紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
追い詰められた少女の選択肢④
どこをどう走ったのか、全く記憶にない。
ここで捕まるわけにはいかない、と、彼――……ユリウスと鉢合わせたその瞬間、頭で考えるよりも先に身体の方が動いていた。
逃げ切れる自信なんてどこにもなかったけれど、それでも幼い頃から慣れ親しんできた森だ。
こんなとき、どういった道を選べばいいのか、熟知していた彼女は咄嗟の判断で、鬱蒼とした低木が覆い茂る獣道へと飛び込んでいた。
迫り出した木々の根と朝露を含んだ柔らかい地面に足を取られ、何度となく、転びそうになったが、それでも懸命に足を動かして、ただひたすらに前へ前へと突き進む。尖った枝の先に引っかけたせいで、この日のために用意した服は、あちこちが解れて穴が開き、ボロボロだ。
後ろを振り返って、様子を窺いたかったが、そんな余裕など、どこにもない。
逃げろ、と伝えてくる本能に従って、ただただ足を動かし続ける。
呼吸が乱れて、上手く息を取り込むことができない。
極度の緊張に心拍数は跳ね上がり、激しい鼓動が心臓を打つ。
そのまま呼吸困難で死ぬんじゃなかろうか、と思えるくらい、息が上がって苦しいが、それでも立ち止まることは許されず、きちんと国境方面に向かえているのか、それさえも確認できないまま、無我夢中で走り続けていたら、急に視界が開けた。
茂みを掻き分けた先にあったのは国境沿いを流れる小さな川だ。
まともに方角を確かめることもできず、でたらめに走っていたが、偶然にも国境に向かって進んでいたようだ。
そうして幸いなことに彼女はグリーヴァの森の中を縫うように流れる川の上流にしか、群生しない野草を摘みに、たびたび訪れていたから、この辺りの地形には特に詳しかった。
ここからだと国境までそう遠くはない。
走れば、三十分とかからずに辿り着けるはずだ。
もしかしたらこのまま逃げ切れるかもしれない――……と淡い期待を抱きつつ、いつでも引き抜けるよう、愛用の片手剣の柄を握り締め、立ち止まると、彼女は今しがた自分が抜けてきたばかりの獣道の方へと目をやった。
重なり合う枝葉に覆い尽くされた細い道の奥の方を、じっと見据えるが、追いかけてきてもいいはずのユリウスの姿は、どこにも見当たらない。
ぜいはあ、と息を切らせながら、全神経を聴覚に集中させ、耳を澄ませてみたが、吹き下ろす風に低木の枝葉が、かさこそ、と擦れ合う音が、時折、聞こえるだけで、他に聞こえるのは、壊れた玩具みたいに激しく揺れ動く自分の心音と、乱れた息遣い、様々な音色を奏でる小鳥たちの声、緩やかに流れる川のせせらぎ、くらいだ。
それにしてもどうして彼は追ってこないのだろうか。
獣道の奥の方を見据えたまま、ふと湧いた疑問に眉を顰める。
未だにその行動パターンを掴み切れていないが、それでもユリウスのことを全く知らないわけではない。
少なくとも離宮に幽閉されてから、携わった人間の中では、一番の策略家であり、頭の回転も良く、誰よりも狡賢いであろうユリウスが、亡命を図った自分を、みすみす見逃すなんて、絶対にありえないことだ。
彼なりに何か考えがあって、敢えて、追ってこないのであろうことは明確だ。
けれどもユリウスが腹の底で、何を企んでいるのかまでは量り切れず、言い知れない不安が波紋のように広がってゆく。
こんな時だからこそ、冷静でいなければならないのに、と弱気になる自分を叱咤しつつ、国境までの距離を少しでも縮めようと、先を急ごうとして、その直後。
「見つけたぞ! 逃すな! ひっ捕えろ!」
背後から響いた鋭い声に驚く間もなく、ひゅっ、と風を切って、射られた矢が、靡いた彼女の髪の房をわずかに翳め、たんっ、と乾いた音を立てて、目の前に立つ木の幹に突き刺さった。
射抜かれた金色の長い髪が一房、地面の上に落ちてゆくのを、ぼんやりと眺めていたら、彼女の真横をすぐさま別の矢が通り過ぎてゆく。
立て続けに射抜かれた矢が、木の幹に突き刺さるのを見て、ようやく我に返った彼女は、後ろを確認しないまま、地面を蹴って一気に駆けだすと、足が濡れることも躊躇わず、森の中を流れる小さな川へと飛び込んだ。
小さな川といえど、雪解けの季節であれば、それなりに水嵩が増え、水深も深かっただろう。
だが今は雨がほとんど降らない夏季だ。
雪解け水が流れる春先と比べれば、水の量は少なく、足の脛が浸かるか浸からないか程度の深さだ。
それに川幅も狭いし、流れもかなり緩い。
この時季であれば、安全に渡れることを知っていたからこそ、思い切って川に飛び込んだのだが、彼女が取ったその行動は正しかったようだ。
だがしかし下流に向かって、緩やかに流れる川の水をざぶざぶと切りながら、対岸に渡ろうとする間にも、射抜かれた矢が次から次へと容赦なく降ってくる。
そのうちの何本かは髪や服を翳めて、川底に突き刺さったが、彼らが命を奪うつもりで、矢を射ているわけではないことに、彼女は最初から気づいていた。というか彼らに殺意がないことは始めから分かっていた。
罪人として幽閉された身とはいえ、ヴェルヘイヌ国第一王女である自分のことを、一体、誰が殺められるというのだろうか。
腐っても王女は王女だ。
国王陛下から直に命を受けない限り、彼らだって、下手に命まで奪おうとは思わないだろう。
それが分かっていたから、彼女は王女という立場を逆手に取って、亡命を図るという大胆な行動に出たのだ。
「弓を退け!」
ちょうど対岸に辿り着いたところで、向こう岸から苛立ちを含んだ声が飛んできた。
やはり彼らは単純に足止めをしたかっただけらしい。
合図とともに先ほどまで、雨のように降っていた矢の勢いが止まり、がさりと枝葉を大きく揺らしながら、覆い茂る灌木を掻き分けて、その向こうから見知った顔が姿を現す。それも一人だけではない。全員合わせて四人もいるではないか。
一人は補佐官のヴォルハラム。
残り三人はユリウスが特に気に入って配下に置いている騎士たちだ。
多勢に無勢とは正しく、今のような状況のことを指すのだろう。
剣術にしても、魔法にしても、基礎的なことはそれなりに心得ているが、日々鍛錬を積み重ね、鍛え上げた屈強な騎士を相手に、互角もしくはそれ以上の力で、太刀打ちできるとは到底思えない。しかも相手は四人もいるのだ。
命を奪われる心配は、ほぼ皆無だが、まともに相手をしたところで、勝ち目はないだろうし、無駄に体力を消耗するだけだ。
それでなくても、ユリウスと鉢合わせたあの場所から、全力で走り続けたせいで、体力はもう限界近くまで、使い果たしてしまっている。余力なんてほとんど残っていないが、走れさえすれば、あともう少しで国境に辿り着くことができるのだ。
そう考えたらやはりここは全力で逃げるのが一番だろう。
向こう岸の少し離れた場所から、補佐官のヴォルハラムが先陣を切って、川に飛び込むのを視界に捉えながら、逃げるが勝ち! を実践すべく、地面を蹴って再び駆け出す。
「逃すな! 追え!」
背後でヴォルハラムの鋭い声が響く。
正確な距離までは掴めないが、声の響き方から察するに、どうやら間近にまで迫ってきているようだ。
本当はもう少し早く走りたいのだが、川に飛び込んだ際、たっぷりと水を吸い込んだ靴が重くて、思うように足が動いてくれない。
そこにきて体力はついに限界を超え、身体のあちこちが、ぎしぎし、と痛みを訴え始めている。
今のままでは彼らに追いつかれるのは時間の問題だ。
ゴールを目前にして掴まるなんて、馬鹿みたいな結末だけは迎えたくない。
(――……っ、どこか隠れる場所を探さなきゃ)
幸いにも自分がいるのは、様々な木々が覆い茂る森の中だ。
身を隠せるような木の洞や茂みの一つや二つくらい、探せば、どこかにあるはずだ。
逃げるよりも、まずは身を隠すことの方が先だ、と思い至り、前に向かって走りつつ、周囲に視線を張り巡らせていた彼女は、高く聳え立つ大樹の根元を覆い隠すように群生している灌木を見つけ駆け寄った。
大樹の根元と灌木との間に僅かにできた隙間は、少し窮屈そうではあるが、身を隠すにはちょうどいい案配だ。
とにかく一刻も早く隠れなければ、と大樹の根元と灌木の隙間に、身体を滑り込ませると、彼女は枝葉に埋もれるように身を屈めた。
―――――……とその直後。
「たかが小娘一人を捕えるのに何を手間取っている! そう遠くまでは逃げていないはずだ! 草の根を分けてでも見つけ出せ!」
ほんの数メートルも離れない場所で、がさり、と木立が揺れ、その向こうから苛立ちを滲ませた野太い声が響く。
目と鼻の先ほどの至近距離から聞こえてきたヴォルハラムの怒声に、びくり、と肩を揺らした彼女は息を詰めると、身体をさらに小さく丸め、身を寄せていた灌木の枝葉の中に腰を深く沈めた。
どくどくといつまでも鳴り止まない心臓の音がひどくうるさい。
(どうか――……どうか見つかりませんように)
鼓膜を揺らす心音すら聞こえてしまうのではなかろうか、と不安に駆られ、片手に握りしめていたロザリオを胸元に引き寄せると、彼女は、ぎゅうっ、と瞼を閉じ、藁にも縋る思いで祈りを奉げた。
そんな彼女の必死の祈りに神が耳を傾けたのかどうかは分からない。
「――……ちっ、逃げ足の速い小娘が。だがそう簡単に我々から逃れられると思うなよ」
灌木の茂みに身を隠すこと数分後、何とも物騒な科白を忌々しげに吐き捨てると、がさがさと草を掻き分けて、ヴォルハラムはどこかへと移動してゆく。
どうやらこの周辺を捜索するのは諦めてくれたらしい。
閉じていた瞼をゆっくりと見開き、ほうっ、と安堵の息を吐く。
極度の緊迫感に真っ白くなるくらい、きつく握り締めていた掌を解きつつ、辺りから人の気配が完全になくなったのを確認すると、彼女は灌木の隙間から、そうっと顔だけを覗かせ、もう一度、今度はよりいっそう慎重に辺りを見渡した。
たっぷりと時間をかけ、辺りを注意深く観察していた彼女は、やがて安全だと判断したのだろう。
埋もれていた枝葉の中から、ゆっくりと立ち上がる。
本音を溢せば、もうしばらく、ここで身体を休めたかったのだが、そう暢気な事ばかりも言ってられない。
(とにかく国境を越えなければ――……)
深い渓を隔てた向こう側に渡れば、きっと自由の身になれる。そうすれば、自分に課した目的も果たせるはずだ。
何としてもやり遂げると決めたあの日から、ずっと胸に秘め続けてきた強い想いだけを頼りに、最後の力を振り絞り、疲労を訴える足に力を籠めて、地面を強く蹴り上げると、彼女はそう遠く離れていないであろう国境を目指して駆け出した。
ここで捕まるわけにはいかない、と、彼――……ユリウスと鉢合わせたその瞬間、頭で考えるよりも先に身体の方が動いていた。
逃げ切れる自信なんてどこにもなかったけれど、それでも幼い頃から慣れ親しんできた森だ。
こんなとき、どういった道を選べばいいのか、熟知していた彼女は咄嗟の判断で、鬱蒼とした低木が覆い茂る獣道へと飛び込んでいた。
迫り出した木々の根と朝露を含んだ柔らかい地面に足を取られ、何度となく、転びそうになったが、それでも懸命に足を動かして、ただひたすらに前へ前へと突き進む。尖った枝の先に引っかけたせいで、この日のために用意した服は、あちこちが解れて穴が開き、ボロボロだ。
後ろを振り返って、様子を窺いたかったが、そんな余裕など、どこにもない。
逃げろ、と伝えてくる本能に従って、ただただ足を動かし続ける。
呼吸が乱れて、上手く息を取り込むことができない。
極度の緊張に心拍数は跳ね上がり、激しい鼓動が心臓を打つ。
そのまま呼吸困難で死ぬんじゃなかろうか、と思えるくらい、息が上がって苦しいが、それでも立ち止まることは許されず、きちんと国境方面に向かえているのか、それさえも確認できないまま、無我夢中で走り続けていたら、急に視界が開けた。
茂みを掻き分けた先にあったのは国境沿いを流れる小さな川だ。
まともに方角を確かめることもできず、でたらめに走っていたが、偶然にも国境に向かって進んでいたようだ。
そうして幸いなことに彼女はグリーヴァの森の中を縫うように流れる川の上流にしか、群生しない野草を摘みに、たびたび訪れていたから、この辺りの地形には特に詳しかった。
ここからだと国境までそう遠くはない。
走れば、三十分とかからずに辿り着けるはずだ。
もしかしたらこのまま逃げ切れるかもしれない――……と淡い期待を抱きつつ、いつでも引き抜けるよう、愛用の片手剣の柄を握り締め、立ち止まると、彼女は今しがた自分が抜けてきたばかりの獣道の方へと目をやった。
重なり合う枝葉に覆い尽くされた細い道の奥の方を、じっと見据えるが、追いかけてきてもいいはずのユリウスの姿は、どこにも見当たらない。
ぜいはあ、と息を切らせながら、全神経を聴覚に集中させ、耳を澄ませてみたが、吹き下ろす風に低木の枝葉が、かさこそ、と擦れ合う音が、時折、聞こえるだけで、他に聞こえるのは、壊れた玩具みたいに激しく揺れ動く自分の心音と、乱れた息遣い、様々な音色を奏でる小鳥たちの声、緩やかに流れる川のせせらぎ、くらいだ。
それにしてもどうして彼は追ってこないのだろうか。
獣道の奥の方を見据えたまま、ふと湧いた疑問に眉を顰める。
未だにその行動パターンを掴み切れていないが、それでもユリウスのことを全く知らないわけではない。
少なくとも離宮に幽閉されてから、携わった人間の中では、一番の策略家であり、頭の回転も良く、誰よりも狡賢いであろうユリウスが、亡命を図った自分を、みすみす見逃すなんて、絶対にありえないことだ。
彼なりに何か考えがあって、敢えて、追ってこないのであろうことは明確だ。
けれどもユリウスが腹の底で、何を企んでいるのかまでは量り切れず、言い知れない不安が波紋のように広がってゆく。
こんな時だからこそ、冷静でいなければならないのに、と弱気になる自分を叱咤しつつ、国境までの距離を少しでも縮めようと、先を急ごうとして、その直後。
「見つけたぞ! 逃すな! ひっ捕えろ!」
背後から響いた鋭い声に驚く間もなく、ひゅっ、と風を切って、射られた矢が、靡いた彼女の髪の房をわずかに翳め、たんっ、と乾いた音を立てて、目の前に立つ木の幹に突き刺さった。
射抜かれた金色の長い髪が一房、地面の上に落ちてゆくのを、ぼんやりと眺めていたら、彼女の真横をすぐさま別の矢が通り過ぎてゆく。
立て続けに射抜かれた矢が、木の幹に突き刺さるのを見て、ようやく我に返った彼女は、後ろを確認しないまま、地面を蹴って一気に駆けだすと、足が濡れることも躊躇わず、森の中を流れる小さな川へと飛び込んだ。
小さな川といえど、雪解けの季節であれば、それなりに水嵩が増え、水深も深かっただろう。
だが今は雨がほとんど降らない夏季だ。
雪解け水が流れる春先と比べれば、水の量は少なく、足の脛が浸かるか浸からないか程度の深さだ。
それに川幅も狭いし、流れもかなり緩い。
この時季であれば、安全に渡れることを知っていたからこそ、思い切って川に飛び込んだのだが、彼女が取ったその行動は正しかったようだ。
だがしかし下流に向かって、緩やかに流れる川の水をざぶざぶと切りながら、対岸に渡ろうとする間にも、射抜かれた矢が次から次へと容赦なく降ってくる。
そのうちの何本かは髪や服を翳めて、川底に突き刺さったが、彼らが命を奪うつもりで、矢を射ているわけではないことに、彼女は最初から気づいていた。というか彼らに殺意がないことは始めから分かっていた。
罪人として幽閉された身とはいえ、ヴェルヘイヌ国第一王女である自分のことを、一体、誰が殺められるというのだろうか。
腐っても王女は王女だ。
国王陛下から直に命を受けない限り、彼らだって、下手に命まで奪おうとは思わないだろう。
それが分かっていたから、彼女は王女という立場を逆手に取って、亡命を図るという大胆な行動に出たのだ。
「弓を退け!」
ちょうど対岸に辿り着いたところで、向こう岸から苛立ちを含んだ声が飛んできた。
やはり彼らは単純に足止めをしたかっただけらしい。
合図とともに先ほどまで、雨のように降っていた矢の勢いが止まり、がさりと枝葉を大きく揺らしながら、覆い茂る灌木を掻き分けて、その向こうから見知った顔が姿を現す。それも一人だけではない。全員合わせて四人もいるではないか。
一人は補佐官のヴォルハラム。
残り三人はユリウスが特に気に入って配下に置いている騎士たちだ。
多勢に無勢とは正しく、今のような状況のことを指すのだろう。
剣術にしても、魔法にしても、基礎的なことはそれなりに心得ているが、日々鍛錬を積み重ね、鍛え上げた屈強な騎士を相手に、互角もしくはそれ以上の力で、太刀打ちできるとは到底思えない。しかも相手は四人もいるのだ。
命を奪われる心配は、ほぼ皆無だが、まともに相手をしたところで、勝ち目はないだろうし、無駄に体力を消耗するだけだ。
それでなくても、ユリウスと鉢合わせたあの場所から、全力で走り続けたせいで、体力はもう限界近くまで、使い果たしてしまっている。余力なんてほとんど残っていないが、走れさえすれば、あともう少しで国境に辿り着くことができるのだ。
そう考えたらやはりここは全力で逃げるのが一番だろう。
向こう岸の少し離れた場所から、補佐官のヴォルハラムが先陣を切って、川に飛び込むのを視界に捉えながら、逃げるが勝ち! を実践すべく、地面を蹴って再び駆け出す。
「逃すな! 追え!」
背後でヴォルハラムの鋭い声が響く。
正確な距離までは掴めないが、声の響き方から察するに、どうやら間近にまで迫ってきているようだ。
本当はもう少し早く走りたいのだが、川に飛び込んだ際、たっぷりと水を吸い込んだ靴が重くて、思うように足が動いてくれない。
そこにきて体力はついに限界を超え、身体のあちこちが、ぎしぎし、と痛みを訴え始めている。
今のままでは彼らに追いつかれるのは時間の問題だ。
ゴールを目前にして掴まるなんて、馬鹿みたいな結末だけは迎えたくない。
(――……っ、どこか隠れる場所を探さなきゃ)
幸いにも自分がいるのは、様々な木々が覆い茂る森の中だ。
身を隠せるような木の洞や茂みの一つや二つくらい、探せば、どこかにあるはずだ。
逃げるよりも、まずは身を隠すことの方が先だ、と思い至り、前に向かって走りつつ、周囲に視線を張り巡らせていた彼女は、高く聳え立つ大樹の根元を覆い隠すように群生している灌木を見つけ駆け寄った。
大樹の根元と灌木との間に僅かにできた隙間は、少し窮屈そうではあるが、身を隠すにはちょうどいい案配だ。
とにかく一刻も早く隠れなければ、と大樹の根元と灌木の隙間に、身体を滑り込ませると、彼女は枝葉に埋もれるように身を屈めた。
―――――……とその直後。
「たかが小娘一人を捕えるのに何を手間取っている! そう遠くまでは逃げていないはずだ! 草の根を分けてでも見つけ出せ!」
ほんの数メートルも離れない場所で、がさり、と木立が揺れ、その向こうから苛立ちを滲ませた野太い声が響く。
目と鼻の先ほどの至近距離から聞こえてきたヴォルハラムの怒声に、びくり、と肩を揺らした彼女は息を詰めると、身体をさらに小さく丸め、身を寄せていた灌木の枝葉の中に腰を深く沈めた。
どくどくといつまでも鳴り止まない心臓の音がひどくうるさい。
(どうか――……どうか見つかりませんように)
鼓膜を揺らす心音すら聞こえてしまうのではなかろうか、と不安に駆られ、片手に握りしめていたロザリオを胸元に引き寄せると、彼女は、ぎゅうっ、と瞼を閉じ、藁にも縋る思いで祈りを奉げた。
そんな彼女の必死の祈りに神が耳を傾けたのかどうかは分からない。
「――……ちっ、逃げ足の速い小娘が。だがそう簡単に我々から逃れられると思うなよ」
灌木の茂みに身を隠すこと数分後、何とも物騒な科白を忌々しげに吐き捨てると、がさがさと草を掻き分けて、ヴォルハラムはどこかへと移動してゆく。
どうやらこの周辺を捜索するのは諦めてくれたらしい。
閉じていた瞼をゆっくりと見開き、ほうっ、と安堵の息を吐く。
極度の緊迫感に真っ白くなるくらい、きつく握り締めていた掌を解きつつ、辺りから人の気配が完全になくなったのを確認すると、彼女は灌木の隙間から、そうっと顔だけを覗かせ、もう一度、今度はよりいっそう慎重に辺りを見渡した。
たっぷりと時間をかけ、辺りを注意深く観察していた彼女は、やがて安全だと判断したのだろう。
埋もれていた枝葉の中から、ゆっくりと立ち上がる。
本音を溢せば、もうしばらく、ここで身体を休めたかったのだが、そう暢気な事ばかりも言ってられない。
(とにかく国境を越えなければ――……)
深い渓を隔てた向こう側に渡れば、きっと自由の身になれる。そうすれば、自分に課した目的も果たせるはずだ。
何としてもやり遂げると決めたあの日から、ずっと胸に秘め続けてきた強い想いだけを頼りに、最後の力を振り絞り、疲労を訴える足に力を籠めて、地面を強く蹴り上げると、彼女はそう遠く離れていないであろう国境を目指して駆け出した。