紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~

闇に潜む者

 血を吸い上げたように真っ赤に染まる刃先が、月明かりを反射して闇に浮き彫りになり、ヒュッと音を立てて空気を切り裂く。
 濃い闇がいっそう深まり、静まり返ったアリルア国王立騎士団寄宿舎の中庭で、一人無心に剣を振るうディハルトの姿があった。
 彼がそこに何を見ていたのかは分からない。
 ただ一点を見据え、手にした剣を幾度となく、(くう)に向かい、振り落としていたディハルトは深い闇の向こうから、何者かが密かに(うかが)う気配を感じ取り、剣を振るう手を止めた。

「……そこにいるのは誰だ?」

 何者かが潜む暗闇をじっと見据えたまま、ディハルトはいつでも臨戦態勢が取れるよう、剣をしっかりと握り締め、闇に向かって低く唸るように声を放つ。

――――――その刹那。

 目の前の植え込みが、がさり、と音を立てて大きく揺れ動き、暗闇の中から全身を黒いローブで覆った小柄な老人が突如として現れた。

「こんな夜更けに何用だ? 年寄りと言えど場合によっては、この剣がその身体を貫く事になるぞ」

 冷酷さを漂わせる眼差しを向け、牽制するディハルトを見返すと、老人は身体を奇妙に揺らしながら、(しわが)れた声で、ヒャッヒャッヒャッ、と笑う。

「――――何が可笑しい?」
「余を貫くなどとは面白い事を言う……貫けるかどうか試してみるか? 若造よのう」
「――……そうか? 言っておくが俺は人を斬る事に躊躇(ためら)いなど微塵も感じねえ。ちょうど誰かを斬りたくてうずうずしていたところだ。自分の言った事をあの世で後悔するんだな」

 ニィッ、と唇の端を歪ませ、冷酷な笑みを浮かべると、ディハルトは躊躇うことなく、握っていた剣を振り翳した。とそのタイミングを狙っていたかのように、老人の双眸が怪しく光る。
 今まさに己の剣で皺がれた老人の命を奪い取ろうとしていたディハルトは、己の身体を襲う痙攣に似たその感覚にギリッ、と奥歯を強く噛み締めた。

「――……っ、てめえ……何を、しやが……っ!」
「ほう、余の呪術を受けながら、まだ剣を握れているとはなかなか面白い若造よのう。殺してしまうには惜しい逸材じゃが、余の存在を知ったからには生かしておくわけにもいかんでのう」

 ゆらゆらと身体を揺らしながら、にたり、と不気味な笑みを浮かべると、老人は怪しく光る両の瞳でディハルトを射止めにかかった。

「――……ぐっ! くああああああッ!」

 今まで味わったことのない全身をバラバラに切り裂かれるような苦痛に苛まれ、ディハルトは堪らず、(くずお)れるように片膝をつくと呻き声を上げた。

「なかなかにしぶとい若造よのう。その不屈の精神力は見上げたものじゃが、それもいつまで持つかのう。早く楽になった方が良いというのに……」

 静かな夜闇にぽつり呟いて、老人はにたり、と笑いながら、喉を掻き(むし)って苦しみに喘ぐディハルトを愉しげに眺めた。
 老人の放った怪しげな呪術は下位精霊と契約して使えるようなものではない。だが上位精霊と契約を結んだとて、これほどまでに攻撃性の強い魔法を操れるものなど、そう滅多といるものではない。

(なんだ、このくそ野郎は――……とんでもない魔力、だ)

 あらぬ方向へ身体を捩じり上げられ、ありとあらゆる骨がギシギシと軋む。
 激しい痙攣を伴って、想像を絶する苦痛が、ディハルトの身体を蝕み続ける。
 最早、通常の人間であれば、とうの昔に絶命しているであろう、それにディハルトは必死に堪えていた。

「――……っ、くそったれが! ふざけんじゃねえええ! このままヤられて堪るか! うおおおおおおお、っ!」

 血が滲み上がるほど拳を強く握り締め、腹の底から出した獣のような咆哮(ほうこう)が、闇夜を切り裂く。
 直後、身体の自由を奪っていた呪術が解けた。
 素早く体勢を立て直したディハルトは、鋭い切っ先を持つ剣に渾身の力を注ぎ、老人の胴体を下から上へと貫いた。
 勢い余り、ディハルトが打ち込んだ剣もろとも、老人の小さな身体が宙を舞う。
 やがてそれは、どさり、と鈍い音を立てて地面に転がり落ちた。
 老人の身体を貫く確かな手応えを感じながら、ディハルトは肩で大きく呼吸を繰り返すと、物言わぬ老人の屍へ目を遣ろうとした。

「――……僕の呪術を気合で破るとはね。驚いたよ」

 静寂を破り、頭上高くから響いた声にディハルトは小さく舌打ちをし、宙を見上げる。
 ディハルトが見上げた空にあったのは、紅色に輝く月に照らし出されるよう、宙に浮く男の姿だった。

「――……しくじったか」

 忌々しげに吐き捨て、確かに貫いたはずの老人の屍が転がっている方に目を向ける。
 だがそこにあったはずの屍は煙に立ち消えたかのように跡形もなく消え去り、地面の上に転がっているのは鈍く光る己の剣だけだ。

「――……貴様、何者だ」

 己がまやかしを掴まされていた事に気づき、ディハルトが低く唸る。
 先ほどまで呪術によって激しい苦痛に見舞われていたことなど、微塵も見せつけず、激しいまでの闘志を募らせるディハルトを見下ろしていた男は、陽炎のように身体を揺らすと、ニイッ、と薄い唇の端を持ち上げた。

「全く以って素晴らしいね。まやかしとは言え、この僕の呪術を破り、剣で貫くなんて本当に感心するよ。そうだ、君に一つ、ご褒美を上げようか?」
「……んだと!? ふざけんじゃねえ! てめえ、何者だ! 答えろ!」
「あーあ、いけないなあ。人の話は最後まで聞くべきだよ?」

 地面に転がる剣を掴み、ディハルトが構え直す。
 それを視界に捉えた男は月と同じ色をした瞳に冷笑を浮かべ、口の中で何かを呟くと、掌をすっとディハルトに向けた。

「――……っ、くああああッ!」

 己の身体を再び襲った苦痛に、ぎりっ、と歯を食い縛り、剣を地面に深く突き立てると、ディハルトは倒れないよう、剣で身体を支える。
 月と同化するように宙に浮いていた男は呪術を受けても尚、不屈の闘志を剥きだして立ち向かおうとするディハルトのその姿に、ほう、と紅く光る瞳を眇めた。

「く……そ、なめた真似をしやが……って、」
「僕の話を聞かないからだよ。安心しなよ、君を殺すつもりはもうないから。まあ、君が僕の話をおとなしく聞いてくれれば、って条件はあるけどね。じゃあ、本題に移るとしようか? ――……と言っても、そう難しい話じゃないよ。要は君と交渉がしたい、ってだけだから」
「はっ!? こんなふざけた真似をしておいて何が交渉だ! 笑わせやが……っ!」

 嘲るように鼻先でせせら笑ったが、最後まで言い終えることなく、ディハルトはその表情を再び苦痛に歪ませた。

「全く君は無駄口が多いやつだね。言っただろ? 人の話は最後まで聞くべきだと。苦しみたくなかったら、余計な口出しはしない方が賢明だよ? 僕はね、ある人物を捜しているんだ。君もその名前くらいは知っているだろう? 月に異変が起きた時に現れると言われている“異端者”の存在を――……」
「……異端者、だと? はっ、あんなもの、迷信か何かだろうが……っ、」
「さあ――……どうだろうね? 千年に一度の事だから真相なんて誰にも分からないよ。君にはその“異端者”を捜す手伝いをして貰いたいんだ。簡単だろう?」
「けっ、くだらねえ」
「くだらないかどうかは僕が決める事だよ? 君のその底知れない憎悪と不屈の闘志にとても興味があるんだ。君の中の何がそこまでさせているのか知らないけれど、引き受けてくれるのなら、君が望むものをあげたっていい。僕の命――……以外なら何でもね」
「――……望むものを、だと?」

 紫紺の瞳に静かな憎悪を湛え、ぎりっ、と見据えるディハルトに視線を向け、男はにたり、と不気味な笑みを浮かべた。

「この国の師団長なんて、ちっぽけな地位よりも、もっと素晴らしい物を手に入れたいと思わないかい? そう、例えば、この世にいる全ての人間を恐怖に陥れるほどの絶大な力だとか」
「――……絶大な力……だと?」
「そうだね。君が殺したくて堪らない、あの騎士を屈服させるほどの力、だよ」

 宙に浮く男が口にした言葉に、数時間前、剣を交えたアレクシオの姿が、ディハルトの脳裏を過る。くそ忌々しいその記憶に、ぎりっ、と奥歯を強く噛むと、ディハルトは男の顔を見据えた。

「面白え。胸糞悪いあの男――……アレクシオを完膚なきまでに叩きのめせるって言うんなら、その話、乗ってやらないこともねえが、本当にてめえを信用していいのか?」

 ディハルトの全身を蝕んでいた呪術はいつの間にか解かれている。
 まるでそれが信用の証だとでも言うかのように。
 己の話に乗っかってきたディハルトを見下ろして、宙に浮く男は冷たく嗤う。

 とその時だった。

「こっちだ!」

 騒ぎに気づいた騎士たちが声を上げて、どやどやと大勢で中庭に向かってくるのを遠目で察知し、男は小さく息を漏らした。

「どうやら時間切れのようだ。まあ、いいさ。別に急いではいないし。それに君だって少しくらいは考える時間が欲しいだろ?」
「考える時間だと? 笑わせるな。てめえの交渉を断れば、待っているのは、俺の死、なんだろう?」
「なあんだ。意外と頭の方も切れるんだね。驚いたよ」
「ふざけんな、くそが。受け入れれば、てめえの下僕となり、断れば、死が待っている。そんな選択の余地しかねえものは交渉とは言わねえんだよ。だがな、俺はてめえのいいようにはならねえ」

 内なる怒りを露わにして猛るディハルトを、男は冷ややかな眼差しで見下ろす。

「せいぜい吠えていればいいさ。どの道いずれ、君は僕の足元に平伏す事になるだろうからね」
「――……っ、なんだと!?」
「本当に血気盛んな男だね、君は。まあ、いい。僕は闇に潜む者。君が心に強く念じさえすれば、僕はいつだって、君の前に姿を現してやるさ。じゃあ、また近々会う日を楽しみにしているよ――……ディハルト副師団長殿、」
「――……ッ! 貴様、なぜ俺の名を!?」

 己の名を口にした男に驚愕の色を隠しきれず、弾けるような大声を上げたディハルトだったが、男はニイッと不気味な笑みだけを残すと、漆黒の闇に溶けるように、その姿を消した。

「ディハルト副師団長殿! 一体何があったのです!?」

 中庭の奥から姿を現した騎士たちが、いつもとは様子が異なるディハルトに気づき、血相を変えて駆け寄ってくる。
 面倒な、と舌打ちをしたディハルトだったが、呪術を何度もかけられた身体は思っていた以上に疲弊しており、不本意ながら駆けつけた大勢の騎士たちを前にディハルトは崩れるように片膝をついた。

「ディハルト副師団長殿!? どこかお怪我でも負われたのですか!?」

 一番近くに控えていた騎士が崩れ落ちたディハルトの身体を支える傍ら、その場に居合わせた騎士たちは、疲弊しきったディハルトのその様子を目の当たりにし、これはただ事ではないと一斉にどよめき立った。

「たかだか魔物が一匹紛れ込んだくらいで、がたがた騒いでんじゃねえ!」

 叩きつけるようなディハルトの怒号に、どよめいていた騎士たちが、一斉にその口を閉ざす。

「少し油断しただけだ。月の影響で魔物の力が増している事を忘れてな。大したことではない。今日の事は黙っていろ。もし口外するヤツがいるならば、どうなるかわかっているだろうな?」

 傍らの騎士に支えられ、立ち上がったディハルトはその声を一段と低くさせ、威圧するように吐き捨てると、集まった騎士たちを鋭い眼光で見据えた。

「はっ! 承知致しました。ディハルト副師団長殿!」
「分かったならいい。各々元の配置へ戻れ」

 追随を許さない圧倒的な威圧感を見せつけたディハルトを前に、その場に居合わせた騎士たちの誰もが息を呑み、身を竦めると、敬服の意を込め、ディハルトに対し、深々と頭を垂れる。
 ディハルトの下した命に従い、集まった騎士たちが蜘蛛の子を散らすように、それぞれの持ち場へと戻ってゆく。
 その様子を遠目に見ていたディハルトは、最後の一人の背中が視界から消えると同時に、視線の先を先ほどまで男がいた宙へと向けた。

「ちっ――……面倒なことになりやがったな。だが――……」

 絶大な力を与えると言っていた男の言葉を思い出す。
 闇に潜む者だ、と口にした男が消えた宙をいつまでも見据え続けるディハルトを、空に懸かる深紅の月だけが静かに見下ろしていた。
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