紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
騎士団長の憂鬱(アレク視点)
ざわり、と吹き抜けた強い風に孤児院内の広い庭に植えられた樹々たちが、ざわざわと一斉に枝葉を揺らす。
濃密な青葉の香りとともに鼻先を擦り抜けた風が、僅かに湿り気を含んでいることに気づき、ほんのりとした柑子色と濃い藍色が一つに溶けあう黄昏を見上げれば、強い風に押された雲が空の端へと流されてゆく。
湿り気を帯びた生温い風が示すのは雨だ。
見上げた空からは雨が降りそうな気配など感じないが、あと数時間も経てば、雨が降り出すだろう。
(それにしても――……)
見上げていた黄昏の空から、三階建ての孤児院へと、視線の先を移し、横に長い建物の最上階の一番左端の窓へと視線を向ける。
はたはたと揺れ動くカーテンの隙間から漏れる淡い部屋灯かりを何となしに眺めやりながら、ほんの数分前まで、一緒にいた少女のことを思い出し、アレクシオは何とも言えない複雑な表情を浮かべた。
女というものは、よく喋る生き物だと、以前から認識はしていたが、異世界から来たという不思議な響きの名を持つ彼女は、アレクシオがこれまで出会った誰よりも、一番よく喋る娘だった。
その鳴き声の喧しさから、害鳥に指定されているラズルーカの数倍いやそれ以上に喧しく、それだけでも煩わしいと思うのに、彼女の話はとにかく無駄に長く、アレクシオが予想していた以上に、遥か斜め上をゆく内容だったのだ。
だが会話の内容以前、アレクシオが頭を悩ませたのは、彼女の口から次々と漏れる言葉だった。
耳に入ってくるそれらのほとんどは音としての響きはあれど、まったく意味が解らないものばかりだったのだ。
午後三時の鐘楼の鐘が打ち鳴らされる少し前から始まった事情聴取は、それほど長くかからないだろうと予測していたのだが、彼女があまりにも喋り倒すものだから、アレクシオが彼女の無駄話から解放された時には、陽は西の空へとすっかり沈み、辺りには夜の帳が降り始めていた。
それほど長話をしていたというのに、彼女から得られた情報は、何一つとしてなかった。
いや何もなかったわけではない。
欲しかった情報こそ得ることはできなかったが、それでも三時間近く一緒にいて、あれこれと会話を交わすことで、“異端者”がどういう人間であるか、それだけは何となく掴めたような気がする。
何らかの目論見があって、この世界へ来たわけではないと言った彼女は、それと同時に、この世界に来た理由についても、何も知らないようだった。
意味の分からぬ言葉を並び立て、消去法とやらで自分がこの世界に来た理由をあれこれと推測していたが、彼女の言葉を借りるのであれば、彼女は間違いなく、“異端者”として『月』に召喚されたのは確かだろう。
(そういえば、あいつ、花嫁候補として召喚したんだろう、と何度も言っていたな)
侍女のリリアが用意した焼き菓子にがっつき、頬をパンパンに膨らませていたあの小娘を、花嫁として迎え入れるやつなど、この世にいるものか。
いや、しかし、本当にありえないくらい、喧しい小娘だが、王宮の舞踏会に訪れる澄まし顔の令嬢たちと違って、その行動も、発言も、考え方も、何もかもが規格外で、まるでこの世に一匹しかいない珍獣を見ているようで、あれはあれでなかなか興味深く、面白かったのは確かだ。
少女の奇妙な発言の数々を思い出して苦く笑いながら、アレクシオは風に靡く黒のコートのポケットに手を突っ込むと、彼女が『ケイタイデンワ』と発音していたそれを取り出した。
(――……どうしようもない阿呆のようにみえるが、なかなか頭の切れる賢い娘だったな)
『ケイタイデンワ』というものが、どんなものであるかを問い詰めた時、彼女はアレクシオが一番求めている答えを見抜いたかのように、それの使い方よりも安全性の方を強く訴えていた。
それ以外の会話でも、時折、彼女の芯の強さを思わせる発言であったり、相手を気遣う心優しさも垣間見えた。
共有したのは三時間という、それほど長くはない時間だったが、けれどその間、彼女から邪念や悪意などは一切感じられなかった。
“異端者”がどのような人間かを見極めるために、彼女と話す機会を設けたが、やはりどんなに考えても、彼女がこの世の全てを破壊し尽くす存在だとは思えない。
(それにあの時、彼女が見せた涙は――……)
元の世界に戻れる確証はないと告げた時、涙を溢した彼女の表情は、見ているこちらの方が居た堪れないほど、とても儚く悲愴に満ちていて、気がついたら、涙が溢れる彼女の頬に触れていた。
望んでもいないものを背負わされて、翻弄される彼女がどうしようもなく、不憫に思えて。
「全くどうして俺がこんな面倒なことに巻き込まれなければいけないんだ。“異端者”と知っていて匿ったことが、陛下に知られでもすれば、国外追放どころか命でさえ危ういというのに」
溜め息を吐きながら独りごちて、手に持っていたこの世界には存在しない異質のそれをコートのポケットの中へと戻す。
(それでも――……)
それが絶対的君主である国王陛下の命令であっても、やはり彼女の命を奪うことなどできない。
彼女がどういう人間か、わかった今となっては、なおさらに。
異国から来たという少女の涙の温もりが、まだ残る指先を見下ろしたまま、先行きの見えない今後を思い、アレクシオは額にかかる前髪を引っ掴みようにして頭を抱えこむと、はあ、と、重苦しい溜め息をまた一つ落とした。
濃密な青葉の香りとともに鼻先を擦り抜けた風が、僅かに湿り気を含んでいることに気づき、ほんのりとした柑子色と濃い藍色が一つに溶けあう黄昏を見上げれば、強い風に押された雲が空の端へと流されてゆく。
湿り気を帯びた生温い風が示すのは雨だ。
見上げた空からは雨が降りそうな気配など感じないが、あと数時間も経てば、雨が降り出すだろう。
(それにしても――……)
見上げていた黄昏の空から、三階建ての孤児院へと、視線の先を移し、横に長い建物の最上階の一番左端の窓へと視線を向ける。
はたはたと揺れ動くカーテンの隙間から漏れる淡い部屋灯かりを何となしに眺めやりながら、ほんの数分前まで、一緒にいた少女のことを思い出し、アレクシオは何とも言えない複雑な表情を浮かべた。
女というものは、よく喋る生き物だと、以前から認識はしていたが、異世界から来たという不思議な響きの名を持つ彼女は、アレクシオがこれまで出会った誰よりも、一番よく喋る娘だった。
その鳴き声の喧しさから、害鳥に指定されているラズルーカの数倍いやそれ以上に喧しく、それだけでも煩わしいと思うのに、彼女の話はとにかく無駄に長く、アレクシオが予想していた以上に、遥か斜め上をゆく内容だったのだ。
だが会話の内容以前、アレクシオが頭を悩ませたのは、彼女の口から次々と漏れる言葉だった。
耳に入ってくるそれらのほとんどは音としての響きはあれど、まったく意味が解らないものばかりだったのだ。
午後三時の鐘楼の鐘が打ち鳴らされる少し前から始まった事情聴取は、それほど長くかからないだろうと予測していたのだが、彼女があまりにも喋り倒すものだから、アレクシオが彼女の無駄話から解放された時には、陽は西の空へとすっかり沈み、辺りには夜の帳が降り始めていた。
それほど長話をしていたというのに、彼女から得られた情報は、何一つとしてなかった。
いや何もなかったわけではない。
欲しかった情報こそ得ることはできなかったが、それでも三時間近く一緒にいて、あれこれと会話を交わすことで、“異端者”がどういう人間であるか、それだけは何となく掴めたような気がする。
何らかの目論見があって、この世界へ来たわけではないと言った彼女は、それと同時に、この世界に来た理由についても、何も知らないようだった。
意味の分からぬ言葉を並び立て、消去法とやらで自分がこの世界に来た理由をあれこれと推測していたが、彼女の言葉を借りるのであれば、彼女は間違いなく、“異端者”として『月』に召喚されたのは確かだろう。
(そういえば、あいつ、花嫁候補として召喚したんだろう、と何度も言っていたな)
侍女のリリアが用意した焼き菓子にがっつき、頬をパンパンに膨らませていたあの小娘を、花嫁として迎え入れるやつなど、この世にいるものか。
いや、しかし、本当にありえないくらい、喧しい小娘だが、王宮の舞踏会に訪れる澄まし顔の令嬢たちと違って、その行動も、発言も、考え方も、何もかもが規格外で、まるでこの世に一匹しかいない珍獣を見ているようで、あれはあれでなかなか興味深く、面白かったのは確かだ。
少女の奇妙な発言の数々を思い出して苦く笑いながら、アレクシオは風に靡く黒のコートのポケットに手を突っ込むと、彼女が『ケイタイデンワ』と発音していたそれを取り出した。
(――……どうしようもない阿呆のようにみえるが、なかなか頭の切れる賢い娘だったな)
『ケイタイデンワ』というものが、どんなものであるかを問い詰めた時、彼女はアレクシオが一番求めている答えを見抜いたかのように、それの使い方よりも安全性の方を強く訴えていた。
それ以外の会話でも、時折、彼女の芯の強さを思わせる発言であったり、相手を気遣う心優しさも垣間見えた。
共有したのは三時間という、それほど長くはない時間だったが、けれどその間、彼女から邪念や悪意などは一切感じられなかった。
“異端者”がどのような人間かを見極めるために、彼女と話す機会を設けたが、やはりどんなに考えても、彼女がこの世の全てを破壊し尽くす存在だとは思えない。
(それにあの時、彼女が見せた涙は――……)
元の世界に戻れる確証はないと告げた時、涙を溢した彼女の表情は、見ているこちらの方が居た堪れないほど、とても儚く悲愴に満ちていて、気がついたら、涙が溢れる彼女の頬に触れていた。
望んでもいないものを背負わされて、翻弄される彼女がどうしようもなく、不憫に思えて。
「全くどうして俺がこんな面倒なことに巻き込まれなければいけないんだ。“異端者”と知っていて匿ったことが、陛下に知られでもすれば、国外追放どころか命でさえ危ういというのに」
溜め息を吐きながら独りごちて、手に持っていたこの世界には存在しない異質のそれをコートのポケットの中へと戻す。
(それでも――……)
それが絶対的君主である国王陛下の命令であっても、やはり彼女の命を奪うことなどできない。
彼女がどういう人間か、わかった今となっては、なおさらに。
異国から来たという少女の涙の温もりが、まだ残る指先を見下ろしたまま、先行きの見えない今後を思い、アレクシオは額にかかる前髪を引っ掴みようにして頭を抱えこむと、はあ、と、重苦しい溜め息をまた一つ落とした。