紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
紅の月と落ちてきた少女⑥(アレク視点)
流れゆく雲の隙間から姿を見せた丸々と肥えた紅い月の輪郭が、瞬きをする間もないほどの速さで、見る見るうちに細くなってゆき、やがて月は輪郭さえも失い、墨で塗り潰したかのように、完全に夜闇に飲み込まれてしまう。
「何だ、これは……」
乾ききったアレクシオの声が、夜の闇に静かに消えてゆく。
アレクシオが目にした光景は正しく一年前に見た古惚けた羊皮紙に描かれていた絵画そのものだ。
これまで様々な修羅場を幾度となく切り抜けてきたアレクシオだが、生まれて初めて目の当たりにする月の姿にさすがに驚きを隠せない。
だがしかし異変はそれだけに留まることはなかった。
目を瞠って月が消えた空を凝視するアレクシオの前で、月は更なる変化を見せたのだ。
先ほどまで月が懸かっていた辺りを、仄かに輝る綿毛のようなものが、ふわり、ふわり、と無数に舞う。
初冬に降り積もる淡雪のように、くるくると宙を踊っていた光の群れが、夜空に瞬く銀色の星と交じりあい、一つに溶けあったと思った次の瞬間、一度は消えたはずの月がふたたびその姿を現したのだ。
禍々しい紅に染まる以前の、白みを帯びた淡い黄金に輝く月が。
「な……っ、いったい何がどうなっているんだ!?」
目の前で目まぐるしく変化する月の異変に思考が追いつかず、茫然と上空を見上げていたアレクシオだったが、けれどその直後、淡い黄金色の光に包まれて、ふわり、ふわりと舞い落ちてくる人影のようなものを視界の隅に捉え、掴んでいた愛馬の轡から手を離すと、アレクシオはゆっくりと落ちてくる人影に向かって両腕を伸ばした。
淡い光に包まれた小さな人影は、まるでそこにアレクシオがいることを知っているかのように、両腕を伸ばして待ち構えるアレクシオに向かって落ちてゆく。
ぽすり、と収まるように自分の腕の中に落ちてきたそれを見下ろして、アレクシオは思わず、ぱちくりと目を瞬かせた。
アレクシオの腕の中にいたのは、すうすうと寝息を立てて眠る、あどけない少女だ。
おそらく、十四、五歳くらいだろうと思われる彼女が身に纏っている服は、セラフィリアでは見たことがない摩訶不思議な作りをしたものだ。
薄い睫毛と瞼の下に隠れていて瞳の色は確認できないが、彼女の小さな肩にかかる柔らかそうな髪は淡い栗色をしていて馬の尻尾のようだ。
(いやいやいやいやいや、ちょっと待て)
珍獣を見るがごとく、腕の中で眠る少女をしげしげと眺めやり、あれこれと観察していたアレクシオは暢気に観察をしている場合ではない、と我に戻り、片膝を折ってしゃがみ込むと、寝息を立てて眠る少女を柔らかい草の上にそっと降ろした。
「おい、起きろ」
気持ちよさそうに眠っている少女を起こすことに少々気が引けたが、このままではどうにもならない。
彼女から話を聞かねば、と思い、ぷにぷにとした柔らかそうな頬を手の甲で軽く叩きながら、栗色の髪の合間から覗く耳元で呼びかけてみるものの、彼女の瞼は固く閉ざされたまま、ぴくり、とも動かない。
(死んでいる……のか? いやでも寝息を立てているのだから、それはないな)
いつもは冷静なアレクシオだが、立て続けに非現実的なことが起こりすぎて、思考回路がうまく働かず、処理が追いつかない。
そんなアレクシオを不憫に思ったのか。
ぶるるるるっ、と鼻を鳴らしたグラナートが長い鼻の先で少女の身体をつんと突っつくが、それでも彼女が起きる気配はまったくない。
それどころか、眠ったままのその姿勢で口元を緩ませると、にへら、と笑って見せたのである。
その様子を目の当たりにし、アレクシオはがっくりと項垂れた。
「……こいつが世の中に災いを呼ぶ“異端者”? 嘘だろ、こんなのが“異端者”なわけがない」
そう呟いたものの、月が従来の色を取り戻したこと以外を除けば、自分の身に起きたこと・目にした光景は絶対に当たるわけがない、と見下していた預言書に描かれていたあの五つの絵画をそっくりそのまま寸分違わず再現したものだ。
確固たるものがない預言など下らないと馬鹿にしていたが、その正確性を身を以って実感してしまった今となっては、自分の腕の中に落ちてきた少女が“異端者”ではないとは言い切れない。
アレクシオに下された命は“異端者”を抹殺することだ。
絶対的存在である国王陛下が下した命に背くなど、命を投げ捨てることに等しいあるまじき行為であり、ましてやアリルア国第一騎士団の師団長であるアレクシオがそうすることなど許されることではない。
「――――……っ、」
腰に携えた己の剣へと手を伸ばしたアレクシオだったが、その指が柄に触れる寸前、剣を掴もうとしたその動きを止めると、アレクシオは苛立たしげに額にかかった髪を鷲掴みした。
「――……っ、くそ……っ、」
“異端者”が良心の呵責さえも感じないほど残酷無比な人間だったらどんなに良かっただろうか。
“異端者”が情けすら覚えないほど極悪非道な魔物だったらどれほど良かっただろうか。
だが目の前に現れた“異端者”は年端もいかない少女だ。
この世界では見たこともない少し風変わりな服を着ているということ以外は、街で行き違う年頃の娘たちと何ら変わりない。
何の罪もないであろう彼女の命を摘み取ることなど、たとえそれが国王陛下の命令であっても、無情にはなり切れないアレクシオに到底できることではない。
額にかかった髪を鷲摑みしたまま、鬱血するくらい唇をきつく噛み締め、苦悶に喘いでいたアレクシオだったが、やがて強く閉ざしていた瞼をゆっくりと見開くと、くーか、くーか、と暢気に寝息を立てて眠る少女へと視線を落とした。
夢を見ているのか、時折、その口元をもごもごと動かし、何やらまじないのようなことを呟いているが、何を言っているのかまでは聞き取れない。
アレクシオの苦悶など知る由もない少女を見下ろしつつ、はあ、と力なく息を漏らしたアレクシオは眠る彼女の身体をふたたび腕の中に抱きかかえた。
「全く……何で俺がこんな面倒なことに巻き込まれなければいけないんだ」
もう何度口にしたか分からないそれをぽつりと落として、少女を腕に抱きかかえたまま、ゆっくりと立ち上がったアレクシオは、つい、と頭上に広がる空を見上げた。
淡い黄金色だったはずの月はいつの間にか、見慣れた禍々しい紅へと戻っている。
今宵、自分の身に起きたことを考えれば、彼女は間違いなく“異端者”だろう。
だがしかし預言を鵜呑みにして、主が下した命に従い、彼女を殺すなんてことはできない。
(それならば――――……)
見上げていた月から視線を逸らし、もう一度、腕の中で眠る少女を見下ろす。
「お前がどういった人間か分からない。だから今すぐに命を奪うようなことはしない。だがお前という人間を知り、お前がこの世に災いを齎し、破滅へと導くような存在であったならば、その時は迷いなく、俺はお前を切り捨てるだろう」
揺るがない決意を秘めたアレクシオのその呟きが少女の耳に届くことはなかった。
「何だ、これは……」
乾ききったアレクシオの声が、夜の闇に静かに消えてゆく。
アレクシオが目にした光景は正しく一年前に見た古惚けた羊皮紙に描かれていた絵画そのものだ。
これまで様々な修羅場を幾度となく切り抜けてきたアレクシオだが、生まれて初めて目の当たりにする月の姿にさすがに驚きを隠せない。
だがしかし異変はそれだけに留まることはなかった。
目を瞠って月が消えた空を凝視するアレクシオの前で、月は更なる変化を見せたのだ。
先ほどまで月が懸かっていた辺りを、仄かに輝る綿毛のようなものが、ふわり、ふわり、と無数に舞う。
初冬に降り積もる淡雪のように、くるくると宙を踊っていた光の群れが、夜空に瞬く銀色の星と交じりあい、一つに溶けあったと思った次の瞬間、一度は消えたはずの月がふたたびその姿を現したのだ。
禍々しい紅に染まる以前の、白みを帯びた淡い黄金に輝く月が。
「な……っ、いったい何がどうなっているんだ!?」
目の前で目まぐるしく変化する月の異変に思考が追いつかず、茫然と上空を見上げていたアレクシオだったが、けれどその直後、淡い黄金色の光に包まれて、ふわり、ふわりと舞い落ちてくる人影のようなものを視界の隅に捉え、掴んでいた愛馬の轡から手を離すと、アレクシオはゆっくりと落ちてくる人影に向かって両腕を伸ばした。
淡い光に包まれた小さな人影は、まるでそこにアレクシオがいることを知っているかのように、両腕を伸ばして待ち構えるアレクシオに向かって落ちてゆく。
ぽすり、と収まるように自分の腕の中に落ちてきたそれを見下ろして、アレクシオは思わず、ぱちくりと目を瞬かせた。
アレクシオの腕の中にいたのは、すうすうと寝息を立てて眠る、あどけない少女だ。
おそらく、十四、五歳くらいだろうと思われる彼女が身に纏っている服は、セラフィリアでは見たことがない摩訶不思議な作りをしたものだ。
薄い睫毛と瞼の下に隠れていて瞳の色は確認できないが、彼女の小さな肩にかかる柔らかそうな髪は淡い栗色をしていて馬の尻尾のようだ。
(いやいやいやいやいや、ちょっと待て)
珍獣を見るがごとく、腕の中で眠る少女をしげしげと眺めやり、あれこれと観察していたアレクシオは暢気に観察をしている場合ではない、と我に戻り、片膝を折ってしゃがみ込むと、寝息を立てて眠る少女を柔らかい草の上にそっと降ろした。
「おい、起きろ」
気持ちよさそうに眠っている少女を起こすことに少々気が引けたが、このままではどうにもならない。
彼女から話を聞かねば、と思い、ぷにぷにとした柔らかそうな頬を手の甲で軽く叩きながら、栗色の髪の合間から覗く耳元で呼びかけてみるものの、彼女の瞼は固く閉ざされたまま、ぴくり、とも動かない。
(死んでいる……のか? いやでも寝息を立てているのだから、それはないな)
いつもは冷静なアレクシオだが、立て続けに非現実的なことが起こりすぎて、思考回路がうまく働かず、処理が追いつかない。
そんなアレクシオを不憫に思ったのか。
ぶるるるるっ、と鼻を鳴らしたグラナートが長い鼻の先で少女の身体をつんと突っつくが、それでも彼女が起きる気配はまったくない。
それどころか、眠ったままのその姿勢で口元を緩ませると、にへら、と笑って見せたのである。
その様子を目の当たりにし、アレクシオはがっくりと項垂れた。
「……こいつが世の中に災いを呼ぶ“異端者”? 嘘だろ、こんなのが“異端者”なわけがない」
そう呟いたものの、月が従来の色を取り戻したこと以外を除けば、自分の身に起きたこと・目にした光景は絶対に当たるわけがない、と見下していた預言書に描かれていたあの五つの絵画をそっくりそのまま寸分違わず再現したものだ。
確固たるものがない預言など下らないと馬鹿にしていたが、その正確性を身を以って実感してしまった今となっては、自分の腕の中に落ちてきた少女が“異端者”ではないとは言い切れない。
アレクシオに下された命は“異端者”を抹殺することだ。
絶対的存在である国王陛下が下した命に背くなど、命を投げ捨てることに等しいあるまじき行為であり、ましてやアリルア国第一騎士団の師団長であるアレクシオがそうすることなど許されることではない。
「――――……っ、」
腰に携えた己の剣へと手を伸ばしたアレクシオだったが、その指が柄に触れる寸前、剣を掴もうとしたその動きを止めると、アレクシオは苛立たしげに額にかかった髪を鷲掴みした。
「――……っ、くそ……っ、」
“異端者”が良心の呵責さえも感じないほど残酷無比な人間だったらどんなに良かっただろうか。
“異端者”が情けすら覚えないほど極悪非道な魔物だったらどれほど良かっただろうか。
だが目の前に現れた“異端者”は年端もいかない少女だ。
この世界では見たこともない少し風変わりな服を着ているということ以外は、街で行き違う年頃の娘たちと何ら変わりない。
何の罪もないであろう彼女の命を摘み取ることなど、たとえそれが国王陛下の命令であっても、無情にはなり切れないアレクシオに到底できることではない。
額にかかった髪を鷲摑みしたまま、鬱血するくらい唇をきつく噛み締め、苦悶に喘いでいたアレクシオだったが、やがて強く閉ざしていた瞼をゆっくりと見開くと、くーか、くーか、と暢気に寝息を立てて眠る少女へと視線を落とした。
夢を見ているのか、時折、その口元をもごもごと動かし、何やらまじないのようなことを呟いているが、何を言っているのかまでは聞き取れない。
アレクシオの苦悶など知る由もない少女を見下ろしつつ、はあ、と力なく息を漏らしたアレクシオは眠る彼女の身体をふたたび腕の中に抱きかかえた。
「全く……何で俺がこんな面倒なことに巻き込まれなければいけないんだ」
もう何度口にしたか分からないそれをぽつりと落として、少女を腕に抱きかかえたまま、ゆっくりと立ち上がったアレクシオは、つい、と頭上に広がる空を見上げた。
淡い黄金色だったはずの月はいつの間にか、見慣れた禍々しい紅へと戻っている。
今宵、自分の身に起きたことを考えれば、彼女は間違いなく“異端者”だろう。
だがしかし預言を鵜呑みにして、主が下した命に従い、彼女を殺すなんてことはできない。
(それならば――――……)
見上げていた月から視線を逸らし、もう一度、腕の中で眠る少女を見下ろす。
「お前がどういった人間か分からない。だから今すぐに命を奪うようなことはしない。だがお前という人間を知り、お前がこの世に災いを齎し、破滅へと導くような存在であったならば、その時は迷いなく、俺はお前を切り捨てるだろう」
揺るがない決意を秘めたアレクシオのその呟きが少女の耳に届くことはなかった。