紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
お腹を空かせた狼にご用心!
「あ! ジオルドお兄ちゃんだあー!」
「本当だあ! ジオルドお兄ちゃん! 今日はおやつに何を買ってきてくれたの?」
「そんなことよりも、いつもみたいにチャンバラごっこしようぜ! ジオルド! 今日こそは負けねえからな!」
「もうー、男の子たちばかりズルいわよー! ジオルドは私たちと一緒にお遊戯するんだから!」
「そうよ、そうよ。今日もいつもみたいに面白くて楽しいお話をいっぱい聞かせてくれるんでしょう? 私、ジオルドが話してくれるお話が大好きなの!」
子供たちが喜びそうなお菓子やら、おもちゃやら、絵本やらが、大量に詰まった紙袋を両手に引っ提げて、孤児院に帰ってくるなり、わあ! という歓声とともに駆け寄ってきた子供たちに、あっという間に取り囲まれてしまった。
寄宿舎で声をかけられたときは、どう考えても、胡散臭いナンパのようにしか思えず、本当に信用しても大丈夫なのか? と不安だったのだが、子供たちの反応を見る限り、心にも思っていない美辞麗句を並び立て、甘い言葉を巧みに繰って、女の子を誑かし、金銭的あるいは肉体的に精魂尽き果てるまで弄び、必要がなくなった途端にボロ雑巾がごとく、ぽいっと投げ捨てるような真似をするほどの悪人ではなさそうだ。
だからといって、彼はとてもいい人よ! とも言い切れないのだが。
わあわあと口々に騒ぎ立てながら詰め寄る子供たちに包囲され、身動きが取れないでいる彼ことジオルドを横目に見遣りつつ、そんなことを考えていたら、きゅるるるるる、と腹の虫が小さく鳴く。
(そういや今日は寝起きから色々とあって、まだ朝ご飯食べてなかったなあ)
きゅうきゅうとうるさく鳴く腹を撫でながら、孤児院に戻るほんの少し前、街の中心部に建つ時計塔で時を告げる鐘が、打ち鳴らされていたことを、ふと思い出す。
高く澄んだ鐘の音が九回打ち鳴らされたそのすぐあとに続けて、少し短めの鐘が一回鳴っていたから、時刻は午前九時半を少し過ぎたくらいだろう。
朝ご飯を食べるには少し遅すぎる時間だが、これから子供たちが汚した衣服の洗濯やら、各部屋の掃除やらが待ち受けていることを考えれば、何かを食べて腹を満たしてやらないことには、お昼まで持ちそうにない。
腹が減っては戦はできぬ。
誰が言い出した言葉か知らないが、全く以ってその通りだと思う。古人は偉大なる名言を残してくれたものだ。
子供たちのことはジオルドに任せて、まずは腹ごしらえをしようと思い、色々なものが雑多に詰まった紙袋を抱えられるだけ抱え、食堂に向かおうとして。
「って美緒ちゃああぁあんっ!? 俺を一人置いてどこへ行くんだよう!」
「まだ朝ご飯を食べていないので済ませてきますね」
「だったら俺も一緒に……って美緒ちゃあぁあん! ああ、待て待て、お前たち! いいか、俺はこれからあのお姉さんと、とっても大事な話をしなければいけないんだ。お姉さんとの話が終わったら、たっぷりと遊んでやる。だから俺が戻ってくるまで、みんなで仲良く遊んで待っているんだ。いいな」
子供たちに包囲されて身動ぎできないでいる今こそがチャンスだ、とばかり、背中越しに聞こえるジオルドの声を無視して、そそくさとその場から逃げ去ろうとしたものの、その目論見はわずか数秒と経たないうちに、ものの見事に外れることとなってしまった。
どうやって手懐けたのかは知る由もないが、どうやらジオルドは子供たちから絶大な信頼を得ているようだ。
ええーっ、と不満の声こそ上げたものの、子供たちは、しょうがないなあ、といった体で、彼が口にした言葉をすんなりと受け入れると、蜘蛛の子を散らすように、庭の方へと一斉に走り去ってゆく。
その様子を唖然として見ていたら、子供たちの包囲網から容易に抜け出したジオルドに、あっという間に追いつかれてしまった。
「ようやく二人きりになれたね、美緒ちゃん♡」
宝石を埋め込んだかのような美しい色彩を放つアメジストの瞳を甘やかに瞬かせながら、にこやかな笑みを浮べたジオルドが嬉しそうに宣う。
やはりあのとき誘いに乗るべきではなかったのだと、私は思いっきり悔やむこととなった。
***
「ところで美緒ちゃんはどうしてあんな朝っぱらから、むさ苦しい野郎しかいない寄宿舎なんかで、迷子になってたの?」
騎士団寄宿舎内の食堂で提供されるメニューの中でも、一位二位の座を争うほどの人気を誇るという『リリーシャお手製カレーパン』に齧りついていた私は、新たに繰り出されたジオルドの素朴な質問に、うぐっ、と声を詰まらせた。
「え、えーっと、それはですね、騎士団の寄宿舎に入れる機会なんて、そう滅多にないだろうなあ、と思いまして。アレクシオさんに借りていた本を返しにきたついでに、ちょっとだけ見学して帰ろうかなあ、と思ったのですが、気がついたら、迷子になっていた、という次第です」
「ふうん、そうなんだ。なるほどねえ。いやしかしアレクシオがこんなにも可愛らしい子猫ちゃんと知り合いだったとはねえ。いやあ、あいつも隅に置けないもんだなあ」
さすがにアレクと一夜を共にしてました――もちろん健全的な意味合いでね!――とバカ正直に話すわけにもいかず、本来の目的であった本を返しに行くという理由を前面に押し出して答えれば、ジオルドは目をぱちくりと瞬かせて驚く。
あれほどの美形なのだから、女の子の知り合いなぞ、星の数ほどもいるだろうに、そんなに驚くことなのか? と少し不思議に思ったのだが、ここで下手に質問をして変に勘繰られても困ると思い、私は、ぱくり、とカレーパンに齧りついた。
きつね色に揚げられた表面はサクサクとしているのに、たっぷりと詰め込まれた具材を包み込む生地はもちもちとしていて、噛むたびに中から出てくるほんのりとスパイシーなカレーは、まろやかで深いコクがあって、ほっぺが落ちそうなほど美味しい。
こんなにも絶品だというのに、騎士団寄宿舎内の食堂だけに限定されているなんてもったいないなあ、なんてことを思いながら、あむあむとカレーパンに食いついていたら、何気にジオルドと目が合ってしまった。
「それにしても本当に珍しいよねえ。俺、黒い瞳を持つ人間に会ったのは初めてだわ。ねえ、美緒ちゃん、そろそろ本当のことを教えてくれないかなあ?」
「ほ……本当のことって、ジオルドさんから受けた質問には、ちゃんと答えを返しましたよ?」
「うん、まあ、そうなんだけどさ。美緒ちゃん、ずっと曖昧にはぐらかしてたよね?」
まじまじと顔を覗き込みながら、そんなことを言われ、私はさっきとはまた違った意味で、うぐっ、と声を詰まらせてしまった。
異世界を舞台にした物語なんかでは、黒い髪に黒い瞳を持つ人間は稀有な存在として、よく取り扱われているが、ここセラフィリアに於いても、その法則は例外なく適用されているようだ。
ただしセラフィリアに限って言えば、黒髪はさほど珍しいものではなく――現にアレクなんかは私よりも艶やかな黒い髪をしているし、街中を歩いていても、男女問わず、黒髪の人は意外と多い――珍しいとされているのは瞳の色だけに限定されている。
もちろん、カラーコンタクトなんて便利なものなどあるわけもなく、瞳の色だけは隠しようもなかったから、そのままで過ごすこととなったのだが、黒い瞳を持つ人間は本当に珍しいらしく、孤児院で暮らし始めてすぐの頃は会う人みんなから珍しがられ、よく質問攻めにあったものだ。
だから瞳の色に関して質問された時の対処法も、しっかりと身についているので、ジオルドに対しても、その対処法を使えばいいのだけれど。
(うーん、でもなあ……)
ほんの一時間ほど前、彼から声をかけられたときのことを思い出して、私は知らず知らずのうち、はあ、と嘆息を漏らした。
にこやかな笑みを満面に貼りつけて、私からの返事を心待ちにしている彼の名はジオルド・フェルナンド。年齢は二十五歳。
騎士を志すため、東大陸から単身渡ってきて、今では『アリルア国王立騎士団第一騎士団副師団長』を務めているそうだ。
本人曰く、何千人もの騎士が所属する騎士団の中に措いても、常に五本の指に入るほど、モテるらしいのだが、精悍な顔つきをした彼は傍目から見ても、かなり高水準の美形なので、モテるというのは確かな話なのだろう。
それを誇らしげに自己申告する辺りはどうかと思うのだが。
(そういや街で買い物をしていたときも、女の子の視線をやたらと集めてたもんなあ)
すれ違う買い物客から客寄せをする店員さんに至るまで、女性という女性のほとんどが年齢関係なく、道行くジオルドに熱い視線を送っていたことを思い返して、はあ、とまた一つ、溜め息を落とすと、私は横長のテーブルを挟んで、向かい側に座るジオルドを、ちらっ、と見やった。
長い睫毛に縁どられた瞳は本物の紫水晶を埋め込んだような深い輝きを放ち、きれいに整えられた眉はとても凛々しく、すっと通った鼻筋は形がよく、柔らかな笑みを湛える唇は艶やかで、どのパーツを取ってみても欠点らしい欠点はなく、本当に誰もが見惚れるような整った顔立ちをしている。
それでいて中庭に面した大きな窓から差し込む日差しに照らされて、きらめく銀色の短く刈り上げられた髪はつんと立った毛先が、あちらこちらへ自由に跳ねていて、あどけない少年のようだ。
彫刻のような美しさを持つアレクとは、また違ったタイプの美形と言えるだろう。
だがしかし天は二物を与えずとはよく言ったもので、このジオルドという人物、騎士道精神などとは果てしなく無縁の、それはそれはもうとんでもなく、チャラいキャラだったのだ!
女の子を口説くのが日課なんだー、と悪びれる風もなく、飄々と言い退けた彼の射程範囲は広く、なぜだか私もその圏内に入ってしまったらしく、出会ってから五分と経たないうちに、私は彼から怒涛のごとく、質問を浴びせかけられる羽目となったのだ。
艶やかな彼の唇から繰り出される質問の数々は名前や年齢などの基本的なものから始まり、中には初対面の人間に対してそんなことまで聞く!? と耳を疑うような質問までもが飛び出し、私の神経を大いにすり減らしてくれたのは言うまでもないだろう。
むろん私とて彼が繰り出す口撃を一方的に受けていたわけではない。
セラフィリアに飛ばされてからというもの、黒々とした稀有な瞳を持つ人間として珍しがられ、すっかり耐性ができていた私はジオルドが繰り出す『質問』という名の口撃を『適当にあしらう』というスキルで以って華麗に躱していたのだが、さすがにこうしてじっくりと腰を据えて対面した状況では、あやふやに言葉を濁すわけにもいかないだろう。
(うーん、なんて答えればいいんだろう……)
セラフィリアに於いて、黒い瞳は天然記念物並みに稀有なものだが、東大陸のごく一部に限られた地域で暮らすグリザムという少数民族は、生まれついて、黒い髪に黒い瞳を持つのだと教えてくれたのはアレクだ。
事情聴取を受けたあの日、命令という形で自分の生まれや家族のことを聞かれても答えるな、と告げたアレクは万が一のことを想定して、もし逃げ切れないのであれば、自分はグリザムの人間だと答えろ、と切り札を与えてくれていたのだ。
切り札を使うのであれば、正しく、今がその時であろう。
だがしかしジオルドが東大陸出身であることや、あくなきまで追及しようとする彼の性質を考えれば、ここで切り札を使うのは、少々危険なようにも思う。
与えられた答えを口にするのは簡単だが、それに対して、さらに掘り下げて追及されれば、たちどころに手詰まってしまうのは目に見えた結果だ。
そうしてジオルドに限ってはそうなる可能性が非常に高いのだ。
「そんなに慌てて喰わなくても、カレーパンは逃げないって」
二個目となるカレーパンに齧りつきつつ、どう立ち振る舞えばよいのだろうか、と頭を悩ませていたら、ふっ、と表情を緩ませて、形の良い唇の上に微苦笑を浮べると、ジオルドがすっと腕を伸ばす。
カレーパンに齧りついたまま、身構えていたら、ジオルドの親指が唇に触れた。
「ほら、ついてるぞ」
そんなことを言いながら、親指の腹に力を入れて、ぐいっ、と唇の端を拭う。
どうやら口端にくっついていたカレーを取ってくれたようだ。
「んー、リリーシャの作ったカレーはやっぱり最高だなあ。っていうか、これって間接キスってやつだよね、美緒ちゃん♡」
自然なその振る舞いに惚けていたら、親指の先にくっついていたカレーを、ぺろり、と舐め取ると、屈託のない少年のような笑みを浮べて、ジオルドがそんなことを宣う。
いくら免疫がないとはいえ、さすがに間接キス程度で動揺するほど初心ではないが、それなりの美形から嬉しそうに申告されてしまえば、否応にも心臓は跳ね上がってしまう。
かあああ、と頬が熱を帯びてゆくのを感じて、恥ずかしさのあまり、顔を背けようとして、それよりも一瞬早く、一度は離れたはずのジオルドの指先が今度は顎を捉えた。
「いまどき間接キスで顔を赤くさせるなんて新鮮だなあ。でも美緒ちゃんみたいに純情な女の子もすんごく好きだなあ。なんならこのままキスしちゃおうか?」
なんともふざけた軽いノリだが、見下ろす眼差しは口調とは裏腹、真剣みを帯びている。
妙な色香を含んだ艶やかな瞳で見つめられ、ジオルドが醸し出す妖艶な雰囲気についうっかり呑み込まれてしまい、咥えていたカレーパンを、ぼとり、とテーブルの上に落としてしまった。
とその一瞬の隙を突いて、顎を掴むジオルドの指先に力が籠もったかと思えば、次の瞬間には肘をついて身を乗り出したジオルドに肩を引っ張られ、一気に距離を詰められていた。
間にテーブルを挟んでいるとはいえ、その距離はあまりにも近い。
少しでも動こうものなら誤って唇が触れてしまいそうなくらい、間近に迫ったその端正な顔立ちから目が離せないまま、突然のことに、ぴきり、と固まっていたらば。
「入るぞ」
そんな声とともに木を打ちつけた床を、かつり、と踏む靴音が鼓膜を揺らした。
眼前にまで差し迫っていたジオルドが、ぎょっ、としたように目を見開く。
そうしてから、ちっ、と小さく舌打ちをして、渋々といった体で掴んでいた顎から手を離すと、ジオルドは、がたり、と椅子を蹴立てて立ち上がり、声がした方へと、その長身を向けた。
ジオルドの拘束が解けたことに、ほうっ、と胸を撫で下ろしつつ、遮られていた視界の先に目を向ければ、鴉の羽のような黒いコートを羽織ったアレクが食堂の入り口に寄りかかるようにして立っている。
どうしてアレクがここにいるんだろう? という素朴な疑問は私が口にするまでもなく、すぐさま別の形でその答えを知ることとなった。
「ってアレク! お前、こんなところに何をしにきたんだ!?」
「何って街中巡回のついでに少し足を延ばしてみただけだ。そういうお前こそ、なぜここにいるんだ?」
「俺は寄宿舎で迷子になっていた子猫ちゃんを拾って、孤児院まで送り届けただけだぞ。そうだよねえ、美緒ちゃん」
「うえ!? え、あ、う……うん、まあ」
同意を求められ、戸惑いながらも頷く。
こちらの思惑としては寄宿舎のエントランスまで案内してもらうつもりだったのが、エントランスに向かう最中、どこに住んでいるの? と聞かれ、ついうっかり孤児院に身を寄せていると答えてしまい、その結果、孤児院までついてこられる羽目となってしまったのだが、それをアレクに説明したところで、なにがどうなるってこともないので、詳細については黙っていることにした。
というかそもそも事の発端となったのはアレクのせいではないか!
今朝がた度が過ぎた悪ふざけを仕掛けられたことを思い出し、一人憤慨していたら、藍色の瞳と、はたり、と目が合ってしまった。
「なるほどな。まあ何事もなく、無事に戻れたのならそれでいい。邪魔をしたな」
多くを語ろうとはしないが、部屋を飛び出した私が、ちゃんと孤児院に戻れたのかを心配して、巡回のついでに様子を見に来てくれたようだ。
言いたいことを一方的に伝え、寄りかかっていた壁から身体を起こし、ジオルドに一瞥を投げかけると、長いコートの裾を翻して、アレクは食堂から出て行ってしまう。
なんだかよくわからないが、妙な誤解を受けてしまったようだ。
「なんだ、あいつ? まあ、いいや。それよりもさっきの続きをしちゃおうか、美緒ちゃん」
そういうが早いか、唇を“ちゅう”の形に尖らせると、ジオルドは私の両手を掴み、がしっ、と握り締めると、ぐいっ、と顔を近づけてきた。
「ぎゃああああ! って何すんだ! このド変態!」
「もー、美緒ちゃんってば、そんなに照れなくてもいいんだよ。ほら目を閉じて」
「照れてなんかないわよ! ってか離してー!」
さきほどは色気ムンムンなフェロモンを放つジオルドの怪しげな雰囲気に、ついうっかり呑み込まれてしまったが、今度はそう簡単に攻略されてなるものかと、必死になって抵抗するものの、あくまで離す気はないらしく、ジオルドはがっちりと手首をロックしたままだ。
さすがに身の危険を感じて、自由の利く足でジオルドの脛を思いっきり蹴り上げてやったものの、痛さに少し顔を顰めたくらいで、手首を掴むその力は一向に緩まない。
弁慶の泣きどころと言われている向こう脛を蹴っても尚、怯まないその強靭さに慄きつつ、誰か助けてー! と泣きを入れたその矢先。
「ああ、そうだ。大事な要件があったのを思い出した」
いつの間に引き返してきたのか、食堂から出て行ったはずのアレクが、唇を“ちゅう”の形に尖らせて迫りくるジオルドの首根っこを、むんず、と引っ掴むと、べりっ、と私から引き剥がしてくれた。
「ってアレク、お前、一体どういうつもりだ!」
「だからさっき言っただろう? 大事な要件を思い出した、と」
「はあ!? 大事な要件ってなんだ? 俺は今忙しいんだ! さっさと要件を話せ!」
「ほう? 先ほどからお前の様子を見ていたが、どの辺りが忙しいのか、俺にはさっぱり理解できなかったがな。まあ、それについてはいいだろう」
「だーかーらーっ! うだうだと御託を並べてないで、早く要件を話せって言ってるだろうが!」
「ああ、そうだったな。ヴィネム通りで金品狙いの強盗が現れたそうだ。一度は包囲したようだが、強行突破で逃げられたらしい。これから調査に向かうところだ」
「はあ!? って、おい、ちょっと待て、アレク! それなら俺じゃなくて他のヤツに頼めばいいだろう! っておい、こら、アレク聞いてんのか!?」
「きゃんきゃんとうるさく吠えるお前の声ならよく聞こえているぞ。つべこべ言わずについてこい」
一度ならず、二度までも邪魔立てをされ、ぎゃんぎゃんと喚き立てる声には耳を傾けず、アレクは嫌がるジオルドの首根っこを引き摺って、食堂の入り口へと向かう。
「って、み……みおちゃあああぁあああぁあん!」
助けてくれー、と涙目で訴えかけるジオルドから、そっと視線を逸らしつつ、ファーストキス喪失の危機をどうにか回避できたことに、ほっ、と胸を撫で下ろす。
その日、強盗事件など、一件たりとも起きていなかったことを、私が知ったのは、それから数日が経ってからのことであった。
「本当だあ! ジオルドお兄ちゃん! 今日はおやつに何を買ってきてくれたの?」
「そんなことよりも、いつもみたいにチャンバラごっこしようぜ! ジオルド! 今日こそは負けねえからな!」
「もうー、男の子たちばかりズルいわよー! ジオルドは私たちと一緒にお遊戯するんだから!」
「そうよ、そうよ。今日もいつもみたいに面白くて楽しいお話をいっぱい聞かせてくれるんでしょう? 私、ジオルドが話してくれるお話が大好きなの!」
子供たちが喜びそうなお菓子やら、おもちゃやら、絵本やらが、大量に詰まった紙袋を両手に引っ提げて、孤児院に帰ってくるなり、わあ! という歓声とともに駆け寄ってきた子供たちに、あっという間に取り囲まれてしまった。
寄宿舎で声をかけられたときは、どう考えても、胡散臭いナンパのようにしか思えず、本当に信用しても大丈夫なのか? と不安だったのだが、子供たちの反応を見る限り、心にも思っていない美辞麗句を並び立て、甘い言葉を巧みに繰って、女の子を誑かし、金銭的あるいは肉体的に精魂尽き果てるまで弄び、必要がなくなった途端にボロ雑巾がごとく、ぽいっと投げ捨てるような真似をするほどの悪人ではなさそうだ。
だからといって、彼はとてもいい人よ! とも言い切れないのだが。
わあわあと口々に騒ぎ立てながら詰め寄る子供たちに包囲され、身動きが取れないでいる彼ことジオルドを横目に見遣りつつ、そんなことを考えていたら、きゅるるるるる、と腹の虫が小さく鳴く。
(そういや今日は寝起きから色々とあって、まだ朝ご飯食べてなかったなあ)
きゅうきゅうとうるさく鳴く腹を撫でながら、孤児院に戻るほんの少し前、街の中心部に建つ時計塔で時を告げる鐘が、打ち鳴らされていたことを、ふと思い出す。
高く澄んだ鐘の音が九回打ち鳴らされたそのすぐあとに続けて、少し短めの鐘が一回鳴っていたから、時刻は午前九時半を少し過ぎたくらいだろう。
朝ご飯を食べるには少し遅すぎる時間だが、これから子供たちが汚した衣服の洗濯やら、各部屋の掃除やらが待ち受けていることを考えれば、何かを食べて腹を満たしてやらないことには、お昼まで持ちそうにない。
腹が減っては戦はできぬ。
誰が言い出した言葉か知らないが、全く以ってその通りだと思う。古人は偉大なる名言を残してくれたものだ。
子供たちのことはジオルドに任せて、まずは腹ごしらえをしようと思い、色々なものが雑多に詰まった紙袋を抱えられるだけ抱え、食堂に向かおうとして。
「って美緒ちゃああぁあんっ!? 俺を一人置いてどこへ行くんだよう!」
「まだ朝ご飯を食べていないので済ませてきますね」
「だったら俺も一緒に……って美緒ちゃあぁあん! ああ、待て待て、お前たち! いいか、俺はこれからあのお姉さんと、とっても大事な話をしなければいけないんだ。お姉さんとの話が終わったら、たっぷりと遊んでやる。だから俺が戻ってくるまで、みんなで仲良く遊んで待っているんだ。いいな」
子供たちに包囲されて身動ぎできないでいる今こそがチャンスだ、とばかり、背中越しに聞こえるジオルドの声を無視して、そそくさとその場から逃げ去ろうとしたものの、その目論見はわずか数秒と経たないうちに、ものの見事に外れることとなってしまった。
どうやって手懐けたのかは知る由もないが、どうやらジオルドは子供たちから絶大な信頼を得ているようだ。
ええーっ、と不満の声こそ上げたものの、子供たちは、しょうがないなあ、といった体で、彼が口にした言葉をすんなりと受け入れると、蜘蛛の子を散らすように、庭の方へと一斉に走り去ってゆく。
その様子を唖然として見ていたら、子供たちの包囲網から容易に抜け出したジオルドに、あっという間に追いつかれてしまった。
「ようやく二人きりになれたね、美緒ちゃん♡」
宝石を埋め込んだかのような美しい色彩を放つアメジストの瞳を甘やかに瞬かせながら、にこやかな笑みを浮べたジオルドが嬉しそうに宣う。
やはりあのとき誘いに乗るべきではなかったのだと、私は思いっきり悔やむこととなった。
***
「ところで美緒ちゃんはどうしてあんな朝っぱらから、むさ苦しい野郎しかいない寄宿舎なんかで、迷子になってたの?」
騎士団寄宿舎内の食堂で提供されるメニューの中でも、一位二位の座を争うほどの人気を誇るという『リリーシャお手製カレーパン』に齧りついていた私は、新たに繰り出されたジオルドの素朴な質問に、うぐっ、と声を詰まらせた。
「え、えーっと、それはですね、騎士団の寄宿舎に入れる機会なんて、そう滅多にないだろうなあ、と思いまして。アレクシオさんに借りていた本を返しにきたついでに、ちょっとだけ見学して帰ろうかなあ、と思ったのですが、気がついたら、迷子になっていた、という次第です」
「ふうん、そうなんだ。なるほどねえ。いやしかしアレクシオがこんなにも可愛らしい子猫ちゃんと知り合いだったとはねえ。いやあ、あいつも隅に置けないもんだなあ」
さすがにアレクと一夜を共にしてました――もちろん健全的な意味合いでね!――とバカ正直に話すわけにもいかず、本来の目的であった本を返しに行くという理由を前面に押し出して答えれば、ジオルドは目をぱちくりと瞬かせて驚く。
あれほどの美形なのだから、女の子の知り合いなぞ、星の数ほどもいるだろうに、そんなに驚くことなのか? と少し不思議に思ったのだが、ここで下手に質問をして変に勘繰られても困ると思い、私は、ぱくり、とカレーパンに齧りついた。
きつね色に揚げられた表面はサクサクとしているのに、たっぷりと詰め込まれた具材を包み込む生地はもちもちとしていて、噛むたびに中から出てくるほんのりとスパイシーなカレーは、まろやかで深いコクがあって、ほっぺが落ちそうなほど美味しい。
こんなにも絶品だというのに、騎士団寄宿舎内の食堂だけに限定されているなんてもったいないなあ、なんてことを思いながら、あむあむとカレーパンに食いついていたら、何気にジオルドと目が合ってしまった。
「それにしても本当に珍しいよねえ。俺、黒い瞳を持つ人間に会ったのは初めてだわ。ねえ、美緒ちゃん、そろそろ本当のことを教えてくれないかなあ?」
「ほ……本当のことって、ジオルドさんから受けた質問には、ちゃんと答えを返しましたよ?」
「うん、まあ、そうなんだけどさ。美緒ちゃん、ずっと曖昧にはぐらかしてたよね?」
まじまじと顔を覗き込みながら、そんなことを言われ、私はさっきとはまた違った意味で、うぐっ、と声を詰まらせてしまった。
異世界を舞台にした物語なんかでは、黒い髪に黒い瞳を持つ人間は稀有な存在として、よく取り扱われているが、ここセラフィリアに於いても、その法則は例外なく適用されているようだ。
ただしセラフィリアに限って言えば、黒髪はさほど珍しいものではなく――現にアレクなんかは私よりも艶やかな黒い髪をしているし、街中を歩いていても、男女問わず、黒髪の人は意外と多い――珍しいとされているのは瞳の色だけに限定されている。
もちろん、カラーコンタクトなんて便利なものなどあるわけもなく、瞳の色だけは隠しようもなかったから、そのままで過ごすこととなったのだが、黒い瞳を持つ人間は本当に珍しいらしく、孤児院で暮らし始めてすぐの頃は会う人みんなから珍しがられ、よく質問攻めにあったものだ。
だから瞳の色に関して質問された時の対処法も、しっかりと身についているので、ジオルドに対しても、その対処法を使えばいいのだけれど。
(うーん、でもなあ……)
ほんの一時間ほど前、彼から声をかけられたときのことを思い出して、私は知らず知らずのうち、はあ、と嘆息を漏らした。
にこやかな笑みを満面に貼りつけて、私からの返事を心待ちにしている彼の名はジオルド・フェルナンド。年齢は二十五歳。
騎士を志すため、東大陸から単身渡ってきて、今では『アリルア国王立騎士団第一騎士団副師団長』を務めているそうだ。
本人曰く、何千人もの騎士が所属する騎士団の中に措いても、常に五本の指に入るほど、モテるらしいのだが、精悍な顔つきをした彼は傍目から見ても、かなり高水準の美形なので、モテるというのは確かな話なのだろう。
それを誇らしげに自己申告する辺りはどうかと思うのだが。
(そういや街で買い物をしていたときも、女の子の視線をやたらと集めてたもんなあ)
すれ違う買い物客から客寄せをする店員さんに至るまで、女性という女性のほとんどが年齢関係なく、道行くジオルドに熱い視線を送っていたことを思い返して、はあ、とまた一つ、溜め息を落とすと、私は横長のテーブルを挟んで、向かい側に座るジオルドを、ちらっ、と見やった。
長い睫毛に縁どられた瞳は本物の紫水晶を埋め込んだような深い輝きを放ち、きれいに整えられた眉はとても凛々しく、すっと通った鼻筋は形がよく、柔らかな笑みを湛える唇は艶やかで、どのパーツを取ってみても欠点らしい欠点はなく、本当に誰もが見惚れるような整った顔立ちをしている。
それでいて中庭に面した大きな窓から差し込む日差しに照らされて、きらめく銀色の短く刈り上げられた髪はつんと立った毛先が、あちらこちらへ自由に跳ねていて、あどけない少年のようだ。
彫刻のような美しさを持つアレクとは、また違ったタイプの美形と言えるだろう。
だがしかし天は二物を与えずとはよく言ったもので、このジオルドという人物、騎士道精神などとは果てしなく無縁の、それはそれはもうとんでもなく、チャラいキャラだったのだ!
女の子を口説くのが日課なんだー、と悪びれる風もなく、飄々と言い退けた彼の射程範囲は広く、なぜだか私もその圏内に入ってしまったらしく、出会ってから五分と経たないうちに、私は彼から怒涛のごとく、質問を浴びせかけられる羽目となったのだ。
艶やかな彼の唇から繰り出される質問の数々は名前や年齢などの基本的なものから始まり、中には初対面の人間に対してそんなことまで聞く!? と耳を疑うような質問までもが飛び出し、私の神経を大いにすり減らしてくれたのは言うまでもないだろう。
むろん私とて彼が繰り出す口撃を一方的に受けていたわけではない。
セラフィリアに飛ばされてからというもの、黒々とした稀有な瞳を持つ人間として珍しがられ、すっかり耐性ができていた私はジオルドが繰り出す『質問』という名の口撃を『適当にあしらう』というスキルで以って華麗に躱していたのだが、さすがにこうしてじっくりと腰を据えて対面した状況では、あやふやに言葉を濁すわけにもいかないだろう。
(うーん、なんて答えればいいんだろう……)
セラフィリアに於いて、黒い瞳は天然記念物並みに稀有なものだが、東大陸のごく一部に限られた地域で暮らすグリザムという少数民族は、生まれついて、黒い髪に黒い瞳を持つのだと教えてくれたのはアレクだ。
事情聴取を受けたあの日、命令という形で自分の生まれや家族のことを聞かれても答えるな、と告げたアレクは万が一のことを想定して、もし逃げ切れないのであれば、自分はグリザムの人間だと答えろ、と切り札を与えてくれていたのだ。
切り札を使うのであれば、正しく、今がその時であろう。
だがしかしジオルドが東大陸出身であることや、あくなきまで追及しようとする彼の性質を考えれば、ここで切り札を使うのは、少々危険なようにも思う。
与えられた答えを口にするのは簡単だが、それに対して、さらに掘り下げて追及されれば、たちどころに手詰まってしまうのは目に見えた結果だ。
そうしてジオルドに限ってはそうなる可能性が非常に高いのだ。
「そんなに慌てて喰わなくても、カレーパンは逃げないって」
二個目となるカレーパンに齧りつきつつ、どう立ち振る舞えばよいのだろうか、と頭を悩ませていたら、ふっ、と表情を緩ませて、形の良い唇の上に微苦笑を浮べると、ジオルドがすっと腕を伸ばす。
カレーパンに齧りついたまま、身構えていたら、ジオルドの親指が唇に触れた。
「ほら、ついてるぞ」
そんなことを言いながら、親指の腹に力を入れて、ぐいっ、と唇の端を拭う。
どうやら口端にくっついていたカレーを取ってくれたようだ。
「んー、リリーシャの作ったカレーはやっぱり最高だなあ。っていうか、これって間接キスってやつだよね、美緒ちゃん♡」
自然なその振る舞いに惚けていたら、親指の先にくっついていたカレーを、ぺろり、と舐め取ると、屈託のない少年のような笑みを浮べて、ジオルドがそんなことを宣う。
いくら免疫がないとはいえ、さすがに間接キス程度で動揺するほど初心ではないが、それなりの美形から嬉しそうに申告されてしまえば、否応にも心臓は跳ね上がってしまう。
かあああ、と頬が熱を帯びてゆくのを感じて、恥ずかしさのあまり、顔を背けようとして、それよりも一瞬早く、一度は離れたはずのジオルドの指先が今度は顎を捉えた。
「いまどき間接キスで顔を赤くさせるなんて新鮮だなあ。でも美緒ちゃんみたいに純情な女の子もすんごく好きだなあ。なんならこのままキスしちゃおうか?」
なんともふざけた軽いノリだが、見下ろす眼差しは口調とは裏腹、真剣みを帯びている。
妙な色香を含んだ艶やかな瞳で見つめられ、ジオルドが醸し出す妖艶な雰囲気についうっかり呑み込まれてしまい、咥えていたカレーパンを、ぼとり、とテーブルの上に落としてしまった。
とその一瞬の隙を突いて、顎を掴むジオルドの指先に力が籠もったかと思えば、次の瞬間には肘をついて身を乗り出したジオルドに肩を引っ張られ、一気に距離を詰められていた。
間にテーブルを挟んでいるとはいえ、その距離はあまりにも近い。
少しでも動こうものなら誤って唇が触れてしまいそうなくらい、間近に迫ったその端正な顔立ちから目が離せないまま、突然のことに、ぴきり、と固まっていたらば。
「入るぞ」
そんな声とともに木を打ちつけた床を、かつり、と踏む靴音が鼓膜を揺らした。
眼前にまで差し迫っていたジオルドが、ぎょっ、としたように目を見開く。
そうしてから、ちっ、と小さく舌打ちをして、渋々といった体で掴んでいた顎から手を離すと、ジオルドは、がたり、と椅子を蹴立てて立ち上がり、声がした方へと、その長身を向けた。
ジオルドの拘束が解けたことに、ほうっ、と胸を撫で下ろしつつ、遮られていた視界の先に目を向ければ、鴉の羽のような黒いコートを羽織ったアレクが食堂の入り口に寄りかかるようにして立っている。
どうしてアレクがここにいるんだろう? という素朴な疑問は私が口にするまでもなく、すぐさま別の形でその答えを知ることとなった。
「ってアレク! お前、こんなところに何をしにきたんだ!?」
「何って街中巡回のついでに少し足を延ばしてみただけだ。そういうお前こそ、なぜここにいるんだ?」
「俺は寄宿舎で迷子になっていた子猫ちゃんを拾って、孤児院まで送り届けただけだぞ。そうだよねえ、美緒ちゃん」
「うえ!? え、あ、う……うん、まあ」
同意を求められ、戸惑いながらも頷く。
こちらの思惑としては寄宿舎のエントランスまで案内してもらうつもりだったのが、エントランスに向かう最中、どこに住んでいるの? と聞かれ、ついうっかり孤児院に身を寄せていると答えてしまい、その結果、孤児院までついてこられる羽目となってしまったのだが、それをアレクに説明したところで、なにがどうなるってこともないので、詳細については黙っていることにした。
というかそもそも事の発端となったのはアレクのせいではないか!
今朝がた度が過ぎた悪ふざけを仕掛けられたことを思い出し、一人憤慨していたら、藍色の瞳と、はたり、と目が合ってしまった。
「なるほどな。まあ何事もなく、無事に戻れたのならそれでいい。邪魔をしたな」
多くを語ろうとはしないが、部屋を飛び出した私が、ちゃんと孤児院に戻れたのかを心配して、巡回のついでに様子を見に来てくれたようだ。
言いたいことを一方的に伝え、寄りかかっていた壁から身体を起こし、ジオルドに一瞥を投げかけると、長いコートの裾を翻して、アレクは食堂から出て行ってしまう。
なんだかよくわからないが、妙な誤解を受けてしまったようだ。
「なんだ、あいつ? まあ、いいや。それよりもさっきの続きをしちゃおうか、美緒ちゃん」
そういうが早いか、唇を“ちゅう”の形に尖らせると、ジオルドは私の両手を掴み、がしっ、と握り締めると、ぐいっ、と顔を近づけてきた。
「ぎゃああああ! って何すんだ! このド変態!」
「もー、美緒ちゃんってば、そんなに照れなくてもいいんだよ。ほら目を閉じて」
「照れてなんかないわよ! ってか離してー!」
さきほどは色気ムンムンなフェロモンを放つジオルドの怪しげな雰囲気に、ついうっかり呑み込まれてしまったが、今度はそう簡単に攻略されてなるものかと、必死になって抵抗するものの、あくまで離す気はないらしく、ジオルドはがっちりと手首をロックしたままだ。
さすがに身の危険を感じて、自由の利く足でジオルドの脛を思いっきり蹴り上げてやったものの、痛さに少し顔を顰めたくらいで、手首を掴むその力は一向に緩まない。
弁慶の泣きどころと言われている向こう脛を蹴っても尚、怯まないその強靭さに慄きつつ、誰か助けてー! と泣きを入れたその矢先。
「ああ、そうだ。大事な要件があったのを思い出した」
いつの間に引き返してきたのか、食堂から出て行ったはずのアレクが、唇を“ちゅう”の形に尖らせて迫りくるジオルドの首根っこを、むんず、と引っ掴むと、べりっ、と私から引き剥がしてくれた。
「ってアレク、お前、一体どういうつもりだ!」
「だからさっき言っただろう? 大事な要件を思い出した、と」
「はあ!? 大事な要件ってなんだ? 俺は今忙しいんだ! さっさと要件を話せ!」
「ほう? 先ほどからお前の様子を見ていたが、どの辺りが忙しいのか、俺にはさっぱり理解できなかったがな。まあ、それについてはいいだろう」
「だーかーらーっ! うだうだと御託を並べてないで、早く要件を話せって言ってるだろうが!」
「ああ、そうだったな。ヴィネム通りで金品狙いの強盗が現れたそうだ。一度は包囲したようだが、強行突破で逃げられたらしい。これから調査に向かうところだ」
「はあ!? って、おい、ちょっと待て、アレク! それなら俺じゃなくて他のヤツに頼めばいいだろう! っておい、こら、アレク聞いてんのか!?」
「きゃんきゃんとうるさく吠えるお前の声ならよく聞こえているぞ。つべこべ言わずについてこい」
一度ならず、二度までも邪魔立てをされ、ぎゃんぎゃんと喚き立てる声には耳を傾けず、アレクは嫌がるジオルドの首根っこを引き摺って、食堂の入り口へと向かう。
「って、み……みおちゃあああぁあああぁあん!」
助けてくれー、と涙目で訴えかけるジオルドから、そっと視線を逸らしつつ、ファーストキス喪失の危機をどうにか回避できたことに、ほっ、と胸を撫で下ろす。
その日、強盗事件など、一件たりとも起きていなかったことを、私が知ったのは、それから数日が経ってからのことであった。