紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~

気になるうわさ

「もしかして、いや、もしかしなくても、私、迷子になってないか? これ」

 度が行き過ぎたアレクの悪ふざけに怒り心頭、啖呵を切ってアレクの部屋を飛び出し、勢いのまま、騎士団寄宿舎の長い廊下に敷き詰められたふかふかの絨毯を蹴って、大股でずんずんと歩いていた私は、はたり、と立ち止まると、辺りをきょろきょろと見回した。
 片仮名の『コ』の字もしくは『ロ』の字の形をした建物だから、適当に歩いていれば、そのうち、エントランスに行き着くだろうと思っていたのだが、廊下の右側は騎士たちの部屋、その反対側は壁と窓だけという、至ってシンプルな造りだった上の層と違って、一階は左右の壁に大きさや形状が異なる扉が並んでいて、どの扉を開けば、寄宿舎の外に出られるのか、さっぱりわからない。
 これは迷子になったのでは、と思い至るまでの間に、人が出入りしているから、と思って、試しに扉を開いてみたものの、一つ目の部屋は剣やら槍やら鎧やらといった武具が積み上がった倉庫のような部屋だったし、もう一つの部屋は本棚がずらりと並ぶ、少し小さめの図書室、といった感じの部屋だった。
 どうやら騎士団寄宿舎の一階は、さまざまな用途の部屋――のちに聞いた話だが、大浴場や共同トイレはもちろんのこと、救護室や会議室や談話室、さらには鍛冶屋や理髪店までもがあるそうだ――が集約されていて、他の階と比べると、かなり複雑な構造になっているようだ。
 いよいよ本格的に遭難しかけている状況に、だんだんと不安になり、誰かに聞いた方がいいのではなかろうかと思い始めたその矢先、食欲をそそる美味しそうな匂いが、どこからともなく漂ってきた。
 鼻腔を刺激するスパイシーなこの匂いは記憶が正しければ、間違いなく、カレーの匂いだ。

(そういや、まだ朝ご飯食べてないや)

 嗅覚を刺激する美味しそうなカレーの匂いに反応して、きゅるるるるる、と腹の虫が小さく鳴く。
 空腹を訴える腹を片手でさすって宥めつつ、食欲をそそる匂いに惹かれ、ふらふらと近寄ってみれば、開放された扉の向こう側に、食事を摂っている大勢の男の人たちの姿が見えた。
 どうやらここは寄宿舎に住まう騎士たちが利用する食堂のようだ。
 広い食堂内には横に長いテーブルが何台も置かれ、一番奥の方には厨房と思しきものも見える。中庭に面した窓際には、ゆったりと寛げそうなソファ席までもが用意されていて、カフェテリア風のお洒落な内装は女子受けしそうだ。
 ああ、それにしても、お腹がすいた。
 テーブルの上に並ぶ美味しそうな食事を載せたトレイを指を咥えて眺めていたら、ご飯を食べ終えたのであろう、見た目にも若そうな騎士二人が食堂から出てきた。

「はああー、食った! 食った! もうこれ以上は食えねえくらい、腹ぱんぱん!」
「俺も腹いっぱいだわ。久しぶりのカレーパン美味かったなあ」
「リリーシャが作るカレーパンはマジで最高に美味いよなあ! それはそうとルイズ、巷で話題になっている噂のこと知ってるか?」
「噂ってなんだそれ?」
「って、お前、あの超有名な噂を知らないのかよ!」
「だから知らねえって! っていうか噂ってなんだよ? 教えろよー、リカルド」
「ああ、待て待て。今、教えてやるからさ」

 あの香ばしい匂いはカレーパンだったのかー! しかも二人の会話から察するに、かなり絶品そうではないか! 私も食べたいぃいいいぃいー! と心の中で地団太を踏んでいたら、二人は廊下の片隅でつと立ち止まった。
 そうしてから、リカルドと呼ばれた彼は、トラウザーズの後ろポケットから、なにかを取り出すと、それを口に咥え、聞き慣れない言葉というよりは、音色に近いそれを紡ぐ。
 すると、ぼうっ、と小さな音を立てて、彼の指先に小さな火が渦巻いた。
 最近ではずいぶんと見慣れた光景だが、魔法という概念を持つセラフィリアでは、ほとんどの人が、リカルドが今したように魔法を詠唱して、火を熾している。
 料理をするときやお風呂を沸かすとき、ランプに明かりを燈すときなど、日常生活を送るうえで、火の扱いは必要不可欠となるため、火の下位精霊であるサラマンダーとの契約は、セラフィリアにおいては、ほぼ必須と言えるだろう。
 まあ魔力なんてこれっぽちもない私には関係のない話ですけどね。

「おい! リカルド! 寄宿舎内での喫煙は禁止されているだろ! 上官騎士に見つかったら、どうするんだよ! せめて自室で吸うとかにしろよ」
「まったくルイズは頭が硬いなあー。規則を律儀に守ってるヤツなんていないっての。煙草の一本くらい吸ってもバレないって。そんなことよりも、さっきの話だけどさ」

 リカルドが口に咥えているものは、どうやら煙草らしい。
 ぷかぷかと燻る白煙を口から吐き出しながら、リカルドは注意を促すルイズの警告を一笑してあしらう。素行の悪い不良生徒――彼は騎士だけど――というのは、どこの世界にもいるようだ。
 校舎の裏で屯(たむろ)って喫煙している不良グループを思わせるその様子に呆れつつ、セラフィリアにも煙草を吸う習慣があったんだなあ、とちょっと驚いてしまった。
 孤児院には成長過程の子供たちがたくさん暮らしているから、煙草を吸う大人は一人もいないんだもの。いや、しかし、リカルドという騎士は、ちょっと浅はかだなあ。
 壁に耳あり、障子に目あり、ということわざが世の中にはあるということを知らないのだろうか。
 どこかの家政婦がごとく、私がばっちりと見てますよー。
 などと思いつつ、リカルドが何度も口にしていた『噂』のことが気になった私は、三メートルは余裕で越えていそうな巨大な騎士の像を隔てた向こう側にいる二人から姿が見えないのをいいことに、二人が交わす会話に耳を(そばだ)ててしまった。

「ほら、ちょうど一か月くらい前に月蝕があっただろ?」
「ああ、そういやそんなことあったな。ほんの一瞬だけど、月が消えたとかで大騒ぎになったらしいな。俺は非番で部屋で寝ていたから見てないけどな」
「あれはほとんどの人が見逃がしたと思うぞ。俺はたまたま偶然その場に居合わせていたから、その貴重な瞬間をこの目で見たけど、本当に一瞬だったからなあ」
「そりゃあ、すごいな。それでその話と噂と何の関係があるんだよ?」
「……ってお前、本当に聞いたことないのかよ」
「だからないって! いいから早く話せよ。朝の訓練に遅刻しちまうだろうー」
「わかった、わかった。話すからそう焦らせるなって。その噂ってのが、ちょっと不思議でさあ。なんでも月が姿を消す夜に、オルレーヌの丘に“月に呼ばれし異端者”が現れるって話らしい」
「月が姿を消すってのは、この前、起きた月蝕のことか? っていうか、それ以前、“月に呼ばれし異端者”ってのはなんなんだ?」
「うーん、俺も詳しくは分からないけど、グウェンのおやじさんが言うには、どうやら救世主らしい。しかもその“月に呼ばれし異端者”ってのは異世界から召喚されるらしいぞ」
「鍛冶屋のおやじって、そういう話、好きだもんなあ。なんかものすごくきな臭い匂いがする話だけど、でもまあ仮にそれが本当の話だったとして、救世主が現れるんだったら、それはそれでいいんじゃないのか?」
「ルイズ……お前って本当にバカだなあ。救世主ってのは世界を救うヤツってことだろ? それは裏を返せば、この世界に何らかの良くない異変や事象が起きているから、救世主が現れるってことだろ? そう考えたら、寧ろ、悪い予兆だと、俺は思うんだけどなあ」
「ああ、なるほど。確かに角度を変えてみれば、そういう風にも捉えられるな。お前って意外と頭いいんだなあ」
「意外ってのは余計だぞ、ルイズ」
「おい。こら! そこの二人、何をしている!」
「げっ! 班長だ! ヤバい!」

 とんとんとテンポ良く弾む二人の会話に聞き入っていたら、突然、横やりの声が飛んできた。
 会話を遮った野太い声に驚いて、騎士の石像の影から、そうろり、と声の主を覗きみれば、見た目にも屈強そうな面構えをした体格のいい男の人が、立ち話をしている二人の方へと、ずかずかと大股で近づいてくる。
 喫煙していてもバレないと高を括っていたリカルドが、ぎょっとした様子で声を上げて、証拠隠滅を図ろうとしたが、間に合わなかったようだ。

「リカルド! お前、また煙草を吸っているのか! 寄宿舎内での喫煙は禁止だと、何度も注意しているだろうが! どうやらキツイお灸を据えないといけないようだな。今すぐ第二鍛錬所まで来い! ルイズ、お前も一緒だ!」
「うええええっ!? って俺もっすか!? 俺、煙草吸ってないっすよ!?」
「連帯責任ってヤツだな。諦めろ、ルイズ。とにかく、つべこべ言ってないで、二人とも早く準備をして来い!」
「はいぃいいぃい! 分かりました! すぐに準備してきます! おい、ルイズ! 行くぞ!」
「え……あ、は。はい! では失礼致します。フィリップ班長」

 おそらく二人の上官に当たる騎士なのだろう。
 凄みの利いた声で一喝した彼に深々と頭を下げて敬礼をすると、リカルドとルイズは慌てた様子で、どこかへと走り去ってゆく。
 そんな二人の背中を見遣りつつ、やれやれといった体で小さく肩を竦めると、班長と呼ばれた彼もまたいずこへと向かって、のそのそと立ち去ってしまった。
 こんな目立つ場所で喫煙などしていたら、誰かに見られて当然だろう。巻き添えを喰って連帯責任を負わされた相方のルイズが気の毒だ。
 と同情を寄せつつ、一人、その場に残された私は彼らが交わしていた会話の内容を何となしに思い返していた。

(ええっと何だっけ? どこかの丘に“月に呼ばれし異端者”なる者が現れるんだっけ?)

 二人の会話から察するに、一か月前に起きた月蝕は、おそらく皆既月食のことだろう。
 今じゃあ、そのメカニズムが明らかにされていて混乱することはないけれど、天文学の研究がまだ未発達だった頃は、彗星の尾には有毒ガスが含まれていて呼吸をしたら死ぬ、なんて話が信じられていた時代があったくらいだ。
 精霊や魔女の存在が公認されている世界ならば、迷信じみた噂や予言が蔓延しても、何ら不思議ではないだろう。
 それにしても月が完全に消えるというのは不思議な現象だ。
 地球でたびたび起きる皆既日食は、太陽が月の後ろに隠れるから、夜のように暗くなって、あたかも太陽の姿が消えたように見えるけれど、皆既月食の場合は完全に真っ暗になるわけではなかったはずだ。
 まあここは地球とは違う異世界だから、そもそものメカニズムが地球とは全く違うのだろうけれど。

(いやそれにしても……)

 月食のメカニズム云々の話は別として、私がこの世界にぶっ飛ばされたのも、ちょうど一か月ほど前の話だ。
 その点に関しては“月に呼ばれし異端者”なるものの該当条件にぴたりと当てはまっている。

(でもアレクは偶然できた時空の歪みに入り込んだんじゃないかって言ってたしなあ)

 そもそも自分が“月に呼ばれし異端者”であったなら、こんな風に一か月以上も放置されてないだろう。
 それこそ国王陛下だとか、宰相だとか、この国のものすごく偉い人に即刻で呼び出されて、勇者あるいは聖女として、それはそれは丁寧かつ丁重に受け入れられ、今頃は大勢の仲間を引き連れて、壮大なる冒険もしくは巡礼と称した旅に出ていたに違いないもの。
 まかり間違えても、孤児院で子供たちに囲まれて、ほのぼの異世界生活をまったり満喫などしていないだろう。

(どう考えても“月に呼ばれし異端者”の可能性はないわね。うん、却下)

 もしかしたら、と頭を過った可能性を即座に否定しつつ、自分が迷子になっていたことを思い出して、エントランスがどこにあるかを聞かなければ、とそんな風に考えて、その直後。

「おやあ? むさ苦しい野郎しかいない寄宿舎内を、こんなに可愛い女の子が、一人で歩いているなんて珍しいなあ……というより、どこから迷い込んだんだい? 子猫ちゃん」

 こ……子猫ちゃん?
 背後から響いた妙に芝居がかった胡散臭いセリフに、恐る恐る声がした方を振り向く。

「うん、やっぱり可愛らしい子猫ちゃんだ。さっきからずっと気になってたんだよねえ。何か困っているんだろう? お兄さんが丁寧かつ優しく子猫ちゃんの悩みを解決してあげるから、事情を話してくれないかなあ?」

 きりっとした眦の下で輝く青紫色の瞳をやんわりと細め、にこり、と人が良さそうな笑みを浮かべたお兄さんこそが、仲良し三人組の女の子たちが話していたジオルド本人だとは、つゆほども思っていなかった私は、あからさまに胡散臭い彼の誘いに乗っかるべきか否か、大いに頭を悩ませることとなった。


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