紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~

追い詰められた少女の選択肢③

 どれくらい歩き続けただろうか。
 軽く二時間以上は歩いているはずなのだけれど……とそんなことを思いつつ、暗がりの中、松明の灯りを頼りに、周囲を見渡していた彼女は、十メートルも離れないところから、白く(くゆ)る煙のようなものが、立ち上がっているのに気づき、ふと立ち止まった。

(――……あれは何かしら?)

 不用意に近づくのは危険だと思い、立ち止まったまま、様子を探る。
 誰かが潜んでいるのかと警戒したが、特に人がいるような気配はない。
 しばらくの間、様子を覗っていた彼女はやがて危険はなさそうだと判断すると、煙らしきものが見えた辺りまで移動し、傍に生えていた灌木を掻き分け、隙間からそうっと向こう側を覗き込んでみた。

 そこにはちょうど大人一人が横になれそうな空間があり、ご丁寧に焚き火までもが用意されている。
 どこかで拾ってきたのであろう石を積み上げて作られた簡易な焚き火には、まだ火が残っており、ぷすぷすと鈍い音を立てながら、細い煙を燻らせている。
 その様子を何となしに眺めていた彼女は我に返ると、慌ててしゃがみ込み、辺りに落ちている葉っぱを手当り次第、掻き集め始めた。

 火種が切れてしまわぬよう、残り火の上に掻き集めた落ち葉を慎重に乗せ、松明の炎で火を(とも)す。
 今にも消えそうなくらい小さかった火が、ふたたび燃え出したのを確認して、今度は木の切れ端を集め、火の中に投げ入れる。
 太さも長さも疎らな切れ端に火種が移ったのを見届け、最後の仕上げとばかり、彼女は切れ端の上に落ち葉を更に積み重ねた。

 ぼっと音を立てて、炎が大きく立ち上がる。
 激しく燃え始めた焚き火を見下ろしながら、ふうっ、と小さく息を溢すと、彼女はもう一度、今度は慎重に辺りを見渡した。

 つい先ほどまで誰かがいたのは確かなようだ。
 焚き火が完全に消えていなかったことを考えれば、ここを利用していた誰かが戻ってくる可能性は捨て切れない。もっと大袈裟に言ってしまえば、鴨を誘い出すために仕掛けられた巧妙な罠かもしれないのだ。
 気を緩めたところに襲撃でもされたら、それこそ命取りになってしまう。
 そんなことを思いつつ、じっと息を潜めて、辺りを注意深く観察していたが、誰かが戻ってくる様子もなければ、誰かが襲ってくるような気配も感じられない。

(……どうやら取り越し苦労だったようね)

 ほう、と小さく安堵の息を吐き、焚き火の傍に腰を下ろす。
 途端に溜まりに溜まっていた疲れが、どっと押し寄せてきた。
 ここに辿り着くまでの間、ほとんど休憩も取らず、ずっと歩き続けたのだから、疲れていて当然だ。

 焚き火の前に足を投げ出し、疲労のせいで少し浮腫(むく)んでいる脹脛(ふくらはぎ)を揉み解しながら、頭上に広がる星空を、つい、と仰ぐ。
 数え切れないほどの星が瞬く夜空のど真ん中に鎮座している一際明るい星を見つけ出し、シグルスの位置がほとんど変っていないのを確かめ、進んでいる方角が合っていることを認識して胸を撫で下ろす。

 恒例になりつつある夜空の観察を済ませ、肩から斜めに提げていた荷物を膝の上に載せ、固く縛っていた紐を解いて、あれでもないこれでもない、と袋の中を物色していた彼女は、やがて掌に乗るくらいの大きさの瓶を中から取り出した。

 彼女が取り出したのは聖水と呼ばれるものだ。
 屋外で一夜を明かすことがあるかもしれない、と万が一の事態に備え、知り合いの術師に依頼して作ってもらったのだが、まさかこれを使うことになろうとは思いも寄らなかった。
 掌にちょこんと納まっている瓶を焚き火の灯りに翳して、ゆらゆらと小さく揺れる中身をじっと見つめる。

 見た目はごくごく普通の水にしか見えないそれには高度な魔法が施されており、知り合いの術師曰く、天幕の周囲に振り撒いておけば、特殊な効果を持つ結界が張り巡らされ、ほとんどの魔物は近寄れないのだそうだ。

 知り合いの術師が差し出したものでなければ、眉唾ものの怪しげな道具にしか思えないが、こんな機会でもなければ、使うことはないだろうし、効果のほどは、さておき冒険者にとって、ものすごくありがたいであろう聖水を撒いた! という実績を残すだけでも、気休め程度には安心できるかもしれない。
 そんな淡い期待を抱きつつ、瓶の中の水――……否、聖水を辺りに振り撒く。

(……本当にこんなので魔物を追い払えるのかしら?)

 空っぽになった瓶を眺めやりながら、ふとそんなことを思う。
 何だかあまりにも簡単すぎて、逆にその信憑性を疑ってしまうが、一応、魔物対策はできたし、焚き火を絶やさなければ、獣が襲ってくる恐れも、ほぼないだろう。
 寧ろ、追跡者や山賊に対しての備えが、肌身離さず持ち歩いている小ぶりの片手剣だけ――……というのが一番の気懸かりだ。
 剣術の基礎となる動きは頭の中にしっかりと叩き入れてるし、魔法の詠唱だって繰り返し何度も練習を重ねているが、いざという時に果たして冷静に対処できるのだろうか――……と考えると、圧倒的に実戦が不足しているがゆえ、自信だってないし、不安は募る一方だ。
 けれど、ここまで来てしまった以上、後戻りをするという選択肢なんてありえないし、そんなこと考えたくもない。

 ――……となれば前に進むより他ないのだ。

 とにかくできることは何でもやるしかない。
 改めてそう決意したものの、休憩らしい休憩を取ることもなく、不慣れな夜の森の中を四時間近くも歩き続け、今や疲れはピークに達している。むろん、全く体力がないというわけではない。多少無理をすれば歩くことはできるだろう。
 けれどこうして腰を落ち着けてしまったことで気は緩んでしまっているし、疲れを押し切って歩いたとしても、先ほどまでと同じペースを保つのは難しいだろう。それに万が一にでも、何らかのトラブルに遭遇した時に疲弊した身体で立ち回れるのか、と考えたら、それも難しそうだ。

 あくまで予測にしか過ぎないが、これまで歩いてきた時間とペースから計算して、おそらく国境までそう遠くは離れていないだろう。目算が合っていれば、どんなにゆっくり歩いたとしても、ここから国境まで二時間もかからないはずだ。
 夜が明けるまであと三時間近くあるのだとすれば、時間的には十分余裕はある。
 先を急ぎたいと思う気持ちもあるが、色々な事情を統合して考えてみても、やはりここで休憩を取るのが賢明だろう。
 それは単なる甘えにしか過ぎないと言われれば、それまでなのだが。

(少しだけ――……少しだけ休もう)

 そんなことを思いつつ、荷物の中から薄手の掛け布を引っ張り出す。
 仮眠することがあれば使おうと思い、準備してきたものだ。
 柔らかい素材で仕立てられた毛織りの掛け布を羽織り、くるり、と包まる。
 さすがに身体を横たえて眠るのは危険だと判断し、彼女はすぐ傍に根を張る大樹の幹に背中を預けた。

 ぱちぱちと爆ぜる焚火の()が鼓膜に心地良く響く。
 芯から冷え切っていた身体が温まってゆくにつれ、次第に意識が微睡(まどろ)んでゆく。

 よほど疲れていたのだろう。

 大樹の幹に背中を預けてから五分も経たないうち、彼女の意識は完全に眠りの世界へと引き込まれた。


 ***


 チチチチチ、と夜が明けたことを告げに来た小鳥たちの賑やかな(さえず)りが、どこからともなく聞こえてくる。

(――……鳥の……鳴き、声?)

 早朝にしか鳴かないはずの小鳥たちの声が、鼓膜を揺らしたことに疑問を抱きつつ、とろとろとした心地好い微睡みから、すぐには抜け出せず、掛け布に包まり直そうとして直後、小鳥の囀りが聞こえたことの重大さに気づき、掛け布を撥ね退けるようにして勢いよく起き上がると、彼女は慌てて辺りの様子を見渡した。

 眠りに就く前、数え切れないほどの星が瞬いていた空は、東の端から薄っすらと白みを帯び始め、方角を確認するため、何度となく眺めていたシグルスは、いまや空のどこにも見つけることができない。
 また覆い茂る木々や灌木の輪郭が、辛うじて確認できるかできないかほど暗かった森は、その様子を一変させ、折り重なり合う枝葉の隙間から、舞い落ちてくる朝陽の(あわ)色の粒が、辺り一面を柔らかく包みこんでいる。
 何気なしに焚き火の方へ視線を向ければ、火はすっかり立ち消え、燃え尽き損ねた枝の切れ端が僅かに残っているだけだ。

「え? うそ!? なんでっ!?」

 ほんの少しだけ仮眠するつもりだったのが、どうやら大幅に寝過してしまったようだ。
 あまりにもの大失態にパニックに陥り、ついうっかり素っ頓狂な声を上げた彼女に驚き、羽を休めていた小鳥たちが、ばさばさと羽音を立てて、一斉に飛び去ってゆく。

(ああ、どうしよう!)

 綿密に立てた計画では、夜が明ける前に国境を超えるはずだったのだ。
 それが寝過ごしてしまったせいで、大幅にずれ込んでしまっている。
 むろん、問題はそれだけではない。
 幸いにも追跡者たちに見つかることなく、一夜を過ごすことができたが、彼らとて、ただ指を咥えて、待っていたわけではないだろう。
 夜が明けるのを待ち、陽が昇るのと同時に動き出した彼らが、もうすでにこの森にも及んでいて、今頃は血眼になって、亡命を図った自分のことを探しているかもしれないのだ。 

 追跡者たちとて無能ではない。
 逃した獲物を確実に捕らえるため、馬なり、ハーミットなり、何らかの移動手段を使って追ってくるだろう。
 いくら慣れ親しんだ森とはいえ、見つかれば最後、瞬く間に捕えられてしまうであろうことは安易に予測できた。 

「と……とにかく急いで準備しなきゃ……」

 一刻も早くここから離れなければ。
 ひどく混乱する思考の中で、真っ先にそう思った彼女は、畳むのも、もどかしいと言った体で、膝の上の掛け布を引っ掴み、くしゃくしゃなまま、袋の中に乱雑に突っ込むと、荷物の口に紐を巻きつけ、解けないよう固く結び、ほんの少しだけ軽くなった荷物を肩から提げ、立ち上がった。
 焦る気持ちをどうにか落ちつかせ、ずいぶんと明るくなった空を仰ぐ。
 きらきらと煌めく朝陽に目を眇めながら、昇り始めた太陽の位置を確かめると、彼女は急ぎ、国境方面へ向かおうとした。

 その刹那、背後の灌木が、がさり、と大きな音を立てて揺れ動く。
 背後に捉えた人の気配に弾けるように振り返って直後。


「ご機嫌麗しゅう、()()。昨夜はよくお眠りになられたようですね」


 一日の始まりを思わせる冷たい空気に混じって響いたその声に、彼女は、びくり、と肩を大きく震わせた。


「――……ユリ、ウス、」


 大きく目を見開いたまま、一歩も動けないでいる彼女の口から、微かに漏れた声に、ほんの数メートルも離れない場所に立つ男の整った唇が、くっ、と面白そうに歪む。


 彼女の目の前に現れたのは、他でもない彼女が最も苦手とする騎士長官ユリウス――だった。

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