紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
とある銀の乙女の物語
「私に与えられた『銀の乙女』の能力は未来が視えるというものでね――……と言っても、視えるのは、せいぜい二年から三年くらい先の未来なんだけれどね」
真っ白な湯気を燻らせる紅茶を一口啜り、ふう、と小さく息を吐くと、マルティーヌさんはおもむろに口を開き、自身に授けられた『銀の乙女』の能力について滔々と語り始めた。
力になることはできないと、あれほどまで頑なに拒絶していたマルティーヌさんの強固な意志を融解させたのは、鶴の一声ならぬ愛孫の一声だ。
そのきっかけとなったシャルロットはというと、マルティーヌさんの膝の上に抱きかかえられ、大好物であるバナナのパウンドケーキを口いっぱいに頬張っている。
薔薇色の愛らしい頬っぺたをぱんぱんに膨らませて、もごもごと咀嚼しているその様子は、頬袋に木の実を詰め込んだリスのようだ。
数分前まではレナードも一緒にいたのだが、一口サイズに切り分けたパウンドケーキを三切れほど食べると、夕方までには戻るから、と言い残して、どこかへ出かけてしまった。
野暮用ができたと言っていたけれど、部屋から出ていくとき、マルティーヌさんには聞こえないくらいの小さな声で、『アレクには許可を取っているから、師匠には全部話しても大丈夫だよ』と言っていたので、レナードなりに色々と考えて気遣ってくれた結果なのだろう。
というか、事前にアレクに許可をもらっていたということは、それすなわち、今日のこの外出は以前から計画されたものだったというわけだ。
それならそれで前もって教えてくれてればよかったのにー! と思いつつ、私はテーブルを挟んで向かい側のソファーに座るマルティーヌさんを、ちろり、と見返した。
ぽかぽかと暖かい春の陽射しみたく、穏やかだったマルティーヌさんの表情は、少し前から曇っていて、どことなく物憂げだ。
その要因を作ったのは自分だと思うと心苦しく、申し訳ない気持ちで一杯になっていたら、私の視線に気づいたらしいマルティーヌさんは、菫色の瞳をついと向けて、小さく頷くと、ゆるり、と口を開いた。
「それでも未来を知りたいと思う人間は大勢いてね。その頃の私は人として、まだまだ未熟で愚か者だったから、『銀の乙女』の能力を持つ自分は特別な存在なのだと思い上がっていたんだよ。変えることのできない未来なんて視えたところで、誰も幸福になんてなれやしないのにね」
「……変えることのできない、未来?」
自嘲するような言い回しの一部が妙に引っかかって、舌の上で転がすように反芻すれば、マルティーヌさんは、ああ、そうだよ、と頷く。
「この世に生まれ落ちたその瞬間から、人には『運命』というものが与えられていてね。神様から与えられたそれは誰にも変えることのできない絶対的なものなんだ。けれど『銀の乙女』が持つ特別な能力であれば、不変であるはずの『運命』さえも変えられるのだと――……それはもう救世主にでもなったような気分で、助けを乞いにきた人たちの未来を視たんだよ。何百もの変えることのできない未来を、ね」
“神様”だとか“運命”だとか、日常生活ではあまり馴染みのない単語が飛び出して、頭がこんがらかってしまう。
けれど強調するように繰り返し、マルティーヌさんが口にしたそれに、言い知れない不穏を感じて、私は知らず知らずのうちに、こくり、と生唾を呑み込んでいた。
このまま聞き続けてもいいのだろうか、と生じたその迷いは解消されることなく、マルティーヌさんは先を続ける。
「『銀の乙女』の能力で視える未来は、せいぜい二年から三年くらい先まで。こんな風に言ってはいけないんだろうけれど、今になって思えば、限られた短い期間の未来しか視えなかったのは、不幸中の幸いだったのかもしれないねえ。とは言っても、決して許されることのない罪過を犯してしまったことに変わりはないのだけれどね――……たった二、三年先でも、未来を知りたいと思うのは、どうしてなのか、ミオはその理由がわかるかい?」
「えっ!? え、えーっと……それは未来に起きるであろう、良からぬ事態を回避するため、というのが一番の理由だと思います。中には興味本位で知りたいと思う人もいるかもしれませんが……」
滔々と語られる話に耳を傾けていたら、いきなり質問を投げかけられたから、思わず焦ってしまった。
どうしてそんなことを聞くのだろうと思いつつ、大抵の人はこう答えるであろう、模範的な回答を示せば、マルティーヌさんは、うん、そうだねえ、と納得したように肯く。
「皆そう考えるのが普通だろうさね。助けを乞いに来た人も、私自身も、もちろんそう思ったよ。人間生きていれば、幸運なことも、不運なことも、大なり小なり、誰にでも起きうること。二、三年という限られた期間の中に措いても、それは変わりはしない。幸運なことなら取り立てて問題にすることでもないけれど、不運なことであれば、避けたいと思うのが、常ってものさ。だから不運に見舞われる未来が視えた人間には、二、三年のうちに、こういうことが起きるから用心をしておいた方がいいだろうよ、と助言をしていたんだ」
絵本でも読み聞かせるかのように、ゆったりとした口調で一息に話して、カップに残っていた紅茶を飲み干すと、マルティーヌさんはアンティーク調のポットを傾けて紅茶を注ぐ。
とぽとぽと注がれる琥珀色の紅茶をぼんやりと眺めていたら、ミオもおかわりをするかい? と聞かれた。
マルティーヌさんが紡ぐ物語はまだ序盤と言ったところで先は長そうだ。カップにはまだ半分近く残っていたけれど、継ぎ足してもらうことにした。
「あれは『銀の乙女』として、人々の未来を視始めてから、二年と少しが経った頃だったかねえ。忘れもしないよ。冷たい雨が降り頻る寒い夜だったのをよく憶えているさ。一日の仕事を終えて、そろそろ寝ようかと思った矢先の事だったよ。懇意にしていた領主の旦那が、ぐったりとした幼子を抱きかかえて、ものすごい剣幕で怒鳴り込んできたのは」
そこまで話して、マルティーヌさんは傾けていたポットを、銀製のトレイに戻す。
無機質な陶器の擦れ合う音が、何とも言えない空気に包まれた室内に響く。
その夜に起きたことの、ほんの一部を聞かされただけだけど、その先の展開が安易に想像できてしまって、きゅうっ、と、心臓を握り潰されたような気分に陥ってしまう。
『銀の乙女』であった頃の話をし始めてから、マルティーヌさんの表情は、ずっと物憂げなままだ。
物語を綴る口調はとても落ち着いているけれど、話を聞いているだけの私ですら、胸の苦しさを覚えるほどなのだから、当事者であるマルティーヌさんは、もっと辛いはずだ。
自身の過去を吐露するその心情を思えば、この辺りで止めた方が良いのではなかろうか、と思ったものの、自分よりもうんと年上のマルティーヌさんの話を遮るのは、何だか気が引けてしまう。
どうしよう、と決断できないでいたら、マルティーヌさんの方が、先に話を再開させてしまった。
「あまりに突然のことだったから、最初は何が起きているのか、理解できなかったよ。事態の重さに気づいたのは、冷たくなった幼子を抱きかかえた領主の旦那が、俺の子供を返してくれ、と言って、目の前で泣き崩れたのを見た瞬間だった。その時になってようやく気づかされたのさ。未来を視ることができても、定められたその未来を変えることはできないのだということを」
「あ、あの、マルティーヌお婆さま、もう……っ、」
落ち着き払っていたマルティーヌさんの声が微かに震える。
表情どころか顔色そのものが、あまり良くないことに気づいて、これ以上、無理をさせてはだめだ、と思い至り、ぐだぐだと迷う気持ちをかなぐり捨てて、マルティーヌさんの話を遮ろうとしたものの。
「――……これは懺悔なんだよ。あまりいい気はしないと思うけれど、どうか最後まで聞いておくれ」
どこかでスイッチが入ってしまったのだろう。
ふるふると頭を小さく振って、マルティーヌさんは、そんなことを言う。
まさかそんなことをお願いされるだなんて思ってもいなかったから、どう対応すべきか、困ってしまった。
吐露することでマルティーヌさんの気持ちが楽になるのであれば、もちろん最後まで話を聞くつもりではいるのだけれど――……と思いつつ、視線の先をシャルロットへと向ける。
大好きなパウンドケーキをいっぱい食べて満腹になったのか、マルティーヌさんの膝の上に抱えられたままの姿勢で、シャルロットは小さな頭をマルティーヌさんの胸に預けて、すうすう、と寝息を立てている。
マルティーヌさんとのやり取りを聞いたところで、六歳のシャルロットには難しすぎて、そのほとんどは理解できないだろう。
けれど理解は追いつかずとも、表情や口調から、何かしらの不安を感じ取ってしまうかもしれない、と少し気がかりだったのだが、あどけない寝顔を見る限り、その心配はしなくても良さそうだ。
愛らしい口元にケーキのくずをくっ付けて眠るシャルロットを眺めやりつつ、ほう、と安堵の息を吐くと、私は視線の先をマルティーヌさんへ戻した。
相変わらず表情は曇ったままだし、顔色だって決して良くはない。
「分かりました。最後までお聞きします。けれど絶対に無理はしないって約束して下さい」
居住まいを正して、自分の意志をしっかりと伝えれば、マルティーヌさんは少し驚いたように目をぱちくりとさせたあと、ふふっ、と小さく笑う。
そうしてから、ありがとうねえ、と呟いて、温かい紅茶を一口含むと、マルティーヌさんは物語の続きを話し始めた。
「領主の旦那との一件が発端となってね。それからは坂道を転げ落ちるように、状況はどんどんと悪化していったよ。二、三年という限られた期間であっても、大きな不運に見舞われる人間はそれなりにいるものでね。未来を変えられなかった人々が、毎日のように押し寄せては、苛烈な非難と罵詈雑言を浴びせていったものさ。でもまあそれは仕方のないことだよ。罵られて当然のことをしたのだからね。『銀の乙女』の能力を過信しすぎた私の自業自得ってものさ」
自らを責め立てるように、ぽつり、と溢して、マルティーヌさんは睫毛をそっと伏せる。そうしてから蚊が鳴くようなか細い声で「それでも救けられると信じていたんだけれどねえ」と誰に言うでもなく呟く。
どこか遠くを見つめるように、すうっと細められた菫色の瞳が、陰りを帯びたことに気づいたけれど、目上であるマルティーヌさんに対して、どんな言葉をかければ良いか分からず、かといって曖昧に相槌を打つこともできず、押し黙っていたら、マルティーヌさんは、それでもね、と先に続く言葉を紡いだ。
「どうしようもなく、どん底まで転げ落ちた私にも、救いの手を差し伸べてくれた人がいたんだよ。のちに私の夫となったその人は、ミストリア帝国の大神殿に従事する司祭でね。取り返しのつかない大きな過ちを犯した私を受け入れて、共に罪を償うことを誓ってくれたんだ。その時に彼と約束をしたんだよ。同じ過ちを二度と繰り返さないよう『銀の乙女』の能力を永遠に封印するってね――……だから『銀の乙女』としては、どうしたって力にはなれないんだ。すまないねえ」
「あ、あの、マルティーヌお婆さま。その件なんですけど、違うんです。確かに出かける前に、レナードからよく当たると評判の占い師がいる、という話は聞かされていました。けれど私がハイゼンティアに同行した一番の理由は、温泉を楽しむためだったんです。こんな風に言ったら、失礼なのかも知れませんが、正直、占いはほんの気休め程度にしか考えてなくて……まあ、なんだかんだ色々とあって、今回は温泉に寄る時間はなさそうですけれど」
ハッピーエンドとまではいかないものの、懺悔と称して語られた『銀の乙女』の物語のその結末に、救いがあったことに安堵しつつ、何やらまだ誤解している様子のマルティーヌさんに、ハイゼンティアに出向いた理由を正直に打ち明ければ、マルティーヌさんは、きょとり、とした表情を浮かべると、温泉? と小さく首を傾げる。
マルティーヌさんのその反応に、さすがに「気休め程度」という発言はぶっちゃけすぎたかもしれない。もう少しオブラートに包みこんで言うべきだった。と、ついうっかり口を滑らせて、本音をぶちまけてしまったことを後悔していたら、マルティーヌさんは、ああ、そういうことだったのかい、と納得したように頷くと、何が可笑しいのか、くくっ、と声を漏らして笑う。
「そうかい、そうかい。これはとんだ早とちりをしたもんだねえ。けれど――……」
肩を揺らしてくつくつと笑っていたマルティーヌさんは、そこで言葉を切ると、菫色の瞳を、ついっ、と真っすぐに向ける。
「ミオが何かに困っているのは確かなんだろう?」
こちらの心内を探るかのように、私の顔を、じいっ、と見つめていたマルティーヌさんが、そんなことを訊く。
まるで占い師にでもなったかのような雰囲気を醸し出す――というか、実際、元・占い師だったわけなんだけれど――マルティーヌさんに戸惑いつつも、こくり、と頷き返せば。
「『銀の乙女』の能力は封印してしまったけれど、元・占星術師として助言くらいはしてやれないこともないさ。そうだねえ。老いぼれの他愛もない戯れ言に最後まで付き合ってくれたことだし、お礼も兼ねて一つ占ってやろうかねえ」
ゆるり、と表情を緩めながら、ふふっ、と愉し気に笑うマルティーヌさんを横目に見遣りつつ、私は何とも言えない複雑な心境に陥ってしまった。
真っ白な湯気を燻らせる紅茶を一口啜り、ふう、と小さく息を吐くと、マルティーヌさんはおもむろに口を開き、自身に授けられた『銀の乙女』の能力について滔々と語り始めた。
力になることはできないと、あれほどまで頑なに拒絶していたマルティーヌさんの強固な意志を融解させたのは、鶴の一声ならぬ愛孫の一声だ。
そのきっかけとなったシャルロットはというと、マルティーヌさんの膝の上に抱きかかえられ、大好物であるバナナのパウンドケーキを口いっぱいに頬張っている。
薔薇色の愛らしい頬っぺたをぱんぱんに膨らませて、もごもごと咀嚼しているその様子は、頬袋に木の実を詰め込んだリスのようだ。
数分前まではレナードも一緒にいたのだが、一口サイズに切り分けたパウンドケーキを三切れほど食べると、夕方までには戻るから、と言い残して、どこかへ出かけてしまった。
野暮用ができたと言っていたけれど、部屋から出ていくとき、マルティーヌさんには聞こえないくらいの小さな声で、『アレクには許可を取っているから、師匠には全部話しても大丈夫だよ』と言っていたので、レナードなりに色々と考えて気遣ってくれた結果なのだろう。
というか、事前にアレクに許可をもらっていたということは、それすなわち、今日のこの外出は以前から計画されたものだったというわけだ。
それならそれで前もって教えてくれてればよかったのにー! と思いつつ、私はテーブルを挟んで向かい側のソファーに座るマルティーヌさんを、ちろり、と見返した。
ぽかぽかと暖かい春の陽射しみたく、穏やかだったマルティーヌさんの表情は、少し前から曇っていて、どことなく物憂げだ。
その要因を作ったのは自分だと思うと心苦しく、申し訳ない気持ちで一杯になっていたら、私の視線に気づいたらしいマルティーヌさんは、菫色の瞳をついと向けて、小さく頷くと、ゆるり、と口を開いた。
「それでも未来を知りたいと思う人間は大勢いてね。その頃の私は人として、まだまだ未熟で愚か者だったから、『銀の乙女』の能力を持つ自分は特別な存在なのだと思い上がっていたんだよ。変えることのできない未来なんて視えたところで、誰も幸福になんてなれやしないのにね」
「……変えることのできない、未来?」
自嘲するような言い回しの一部が妙に引っかかって、舌の上で転がすように反芻すれば、マルティーヌさんは、ああ、そうだよ、と頷く。
「この世に生まれ落ちたその瞬間から、人には『運命』というものが与えられていてね。神様から与えられたそれは誰にも変えることのできない絶対的なものなんだ。けれど『銀の乙女』が持つ特別な能力であれば、不変であるはずの『運命』さえも変えられるのだと――……それはもう救世主にでもなったような気分で、助けを乞いにきた人たちの未来を視たんだよ。何百もの変えることのできない未来を、ね」
“神様”だとか“運命”だとか、日常生活ではあまり馴染みのない単語が飛び出して、頭がこんがらかってしまう。
けれど強調するように繰り返し、マルティーヌさんが口にしたそれに、言い知れない不穏を感じて、私は知らず知らずのうちに、こくり、と生唾を呑み込んでいた。
このまま聞き続けてもいいのだろうか、と生じたその迷いは解消されることなく、マルティーヌさんは先を続ける。
「『銀の乙女』の能力で視える未来は、せいぜい二年から三年くらい先まで。こんな風に言ってはいけないんだろうけれど、今になって思えば、限られた短い期間の未来しか視えなかったのは、不幸中の幸いだったのかもしれないねえ。とは言っても、決して許されることのない罪過を犯してしまったことに変わりはないのだけれどね――……たった二、三年先でも、未来を知りたいと思うのは、どうしてなのか、ミオはその理由がわかるかい?」
「えっ!? え、えーっと……それは未来に起きるであろう、良からぬ事態を回避するため、というのが一番の理由だと思います。中には興味本位で知りたいと思う人もいるかもしれませんが……」
滔々と語られる話に耳を傾けていたら、いきなり質問を投げかけられたから、思わず焦ってしまった。
どうしてそんなことを聞くのだろうと思いつつ、大抵の人はこう答えるであろう、模範的な回答を示せば、マルティーヌさんは、うん、そうだねえ、と納得したように肯く。
「皆そう考えるのが普通だろうさね。助けを乞いに来た人も、私自身も、もちろんそう思ったよ。人間生きていれば、幸運なことも、不運なことも、大なり小なり、誰にでも起きうること。二、三年という限られた期間の中に措いても、それは変わりはしない。幸運なことなら取り立てて問題にすることでもないけれど、不運なことであれば、避けたいと思うのが、常ってものさ。だから不運に見舞われる未来が視えた人間には、二、三年のうちに、こういうことが起きるから用心をしておいた方がいいだろうよ、と助言をしていたんだ」
絵本でも読み聞かせるかのように、ゆったりとした口調で一息に話して、カップに残っていた紅茶を飲み干すと、マルティーヌさんはアンティーク調のポットを傾けて紅茶を注ぐ。
とぽとぽと注がれる琥珀色の紅茶をぼんやりと眺めていたら、ミオもおかわりをするかい? と聞かれた。
マルティーヌさんが紡ぐ物語はまだ序盤と言ったところで先は長そうだ。カップにはまだ半分近く残っていたけれど、継ぎ足してもらうことにした。
「あれは『銀の乙女』として、人々の未来を視始めてから、二年と少しが経った頃だったかねえ。忘れもしないよ。冷たい雨が降り頻る寒い夜だったのをよく憶えているさ。一日の仕事を終えて、そろそろ寝ようかと思った矢先の事だったよ。懇意にしていた領主の旦那が、ぐったりとした幼子を抱きかかえて、ものすごい剣幕で怒鳴り込んできたのは」
そこまで話して、マルティーヌさんは傾けていたポットを、銀製のトレイに戻す。
無機質な陶器の擦れ合う音が、何とも言えない空気に包まれた室内に響く。
その夜に起きたことの、ほんの一部を聞かされただけだけど、その先の展開が安易に想像できてしまって、きゅうっ、と、心臓を握り潰されたような気分に陥ってしまう。
『銀の乙女』であった頃の話をし始めてから、マルティーヌさんの表情は、ずっと物憂げなままだ。
物語を綴る口調はとても落ち着いているけれど、話を聞いているだけの私ですら、胸の苦しさを覚えるほどなのだから、当事者であるマルティーヌさんは、もっと辛いはずだ。
自身の過去を吐露するその心情を思えば、この辺りで止めた方が良いのではなかろうか、と思ったものの、自分よりもうんと年上のマルティーヌさんの話を遮るのは、何だか気が引けてしまう。
どうしよう、と決断できないでいたら、マルティーヌさんの方が、先に話を再開させてしまった。
「あまりに突然のことだったから、最初は何が起きているのか、理解できなかったよ。事態の重さに気づいたのは、冷たくなった幼子を抱きかかえた領主の旦那が、俺の子供を返してくれ、と言って、目の前で泣き崩れたのを見た瞬間だった。その時になってようやく気づかされたのさ。未来を視ることができても、定められたその未来を変えることはできないのだということを」
「あ、あの、マルティーヌお婆さま、もう……っ、」
落ち着き払っていたマルティーヌさんの声が微かに震える。
表情どころか顔色そのものが、あまり良くないことに気づいて、これ以上、無理をさせてはだめだ、と思い至り、ぐだぐだと迷う気持ちをかなぐり捨てて、マルティーヌさんの話を遮ろうとしたものの。
「――……これは懺悔なんだよ。あまりいい気はしないと思うけれど、どうか最後まで聞いておくれ」
どこかでスイッチが入ってしまったのだろう。
ふるふると頭を小さく振って、マルティーヌさんは、そんなことを言う。
まさかそんなことをお願いされるだなんて思ってもいなかったから、どう対応すべきか、困ってしまった。
吐露することでマルティーヌさんの気持ちが楽になるのであれば、もちろん最後まで話を聞くつもりではいるのだけれど――……と思いつつ、視線の先をシャルロットへと向ける。
大好きなパウンドケーキをいっぱい食べて満腹になったのか、マルティーヌさんの膝の上に抱えられたままの姿勢で、シャルロットは小さな頭をマルティーヌさんの胸に預けて、すうすう、と寝息を立てている。
マルティーヌさんとのやり取りを聞いたところで、六歳のシャルロットには難しすぎて、そのほとんどは理解できないだろう。
けれど理解は追いつかずとも、表情や口調から、何かしらの不安を感じ取ってしまうかもしれない、と少し気がかりだったのだが、あどけない寝顔を見る限り、その心配はしなくても良さそうだ。
愛らしい口元にケーキのくずをくっ付けて眠るシャルロットを眺めやりつつ、ほう、と安堵の息を吐くと、私は視線の先をマルティーヌさんへ戻した。
相変わらず表情は曇ったままだし、顔色だって決して良くはない。
「分かりました。最後までお聞きします。けれど絶対に無理はしないって約束して下さい」
居住まいを正して、自分の意志をしっかりと伝えれば、マルティーヌさんは少し驚いたように目をぱちくりとさせたあと、ふふっ、と小さく笑う。
そうしてから、ありがとうねえ、と呟いて、温かい紅茶を一口含むと、マルティーヌさんは物語の続きを話し始めた。
「領主の旦那との一件が発端となってね。それからは坂道を転げ落ちるように、状況はどんどんと悪化していったよ。二、三年という限られた期間であっても、大きな不運に見舞われる人間はそれなりにいるものでね。未来を変えられなかった人々が、毎日のように押し寄せては、苛烈な非難と罵詈雑言を浴びせていったものさ。でもまあそれは仕方のないことだよ。罵られて当然のことをしたのだからね。『銀の乙女』の能力を過信しすぎた私の自業自得ってものさ」
自らを責め立てるように、ぽつり、と溢して、マルティーヌさんは睫毛をそっと伏せる。そうしてから蚊が鳴くようなか細い声で「それでも救けられると信じていたんだけれどねえ」と誰に言うでもなく呟く。
どこか遠くを見つめるように、すうっと細められた菫色の瞳が、陰りを帯びたことに気づいたけれど、目上であるマルティーヌさんに対して、どんな言葉をかければ良いか分からず、かといって曖昧に相槌を打つこともできず、押し黙っていたら、マルティーヌさんは、それでもね、と先に続く言葉を紡いだ。
「どうしようもなく、どん底まで転げ落ちた私にも、救いの手を差し伸べてくれた人がいたんだよ。のちに私の夫となったその人は、ミストリア帝国の大神殿に従事する司祭でね。取り返しのつかない大きな過ちを犯した私を受け入れて、共に罪を償うことを誓ってくれたんだ。その時に彼と約束をしたんだよ。同じ過ちを二度と繰り返さないよう『銀の乙女』の能力を永遠に封印するってね――……だから『銀の乙女』としては、どうしたって力にはなれないんだ。すまないねえ」
「あ、あの、マルティーヌお婆さま。その件なんですけど、違うんです。確かに出かける前に、レナードからよく当たると評判の占い師がいる、という話は聞かされていました。けれど私がハイゼンティアに同行した一番の理由は、温泉を楽しむためだったんです。こんな風に言ったら、失礼なのかも知れませんが、正直、占いはほんの気休め程度にしか考えてなくて……まあ、なんだかんだ色々とあって、今回は温泉に寄る時間はなさそうですけれど」
ハッピーエンドとまではいかないものの、懺悔と称して語られた『銀の乙女』の物語のその結末に、救いがあったことに安堵しつつ、何やらまだ誤解している様子のマルティーヌさんに、ハイゼンティアに出向いた理由を正直に打ち明ければ、マルティーヌさんは、きょとり、とした表情を浮かべると、温泉? と小さく首を傾げる。
マルティーヌさんのその反応に、さすがに「気休め程度」という発言はぶっちゃけすぎたかもしれない。もう少しオブラートに包みこんで言うべきだった。と、ついうっかり口を滑らせて、本音をぶちまけてしまったことを後悔していたら、マルティーヌさんは、ああ、そういうことだったのかい、と納得したように頷くと、何が可笑しいのか、くくっ、と声を漏らして笑う。
「そうかい、そうかい。これはとんだ早とちりをしたもんだねえ。けれど――……」
肩を揺らしてくつくつと笑っていたマルティーヌさんは、そこで言葉を切ると、菫色の瞳を、ついっ、と真っすぐに向ける。
「ミオが何かに困っているのは確かなんだろう?」
こちらの心内を探るかのように、私の顔を、じいっ、と見つめていたマルティーヌさんが、そんなことを訊く。
まるで占い師にでもなったかのような雰囲気を醸し出す――というか、実際、元・占い師だったわけなんだけれど――マルティーヌさんに戸惑いつつも、こくり、と頷き返せば。
「『銀の乙女』の能力は封印してしまったけれど、元・占星術師として助言くらいはしてやれないこともないさ。そうだねえ。老いぼれの他愛もない戯れ言に最後まで付き合ってくれたことだし、お礼も兼ねて一つ占ってやろうかねえ」
ゆるり、と表情を緩めながら、ふふっ、と愉し気に笑うマルティーヌさんを横目に見遣りつつ、私は何とも言えない複雑な心境に陥ってしまった。