紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
追い詰められた少女の選択肢⑤
「や……やっと辿り着い……たっ!」
ぜいはあ、ぜいはあ、と肩で呼吸をしながら、立ち止まった彼女は、深い渓を隔てた向こう側を感慨深げに見つめた。
身に覚えのない罪を着せられ、囚われの身になってから、早三ヶ月。
ここから絶対に逃げ出してやる! と亡命を決意したのは、いつの日だっただろうか。
あれは確か――……と懐古するほど、そう遠い記憶でもないが、それでもここに至るまでのさまざまな苦難を思い返せば、自然と胸に熱いものが込み上げてくる。
これまでの出来事が走馬灯のように脳裏を過ぎり、知らず知らずのうち、緩んだ涙腺から、ほろり、と涙が溢れ落ちたことに気づき、慌てて目尻に手の甲を押し当てると、彼女は再び浮かび上がってきた涙を、ぐしり、と些か乱暴に拭った。
国境までもうあと僅かばかりだが、それでもまだ気を緩めるわけにはいかない。
今のところ、ユリウスやヴォルハラムたちが追ってくる様子はないが、彼らだって馬鹿ではない。彼女が国境を目指していることには気づいているはずだ。けれど未だに誰一人として姿を見せないなんて、どう考えたっておかしい。
きっと何か裏があるはずだ、と思えば、このまま先に進んでもいいのだろうか、と迷いが生じてしまう。
やっとの思いでここまで来たのだから、引き返すような真似はしたくないと思う一方で、これ以上、先に進むのは危険だと思う気持ちも強く、相反する二つの感情が激しく鬩ぎ合い、ゴールを目前にして、彼女の足取りは、ぴたり、と止まってしまった。
ここに辿り着くまでの間にも、自分の取った行動は果たして合っているのだろうか、と不安に駆られることは何度もあった。
そのたびに弱気になる自分を奮い立たせて、どうにか前へ突き進んできたが、今回はこれまでとは少々――……否、かなり事情が違う。
これが単純に魔物や賊に追われているだけの話であれば、多少無理強いをしてでも、迷わず強行突破して国境を目指していただろう。だが相手が自分の素姓を知る人間となれば、話はまた異なってくる。
彼女にとって何よりも一番に避けたいのは追跡者に捕らわれることだ。
そのことを考えれば、今からでも予定を変更して、別のルートで国境を越えた方が賢明なのかもしれないと思ったが、彼女はすぐさまその考えを打ち消した。
北の大陸には大きく分けて三つの大国があり、国境を越えるための関所も、十数か所ほど設けられていて、その数は決して少なくはない。
だが今現在、彼女が住まう国―――ヴェルヘイヌ国は他国との交流を一切断ち切っており、国が認めた一部の人間と交易品の売買を目的とした行商人のみが出国を許されているだけで、それ以外の民は他大陸へ渡ることは愚か国境を越えて、隣国へ行くことさえも禁じられている。
他国への渡航を禁止する旨を言い渡され、突然のことに一時期は混乱を極めたが、それは日常生活に大きく支障をきたすほどのものでもなく、またほとんどの民にとっては直接関係がなかったため、今では人々の関心もすっかり薄れ、自分の住まう国が鎖国状態であることさえ、忘れてしまっている者もいるくらいだ。
だがしかし国交が断絶されたことによって、不利益を被った人間がいることもまた事実だ。
交易商を営みながらも、思ったように利益を得られず、生産性が悪いからという理由で、出国を認められなかった者もいれば、他国との往来が禁じられたがために、遠く離れて暮らす家族に会うことすら敵わない者だっている。
そういった民たちからの不満の声が届いた結果なのかどうかは分からないが、ヴェルヘイヌ国に点在する全ての関所が閉鎖されたわけではなく、ごく一部に限られてはいるが、国からの許可が下りなくとも、自由に行き来が可能な関所もあるのだ。
ただしそれらの関所は公に認められたものではなく、またそれらのどれもが獰猛な獣や魔物に遭遇する可能性はもちろんのこと、山賊や追い剝ぎといった輩に襲われる可能性も高く、一歩間違えれば、死に直結しかねないという、非常に危険なルートばかりなのだ。
実際、この一年間で秘密裏に国境を越えようとした者の三割近くが、魔物や獣あるいは盗賊などに襲われ、非業の死を遂げている。
国からの許可なしで国境を越えられる――……という最大の利点を得られる反面、背負うリスクは大きく、いつどこでなにが起こるか、全く予見できなければ、いつどこで命の危険に曝されるか見当もつかない。
むろん、秘密裏に国境を越えようとした全ての者が、死に直結したわけではない。
寧ろ数値だけを並べれば、七割―――つまり半数以上の人間は、国境を超えることに成功しているのだ。
ただし命を落とさなかったというだけの話で、国境を超えることは出来たものの、その代償として、魔物に腕を食い千切られた者もいれば、先を急ぐがあまり、枝葉の先で眼球を痛め、視力を完全に失った者だっているし、虫に刺された小さな傷から細菌が入り込み、未知の病に侵された者もいると聞く。
怪我こそ負わないで済んだものの、追い剝ぎに遭い、財産の全てを奪われた者だって、中にはいただろう。
それらのことを引っ包めて考えれば、本当の意味で何事もなく、無事に国境を超えられた者は、おそらく半数にも満たないはずだ。
そんな厳しい条件の中、偶然にも離宮のすぐそばに、自由に行き来ができる関所があって、それが幼いころから慣れ親しんでいたグリーヴァの森だったからこそ、常に危険と隣り合わせであることは承知の上で決意を固め、ここまで突き進んできたのだ。
目標としていた国境を目の前にして、これまで積み重ねてきたことの全てを白紙に戻して、また一から立て直すというのは、どうしても躊躇してしまう。
それにここでルートを変えたからといって、無傷で国境を越えられる保障など一切ないし、それ以前、彼女は移動する術を持ち合わせていない。
周囲を海に囲まれた孤島というわけではないから、理論上は歩いて移動することも可能だが、なにしろ彼女がいる場所は、訪れる者がほとんどいない辺境の地だ。
今いる場所から一番近いのは、フォラクス山脈の峠を越えた先にある関所だが、グリーヴァの森から休むことなく馬を駆り続けても、丸一日以上はかかるだろうし、無許可で国境を越えられるルートの中でも、一、二位を争うほどに険しく厳しい道のりだと聞いたことがある。
むろんフォラクス山脈の麓に辿り着くまでの間に、いくつかの村や町が点在しているから、市場で必要な道具や装備を整え、馬を購入すれば、できないこともない話だが、一番最寄りの町へ向かうにしても、歩いていくとなれば、途方もない距離を何日もかけて移動しなければならず、どう考えても建設的でないのは確かだ。
せめて馬を使っていれば――……と少し後悔したものの、体力も気力も使い果たした今となっては、たとえ移動手段を持ち合わせていたとしても、正直、引き返そうとは思わなかっただろう。
(――……どっちにしても引き返せないのだから進むしかないわ)
しばしの間、あれこれと逡巡していた彼女は、そう決断を下すと、きっ、と前方を見据え、一度は止めた足を再び動かし始めた。
谷底から吹き上げる強い風に巻き込まれ、足元に転がっていた小石が、からころと乾いた音を立てて、奈落の底へと落ちていくのを横目に見ながら、崖の縁に沿って一歩一歩慎重に歩を進めてゆく。
足を滑らせないよう、細心の注意を払いつつ、神経を研ぎ澄ませ、周囲に人の気配がないかを探る。一秒たりとも気を緩めることは許されない状況に、愛用の剣を握り締める掌にも自ずと力が籠もる。
極度の緊迫感からか、背中に冷たい汗が伝い落ちるのを感じつつ、崖の縁に沿って歩いていた彼女は、少し先の方に、天に向かって聳え立つ支柱らしきものを見つけ、強張らせていた表情を、ほんの一瞬、綻ばせた。
(やっと――……やっと辿り着いたわ!)
彼女の記憶が確かならば、そこには深い渓を挟んで、対岸へと続く吊り橋が架かっていたはずだ。
逸る気持ちを抑えきれず、橋の袂へと駆け寄った彼女は、けれど次の瞬間、視界が捉えた信じがたい光景に、その表情を凍りつかせた。
「うそ……どう……して、」
半開きの唇から洩れたか細い声を谷風が搔っ攫ってゆく。
幽閉される少し前、この場所を訪れた時には、確かにあったはずの吊り橋は、その根元から崩れ落ち、無残な姿を曝け出していた。
ぜいはあ、ぜいはあ、と肩で呼吸をしながら、立ち止まった彼女は、深い渓を隔てた向こう側を感慨深げに見つめた。
身に覚えのない罪を着せられ、囚われの身になってから、早三ヶ月。
ここから絶対に逃げ出してやる! と亡命を決意したのは、いつの日だっただろうか。
あれは確か――……と懐古するほど、そう遠い記憶でもないが、それでもここに至るまでのさまざまな苦難を思い返せば、自然と胸に熱いものが込み上げてくる。
これまでの出来事が走馬灯のように脳裏を過ぎり、知らず知らずのうち、緩んだ涙腺から、ほろり、と涙が溢れ落ちたことに気づき、慌てて目尻に手の甲を押し当てると、彼女は再び浮かび上がってきた涙を、ぐしり、と些か乱暴に拭った。
国境までもうあと僅かばかりだが、それでもまだ気を緩めるわけにはいかない。
今のところ、ユリウスやヴォルハラムたちが追ってくる様子はないが、彼らだって馬鹿ではない。彼女が国境を目指していることには気づいているはずだ。けれど未だに誰一人として姿を見せないなんて、どう考えたっておかしい。
きっと何か裏があるはずだ、と思えば、このまま先に進んでもいいのだろうか、と迷いが生じてしまう。
やっとの思いでここまで来たのだから、引き返すような真似はしたくないと思う一方で、これ以上、先に進むのは危険だと思う気持ちも強く、相反する二つの感情が激しく鬩ぎ合い、ゴールを目前にして、彼女の足取りは、ぴたり、と止まってしまった。
ここに辿り着くまでの間にも、自分の取った行動は果たして合っているのだろうか、と不安に駆られることは何度もあった。
そのたびに弱気になる自分を奮い立たせて、どうにか前へ突き進んできたが、今回はこれまでとは少々――……否、かなり事情が違う。
これが単純に魔物や賊に追われているだけの話であれば、多少無理強いをしてでも、迷わず強行突破して国境を目指していただろう。だが相手が自分の素姓を知る人間となれば、話はまた異なってくる。
彼女にとって何よりも一番に避けたいのは追跡者に捕らわれることだ。
そのことを考えれば、今からでも予定を変更して、別のルートで国境を越えた方が賢明なのかもしれないと思ったが、彼女はすぐさまその考えを打ち消した。
北の大陸には大きく分けて三つの大国があり、国境を越えるための関所も、十数か所ほど設けられていて、その数は決して少なくはない。
だが今現在、彼女が住まう国―――ヴェルヘイヌ国は他国との交流を一切断ち切っており、国が認めた一部の人間と交易品の売買を目的とした行商人のみが出国を許されているだけで、それ以外の民は他大陸へ渡ることは愚か国境を越えて、隣国へ行くことさえも禁じられている。
他国への渡航を禁止する旨を言い渡され、突然のことに一時期は混乱を極めたが、それは日常生活に大きく支障をきたすほどのものでもなく、またほとんどの民にとっては直接関係がなかったため、今では人々の関心もすっかり薄れ、自分の住まう国が鎖国状態であることさえ、忘れてしまっている者もいるくらいだ。
だがしかし国交が断絶されたことによって、不利益を被った人間がいることもまた事実だ。
交易商を営みながらも、思ったように利益を得られず、生産性が悪いからという理由で、出国を認められなかった者もいれば、他国との往来が禁じられたがために、遠く離れて暮らす家族に会うことすら敵わない者だっている。
そういった民たちからの不満の声が届いた結果なのかどうかは分からないが、ヴェルヘイヌ国に点在する全ての関所が閉鎖されたわけではなく、ごく一部に限られてはいるが、国からの許可が下りなくとも、自由に行き来が可能な関所もあるのだ。
ただしそれらの関所は公に認められたものではなく、またそれらのどれもが獰猛な獣や魔物に遭遇する可能性はもちろんのこと、山賊や追い剝ぎといった輩に襲われる可能性も高く、一歩間違えれば、死に直結しかねないという、非常に危険なルートばかりなのだ。
実際、この一年間で秘密裏に国境を越えようとした者の三割近くが、魔物や獣あるいは盗賊などに襲われ、非業の死を遂げている。
国からの許可なしで国境を越えられる――……という最大の利点を得られる反面、背負うリスクは大きく、いつどこでなにが起こるか、全く予見できなければ、いつどこで命の危険に曝されるか見当もつかない。
むろん、秘密裏に国境を越えようとした全ての者が、死に直結したわけではない。
寧ろ数値だけを並べれば、七割―――つまり半数以上の人間は、国境を超えることに成功しているのだ。
ただし命を落とさなかったというだけの話で、国境を超えることは出来たものの、その代償として、魔物に腕を食い千切られた者もいれば、先を急ぐがあまり、枝葉の先で眼球を痛め、視力を完全に失った者だっているし、虫に刺された小さな傷から細菌が入り込み、未知の病に侵された者もいると聞く。
怪我こそ負わないで済んだものの、追い剝ぎに遭い、財産の全てを奪われた者だって、中にはいただろう。
それらのことを引っ包めて考えれば、本当の意味で何事もなく、無事に国境を超えられた者は、おそらく半数にも満たないはずだ。
そんな厳しい条件の中、偶然にも離宮のすぐそばに、自由に行き来ができる関所があって、それが幼いころから慣れ親しんでいたグリーヴァの森だったからこそ、常に危険と隣り合わせであることは承知の上で決意を固め、ここまで突き進んできたのだ。
目標としていた国境を目の前にして、これまで積み重ねてきたことの全てを白紙に戻して、また一から立て直すというのは、どうしても躊躇してしまう。
それにここでルートを変えたからといって、無傷で国境を越えられる保障など一切ないし、それ以前、彼女は移動する術を持ち合わせていない。
周囲を海に囲まれた孤島というわけではないから、理論上は歩いて移動することも可能だが、なにしろ彼女がいる場所は、訪れる者がほとんどいない辺境の地だ。
今いる場所から一番近いのは、フォラクス山脈の峠を越えた先にある関所だが、グリーヴァの森から休むことなく馬を駆り続けても、丸一日以上はかかるだろうし、無許可で国境を越えられるルートの中でも、一、二位を争うほどに険しく厳しい道のりだと聞いたことがある。
むろんフォラクス山脈の麓に辿り着くまでの間に、いくつかの村や町が点在しているから、市場で必要な道具や装備を整え、馬を購入すれば、できないこともない話だが、一番最寄りの町へ向かうにしても、歩いていくとなれば、途方もない距離を何日もかけて移動しなければならず、どう考えても建設的でないのは確かだ。
せめて馬を使っていれば――……と少し後悔したものの、体力も気力も使い果たした今となっては、たとえ移動手段を持ち合わせていたとしても、正直、引き返そうとは思わなかっただろう。
(――……どっちにしても引き返せないのだから進むしかないわ)
しばしの間、あれこれと逡巡していた彼女は、そう決断を下すと、きっ、と前方を見据え、一度は止めた足を再び動かし始めた。
谷底から吹き上げる強い風に巻き込まれ、足元に転がっていた小石が、からころと乾いた音を立てて、奈落の底へと落ちていくのを横目に見ながら、崖の縁に沿って一歩一歩慎重に歩を進めてゆく。
足を滑らせないよう、細心の注意を払いつつ、神経を研ぎ澄ませ、周囲に人の気配がないかを探る。一秒たりとも気を緩めることは許されない状況に、愛用の剣を握り締める掌にも自ずと力が籠もる。
極度の緊迫感からか、背中に冷たい汗が伝い落ちるのを感じつつ、崖の縁に沿って歩いていた彼女は、少し先の方に、天に向かって聳え立つ支柱らしきものを見つけ、強張らせていた表情を、ほんの一瞬、綻ばせた。
(やっと――……やっと辿り着いたわ!)
彼女の記憶が確かならば、そこには深い渓を挟んで、対岸へと続く吊り橋が架かっていたはずだ。
逸る気持ちを抑えきれず、橋の袂へと駆け寄った彼女は、けれど次の瞬間、視界が捉えた信じがたい光景に、その表情を凍りつかせた。
「うそ……どう……して、」
半開きの唇から洩れたか細い声を谷風が搔っ攫ってゆく。
幽閉される少し前、この場所を訪れた時には、確かにあったはずの吊り橋は、その根元から崩れ落ち、無残な姿を曝け出していた。