなかった。
 もっと安定した、確かな光。
 灯さんの旋律を聞いた。
 長かった。
 最初の100日から比べると、信じられないくらい長くなっていた。
 正確な日数はわからない。でも——少なくとも、半年以上はある感覚だった。
「灯さん」
 コンサートの途中だったけど、小さく囁いた。
 灯さんが目を開けた。
「何?」
「音楽の先生に、なってください」
 灯さんはしばらく私を見ていた。それから——また目を閉じて、「うん」とだけ言った。
 たった一音だったけど、揺れがなかった。
 決めた、という音だった。

 その夜だった。
 自分の部屋に帰って、ベッドに横になったとき——聞こえた。
 自分の旋律が、急に変わる感覚。
 真白くんが言っていた、強くなっている、という変化。それが今夜、急激に進んでいる気がした。
 同時に——削れていく感覚もあった。
 急激に。
 今まで感じたことがない速さで。
「——っ」
 息が苦しくなった。
 痛いわけじゃない。でも体が重くなって、目眩みたいな感覚がした。
 これが——消えかける、ということか。
 怖いとは思わなかった。
 ただ——まだ話したいことがある、と思った。灯さんに。真白くんにも。
「まだ早い」
 声に出した。誰に言っているのか自分でもわからなかったけど。
「まだ、終わりたくない」
 旋律が揺れた。私の旋律が、大きく揺れた。
 そのとき——
 窓の外から、何かが聞こえた。
 音楽だった。
 ピアノの音。
 今夜のコンサートの、あの音と同じ——生きていることの音。
 幻聴かもしれない。でも確かに聞こえた。
 私は目を閉じた。
 旋律が揺れながら、でも消えないまま、続いていた。

 翌朝。
 登校すると、真白くんが待っていた。校門の前で。
「昨日、何があった」
「削れました。急に」
「見えた。かなり変化した」
「消えそうでしたか」
「消えかけた。でも消えなかった」
「なんで」
「わからない」
「本当に?」
 真白くんは少し間を置いた。
「陰山の旋律が——踏みとどまった。自分で」
「私が?」
「まだ終わりたくない、って思っただろ」
「……思いました」
「それだ。試験の条件に、もうひとつあった。言っていなかったことがある」
「何ですか?」
「守った相手が自分で立つこと——だけじゃなくて、陰山自身が、自分の旋律を手放さないこと」
「私が手放さない?」
「力を持って使い続けた人間が試験に合格するには、最後に——自分の旋律を自分で守る必要がある。誰かのためだけじゃなく、自分のために、消えたくないと思うこと」
「それを確認していたんですか」
「ああ」
「また黙ってた」
「言ったら作為的になる」
「ずるい」
「そう思う」
 真白は素直に言う。
「試験は——」
「終わりだ」
 真白くんの声が変わった。いつもより、低く、静かで——でも確かな声。
「陰山澪。お前は試験に合格した」
 朝の光の中で、その言葉が降ってきた。
「お前は——新しい死神候補として、認められた」

 何も変わらなかった。
 外見も、教室も、制服も。
 でも——旋律の聞こえ方が変わった。
 今まで削れていた自分の旋律が、ゆっくりと——回復し始めた。
 完全じゃない。でも確かに、音が戻ってくる。
 削れた分が全部戻るわけじゃないかもしれない。でも消えない。消えかけながらも踏みとどまった旋律が、今は静かに、でも確かに、続いていた。
「死神候補って、どういうことですか?」
「しばらくは人間として生きる。でも、旋律はもう削れない。代わりに——能力が残る。旋律が聞こえ続ける。それだけは変わらない」
「ずっと聞こえ続けるんですか」
「ずっと」
「……それは」
「嫌か?」
 少し考えた。
「いいえ」
「なんで」
「聞こえた方が、助けられることがあるから」
 真白くんは私をしばらく見ていた。それから——笑った。
 初めて見た、真白くんの笑顔だった。
 小さくて、ぎこちなくて、でも本物の笑顔。
「お前は本当に――真っ直ぐだな」
「よく言われます」
「嫌いじゃない」
「知ってます」

 その日の昼休み。
 灯さんは屋上で待っていた。
 私が扉を開けると、振り返って笑った。今日の灯さんの笑顔は、いつもより眩しかった。
「昨日のコンサート、良かったね」
「良かったです」
「澪ちゃん、泣きそうな顔してたよ」
「してません」
「してた。目が赤かった」
「……していたかもしれないです」
 灯さんはおかしそうに笑って、フェンスの前に並んで立った。夏の空は高くて青かった。
「ねえ澪ちゃん」
「はい」
「最近さ、澪ちゃんの音が変わった気がするんだけど」
「音?」
「声じゃなくて——なんか、存在の感じ、みたいな? うまく言えないけど。前より、ちゃんとそこにいる感じがする」
 私は少し驚いた。
 灯さんには、聞こえているのかもしれない。旋律じゃないけど——何かが。
「そうですか?」
「うん。前はなんか、薄い感じがして——消えそうで心配だった」
「消えそう、でしたか」
「うん。でも今は全然違う。ちゃんといる」
「ちゃんといます」
「良かった」
 灯さんは空を見た。 
「わたしね、進路のこと、ちゃんと話し合ってみる。お父さんと。諦めないで」
「良かった」
「澪ちゃんが言ってくれたから。きれいごとじゃなく言ってくれたから」
「灯さんが決めたんですよ」
「半分はわたし、半分は澪ちゃん」
 灯さんは私の方を向いた。
「ねえ、あなたの音、すごくきれいだよ」
 その言葉が——一番響いた。
 きれいだよ、と言ってくれた人は、今まで一人もいなかった。
 能力を持ってから三年間。旋律を聞き続けてきた。誰かに教えることもできないまま、一人で抱えてきた。
 その音が、きれい、と言われた。
「……ありがとうございます」
「お礼言われるようなことじゃないけど」
「それでも」
「じゃあどういたしまして」
 灯さんは笑って、また空を見た。
「ずっと友達でいようね、澪ちゃん」
「います」
「ずっと?」
「ずっと」
 旋律が聞こえた。
 灯さんのが——とても長く、安定して、続いていた。
 私のが——削れた跡はあるけれど、確かに続いていた。
 二つの旋律が並んで、夏の空の下に流れていった。
 重なったとき——また、あのハーモニーが聞こえた気がした。
 夢で聴いた、あの音。
 きれいだった。
 今まで聞いた旋律の中で、一番きれいだった。

 帰り道、真白くんと三人で並んで歩いた。
 灯さんが真白くんに「謎な人だと思ってたけど、謎なままだね」と言って、真白くんが「謎でいい」と言った。灯さんが「ひどい」と笑った。
 私はその横で、二人の旋律を聞いていた。
 灯さんの。真白くんの——無音。
 無音もまた、音楽の一部だ、と私は初めて思った。
 音がない場所があるから、音がある場所が際立つ。
 真白くんの静寂は——旋律を持つすべての人を引き立てる、沈黙の音楽なのかもしれない。
「何笑ってんの?」
 灯さんが聞く。
「笑ってましたか」
「ほんのちょっとね。でも笑ってた」
「いい音がしたから」
「また音の話だ」
 灯さんは笑って、私の腕を軽く叩いた。
 夕日が、三人の影を長く伸ばしていた。
 私たちは川沿いの道を歩いていた。
 三年前、光が沈んだ川。
 今は静かに流れているだけの、ただの川。
 でもここから始まった。全部、ここから。
 旋律は続いている。
 削れた跡を持ちながら、それでも続いている。
 灯さんの旋律が、夕風に乗って流れていった。
 長く、穏やかに、どこまでも。

 この物語に、終わりはまだない。
 旋律は続いていく。
 私たちの新しい時間へ——。

 灯の旋律は、まだ続いていた。

                                   了
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