紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
新たな出会いは波乱の予感?①
桜色のティーポットから注がれた紅茶が芳しい香りと、真っ白な湯気を燻らせて、ポットとお揃いのカップの中へと注がれる。
濡れタオルを額に乗せ、三人掛けのソファーに寝そべっていた私は、ふわり、と鼻先をくすぐったほのかに甘い匂いに鼻をひくつかせると、むくり、とソファーから起き上がった。
「おや、起きたりして、大丈夫なのかい?」
「はい、もう大丈夫です。ご迷惑をお掛けしてすみません」
「迷惑だなんて、これっぽっちも思っちゃあいないよ。それよりもこれをお飲み。気分が優れないときに飲むと良いとされる香草が入った紅茶だから、今のお前さんにぴったりだろうよ」
「ありがとうございます。マルティーヌ大司教さま」
「いやだねえ。大司教と呼ばれていたのは、ずいぶんと昔の話で、今はただのしがない婆さんなんだから、そういう堅苦しい呼び方は止しとくれ」
「ええっと……それではマルティーヌお婆さま、とお呼びしてもいいですか?」
「そうだねえ。それでもまだまだ堅っ苦しいけれど、でもまあそれで構わないよ。そんなことよりも冷めてしまわないうちに早く飲んでおしまい」
「はい。じゃあ、いただきます」
柔らかい色彩を放つ紫色の瞳をやんわりと細め、穏やかな笑みを浮べるマルティーヌさんに促され、真っ白い湯気を燻らせる温かい紅茶を一口啜れば、ほんのりとした甘みが口いっぱいに広がってゆく。
張り詰めていた神経が、やわやわと解されてゆくのを感じながら、ほう、と小さく息を吐いていたら、開け放たれた窓から舞い込んだ新緑の風が、レース編みのカーテンを、はたり、と戦がせた。
つるっつる頭の酔っ払いに絡まれるという不測の事態に巻き込まれ、何が何やら理解が追いつかないまま、修羅場と化した酒場から逃げ出し、レイチェルさんに手を引かれるがまま、街外れに建つマルティーヌさんが運営する教会に転がり込んだのは、今から遡ること、一時間ばかり前の話。
悪酔いして気分が悪かったことに加え、張り詰めていた神経が一気に緩んだことも手伝って、私は教会に着くなり、フェードアウトしてしまい、ややしてから目が覚めた時には、ソファーの上で寝かされていた。
意識が戻ってからも、すぐに起き上がることはできず、ソファーに寝そべったまま、動けないでいたら、マルティーヌさんは私を介抱しながら、自身のことやレイチェルさんのことを、あれこれと教えてくれた。
御年73歳を迎えたばかりだというマルティーヌさんは、丁寧に結われた琥珀色の髪のところどころに、白髪が混じっていることと、少し腰が曲がっていることを除けば、そこまで年老いたようには見えず、しゃきしゃきと機敏に動き回るその様子は、寧ろ、実年齢よりも、ずいぶんと若々しく見えるくらいだ。
今はしがない隠居の身だと言っていたけれど、セラフィリアで随一の大国であるミストリア帝国の大神殿で、長年にわたり、大司教を務めてきたマルティーヌさんの功績は、誰もが認めるところであり、彼女のことを知らない聖職者はいないといっても過言ではないそうだ。
とまあそんな感じで聖職者業界では、知る人ぞ知る超有名なマルティーヌさんだが、六十五歳を迎えたその日に、歳には勝てんよと言って、一線から退くことを決め、生まれ故郷であるハイゼンティアへと舞い戻ったそうだ。
そうして今は街外れに建つ教会の経営者として、後継者となりうる若手神官たちを育成しつつ、その傍ら施設で暮らす子供たちに囲まれ、まったりと隠居生活を楽しんでいるのだそうだ。
「すごく美味しいです。マルティーヌお婆さま」
「そうかい、そうかい。それは良かったよ。手塩にかけて育てた甲斐があったってものだねえ」
「手塩にかけたって……もしかして、この紅茶、茶葉から手作りしたんですか?」
「ああ、そうだよ。敷地内の一角に農園があってね。子供たちと一緒に野菜や果樹や草花を育てているんだ」
「だからこんなにも美味しいんですね! 自家菜園で育てた茶葉を煎じて飲むなんてすごく素敵!」
「そんな風に言ってもらえると嬉しいもんだねえ。どうだい? もう一杯、お代わりするかい?」
「はい! いただきます!」
傍らにあったアンティーク調のティーポットを傾けながら、ふふふ、と嬉しそうに含み笑いを覗かせるマルティーヌさんに頷き返しつつ、カップの底に残っていた紅茶を飲み干そうとして、その直後、まったくもうっ! と呆れたような声が反対側から飛んできた。
何かと思って声がした方へ目を向ければ、ピンク髪の彼女――……改め、レイチェルさんが傷の手当てを終えたばかりのレナードの頭を、ぺちり、と叩く。
「いきなり頭を叩くとか横暴だなあ。怪我人なんだからさー、もうちょっと優しく扱ってくれてもいいんじゃないの?」
「……って、そんな大した傷じゃないでしょうが! 手当てをしてもらえているだけでも、ありがたいと思いなさい! そんなことよりも荒くれ者が多い冒険者ギルドの酒場に、彼女みたいな見るからに、か弱そうな女の子を連れてくるなんて、いったい何を考えてたんだい!?」
「だからそれについては、さっきから何回も説明してるだろう? 別にやましい気持ちで連れてきたわけじゃないってば」
「確かにまあ、あんたがそういう卑劣な真似をするようなヤツじゃないのは、百も承知しているけれど、それにしたって、今日のあんたの行動は褒められたものじゃないわよ? 私が居合わせていたから、どうにか逃げ切れたものの、私がいなかったら、どうするつもりだったのよ!?」
「もちろん、あの場にレイチェルがいなかったら、それはそれで対応するつもりでいたよ? っていうかさ、過ぎたことをあーだこーだと言い合うのって、ものすごく不毛だと思わない?」
「って、レナード! その口調は全く反省してないでしょ! 怖い思いをしたのは彼女なんだからね! ミオちゃん、あなたももっと怒ってもいいのよ?」
不意に始まったレナードとレイチェルさんの攻防戦を、火の粉が及ばない対岸から眺めやっていた私は、いきなり話の矛先を向けられ、うぐっ、と声を詰まらせた。
レイチェルさんは私より二つ年上の二十歳で、同い歳のレナードとは、十年以上もの長い付き合いだそうだ。
これまでの彼女の言動を見る限り、姉御肌の頼りがいがあるお姉さんって感じだが、そんな印象とは違って、彼女の生い立ちはなかなかに波乱万丈なもので、十二歳を迎えたその年に生まれ育った国で、小規模な戦が起こり、敗戦によって住む場所と家族の両方を失くしたレイチェルさんは、肉親以外に頼れそうな親族や知り合いもなく、有望な引き取り手も現れなかったため、マルティーヌさんが彼女を預かることになったそうだ。
世界中に影響を及ぼすほどの大きな戦は、ここ数百年の間は起きていないものの、領土や天然資源を巡っての小国同士の衝突であったり、民族間での小規模な争いは現在でも頻繁に起きていて、レイチェルさんのように戦で両親を失う子供は少なくないそうだ。
そのためセラフィリアでは世界中のあらゆる場所に点在する教会のほとんどで、身寄りのない孤児たちを預かる施設が併設され、引き取られた子供たちが独り立ちできるよう、様々な支援活動を行っている。
今の私がそうであるように、レイチェルさんもまた施設に身を寄せ、何かと多忙なマルティーヌさんの手助けをしながら、年下の子供たちの面倒を見ていたそうだが、今から四年ほど前に参加した謝肉祭の余興で、お披露目した踊りが大富豪の目に留まり、彼女の踊り子としての類まれなる素質と才能に惚れ込んだ大富豪に口説かれ、今では大富豪が抱える劇団の一員として、大活躍しているそうだ。
セラフィリアでも三本の指に入るほど、由緒ある劇団にスカウトされ、一年のうちの三分の二は、公演で世界各地を飛び回っているという彼女だが、受けた恩はきちんと返したいから、との理由で、稼いだお金のほとんどは施設に寄付し、彼女自身は今でも各地に点在する施設で暮らしているのだという。
彼女が望めば、今よりも質の良い暮らしだって、できるはずなのに、自分自身のことは二の次で、献身的に奉仕活動をするレイチェルさんの志の高さに感銘を受けつつ、二人のやり取りを何となしに眺めていたところに、先ほどの台詞を投げかけられることとなったわけなのだが。
「え……えーっと、でも、レナードもちゃんと助けに来てくれたし、身を挺して守ってくれようとしたのは確かなので、そろそろ許してあげてもいいんじゃないかなあ……って思うんですけど、」
「あー! だめだめだめだめだめ! そういう甘いことを言っちゃあダメよ、ミオちゃん! こういう時こそ厳しくお灸を据えておかないと! うーん、でも、そうねえ。ミオちゃんもちょっと優しすぎるというか、警戒心がなさすぎるところがあるのよねえ」
怪我の手当てを受けている最中から、延々と説教を喰らっているレナードが気の毒に思えて、それとはなしに援護するなり、今度は自分が矢面に立たされてしまい、私はまたしても、うぐり、と声を詰まらせてしまった。
そんなことはないと言い返したいところだが、あまりにも身に覚えがありすぎて、ぐうの音も返せず、黙り込んでいたら、レイチェルさんは、そうねえ、と呟くと、胸元が大きく開いた煽情的なドレスの裾を捲り上げ、艶めかしく黒光りするガーターベルトに仕込んでいたナイフを一本抜き取ると、それを私の掌に載せた。
「さすがにこれで魔物を倒すのは無理だけど、さっきみたいなごろつきを追い払うくらいなら、きっと役に立つと思うから、護身用に持っておくといいわ」
「え、えーっと……ありがとう、ございます」
突然、渡されたナイフの扱いに困ってしまったが、私の身の安全を考えた上でのことだと思えば、無碍に断ることもできず、戸惑いつつも、ナイフを譲り受ければ、レイチェルさんは、にこり、と満足げに笑む。
護身用とはいえ、武器を持ち歩くなんて物騒だなあ、なんて思ったが、そんな風に考えてしまうこと自体が、周りからすれば『警戒心がなさすぎる』ように見えてしまうのだろう。
今、自分がいる世界は決して安全ではないということは、アレクやレナードからも耳にタコができるくらい、何度も言い聞かされているし、実際、一か月半ほどの短い期間に幾度となく、危険な目に遭っているのは紛れもない事実だ。
備えあれば憂いなしっていう諺もあることだし、お守り感覚で持ち歩くだけなら問題ないか、という結論に落ち着き、鞘に収まった小振りのナイフをポシェットの中に入れていたら、こんこんこん、と控えめにドアを叩く音がした。
と同時に中からの返事も待たず、きいっ、と音を立てて、ドアが開いたかと思えば、薄く開いたその隙間から、ひょこり、と小さな顔が覗く。
くりくりとした菫色の大きな瞳と柔らかそうな蜂蜜色の長い髪が、とても印象的な可愛らしい女の子だ。
「レイチェルおねえちゃん、みいつけたあ!」
「……って、シャルロットじゃないか! しばらく見ないうちに、ずいぶんと大きくなったねえ!」
かくれんぼの鬼が隠れていた子を発見した時みたく声を上げて、ドアの隙間を、するり、と抜けて、部屋の中に入ってくるなり、シャルロットと呼ばれた女の子は淡いピンク色のドレスの裾を翻して、レイチェルさんの傍まで駆け寄ってくる。
この施設で暮らす子供たちのうちの一人なんだろうか、と屈託のない笑顔を浮かべて、レイチェルさんの足元に纏わりついているシャルロットの様子を観察していたら、陽あたりの良い窓際のソファーに座って紅茶を嗜んでいたマルティーヌさんが、まあまあ、と声を漏らしながら立ち上がると、シャルロットの傍までやってきた。
濡れタオルを額に乗せ、三人掛けのソファーに寝そべっていた私は、ふわり、と鼻先をくすぐったほのかに甘い匂いに鼻をひくつかせると、むくり、とソファーから起き上がった。
「おや、起きたりして、大丈夫なのかい?」
「はい、もう大丈夫です。ご迷惑をお掛けしてすみません」
「迷惑だなんて、これっぽっちも思っちゃあいないよ。それよりもこれをお飲み。気分が優れないときに飲むと良いとされる香草が入った紅茶だから、今のお前さんにぴったりだろうよ」
「ありがとうございます。マルティーヌ大司教さま」
「いやだねえ。大司教と呼ばれていたのは、ずいぶんと昔の話で、今はただのしがない婆さんなんだから、そういう堅苦しい呼び方は止しとくれ」
「ええっと……それではマルティーヌお婆さま、とお呼びしてもいいですか?」
「そうだねえ。それでもまだまだ堅っ苦しいけれど、でもまあそれで構わないよ。そんなことよりも冷めてしまわないうちに早く飲んでおしまい」
「はい。じゃあ、いただきます」
柔らかい色彩を放つ紫色の瞳をやんわりと細め、穏やかな笑みを浮べるマルティーヌさんに促され、真っ白い湯気を燻らせる温かい紅茶を一口啜れば、ほんのりとした甘みが口いっぱいに広がってゆく。
張り詰めていた神経が、やわやわと解されてゆくのを感じながら、ほう、と小さく息を吐いていたら、開け放たれた窓から舞い込んだ新緑の風が、レース編みのカーテンを、はたり、と戦がせた。
つるっつる頭の酔っ払いに絡まれるという不測の事態に巻き込まれ、何が何やら理解が追いつかないまま、修羅場と化した酒場から逃げ出し、レイチェルさんに手を引かれるがまま、街外れに建つマルティーヌさんが運営する教会に転がり込んだのは、今から遡ること、一時間ばかり前の話。
悪酔いして気分が悪かったことに加え、張り詰めていた神経が一気に緩んだことも手伝って、私は教会に着くなり、フェードアウトしてしまい、ややしてから目が覚めた時には、ソファーの上で寝かされていた。
意識が戻ってからも、すぐに起き上がることはできず、ソファーに寝そべったまま、動けないでいたら、マルティーヌさんは私を介抱しながら、自身のことやレイチェルさんのことを、あれこれと教えてくれた。
御年73歳を迎えたばかりだというマルティーヌさんは、丁寧に結われた琥珀色の髪のところどころに、白髪が混じっていることと、少し腰が曲がっていることを除けば、そこまで年老いたようには見えず、しゃきしゃきと機敏に動き回るその様子は、寧ろ、実年齢よりも、ずいぶんと若々しく見えるくらいだ。
今はしがない隠居の身だと言っていたけれど、セラフィリアで随一の大国であるミストリア帝国の大神殿で、長年にわたり、大司教を務めてきたマルティーヌさんの功績は、誰もが認めるところであり、彼女のことを知らない聖職者はいないといっても過言ではないそうだ。
とまあそんな感じで聖職者業界では、知る人ぞ知る超有名なマルティーヌさんだが、六十五歳を迎えたその日に、歳には勝てんよと言って、一線から退くことを決め、生まれ故郷であるハイゼンティアへと舞い戻ったそうだ。
そうして今は街外れに建つ教会の経営者として、後継者となりうる若手神官たちを育成しつつ、その傍ら施設で暮らす子供たちに囲まれ、まったりと隠居生活を楽しんでいるのだそうだ。
「すごく美味しいです。マルティーヌお婆さま」
「そうかい、そうかい。それは良かったよ。手塩にかけて育てた甲斐があったってものだねえ」
「手塩にかけたって……もしかして、この紅茶、茶葉から手作りしたんですか?」
「ああ、そうだよ。敷地内の一角に農園があってね。子供たちと一緒に野菜や果樹や草花を育てているんだ」
「だからこんなにも美味しいんですね! 自家菜園で育てた茶葉を煎じて飲むなんてすごく素敵!」
「そんな風に言ってもらえると嬉しいもんだねえ。どうだい? もう一杯、お代わりするかい?」
「はい! いただきます!」
傍らにあったアンティーク調のティーポットを傾けながら、ふふふ、と嬉しそうに含み笑いを覗かせるマルティーヌさんに頷き返しつつ、カップの底に残っていた紅茶を飲み干そうとして、その直後、まったくもうっ! と呆れたような声が反対側から飛んできた。
何かと思って声がした方へ目を向ければ、ピンク髪の彼女――……改め、レイチェルさんが傷の手当てを終えたばかりのレナードの頭を、ぺちり、と叩く。
「いきなり頭を叩くとか横暴だなあ。怪我人なんだからさー、もうちょっと優しく扱ってくれてもいいんじゃないの?」
「……って、そんな大した傷じゃないでしょうが! 手当てをしてもらえているだけでも、ありがたいと思いなさい! そんなことよりも荒くれ者が多い冒険者ギルドの酒場に、彼女みたいな見るからに、か弱そうな女の子を連れてくるなんて、いったい何を考えてたんだい!?」
「だからそれについては、さっきから何回も説明してるだろう? 別にやましい気持ちで連れてきたわけじゃないってば」
「確かにまあ、あんたがそういう卑劣な真似をするようなヤツじゃないのは、百も承知しているけれど、それにしたって、今日のあんたの行動は褒められたものじゃないわよ? 私が居合わせていたから、どうにか逃げ切れたものの、私がいなかったら、どうするつもりだったのよ!?」
「もちろん、あの場にレイチェルがいなかったら、それはそれで対応するつもりでいたよ? っていうかさ、過ぎたことをあーだこーだと言い合うのって、ものすごく不毛だと思わない?」
「って、レナード! その口調は全く反省してないでしょ! 怖い思いをしたのは彼女なんだからね! ミオちゃん、あなたももっと怒ってもいいのよ?」
不意に始まったレナードとレイチェルさんの攻防戦を、火の粉が及ばない対岸から眺めやっていた私は、いきなり話の矛先を向けられ、うぐっ、と声を詰まらせた。
レイチェルさんは私より二つ年上の二十歳で、同い歳のレナードとは、十年以上もの長い付き合いだそうだ。
これまでの彼女の言動を見る限り、姉御肌の頼りがいがあるお姉さんって感じだが、そんな印象とは違って、彼女の生い立ちはなかなかに波乱万丈なもので、十二歳を迎えたその年に生まれ育った国で、小規模な戦が起こり、敗戦によって住む場所と家族の両方を失くしたレイチェルさんは、肉親以外に頼れそうな親族や知り合いもなく、有望な引き取り手も現れなかったため、マルティーヌさんが彼女を預かることになったそうだ。
世界中に影響を及ぼすほどの大きな戦は、ここ数百年の間は起きていないものの、領土や天然資源を巡っての小国同士の衝突であったり、民族間での小規模な争いは現在でも頻繁に起きていて、レイチェルさんのように戦で両親を失う子供は少なくないそうだ。
そのためセラフィリアでは世界中のあらゆる場所に点在する教会のほとんどで、身寄りのない孤児たちを預かる施設が併設され、引き取られた子供たちが独り立ちできるよう、様々な支援活動を行っている。
今の私がそうであるように、レイチェルさんもまた施設に身を寄せ、何かと多忙なマルティーヌさんの手助けをしながら、年下の子供たちの面倒を見ていたそうだが、今から四年ほど前に参加した謝肉祭の余興で、お披露目した踊りが大富豪の目に留まり、彼女の踊り子としての類まれなる素質と才能に惚れ込んだ大富豪に口説かれ、今では大富豪が抱える劇団の一員として、大活躍しているそうだ。
セラフィリアでも三本の指に入るほど、由緒ある劇団にスカウトされ、一年のうちの三分の二は、公演で世界各地を飛び回っているという彼女だが、受けた恩はきちんと返したいから、との理由で、稼いだお金のほとんどは施設に寄付し、彼女自身は今でも各地に点在する施設で暮らしているのだという。
彼女が望めば、今よりも質の良い暮らしだって、できるはずなのに、自分自身のことは二の次で、献身的に奉仕活動をするレイチェルさんの志の高さに感銘を受けつつ、二人のやり取りを何となしに眺めていたところに、先ほどの台詞を投げかけられることとなったわけなのだが。
「え……えーっと、でも、レナードもちゃんと助けに来てくれたし、身を挺して守ってくれようとしたのは確かなので、そろそろ許してあげてもいいんじゃないかなあ……って思うんですけど、」
「あー! だめだめだめだめだめ! そういう甘いことを言っちゃあダメよ、ミオちゃん! こういう時こそ厳しくお灸を据えておかないと! うーん、でも、そうねえ。ミオちゃんもちょっと優しすぎるというか、警戒心がなさすぎるところがあるのよねえ」
怪我の手当てを受けている最中から、延々と説教を喰らっているレナードが気の毒に思えて、それとはなしに援護するなり、今度は自分が矢面に立たされてしまい、私はまたしても、うぐり、と声を詰まらせてしまった。
そんなことはないと言い返したいところだが、あまりにも身に覚えがありすぎて、ぐうの音も返せず、黙り込んでいたら、レイチェルさんは、そうねえ、と呟くと、胸元が大きく開いた煽情的なドレスの裾を捲り上げ、艶めかしく黒光りするガーターベルトに仕込んでいたナイフを一本抜き取ると、それを私の掌に載せた。
「さすがにこれで魔物を倒すのは無理だけど、さっきみたいなごろつきを追い払うくらいなら、きっと役に立つと思うから、護身用に持っておくといいわ」
「え、えーっと……ありがとう、ございます」
突然、渡されたナイフの扱いに困ってしまったが、私の身の安全を考えた上でのことだと思えば、無碍に断ることもできず、戸惑いつつも、ナイフを譲り受ければ、レイチェルさんは、にこり、と満足げに笑む。
護身用とはいえ、武器を持ち歩くなんて物騒だなあ、なんて思ったが、そんな風に考えてしまうこと自体が、周りからすれば『警戒心がなさすぎる』ように見えてしまうのだろう。
今、自分がいる世界は決して安全ではないということは、アレクやレナードからも耳にタコができるくらい、何度も言い聞かされているし、実際、一か月半ほどの短い期間に幾度となく、危険な目に遭っているのは紛れもない事実だ。
備えあれば憂いなしっていう諺もあることだし、お守り感覚で持ち歩くだけなら問題ないか、という結論に落ち着き、鞘に収まった小振りのナイフをポシェットの中に入れていたら、こんこんこん、と控えめにドアを叩く音がした。
と同時に中からの返事も待たず、きいっ、と音を立てて、ドアが開いたかと思えば、薄く開いたその隙間から、ひょこり、と小さな顔が覗く。
くりくりとした菫色の大きな瞳と柔らかそうな蜂蜜色の長い髪が、とても印象的な可愛らしい女の子だ。
「レイチェルおねえちゃん、みいつけたあ!」
「……って、シャルロットじゃないか! しばらく見ないうちに、ずいぶんと大きくなったねえ!」
かくれんぼの鬼が隠れていた子を発見した時みたく声を上げて、ドアの隙間を、するり、と抜けて、部屋の中に入ってくるなり、シャルロットと呼ばれた女の子は淡いピンク色のドレスの裾を翻して、レイチェルさんの傍まで駆け寄ってくる。
この施設で暮らす子供たちのうちの一人なんだろうか、と屈託のない笑顔を浮かべて、レイチェルさんの足元に纏わりついているシャルロットの様子を観察していたら、陽あたりの良い窓際のソファーに座って紅茶を嗜んでいたマルティーヌさんが、まあまあ、と声を漏らしながら立ち上がると、シャルロットの傍までやってきた。